SSー1.絡めとられたクモの花
彼が何者かは知らない。ただ、名前と誕生日と好きなものは知っている。住んでいるところは知らないし、何をしている人なのかも知らない。年齢はおそらく二十代後半。見た目は若く見えるのだが、その口調や風体から若さは感じられない。玄人感満載だ。
思い出話から始めようか。
彼と出会ったのは一年前。私が祖母に使いを頼まれ、地元より電車で一時間ほど離れた町に来ていた時の事だ。駅から歩いて十五分。そこに祖母の知り合いが住んでいる。その人に借りていた食器を返しに行くのがその日の私のミッションだった。祖母が直接返しに行きたいのは山々だったらしいのだが。いかんせん、足腰がもうあまり丈夫でない上、大事な借り物が重いと言うので、私が役を買って出たのだった。
しかしやはり知らない町。どこになにがあるかなんて、さっぱりわからない。ぬぬぬ。やはりここは地図アプリにお世話になるしかないか。スマホを起動させようとボタンを押す。充電バッテリー2%。うっそ、なんで、いやたしかに家出た時にもフル充電ではなかったけど。最近調子悪かったしなぁ、この子。2%でどこまで行けるかしら。なんて、思ったと同時にバッテリー切れ。うわぁ……あるあるですよねきっと。とほほなんて思っていて、さてどうするかと近くの地図看板の前に立った。
えーと、徒歩十五分で、住所はわかるから、交番とかあれば辿り着けるかな……交番? あるのかな。っていうか現在地? 今、駅だよね。交差点、どっち。
ぐるぐると頭の中で考えながら、首を傾げていると隣にすっ、と隣に人の気配がした。
襟足に伸びる少し長めの髪の毛、そして随分と大きな人だ。横顔が驚くほどに綺麗だった事を覚えている。落ちかけている日に反射した髪の毛が、きらりと輝いていた。
その人は看板とスマホを交互に見ていた。あ、そのスマホ。私と同じ機種、同じ色だ。
『なに?』
その人は、こちらを見ずにそう声を発した。
『今、見てたでしょ。なにか言いたいことでも?』
『あ、いや、その……私と同じスマホだと思って』
ほら、とバッテリー切れのスマホを見せる。
『ふぅん。これ、使いやすいからね。珍しくもない』
『そ、そうですねー』
『で?』
『はい?』
『まだ言いたい事、あるんでしょ』
驚いた。どうして分かったのだろう。私はなにも言っていないはずなのに。私は恥ずかしながら、と前置きをして事情を話した。彼はふぅんと言いながら、やはりこちらを見てはいなかった。
『名前は?』
『え? えーと……澤白ですけど』
『……それ、君の名前?』
『はい』
『あー……行きたい家の名前は?』
『え? あ! ごめんなさい! 里山さんです!」
『はいはい、里山さんね。多分ここだよ。この辺で徒歩十五分かけて行く家で里山って言ったら、陶磁器店の里山じゃない?』
住所を言われて、確かに祖母に言われた住所で間違いなかった。
『目印の交差点はこっちにまっすぐ行って、二つ目の信号を右折したら出てくるから。そしたら次は左折ね。森永ってタバコ屋が見えて来たらそれを通り過ぎて真っ直ぐ。右手に草刈谷って和菓子屋が見えたらその横の道を抜けてくと目の前に見えてくるはずだよ』
『え! えっと』
『聞いてた?』
『聞いていたのですが……』
『あと一回しか言わないからね』
そう言って教えられた道を復唱した。
『あ、ありがとうございました! 忘れないうちに行きますね!』
『どーぞ。迷子にならないようにね、澤白さん』
それが彼とのファーストコンタクト。この時の私は、まだ彼の事をなに一つとして知らない。