10.男爵令嬢に絡まれる
平和な生活というのは、一瞬にして崩れ去る事がある。
ある日の放課後、まだ教室に生徒達が残っていて帰り支度をしている時にそれはやって来た。
「ミルシェ様!!」
鈴の音が鳴るような可愛らしい声に名前を呼ばれた私は、思わずその人物をポカンとした表情で眺めてしまう。
目の前にいるのは、瞳を潤ませながらギュッと拳を握りしめつつ、小さく震えるマリー男爵令嬢だった。
今の今まで彼女と直接話したことはない、なのにいきなり名前を呼ばれて私は困惑した。
周りの生徒も何があったのかと興味深そうにこちらを見てくる。
それでも、私のこれまでの教育の賜物か冷静に返答する。
「何か御用かしら?」
私の言葉に彼女はギュッと拳を握り締め、意を決したように言ってくる。
「…嫌がらせ…するの、やめて下さい!!」
彼女の決死の台詞に私はただただ混乱した。
彼女は何を言っているのだろうか?そもそも今まで話したこともないのに。
周りの人達の騒めきが耳に聞こえると、少し冷静さを取り戻せた。
「えっと…おっしゃってる意味が分からないのだけど」
「誤魔化さないで下さい!!
私が妾の子だからって、馬鹿にしたじゃないですか!!ユベール殿下に近づくなって…私はただ友人として話していただけなのに!!」
…えー?何これ??意味がわからない。この子は何を言ってるの?貴女がユベール殿下に近づこうが私には知ったことでは無い。
「私の勘違いじゃなければ、貴女と話したのはこれが初めてだと思うのだけど」
「酷い!!そんなに私が嫌いなんですか!?私は…私は、ミルシェ様とも仲良くしたいと思ってたのに!!」
ウルウルと目を潤ませる彼女は、可愛らしく庇護欲をそそる。けれどこの状況はどうしたものか?
周りの方々も困惑しているようだ。
それはそうだろう…彼女がユベール殿下と懇意にしているからと言って、何故私が彼女に嫌がせしなければならないのかと不思議に思っているはずだ。
うん、私も不思議だもの。
…もしかして、彼女にも一度目の生の記憶があるのかしら?いや、でもそれならユベール殿下と交流を持とうとする?
だってどんなに頑張っても結局は妾止まりだものね…この子は一体何と戦っているの?
「ねえ、君。随分失礼じゃないか?」
私がどうしようかと困っていると、ルーファスが私を庇うようにマリー嬢の前に立つ。
「な…何ですか…!?」
ルーファスの登場に、マリー嬢は困惑した表情を浮かべる。
「あのさ…何故ミルシェが君に嫌がらせしないといけないの?意味がわからないよ」
「何故って…それは、嫉妬とか…」
「嫉妬?ミルシェが君に?何故?
ミルシェは公爵令嬢、君は男爵令嬢、ミルシェは学年でもトップクラスの成績、君の事は知らないけど…地位も頭脳も美しさも洗練さも君よりずっと優れているミルシェが何故君に嫉妬するっていうの?おかしいでしょ?」
穏やかな口調の割には、かなり辛辣な物言いをするルーファスに、私は内心驚いている。
隙間から見えたマリー嬢の顔は、怒りでなのか真っ赤に染まっている。
「だから!!私がユベール殿下と仲良くしてるから…!」
「君がユベール殿下と仲良くしてるからって、何でミルシェが嫉妬するっていうの?」
「それは!!ミルシェ様がユベール殿下の婚約者だから…!」
マリー嬢の言葉にクラス全体がどよめく。
なんて事を口走るのか、畏れ多いと思わないのかしら?
「君、どこでそんな勘違いをしたか知らないけど不敬だよ。
ミルシェは公爵家の一人娘だ、彼女は婿をとって公爵家を継ぐ事になってるんだよ。彼女がユベール殿下の婚約者に選ばれるわけないじゃないか。
ユベール殿下の婚約者は、ミルシェじゃない」
「…はぁ!?なに、そんな訳ないでしょ!!ふざけないで!!」
激昂したマリー嬢の表情は、可愛らしい容姿が台無しになっていた。口調もかなり荒い。
「ふざけているのは君だよ。男爵令嬢の君が公爵令嬢のミルシェに対して根も葉もない中傷をしたんだ。ただで済むと思ってるの?
この事は正式に男爵家に抗議させてもらうよ」
「一体なんなのよ、あんた!!モブの癖に!!」
マリー嬢が憎々しげにルーファスを睨む。
「…モブ?なんだかよく分からないけど…これでも僕は侯爵家の人間だ。男爵家の君に何故そんな口を利かれなければならないのか理解に苦しむよ」
穏やかに、だが確実にルーファスはマリー嬢を追い詰めている。穏やかな人程怒らせると怖いのかもしれない。
そんな緊張感の中、軽い口調で入って来たのはステファン殿下だった。
「ねえ、もうそれぐらいでいいんじゃない?」
「ステファン様!」
マリーが一瞬にして嬉しそうにステファン殿下を見つめる。
しかし、ステファン様って…殿下付けないと…。いや、殿下が許しているのかしら?
