虚空のワルプルギス(2)
激しい加重を感じることはほとんどなかった。ぎゅーっと床に押し付けられる感触はあったが、せいぜい一分あるかないかといったところか。もっとすごいものを想像していたので、拍子抜けもいいところだった。
フミオは身体を縛り付けているベルトに手を伸ばした。さっきからこれがきつくてたまらない。胃袋が締め上げられて、今にも中身が逆流してきてしまいそうだ。いくらなんでも、これはちょっと強すぎなのではなかろうか。飛行機械のシートベルトだって、ここまできつくはしないだろう。
「あー、フミオさん。それを外すなら気を付けてね」
すぐ横で、同じようなベルトで壁に固定されているトンランが間の抜けた声で警告を発してきた。何をどう気を付ければ良いのか、さっぱり判らない。今はそれよりも、腹部の圧迫感の方が問題だ。あ、吐く。本当に吐く。フミオは構わずにベルトの留め金を力任せに取り外した。
途端に、ふわり、と身体が宙に浮かんだ。
「うわ、わわわっ」
「今は重力制御中だから、貨物室内は完全に無重力なんだよ」
そういうことは先に説明しておいてほしかった。変な勢いがついていたせいか、フミオは自分の身体が回転するのを止められなくなった。慌ててカメラを抱いて、ハンチング帽を押さえ付けたのが更に悪かった。目が回って、三半器官が暴走してくる。壁と天井と床が、高速で入れ替わる。今度は違う理由で吐きそうになってきた。
うぶぶ、と真っ青になって口を抑えたところで、トンランがひょい、とフミオを抱き留めてくれた。
「はい。バランスに注意してね」
「……すまない。助かった」
トンラン・マイ・リンは、にっこりと微笑んだ。えくぼができて、子供みたいなあどけなさが感じられる。出発前の自己紹介によると、トンランは今年十八歳になったばかりのまだまだ若いお嬢さんだ。小柄でしゅっとスレンダーな体形をしていて、小麦色に日焼けした肌が実に健康的だった。掘りの深い顔つきは、ヤポニアにはあまり見られない特徴だ。出身は南洋の方だということだった。
「重力制御って、君がやっているのか?」
「ううん。貨物船はちゃんと担当の魔女がいるから、その子がやってる。大事なものを運ぶから、大ベテランだよ」
「大事なもの、ねぇ」
トンランに支えられたまま、フミオは貨物室の中を見回した。薄暗くてただっ広い空間に、大小様々な箱が所狭しと並べられて、丁寧にベルトで固定されている。これが自由に泳ぎだしてしまえばどういうことになるのかは、たった今身を持って思い知らされたところだ。フミオは首から提げているカメラを手に取ると、近くの木箱に向かってシャッターを切った。箱には大きく、『小麦粉』と書かれている。他には『砂糖』や『塩』、『石』なんてものまであった。
「そんなもの撮っても面白くないでしょう? あっちの方が良くない?」
敢えて見ないようにしていた方向を指で示されて、フミオは大きく溜め息を吐いた。その噴射の勢いだけで、大気圏も離脱できそうだ。視線の先では、木組みの檻に閉じ込められた大きなブタが、「きぃきぃ」と鳴き声を上げながらもがいていた。
ここは国際航空迎撃センターに向かう、定期貨物便の貨物室の中だ。フミオ・サクラヅカはつい十五分ほど前に、この年季の入ったオンボロ貨物船で運ばれるということを知らされた。
この世界において最大の力を誇るであろう魔女の領域に向かうのに、これしか移動手段がないとでもいうのか。やはりヤポニア人ということで、馬鹿にされているのではなかろうか。物言いたげなフミオの視線に応えたのは、これから滞在中のフミオの警護とガイドを担当すると紹介されたトンランだった。
「センターと行き来する定期便は、基本的に『これ』しかないんですよ。各国の大使様とかに対しては特別便の手配をしたりもするんですが、フミオさんに関しては早ければ早いほど良いというリクエストでもありましたので」
確かに、そういう要望を出したのはフミオの方だった。土壇場で意図しない方面から物言いが付くと面倒ということもあって、さっさと現地入りしてしまいたかったのだ。一度国際高空迎撃センターに入ってさえしまえば、戻るのは容易な話ではない。関係各所の気が変わる前に、今回の件はさっさと既成事実化してしまいたかった。
その代償が、家畜と一緒に貨物室にぶち込まれるという待遇だ。運ばれているのは山積みの荷物と、後は生きた人間が二人。貨物室にいるのは、トンランとフミオだけだった。嬉しくって涙が出てきそうだ。無重力に苦しむブタの顔を一枚撮ると、ふとフミオはトンランに質問した。
