鉄面皮
画家は疲れ果てていた。
池の水面に映ったその顔には、くたびれた瞳と死の影が映り込んでいた。
背景の岩肌と寂れた炭鉱町は、ひたすらに彼の心情に近い色合いで、妙に安心した。
田舎町の領主の次男が画家を目指し、都に出た。
幼い頃から模写の出来を褒められて育てられてきたので、本人なりにも周囲としても、そこそこの勝算はあった。
都周辺には、大層美しい風景と絶世の美女、色めく人間模様が溢れ、描く対象には困らなかった。
――夢破れて。
二束三文でも売れない絵では、物価の高い都で暮らすことは難しかった。
中心地の路上から郊外の路上へ。
絵の売り場だけが移り変わっていき、キャンバスと筆を持って兄が継いだ領主屋敷に戻ったが――腫れ物として扱われる毎日に耐え切れず、ついには絶望の旅に出た。
生来頭が固く、自分の生き方を変えられるような器用さは持ち合わせていなかった。
絵で生きていけないなら他を探そう、ではないのだ。
呼吸ができない生き物が死ぬしかないのと同様に、絵を描けない彼は死ぬより仕方なかった。
――最期の地には、お似合いの法螺話の舞台を選んだ。
廃棄された炭鉱には、世界一美しい青い宝石の鱗に身を包む、大蛇の魔物が潜んでいるという。
都では鼻で笑ったその話を絶望してから思い出して、縋った。
世界一美しいそれを描けば、糞ったれた人生を買い戻せる。
世界一美しい魔物に食われるなら人生にも拍が付くというものだ。
……世界一美しいものを追って力尽きるくらいが、自分の人生には丁度いい落ちである。
――その宿屋は、炭鉱の入り口に誘うように佇んでいた。
ちょうど木扉が開いて、大きなリュックを背負いナイフを腰に差した冒険者が出てきた。
「いってらっしゃいませ」
体格の良い男の影から、その女性は出てきた。
入り口で小さく手を振り、薄い笑顔で送り出す。
炭鉱へと消えていく冒険者を見送ると、女性の薄浅葱色の瞳は、画家を見つけた。
「いらっしゃいませ」
画家は、戸惑った。
自分とは性別も容姿も、生まれも生い立ちも末路も違うだろう女性が、自分と同じ死の影を纏っているように見えたからだ。
今一度眺めると、亜麻色の長髪と、変化に乏しい薄い笑みに見惚れた。
これほどに美しい女性に自分と似通う点などあってはならないと、彼は違和感を振り払って宿に入った。
しかし、それが気のせいではないと知ったのは、夜のことであった。
簡素な食堂に、客は画家だけ。
木製の食卓に、食事は根菜のみの入ったシチューとライ麦パンだけ。
これと言って不満はないが、やはり昼間の死の影が気になって、片隅の窓から夜空を見る女性に声をかけた。
「ここで宿屋をやって、長いのかい」
おもむろに振り向く彼女は、昼と同じ薄い笑みで画家を見詰める。
その薄い笑みは常に鉄面皮のように、整った顔に貼りついていた。
「……両親が亡くなって、継いだのが五年前になります」
声は鈴のように澄んでいて、夜の静けさと相まり耳に心地よい響きであった。
それをもっと聞きたくなって、画家は質問を続けた。
「それからずっと一人で?」
「はい」
「大変ではない?」
「いいえ、お客さんは少ないですから」
「どんなお客さんが来る?」
「炭鉱の噂を知って来る方が多いです」
「青い宝石の蛇?」
「はい」
「噂は、本当だったのか」
「いいえ、それはわかりません」
鈴のような声が、淀んだ。
「――この五年、炭鉱に入った方は、誰一人として帰ってきませんでした」
彼女は表情を変えない。
発言が何を表しているかは自覚しているだろうに、薄く、薄く笑っている。
「……昼間のあの人も」
「はい。きっと、戻って来ません」
言い切った。
自らが、その薄い笑みで見送った冒険者は炭鉱でその生涯を終えると。
