SSー17.ゼウスはそうして桃色の花を愛でた
かぽーんって、なんの音なんだろう。よく銭湯の効果音で使われている。少なくとも、今、このお風呂ではかぽーんなんて音はしなくて、するとすればパシャっとお湯の跳ねる音だけだ。
美味しい料理に舌鼓をうち、お腹いっぱい、心もいっぱいだったところで、あの台詞の再来。
『どうする?』
主導権はそちらに譲るよと言わんばかりなのに、私に主導権がないような気がする。どうする、だなんて。そんなの、私が決めろと? ええ、そりゃあもう。受けて立ちましたよ。男前と言われようとも、仕掛けられた勝負はやはり勝たなければならない。
というわけで。
体にバスタオルを巻いて(許してほしい)、露天風呂に浸かる。湯船自体は木で出来ていて、それは完全に外には出ていない。ただ、湯船から外が眺められるようになっているのだ。
「綺麗」
降る雪は、幻想的だった。
「お待たせ」
「おおお待ちしてました」
「どもり過ぎ。落ち着いて」
ざばぁという音と共に湯船から二人分のお湯が溢れでる。一人なら充分広いが、二人だとどうしても、密着してしまう。恥ずかしい。
「部屋に露天風呂が付いてるのもいいね。人目気にせずゆっくりできる」
「そうですね。眺めも良いですし」
「藤花ちゃん。タオル取らないの?」
「は!? なんですか突然!」
「いや。お風呂にタオル巻いて入るなんて、ねえ?」
「そっくりそのままお返ししますよ! 律さんもタオル巻いてるじゃないですか!」
「一応嗜みでね。でも別に取ってもいいけど」
「ダメです!」
私が食ってかかるように否定すると、肩を震わせ笑い始める。揶揄うのも大概にして欲しい。
「もう」
「ごめんごめん。あまりに反応が可愛いくて」
「褒めてもなにも出しません」
「分かってる」
濡れた髪の毛を鬱陶しそうに搔き上げる。律さんの筋張った腕が目に入った。あれ?
「それ……」
「うん? ああ、これ」
「ちょっと大きな傷ですね」
「古いものだけどね。温泉に入ったら、少しは薄くなるかな」
「痛い、ですか?」
「古いから痛くないよ。触ると変な感じするけど」
そう言って、腕を差し出す。触れて、良いのか。私はその腕に一本走る傷を人差し指だ辿った。長く、おそらく深かったであろう、傷。
「律さん」
「なに?」
「その傷……」
どうやって付いたんだろう。ただ転んだにしては、あまりに不自然な傷だ。それに、腕以外にも。怪我したであろう跡がいくつか見られた。
「昔からやんちゃ坊主でね。大人になって見ると、恥ずかしいもんだ」
「子供の頃に?」
「木から落ちたり釘に腕を引っ掛けたり」
「ひぇ」
「そういう傷が多いから。気にしないで」
そう律さんが笑う。子供の頃のやんちゃな傷なら良い。律さんが悲しんだり、苦しんだりして付いた傷でないのなら。
私はその傷がこの温泉で少しでも癒えますように、と。無意識に、傷に唇を寄せていた。
これになんの意味があるかなんて分からない。ただ、私がそうしたいと思っての事だった。
「藤花ちゃん」
吐息交じりの声で名前を呼ばれる。
「どこでそんなの、覚えたの?」
律さんの瞳に熱が篭る。
「唇を寄せるなんて」
顎を掬われる。
「少し危機感を持った方が良いんじゃない?」
そうしていつもより強引に、唇が重なる。気持ちを重ね合わせるようなキス。けれど奥になにがあるのか、お互いに暴き合うようなキスだ。深く重なるそれは、甘く、吐息と唾液が溢れ、流れる。
「りつさ」
「黙って」
喋ることすら出来ず、互いを求め合うものだ。あぁ、こんなにも簡単だった。あまりにも自然だった。
知らないから、知りたい。好きだから、知りたい。けれど、知るという事は言葉だけではなかなか難しいものだ。こうして肌を合わせるだけでも、知る事は山ほどある。
「はっ」
「や……もう」
「苦しい? ごめん、やめてあげられなくて」
律さんに近付けば、その肌が、傷が、間近にあって困惑してしまう。どうやったら、この人にもっと近付けるのだろう。どうすれば、この人を知る事が出来るのだろう。
ただどうすべきか、その答えはなく。私は傷口に唇を寄せる事しか出来ない。
「藤花、それはダメだ」
唇を寄せる私に、律さんは眉間にしわを寄せていた。
「この唇は……こっちにだけ寄せていて」
そうして、唇を塞がれる。
「藤花ちゃんはホント油断しすぎだよね」
「ふ……う」
「そうやって、俺の目の前に獲物をぶら下げて。どうしたいの?」
「律さん……っ、それっ」
「こうして欲しかったでしょ? だから、なんの守りもなく、逃げ道もなく、無防備に迫ってきて」
律さんの目がぎらりと光る。
「だからちゃんと言って? そしたら、してあげるし」
首筋がくすぐったい。
「加減もしない」
覚悟はいいね? と。
それは最後の確認だった。ここで頷けば、もう後戻りなど出来ずきっと彼に溺れていくだけなのだ。そして、それを決めるのは他でもない、私。
望むところだ。
「ーーあなたを下さい」
それはどちらの言葉だったのか。寒い冬の部屋の中、暖まったベッドの中で、どちらかともなく身を寄せ合った。




