SSー5.水面に揺れる花の名は、美しい少年
『そういえば、俺の事いまだにゆきって呼ぶよね』
始まりはその一言だった。
『はい。ゆきさんって、慣れてしまって。でもほら、漢字としては間違ってないですし』
『でも名前は間違ってるよね』
にこりと笑って、尤もな事を言われる。それはそうだ。だって名前はゆき、じゃないし。かと言って律さん、なんてまるで凄い親しい関係みたいじゃないか。呼びたい気持ちはあるけれど。
『ほら、言ってみなさい』
『いや、それはどうなんでしょう』
『別に下の名前じゃなくても良いんだよ? ほら苗字だっていいわけなんだからさ』
『それはーー』
そう呼ばないのは私の我侭だ。律さん、と呼べないからゆきさんと呼んでいるのだって。何故ならそれは、私が少しでも彼にとっての特別でありたいと思っているからだ。
『やっぱり呼べません!』
今日は失礼しますと言って、その日はダッシュで逃げ出したのだった。日に日に彼の存在が私の中で大きくなっているのは自覚していた。だからこそ、下手の事は出来なかったし、自分が彼の中でその他大勢に分類されるのだって嫌だった。少しでも私の存在が、彼にとって気に留めてくれる存在であれば良いと願っているのだ。そうこうしている間にやれ繁忙期だの、やれ友人の結婚式だの様々な事が重なりゆきさんと会える頻度は少なくなっていた。
『すみません課長、途中まで送って頂いて』
『いや、僕も同じ方面だったし。なにより飲み会で遅くなってしまったからね』
課の飲み会の帰り道。大分遅くまでかかってしまって、課の課長が最寄り駅まで車を出してくれたのだ。もちろん、課長の名誉のために言わせてもらえれば、さっきまで他にも二名乗っていたいたのである。
『じゃあここで失礼するよ。家まで気をつけて』
『ありがとうございました』
お礼を言って別れる。親切な課長で助かった。さて、ここから歩いて帰るわけだがなるべく明るい道を通って帰りたいものだ。コンビニに寄りたい所だが、もうこんな時間なので明日にしよう。というか、明日が休みでよかーー。
『随分と遅い帰宅だね』
穏やかなようで、突き刺さるような声音が聞こえた。どきりとする。久しぶりだ。この声、雰囲気。後ろを振り返る。今日はコートがなくて、スーツ姿でそこに立っていた。
『ゆきさん』
『久しぶり。どうしたの? 驚いた顔して』
『それは驚きますよ。連絡なしに会えるの、久しぶりですもの。どうしたんです?』
『ん? さぁて。君の顔を見に来たって言ったらどうする?』
またこの人は。突然、思わせぶりな態度をとってくる。そういうの、私が喜ぶと分かって言っているのだろうか。
『そ、ういうの。相手を選んで言った方が良いですよ』
『ふぅん?』
『少なくとも、私にはダメです』
本気ではないと分かっているだけに、そういう言葉は少し残酷なように聞こえる。
『どうして?』
『どうしてって……』
『俺は嘘なんてついてないし、吐くほどフェミニストでもないよ』
『その時点で嘘っぽいです』
『ひどいなぁ』
『ひどくて結構です。ゆきさん、もう遅いですしーー』
『はい、ストップ』
『!?』
突然、人差し指を唇に近付けてくる。そして、ゆっくりと、優雅に。その指を律さんは自分のの口元に当てた。
『いつになったら分かるのかな』
『は』
『俺だって、いつまでも許してはおかないよ? いつまでも直らなければ、強行手段に出るし』
『はい!?』
『その口で俺の名前が呼べるようにしてあげようかな』
一歩。距離を詰められる。
『分かる? ちゃんと口、開いてごらん』
『う……』
『そ。でもちょっと小さいね。ほらそんな顔しないの。ーーホント』
その顔を私の耳元に近付けて、まるで揶揄うような口調で壮絶な色香を放つ。
『塞ぎたくなるから』
なにを!? なんて言葉は出ずに、ただ吐息を飲み込んだだけだった。本当にやめて頂きたい。
『そそそうやって揶揄わないで下さい!』
『んー? 本当、愉快だよね。でも次にゆきって呼んだら本気でするよ?』
『なぁ! なんっで……!』
『ほら。練習。どうぞ』
さぁさぁと促されて躊躇ってしまう。でも、この人、次になにかしでかしたら本気でなにかしてくるつもりだ。うう。何故こんな目に。羞恥も良い所である。
『り、』
『うん』
『律、さん……』
『はい、よくできました』
わしゃっと。その頭を撫でられて、自分の顔が熱くなった。あぁ、これはしてはいけなかった。名前を呼べば呼ぶほどに、自分の気持ちが大きくなっていくのを感じていた。私はきっと、後戻りできない。どうしようもなく、この人に惹かれている。
それは、今も、昔も、変わらずこの先も。
気持ちは大きくなっていくばかりなのだろう。