画家は急に彼女が恐ろしくなって……筆を取った。
それが彼の持つ唯一の武器だ。
数だけ揃えてあるキャンバスの羊皮紙を手頃に千切って、筆を走らせる。
彼女は変わらぬ表情でそこに座ったままであった。
「あの人、身体大きかったよね」
「はい。丸太のような両腕でした」
「眉が濃くて、鼻が大きかった」
「はい。目鼻立ちがしっかりしておいででした」
「大きなリュックと、腰には、短剣だったかな」
「『ククリ』と言うそうです。そうおっしゃっていました」
「へぇ」
気分が乗ってきたのか、彼女は幾分か口数を多くして、旅立った男について語った。
――冒険者は、元傭兵だったという。
数多の戦場を駆け、幾度も命を懸け、手にした称号は、山賊の汚名だった。
噂を流した雇い手を殴って、汚名は確かなものとなった。
傭兵を廃業しても生きる先は戦場しかなかった彼は、本当に山賊に身を窶してしまう前に、人生の賭けに出た。
青い蛇の噂が、彼を誘ったのだ。
「――できた」
涼やかな声で語られる物語の区切りを見て、画家は彼女に手招きした。
女性は首を傾げつつ、腰を上げて画家の後ろから食卓を覗き込んだ。
「題名は――『帰還者』とかどうかな」
木の食器を避けて置いた羊皮紙には、歴戦の肉体に哀愁を宿した男の絵が描かれていた。
模写は得意であった。
昼間すれ違った彼の姿形は、言葉のやり取りで大部分を思い出すことができた。
悪趣味な戯れだ。
勝手に男を幽霊にして、枕元に立たせるかのような不謹慎さは、画家自身もわかっている。
ただ、店を継いでから誰一人帰って来ない宿屋に、そんな悲劇を薄笑いで済ませる店主に、ささやかな驚きを贈りたかっただけだ。
絶望が与える死の影に、一石を投じてみたかっただけ。
だから――本当に女性の浅葱色の瞳孔がきゅっと縮んで、表情に驚きの片りんが現れたことには、逆に驚かされた。
「……初めて、帰って、きました」
この時、画家は久方ぶりに……幼い頃褒められて以来、自らの絵に意味を見出すことができた。
ーーそれから画家は、炭鉱に踏み入ることなく、宿に留まった。
またその夜の感覚に浸りたくて、彼女に絵を描いてやることにしたのだ。
模写とは違い、彼女の覚えている特徴を聞き取っての作業。
品質は格段に落ちた。
それでも行方不明の冒険者たちがキャンバスに戻る度に、彼女の瞳は震えるのだった。
――その若者たちは、野心を宿した駆け出しの冒険者であった。
剣士の青年は夢見がちで、大陸一の腕前になると意気込み、その一歩としていきなり青い蛇の討伐を選んだ。
付き従う二人の女性は、それぞれ光と影のように相反する色のローブに身を包んでいたという。
魔導師と聖職者らしい二人は片や溜め息混じりに、片や苦笑して、青年と炭鉱へと入った。
それからもう、二週間が過ぎたそうだ。
――その部隊は、都の調査団であった。
揃いの隊服と武器を備えていたが、のっぽ、ふとっちょ、小柄、筋肉質と体格で見分けることが容易かったそうだ。
いわゆる爪はじき者の集団で、調査の名目で僻地に繰り返し飛ばされているような連中だと、地酒を呑みながら明かしていたという。
今後の人生を楽観しているのか絶望を誤魔化しているのか、兎に角彼らには、青い蛇の噂に対する迷いはなかった。
それからもう、一か月が経ったという。
――その女傑は、炭鉱町の出身であった。
かつて都の騎士を夢見て旅立ち、見事に夢を叶えたのだという。
聡明な頭、麗しい美貌、百戦錬磨の技を備えた彼女は、夢の先で政治的に利用された。
貴族の下に嫁がされ、秩序の名の下に守るべき民に刃を振るったこともあった。
擦り切れるような毎日が続く中、故郷の廃れ具合を知ることとなった。
