虚空のワルプルギス(4)
ワルプルギスでは、空気が何よりも貴重な資源となっている。そのため内燃機関を用いた自動車の類の運用は、原則的に禁止とされていた。
「そもそも、化石燃料自体がここでは希少品ですからね」
爆発的に強い馬力が必要になった際にのみ、内燃機関を搭載した工事機械の使用が許可されるとのことだった。そういった事情があるので、市街には魔女の乗ったホウキがゴンドラを吊り下げているタクシー『魔女タク』や、大きな車体を複数の魔女たちが牽引する『魔女ライナー』が通っている。フミオもトンランと共に、魔女タクに乗って市内を移動していた。
「マナは有限なんじゃないのか?」
「現状では、ある程度は仕方がありません。解決手段として、電気自動車の開発が進んでいます。それが完成すれば、街の景観は一変すると思いますよ」
電気自体は、既にワルプルギス全域の主たるエネルギー源として供給されていた。その根源は、光発電だ。天候に左右されないワルプルギスでは、減衰なしで光発電をおこなうことができる。その辺りは、ヤポニアから提供された技術を基にしているとのことだった。
「動力源があっても、電池の技術がまだまだで……小型で高出力の電池が開発できれば、すぐですよ」
実際、有線で動作する電動ライナーは近日中に開通する予定だった。魔女たちの拠点も、すっかり科学によって発展しつつある。下手をすれば、地上のどの国よりも科学技術に詳しいのかもしれない。なんだか奇妙な感じだった。
「でも魔女は皆面倒臭がって、結局魔術でなんとかしようとしちゃうんですよね」
それは確かに、そうだろう。魔女からしてみれば、自動車も電車も煩雑な手続きを踏まえなければ動かないガラクタのようなものだ。ホウキにまたがってすぅっと飛んでしまえば、その数百倍も楽であるのは間違いなかった。ワルプルギスにどの程度のマナがあるのかは判らないが、ちょっとぐらいなら平気だろうという心理が働くのはフミオにも容易に想像が付いた。
「電気自動車を運転する魔女なんて、パッとしないからな」
魔女タクの運転手は、鼻歌まじりにすいすいっと道路に沿って飛ばしていく。障害物があればふわり、と浮かんで軽快そのものだ。これが地面にへばりついて、ハンドルを握って信号とにらめっこしているだなんて、実に馬鹿馬鹿しい。トンランは「まったくですね」と明るく笑った。
ワルプルギスの街並みは、地上の都会とほとんど大差がなかった。小さな商店が、所狭しと並んでいる。魔術によって調整されている人工の空は、母星の標準時間に合わせて昼夜を再現するようになっているのだそうだ。フミオも出発する時に、時計の針を調整していた。今はお昼過ぎで、そろそろ仕事を終えた人たちで通りは賑やかになるという話だった。
広々とした道路の脇には、良く生い茂った緑の植え込みが目立った。植物はマナの生成を促し、酸素も作り出してくれる大切な存在だった。そこかしこに設えられた花壇にも、色とりどりの花が咲き乱れている。気候はヤポニアの春のようで、ぽかぽかと温かくて心地が好かった。
「ワルプルギスの市街地は、ほとんど独立した魔女の国みたいになっています。ヤポニアのお金は使えないので、へそくりがあったら今のうちに両替しておいてください」
どこの国にも属していないワルプルギスは、関税のかからない自由な経済圏となっている。それもあって、ワルプルギスを訪れる人間は厳密に管理されていた。
観光客などの不特定多数の地上人を受け入れ始めたら、ここはあっという間に密輸業者の一大拠点とされてしまう。そうならないためにも、魔女たちは現状でも責任を持って、ワルプルギス内での経済活動や貨物船の積み荷の中身をきちんと管理していた。
もっとも、そんな悪意を持った者たちがいたとして。魔女たちの目を盗んで、母星の重力を振り切ってまでここに到達するというのは、なかなかに容易なことではないだろう。密輸をするにしても、明らかに他のやり方を考えるべきだ。
「量販店や雑貨屋の場所は、後でお教えしますね。まずは、ヤポニア大使館まで直行いたします」
ワルプルギスには、世界の各国が大使館を置いている。極大期に地上のどこに隕石が落ちるのかは、魔女にしか判らない。国際高空迎撃センターとの連絡態勢を取ることは、各国の防衛上とても重要なことだった。
ヤポニアがここに大使館を置いたのは、恥ずかしいことに『ブロンテス』の災害が起きた後のことだった。つまり、設置されてからはまだ十年弱、ということになる。それまでは一方的に、ヤポニアは魔女の傘の世話になり続けていた。
ヤポニア人には見えていないところで、ヤポニアを含む母星全体を守ってきた魔女という存在。フミオはその魔女たちについてもっとよく理解して、ヤポニアの民に伝えていきたかった。
それを実現する第一歩として。
フミオはこのワルプルギスで魔女相手に仕事をしている大先輩、駐ワルプルギスのヤポニア大使に挨拶をしておく必要があった。