「向こうでフィルムは売っているのか?」
「ありますよ。割高ですが、日用品は一通り取り扱っています。現像室も印画紙もありますので、その点はご安心ください」
割高というのがどの程度なのかは気になるところだが、高級品でもないし、経費で落とせる範囲ではあるはずだ。それなら写真数枚分の無駄遣いくらいは許されるだろう。これから長い付き合いになる相棒の機嫌を、もう少しばかり確認しておいた方が良い。流石にブタのスナップばかりなのは、ノーサンキューだ。絵になりそうな被写体なら、すぐ傍にいる。フミオはトンランの方にレンズを向けた。
「可愛く撮ってくださいね?」
トンランが無重力の中で器用にポーズを取ってみせた。不思議なものだ。ファインダーを通して見れば、トンランはまだ年端もいかない、どこにでもいるごく普通の女の子でしかなかった。くるくると縮れた髪に、良く動く大きな目。なかなか可愛いし、美人だとも思う。この子がフミオの警護担当だと聞いた時には、正直びっくりした。
そう、トンランはれっきとした魔女なのだ。
眩しい笑顔を一枚、ぱしゃりとフィルムに焼き付けた。ヤポニアにいると、どうしても魔女との接点は少なくなる。フミオは今まで、魔女と直接話をしたことは一度もなかった。
一応、魔女が普通の人間と何ら違いがないということについては、知識としては理解していた。しかし、それはあくまで知識ベースでの話であって、実際に目の前にしてみたらまた全然別なことだった。
カメラを降ろすと、フミオは改めてトンランと向き合った。
「君は――魔女、なんだよね?」
「はい。魔女ですよ」
実にあっさりとした回答だ。なるほど、本人もそう言っているのなら、まず間違いないだろう。トンランは魔女だ。それならば訊きたいことや、訊かなければならないことは山のようにある――はずなのに。いざとなると、何一つ言葉になって出てこなかった。
何と言うか、トンランはあまりにも普通過ぎるのだ。南国の、ちょっとエキゾチックな雰囲気を漂わせている女の子。異国感はあるが、神秘性の方はイマイチだ。もっとこう、魔女魔女していてくれれば楽なのだが。
ぐむむ、と押し黙ったフミオに向かって、トンランはひらひらと掌を振ってみせた。
「フミオさんは新聞記者なんですよね。ヤポニアって魔女についてあまり詳しくないから、今回の取材で魔女のことを色々と判ってもらえたらなって思ってます」
「そう、それだよ!」
思わず大声を出して、それからフミオはがっくりとうなだれて頭を抱えた。一体何が、「それだよ!」なのか。本来それは、インタビュアーであるフミオの方から発するべき台詞であったはずだ。魔女であるトンランに言われてしまって、どうするつもりなのだ。イニシアチブもクソもない。この場に先輩記者がいたら、頭をぶっ叩かれていたところだった。
自覚はしていなかったが、少々浮かれているのかもしれない。折角万難を排してここまでやってきたというのに、良い様に扱われてそれで終わりとあってはヤポニア男子の名が廃る。ここにいる理由、目的を見失ってしまってはいけない。フミオは自らの意志で志願して、この場に赴いてきたのだ。
ヤポニアは十年前の『ブロンテスB』の災害を経て、だいぶ魔女に対して大らかになってきた。それでも、魔女や魔術が日常の中に入り込んでくるのには、まだまだ抵抗がある。列強と呼ばれる大国では、科学と共に魔術を大々的に取り入れていて、生活レベルの向上や、一部では軍事利用もおこなわれているという話だ。ヤポニアが今後国家としてより発展していくには、魔女に対する理解が必要不可欠だった。
そんな中、とんでもないスクープ情報が飛び込んできた。国際高空迎撃センターの花形、星を追う者の候補生に、ヤポニア出身の魔女がいるというのだ。新人記者のフミオはそれを伝え聞いて、これだ、とばかりに意気込んだ。
他の記者たちや会社は、あまりその情報には食いついてこなかった。ヤポニアは魔女に対して、迫害を加えていた過去がある。その星を追う者の候補生も、恐らくはかつてヤポニアから外国に亡命したクチだろう。取材なんか申し込んでも、ヤポニアの記者だと知られればけんもほろろに追い返されるのが関の山だということだった。
仮にそうだとしても、フミオはどうしてもその魔女と接触して記事にしてみたかった。魔女との関係を見直そうとしているヤポニアにとって、ヤポニア出身の魔女の存在は重要な取っ掛かりになるのではないか。フミオは編集長にそう直談判した。