マリー嬢は味方が現れたと言わんばかりに笑顔でステファン殿下を見つめている。が、彼は苦笑する。
「…マリー嬢。君ってそんな子だったんだね。ビックリしちゃったよ」
「え?」
ステファン殿下はにこやかな表情とは裏腹に、目が笑っていない。
「ミルシェ嬢に根も葉もない中傷…ルーファスにも酷い態度だ。君の本性ってそんなに醜かったんだね」
「な!?」
「誤解があったとしても…謝りもしない。あまりにも酷いなぁ。もうちょっと賢い子かと思ってたけど…」
肩をすくめるステファン殿下にマリー嬢は悔しそうに唇を噛んでいる。
「こんなの可笑しい…私は、私は…ヒロインなのに…何で…?何でこんな事に…?
嘘よ、嘘よね…ミルシェが悪役令嬢なのよ!!私を毒殺しようとするの!!私は殺されそうになって…それで…」
「信じられない、嫌がらせの犯人に仕立てようとしたに留まらず、殺人犯にまで仕立てようとするなんて!!」
ルーファスが今までに無いような声を張り上げる。それに続けてステファン殿下が呆れたような表情で、マリー嬢を見つめる。
「マリー嬢、流石にその言葉は聞き逃せないよ」
「…で、でも!!ほ、本当に私…ミルシェ様に虐められて…!!」
「まだ言うの?さっきルーファスが言ってたけど、ミルシェ嬢がマリー嬢に嫉妬するなんてあり得ないんだからさぁ。
そもそもミルシェ嬢に虐められたって証拠あるの?君の証言だけで彼女を疑う事は出来ないよ?」
「だって…ミルシェ・ハヴェルカとユベール様が婚約者で…だって、そういう設定で…」
ブツブツと言い出し始めたマリー嬢に対して、ステファン殿下はチラリと自分の護衛に視線を向ける。
すると、護衛の1人がマリー嬢を拘束する。
「いや、何よ!!離して!!」
「彼女は錯乱しているようだから、連れて行って」
ステファン殿下の言葉に、護衛は騒ぐマリー嬢を連れて行こうとするが、彼女は教室から出る瞬間、私を憎々しげに睨みつけてきた。
彼女が教室を出た瞬間、なんだか力が抜けてしまう。
「ミルシェ、大丈夫?」
「…ルーファス。うん、ありがとう、大丈夫よ」
そう答えたものの、私の手は震えていた。あんな風に悪意に晒されると一度目の生の事を思い出してしまう。もう二度とあんな目で見られたくなかったのに。
やっぱり、彼女は一度目の生の記憶があるのだろうか?私が嫉妬に駆られて毒殺しようとした醜い感情を知っているのか…。
けれど今の私にはそんなつもりはないし、ただ関わり合いになりたくなかっただけなのに…。
グルグルと頭の中が渦巻いていると、ふわりと手に温かな感触がある。
「ミルシェ、僕はいつでも君の味方だし、君の側にいる」
ルーファスに握られた手は、とても温かくて幸せな温度だ。
「…ありがとう。ルーファスがいてくれてよかった」
「うん」
フワリと微笑むルーファスの表情に安堵する。
「災難だったねぇ」
ステファン殿下は軽い口調でそう言ってくると、ルーファスが不思議そうに首を傾げる。
「ステファン殿下が手助けしてくれるとは思っていませんでした。マリー嬢を気に入っていたでしょう?」
「んー?まあ、気に入ってたよ。あの子面白いもん」
「面白い?」
「そう。あの子凄いよね、的確に相手の心を掴むような言葉を発するんだ。相手によって性格も変えてるしね。
トリスタンとかフィリップは、硬派だし女の子に慣れてないからコロッといっちゃったみたいだけど…これでも僕はそれなりに女性と交流してるからね。
あの子見た目に反して強かだなと思ってたけど…まさか妄想癖のある頭の可笑しな子だとは思わなかったなぁ」
ステファン殿下はクスクスと笑う。
おや…この人、実は恐ろしい人だったのね。怒らせたら怖そうだわ。
もしかして一度目の生の時もこんな感じだったのかしら?だからマリー嬢が害されても私に対してそこまで悪感情を向けて来なかったのかも知れない。
今となってはわからないけれど。
それにしてもマリー嬢…恐ろしい子。
私と同じように一度目の生の記憶があるのかと思っていたのだけれど…妾であってもユベール殿下の側に居たかったのかしら?
…でも、それにしてはユベール殿下以外の殿方に対しても性格を変えてまで懇意になろうとしているし…。
一体彼女が本当に好きな人は誰なのかしら?まあそれも今更ね、こんな問題を起こした男爵家の令嬢がタダで済むと思えないわ。
「ミルシェ?」
私が考え事をしているとルーファスが心配そうに顔を覗き込んでくる。思っていたより顔が近くにあったので、思わず後退りしてしまう。
「どうしたの?」
平然とした様子で声を掛けてくるルーファスに、なんだか負けた気分になりながら私は笑顔を作る。
「何でもないわ。ただビックリしただけ」
「そう?…あまり気にしないようにね。マリー嬢だっけ…?あの子相当変な子だけど、二度とミルシェと会うことはないから安心してね」
にこやかな笑顔を浮かべるルーファス。そして、マリー嬢に二度と会うことはないと迷う事なく発言する彼に少しだけ、ほんの少しだけ怖いかも?と思ってしまったのは秘密だ。
ルーファスは優しい人よ。