ヤポニア大使館は、静かな緑地公園の中にひっそりとたたずんでいた。澄んだ水を湛えた池があって、自然と調和した美しい建物だった。これがヤポニアらしさかと言われれば、そういう訳ではない。ただ喧騒から離れたたたずまいは、大使館というよりは高級な別荘という趣だった。
「よくきたね、ヤポニア新報の記者さん」
ヤポニア大使ヨシハル・オコウは、まだ若さの残る男性だった。がっしりとしていて体背が高く、紺のスーツが膨れ上がっているみたいに見える。三十代後半から、四十代頭くらいだろうか。フミオが差し出された掌を取ると、力いっぱいに握り潰された。痛い。すごく痛い。後ろに控えているトンランが苦笑いを浮かべていた。
「どうも、フミオ・サクラヅカです」
大使の執務室は、大きな書き物机とソファがある以外はあまり飾り気のない質素な印象だった。ヤポニアの人間は、あまり派手な装飾を好まない。こういう機能性重視なところは、いかにもヤポニアらしいと感じられるところだった。
「煙草は吸うかい?」
「いえ。吸いません」
空気が汚れる煙草の類は、ワルプルギスでは利用できるエリアが限られている。大使の執務室は、喫煙可能な場所だった。ヨシハルは「ふむ」と鼻を鳴らすと、手に持った硝子の灰皿をテーブルの上に戻した。部屋に染みついた匂いから、この部屋の主がそこそこの愛煙家である様子が窺えた。
「少し下がっていましょうか?」
「ああ、そうだね。申し訳ないが、終わったら声をかけるよ」
トンランは一礼すると、扉を開けて部屋の外に出ていった。この場は一応、ヤポニア人同士での対話ということになる。ワルプルギスの魔女であるトンランには、機密としなければならない会話もあるだろう。
――もっとも、そんなものがあれば、の話だが。フミオは政府の密命を帯びた特使ではない。ただ魔女たちに合わせて国際共通語を使うよりは、慣れ親しんだヤポニア語で話す方が楽だという程度のことだった。
「ワルプルギスの第一印象はどうかね?」
ヨシハルに勧められて、フミオはソファに腰かけた。大きな窓の外には、天高く聳える純白の塔が見えている。あれがワルプルギスの中枢、国際高空迎撃センターだ。この部屋からは、その雄姿が良く見えるようになっていた。
「魔女ばかりで、ちょっと面食らってます」
それはかなり正直な感想だった。ヤポニアでは、魔女の存在自体があまり良い顔をされない。戸籍上ではそれなりの数の魔女の家族が生活しているはずだが、ヤポニアの街中でその姿を見かけることはまずなかった。魔女であることを、頑なに隠して生活している者もいる。新人新聞記者として色々な現場に回された経験を持つフミオでも、ワルプルギス行きが決まるまでは魔女との接点は皆無だった。
ヤポニアにおいては、魔女のことは新聞の記事や、ラジオのニュース、書物の中でしか知り得ることがない。そんな不確かな知識しか持たない相手に、千年以上もの間隕石から守ってもらっていたのだ。それどころか、恩知らずなことに異分子として不当な扱いまでおこなってきた。まともな神経をしていれば、ヤポニア人にとっては頭が上がらないはずの相手だった。
「そうだな。ここの職員もみんな魔女だ。ヤポニア大使館にいる普通の人間は、私と君だけってことになる」
「そうなんですか?」
驚いて上ずったフミオの声に、ヨシハルは楽しそうに笑った。十年前にワルプルギスにヤポニア大使館が作られた時、ヤポニアから派遣されたのはヨシハルと、ヤポニア出身の魔女二人とその家族だった。後は現地で採用した職員たちが業務を担当している。現状では極大期以外にはそれほど忙しくはないため、それで人手は充分足りているとのことだった。
「魔女は、みんな親切ですよね」
「ああ。我々がヤポニアの人間だというのは、彼女たちにはあまり重要なことではないらしい」
トンランも言っていた。魔女たちはただ、母星を守るという使命にのみ従っている。ヤポニアのことも、マチャイオのことも。このワルプルギスという、宇宙を漂う石くれの上に追いやられていることも。魔女たちは黙って受け入れていた。
「サクラヅカ君は、ヤポニアに魔女のことを伝えたくてここまで来たんだよね?」
ヨシハルが、顔の前で両掌を組んだ。その視線が、どこか遠くを見つめていた。フミオは背筋を伸ばすと、膝の上で拳を握り締めた。しばらく、沈黙が部屋の中を支配する。遠くで、時計の針が時を刻む音がした。
「どうだい? 今の君は、ヤポニアにどんな魔女の姿を伝えたい?」
静かな、それでいて厳しい問いかけに、フミオはごくりと唾を飲み込んだ。
「お疲れ様でした、フミオさん」
大使の執務室を出ると、トンランが敬礼してきた。きちんと畏まっているのに、年のせいかどうにもとってつけた感じが否めない。フミオの口許がほころんだのを、トンランは見逃さなかった。
「なんで笑うんですか?」
「いや、ごめん」