結果は散々だった。新人記者のフミオには、そんなことよりも学ばなければならないことが幾らでもある。黙って先輩記者にくっついて、写真だけ撮っていれば良い――ときたものだ。そこでラチが明かないと見ると、フミオはなんとか渡りがつけられないものかと、ダメ元で国際高空迎撃センターに直に連絡を取ってみた。
その魔女は、星を追う者の候補生だ。国際高空迎撃センターで、毎日のように厳しい訓練を受けている。忙しい時間を抜け出して、インタビューに応じるなどとてもできそうにない。
……ただ、国際高空迎撃センターまで直接取材にくるというのであれば、何らかの機会を設けられるのではないか。
国際高空迎撃センターから直々にそんな返信を受け取って、フミオは文字通り跳び上がった。国際高空迎撃センターは無国籍地帯という扱いで、ヤポニアからは大使が常駐している。しかしヤポニアのそれ以外の人間、特に報道機関の関係者は、まだ派遣されている実績がなかった。これから魔女のことを理解していく上で、国際高空迎撃センターに特派員を置くというのは重要なことだ。フミオの熱意ある説得と、国際高空迎撃センターからの後押しもあって、ついにその訴えは受け入れられることになった。
「ヤポニア特派員記者って、国の名前を背負っていてカッコいいですよね」
トンランはフミオから受け取った名刺を、大事そうに見直していた。肩書は立派だが、実態はただ勢いだけでここまでやってきた、二十歳そこそこの若造だ。会社の方は、うるさい新人を厄介払いできたとでも思っているのかもしれない。それを見返してやるためにも、フミオは何としてでもヤポニアの魔女へのインタビューを敢行して、記事として仕上げて世間に公表したかった。
「ヤポニア出身の魔女が星を追う者の訓練を受けてるって聞いたんだけど、知ってるかな?」
「サトミのことでしょう?」
事前情報では、魔女の名前はサトミ・フジサキだということだった。間違いない。フミオはポケットからメモ帳を取り出して、ペンの先をぺろりと舐めた。
「そうそう、そのサトミさん。何か知っていることがあったら教えてほしい」
「星を追う者の候補生だからね。もうずっと訓練漬けなんじゃないかな。最近はあまり会ってないし」
「え、会ったことがあるの?」
「同期だもん」
目を見開いたフミオの顔を見て、トンランは「いしし」と意地悪く笑ってみせた。
「ごめんなさい。フミオさんがサトミのことを知りたいだろうなってことで、あたしが護衛兼ガイドに任命されたんです。だからその辺りのことは、遠慮なく何でも訊いて下さい。あ、あんまりプライベートなことはダメですよ?」
もう、何もかもが先手を取られっぱなしだった。これが魔女、というものなのだろうか。実にサービスが行き届いている。便利なことこの上ない。そして、実に上手に弄ばれている。
いやいや、ここでトンランの言われるがままに書いて、それが魔女たちのプロパガンダとなって広められてしまっては目もあてられない。ジャーナリストは、あくまでも客観的な視点を保っておくべきだ。フミオは軽く咳払いをして、何事もなく平静であるふりを装った。
「じゃあ、参考までに幾つか聞かせてもらおうかな」
「どうぞどうぞ」
トンランは本当に包み隠さずに、彼女が知っている限りの情報をフミオに教えてくれた。
サトミ・フジサキはトンランと同時期に国際高空迎撃センターにスカウトされた候補生だ。ヤポニアで中等学校を卒業して、それからワルプルギスにやってきたらしい。年齢はトンランと同じ十八歳。訓練課程で星を追う者の才能があると判断されて、数年前からそちらのカリキュラムに切り替えられた。成績は至って優秀で、二年後の次の極大期では実際に前線に出て隕石の破砕を担当することを見込まれている。
「君は――トンランは星を追う者候補生じゃないのか?」
「あたし? 無理無理無理。無理です」
ぶるぶる、とトンランは激しく首を振り回した。飛び散った汗が、球になって壁の方まで漂っていく。無重力というのは中々に面白い状態だ。これはこれで、いつか科学記事の類を書いてみたいネタだった。
それは一旦脇に置いて、今は星を追う者のことだ。
星を追う者に選抜されるには、魔女の中でも特別に優秀な能力を持つことが要求された。魔女というのは、それだけで普通の魔術師とは比較にならない魔力を保持している。そこにおいて更に洗練され、より特化された力を持つ者だけが星を追う者となる資格を与えられる。その倍率は、驚くほどに高いものだった。
