SSー32.彼が立つ大地には、幸福の白い花が咲く
律さんと一緒に住むというのを、考えなかった訳ではない。むしろ、そうなったらどんなに幸せな毎日になるのだろうと想像したくらいだ。朝起きて、寝る直前まで貴方の顔を見られる。溺れてしまいそうな程の幸福。その提案は願ったり叶ったりなのだ。けれど、私にはまだ心の準備も出来ていない。だから、なのだろう。律さんはお見通しだったのだろう。私に来年まで考えて、と言ったのはきっとそのためだ。
私は己が覚悟を決める準備段階に入ったのである。
なんて、堅苦しい事を述べたが要するに、引っ越しや手続きの準備が大変なのと、律さんの生活に私が入り込んで大丈夫なのか不安を感じただけなのである。
だから、あとの一年は、本当に準備段階なのだ。
「律さん、これは何処に?」
「あぁ。それはこっちに」
「服はそのままが良いですよね?」
「俺が後でやるよ。食器、戸棚に入れてくれる?」
「はーい」
律さんと出会ってから二度目の梅雨。雨はしとしと、ややじめじめ。6月に引っ越したのは、繁忙期をずらしたかったというのもあるのかもしれない。私の家からだと駅にして五つ分ほど。ドアトゥドアで、三十分と少しくらい離れている。前に比べると少し遠くなってしまったけれど、以前より心の距離はぐっと近くなった気がする。
新居は思っていた以上に素敵だった。律さん一人だと確かに広い。
「ここから会社、遠くないんですか?」
「そうだね。前より少し遠いかな」
「やっぱり。だけど、良い所ですね。日当たりも良いですし」
「ん。そうだね」
「梅雨に入っちゃいましたから。しばらくは、雨ばかりですね」
「夏になったら、日差しが強そうだね」
「お部屋の中でも日焼けしたりして」
「そうならないように、気をつける」
「日焼けの律さんも見てみたいです」
「そ? じゃあ夏は旅行にでも行こうか」
なんでそんな話になった。
「今年はちょっと長めに夏休み取れそうだから。藤花ちゃんとゆっくりしたいと思って」
「またそうやって、私を喜ばせて」
「嬉しいんだ?」
そんなの、嬉しいに決まってる。でも、そんな事を素直に言うのも悔しくて代わりに律さんの胸に飛び込んだ。その広い胸に抱き着く。
「引っ越しの片付け終わったら、お茶でもしましょうね」
「それは楽しみだ。藤花ちゃんが淹れるミルクティー、美味しいよね」
「腕によりをかけて淹れますよ」
「楽しみにしてる」
「律さん」
「なに?」
ずっと聞こうと思っていて、ちゃんと聞けなかった事。有耶無耶になるのもなんだか嫌で、ここでハッキリと聞いてしまう。
「結局、律さんの引っ越しの一番の理由って、一体なんなんですか?」
「あぁ。もう気付いてるのかと思ってた」
「なんとなく、心当たりはあるのですが、それはあまりに自惚れ過ぎかと思いまして」
「いいや? 自惚れで良いんじゃないかと思うよ」
律さんは意地悪そうに微笑んで、それを口にしない。この人、絶対自分の口からは言わない気だ。
「藤花ちゃんの予想してる通りだよ」
そう言われて、だったら私の良いように解釈してやろうと律さんの体にぎゅうぎゅう抱き着いた。恥ずかしいのと、嬉しいのと、いろんな感情がごちゃ混ぜになってなんだか笑いが込み上げる。
「ふふ。本当に良いように解釈しますよ」
「どーぞ。前向きな解釈でお願いね」
「あはは。はいーーありがとうございます」
私がお礼を言うと律さんから疑問の声が上がった。いいんだ、これで。
「なんでお礼?」
「さて、なんででしょう」
だって、私を思っての行動ばかりをしてくれるから。自然にお礼が出るのは仕方がない事である。なにを考えてるか分からない人、でも優しい人。私を想ってくれる人。私が気付いていなかっただけで、律さんはきっと始めから私の事がちゃんと好きだったのだ。
「律さん。私、来年は暖かい時期に引っ越したいです」
彼の秘密を全て知っているわけではないけれど、少なくとも暴かなくてはいけない秘密は一つもない。来年もきっとずっとその先も、律さんの隣で過ごせたらいいなと付けた指輪をそっと撫でた。
これにて本編完結です。読んでくださった方、ありがとうございました!