会ってから一日も経っていないのに、フミオはこの魔女から沢山のことを教わった。たった一人の魔女を相手にして、もう頭がパンクしそうになるくらいだ。魔女の全てを知ろうとするならば、こんなものでは済まされないだろう。そんなフミオが魔女について何かを語ろうだなんて、随分とおこがましい考えだった。
『今はまだ、何も判りません。俺は魔女について、知り始めたばかりですから』
フミオの応えに、ヨシハルは満足した様子だった。そして近々星を追う者候補生のサトミ・フジサキや、国際高空迎撃センターの要人とのインタビューのアポイントメントを取りつけると約束してくれた。
トンランも言っていた通り、魔女たちはヤポニアと友好関係を結ぶための広報活動に力を入れていた。放っておいても、向こうから取材してほしいと申し出てくるだろうとのことだ。それまでは、ヤポニア大使館の周辺で取材活動をする自由も認めてくれた。
魔女たちが果たして、どういった存在なのか。フミオはこれから、自身の目と耳でそれを探っていかなければならない。結論を出すには、何もかもが早すぎる。フミオはもっともっと、魔女たちのことを知りたかった。
「俺はまだ、魔女のことも君のことも、何にも知らないなぁ、って」
「じゃあこれから、いっぱい知ってくださいね」
トンランの笑顔は無邪気で、とても眩しかった。魔女がみんなトンランみたいだというのなら、話は簡単だった。明るくて、可愛くて。きっとすぐに、ヤポニアの人間とも仲良くなれる。世界がそんな単純であれたら良いのに。
「本日は夕刻からフミオさんの歓迎会が予定されています。それまでは宿舎でお休みください」
大使館の入り口には、お抱えの魔女タクが常に待機していた。これは便利だ。用意してもらった宿舎は、大使館からそれほど離れていない居住区にあった。これなら歩いてでもなんとかなりそうだ。魔女たちはホウキでどこにでも簡単に行けるだろうが、フミオの場合はそうもいかない。魔女タクの値段と手持ちの所持金を比較して、これを頻繁に使う訳にはいかないなとフミオは財布の紐を固く閉じることにした。
「……えーっと、こちらでよろしいのでしょうか?」
「ああ、リクエスト通りだ」
フミオが肯定しても、トンランは納得がいっていない様子だった。ワルプルギスで生活を始めるにあたって、フミオは自分のヤポニアでのライフスタイルからあまり変化を持たせたくなかった。記者としてある程度自分を追い込んでおかないと、様々な感性が鈍ってしまう。こういうのは、日常的にストイックな姿勢を保っておくことで培われるものなのだ。
ワルプルギスで暮らす部屋としてフミオが選んだのは、かなり年季の入った集合住宅だった。見た目にも優美で近代的な建築物ばかりのワルプルギスにおいて、これは相当な異彩を放っている。フミオに割り当てられた二階の部屋の間取りの方も、外観からの予想を裏切らずに窮屈なことこの上なかった。ベッドと書き物机だけで、もうぎゅうぎゅうという様相だ。
「あの、一戸建てがお好みでないとしても、他に幾らでも手配できるような――」
「いや、ここが良い。気に入った」
「はぁ」
写真で見せられてから、フミオはこのアパートに一発で惚れ込んでいた。狭苦しい部屋のベッドの上に、フミオのトランクが乱雑に投げ出されている。これだ。こういうのが、ジャーナリズムだ。うんうんとうなずくフミオを、トンランは呆れ顔で眺めていた。
「この後は歓迎会ですけど、正装とか、ご用意はありますか?」
「一応持ってきたはずなんだが」
トランクを開けると、中身ががばちょ、と溢れてきた。無理矢理に押し込まれていたであろう下着やら帳面やらが、ベッドの上にぶちまけられる。トンランは思わず顔を手で覆った。部屋に準備してあった簡易衣装ケースでは、これは整理しきれないだろう。そもそも物の質量に対して、器の方の容量が決定的に足りていなかった。
「アイロンが必要かな……それとも、代わりの礼服を手配しましょうか?」
「うーん、両方かなぁ」
どうやって入っていたのか、フミオの前には団子のように丸まった衣類の山が構築されていた。フミオは実は、物体圧縮の魔術でも使えるのではなかろうか。それともヤポニア秘伝の収納技術か何かだろうか。ついさっきここにやってきたばっかりだというのに、もう十年選手で棲み付いているみたいな散らかしぶりだった。
放っておくと、トンランの目の前で着替えでもされかねない。さっさとこの場から退散した方が良さそうだと、トンランはドアの外に退避した。
「では、取り急ぎ貸衣装を頼んできますから。フミオさんはちゃんとお部屋を片付けてくださいね」
「頼むよ」
ぽいぽいと、辺り構わず物を投げ飛ばしている気配がする。これはとんでもないことになるかもしれない。護衛以外にも、身の回りの世話もする必要があるのではないか。アパートの玄関先で振り返ると、トンランはやれやれと肩を落とした。
「フミオさんが魔女のことを理解する以上に、あたしの方がフミオさんを理解しないといけないみたい」