「なりたくてなれるものでもないし、なったならなったで責任重大ですからね」
「失敗すれば、『ブロンテス』の二の舞か」
トンランはこくりとうなずいた。『ブロンテス』の名前に反応して、悪戯っぽかった表情が一瞬にして真剣そのものになった。その眼差しの力強さに、フミオは思わず息を飲み込んだ。
「星を追う者だけでなく、魔女は全員が母星に対する責任を負っています。『ブロンテス』の惨劇は、魔女全体にとって繰り返してはいけない教訓となっているんです」
「――そうか」
フミオはようやく合点がいった気がした。国際高空迎撃センターが、フミオの要請に快く応じて推薦までしてくれた理由。それは、魔女の方でもヤポニアに対して歩み寄ろうとしている姿勢の表れだったのだ。
魔女とヤポニアの相互理解が進んでいなかった帰結として、『ブロンテスB』は大いなる悲劇をもたらしてしまった。魔女たちはその惨劇を二度と起こさないためにも、ヤポニアと手を取り合いたいと望んでいた。
サトミが星を追う者の候補生となっているのも。フミオが常駐派遣特派員として受け入れられたのも。
全ては、母星を隕石から守ることに繋がっていた。
「俺に、ヤポニアへの宣伝大使になってほしい、ってところか」
「気を悪くされないでください。あたしたちとしては、フミオさんにヤポニアとの友好の懸け橋になっていただきたいのです」
魔女の方からヤポニアに対してあれやこれやと押し付けてきたとしても、ヤポニア人には胡散臭いと思われるだけだ。だったら同じヤポニアの人間であるフミオの言葉なら、まだ耳に届きやすいだろう。新しい星を追う者に、ヤポニア出身の魔女が抜擢されるというのも好都合だ。これを機会に、魔女たちはヤポニアと友好的な関係を取り付けようとしているのだった。
「別に構わないさ。ただ、俺は俺の思うように記事を書く。それが常に魔女にとって都合の良い内容とは限らない」
「はい。むしろそうあるべきだと思っています」
トンランの表情は真面目で、さっきまでの無邪気さが嘘みたいだった。琥珀色に輝く美しい瞳を、フミオは正面から見つめ返した。これが、魔女というものか。母星を守るために、想像を絶する魔力を受け継ぐ者たち。その片鱗を、フミオは肌で味わった感じがした。
「お二人さん。失礼するよ」
貨物室の連結部にあるハッチが開いて、面長の女性が顔を出してきた。この貨物船の副操縦士だ。当然、魔女でもある。乗船する際に自己紹介をされていたが、フミオはすっかりその名前を失念していた。
「航海は順調だ。もうすぐワルプルギスが見えるから、記者さんは写真が撮りたいかなと思ってね」
「それは是非、お願いします」
この貨物室には窓がないので、すっかり諦めていたところだった。フミオは急いで、副操縦士に続いてハッチを潜り抜けた。まだ無重力に慣れていないので、勢い余ってごちんと派手に頭をぶつける。フミオの目の前に火花が飛び散った。トンランが「気を付けて」と声をかけてきたが、こればかりはじっとしていられなかった。
国際高空迎撃センターがあるワルプルギスの姿は、絵ハガキなどで目にする機会が頻繁にある。美しいその写真を見るたびに、フミオはいつの日か自分の手で撮影してみたいと望んでいた。その夢が叶うというのだから、頭にコブが一つや二つできたところでどうということはない。
貨物船の操縦席は、お世辞にも広いとは言えない空間だった。ここに押し込まれるのなら、確かに貨物室にいる方がマシだろう。向こうはブタと相席。こちらはブタ小屋。荷物の積載量を最大に保つための、やむを得ない措置であるということだった。
操縦席には副操縦士の他に、操縦士と重力制御士の魔女がいた。この大きな船を、たった三人の魔女が操っている、魔女の力というのは大したものだ。魔女の操る空船には以前にも乗ったことがあったが、フミオは毎度となく落ちやしないかと肝を冷やしたものだった。
それが今は、母星の大地を離れて、宇宙空間にまで到達している。フロントガラスの先に広がる景色に向かって、フミオはカメラを構えた。
母星をぐるりと囲む輪の中で一際大きな岩の塊、通称『ワルプルギス』の姿は地上からでは小さな星の輝きにしか見えない。前方に迫るワルプルギスの表面には、沢山の建物や緑の木々、飛び交う魔女の姿が確認できた。巨大な街が、すっぽりと入り込んでいる。
あそこにあるのが国際高空迎撃センター、魔女たちの本拠地だった。