一体自分が何を守ってきて、何を守れなかったのかを自覚して、彼女は都を去った。
全てに対する怒りを眼光に宿して、故郷に巣食う魔物を狩るのだと炭坑に入ったという。
それからもう、三か月もの時が経過しているとのこと。
――それからもう、七日が経った。
糸口は確かにあった。
冒険者たちの絵は、確実に女性の瞳を震わせ続けていた。
そのお陰で今では宿の簡単な手伝いも、申し出れば許してもらえるようになった。
確実に打ち解けてきたのだから、きっと描き続ければ彼女の鉄面皮を剥がせるのではないか。
それができたら、自分の絵に価値の一つでも付くことにならないか。
画家の目的は既にそちらに移っていた。
――にも関わらず、その日から画家は絵を描かなくなった。
きっかけは手伝わせてもらった倉庫の整理だ。
そこで一枚の絵画と、日記帳を見つけた。
絵画は黄土色に褪せていて、描かれた三人家族の顔は、娘のものしか判別できなかった。
屈託のない笑顔で花を持つ少女。
その作者には、模写の才能があるようだ。
少女が誰であるのか、すぐにわかった。
絵画を横目に、綴り紐でまとめられた日記をめくる。
――その女性は、宿屋の一人娘であった。
青い宝石の産地として賑わう町。
店は押し寄せる炭鉱夫のしのぎ宿として大層繁盛していた。
しかし人々の飽くなき欲が町の全てを吸いつくしてしまうと、残ったのは岩肌に囲まれた廃虚だけになってしまった。
下手に生きがいの潤いを知っていた両親は、抜け殻のようになって病気に果てた。
よく笑っていた少女はよく泣くようになった。
それでも宿屋を継いだのは、画家と同じくそれでしか生きていけない性分だったからだ。
若さという活力を杖に宿を切り盛りし、そこで巡り合う人々との関わりに、心が救われた。
両親と同じ生き甲斐を覚え始め、やり直せると思ったその矢先――炭鉱の入り口で息絶えた探検家が握り締めていた殴り書きが話題となった。
――炭鉱に住まう青く巨大な蛇の魔物の噂。
それは、女性が関わった人々を、一人また一人と暗闇に誘い、丸呑みにしていった。
絶望に、二回も耐えられない。
だから女性は、穏やかな鉄面皮を被った。
常に薄く笑っていれば、自分が絶望をしていないと信じられる。
常に薄く笑うに留めていれば、微笑む対象を奪われても絶望せずに済む。
それは何よりも強固に彼女を守る防具であった。
――そのことを知ってしまった。
知ってしまったからには、画家は絵を描くことはできない。
鉄面皮を剥がしたところで次の冒険者が現れたら、画家は無力だ。
きっとキャンバスに戻って来る冒険者に慣れてしまった女性は、次こそ絶望に落ちるだろう。
絶望は死に至る病だ。
画家は心底、自分の絵に嫌気が差した。
無意味なだけでも蔑むべき対象なのに、絶望への引き鉄に成りかねないなど、罪にも等しい。
――お遊びは終わりだ。
画家はキャンバスを背負い、宿を出た。
その朝、薄い笑みは心なしか固かった。
「いってらっしゃいませ」
涼やかな声に送り出され、撚れた牛革の靴はすたりすたりと暗闇に向かった。
村の奥地、風音を不気味に反響させる廃炭鉱。
元より目指していた終着点であったから、恐怖はなかった。
世界一美しい青い蛇を描けば、糞ったれた人生を買い戻せる。
世界一美しい魔物に食われるなら人生にも拍が付くというもの。
やはり最期に目に焼き付けるのなら、世界一美しいものがいい。
だから万が一の為に――一度だけ振り返った。
廃れた宿屋の入り口には、亜麻色の髪を靡かせて画家を見送る女性。
その薄浅葱色の瞳には、気高く絶望を跳ね返す薄い笑みが見て取れた。
ついに描かれることのない幻の絵に、画家はこう名付けた。
――待ち人、来ず。