ブロンテスの追憶(4)
ごうごうという、鈍い音が聞こえてくる。身体が揺さぶられた気がして、サトミは眼を開いた。何が起きたのかは、良く覚えていなかった。視界に飛び込んできたのは青空と、父親の顔と。それから見知らぬ銀髪の少女だった。
「サトミ、良かった、気が付いた」
「マナが枯渇しただけだ。外傷はない。少し大人しくしていなさい」
そう言われても、じっとしている気分にはなれなかった。あの後、どうなったのか。サトミは全身を襲う倦怠感を無理に振り払って、上半身を持ち上げた。床の感触が固い。コンクリートみたいだ。それに、さっきから聞こえてくるこの音は何なのだろう。
父親が背中を支えてくれた。周りを見て、サトミはようやくそこが初等学校の屋上であることを理解した。大して広くもない空間に、沢山の人たちが集まって固まっている。家族の名前を呼んで、すすり泣く声が聞こえる。
そうか、ここに避難したんだ。そう思うのと同時に、辺りを満たしている轟音の正体に気が付いた。
学校の建物の周りは、何もかもが濁流に飲み込まれていた。車や家が、波間に垣間見えて消えていく。サトミの家も、通学路も。ミサコの家も、みかん畑も。サトミが知っていたこの街は、荒れ狂う海の中に消えてしまった。
――守れなかった。
サトミはまだ子供だ。魔女の力も、星を追う者と比べれば全然大したことがない。本物の魔女なら、きっとみんなを助けることが出来たのに。サトミの眼に、大粒の涙が浮かんだ。
「サトミちゃん!」
唐突に名前が呼ばれて、誰かが胸に飛び込んできた。懐かしい声。わぁわぁと泣きじゃくる女の子は、ミサコだった。
「素晴らしい偏向制御だった。さぞや名のある魔女の業であろうと思ったら、よもやこのような子供であったとは。ヤポニアの魔女もなかなか侮れませんね」
銀髪の魔女は、踵を鳴らして敬礼した。ところどころ煤けてはいるが、身に着けているのは宇宙で活動するための防護服だ。その肩には、星を追う者の徽章が煌めいていた。
「私は国際高空迎撃センター所属、星を追う者ゲイボルグ隊訓練機、ルシエンヌ・メル・ギノー候補生です。ヤポニアの魔女、サトミ・フジサキの勇気ある行動に感謝いたします」
サトミの力で、高波はその勢いを大きく削がれていた。他の地区に比べて、住民たちはより余裕を持って高台にある初等学校にまで辿り着くことが出来ていた。ミサコと、ミサコの祖母もそうだ。サトミを心配して戻ってきた父親に発見されて、二人は無事に避難を完了していた。
初等学校の屋上からは、津波に立ち向かうサトミの姿が見えていた。ほとんどの住民が高台に登り終えた辺りで、宙に浮いていたサトミはぐらり、とバランスを崩した。いけない。固唾を飲んで見守る観衆の前で、流れ星のような猛烈なスピードで現れて、サトミを抱き留めた魔女がいた。
星を追う者だ。
訓練生とはいえ、そのホウキ捌きは鮮やかなものだった。襲いくる水飛沫を華麗に掻い潜り、ルシエンヌは初等学校の屋上までサトミを運んできた。サトミの偏向制御がなくなると、街はあっという間に水の中に沈んでしまった。その光景を目の当たりにして、住民たちは力なく立ち尽くす以外に術を持たなかった。
――みんな、なくなってしまった。
嗚咽を上げ続けるミサコの背中を優しく撫でながら、サトミはかつて自分が生活していた家があった方角を見つめていた。
サトミにもっと力があれば、守れるものの数は増えていたのかもしれなかった。家も、畑も。ここにいない、逃げ遅れた人たちも。助けられたのは、ほんの一握りの命だけだ。サトミは悔しかった。『ヤポニアの魔女』なんて偉そうに称賛されても、所詮はこんなものだ。全部を救うことなんてできない。
「ゲイボルグ隊ルシエンヌ候補生、聞こえるか。こちらはゲイボルグ隊隊長機ノエラだ。現状を報告せよ」
「報告します。ヒナカタ郊外にて被災者数十名の生存を確認。救援を要請します」
「了解した、その座標に船を送る。引き続き、ヒナカタ市街地での生存者探索にあたれ」
「了解」
他の場所にいる魔女と通信すると、ルシエンヌはいずこかへと飛び去ろうとした。サトミは慌ててルシエンヌに向かって手を伸ばした。
「待って! 私も行く!」
「ヤポニアの魔女、貴女はここにいる人たちを守りなさい」
制止する間もなく、ルシエンヌはホウキに跨って遠ざかっていった。まだ魔女の助けを必要としている人たちは、沢山いる。だがそれは、幼いサトミがするべきことではない。この母星を守る者、星を追う者の仕事だった。
『でも、貴女とはいつか同じ空を飛びたい。そう願っていますよ』
サトミの意識に、優しい念話の声が届いた。今よりもずっと多くの命を守るために、星の世界までも駆け巡る魔女。
――飛べるだろうか、同じ空を。
父親と、弟と。
ミサコと、ミサコの祖母。
それから、この地域に住んでいた人たち。
それ以上の誰かと、その毎日を守るために。
サトミ・フジサキは、母星を守護する魔女を志すことを決意した。
平手打ちを喰らった頬が、じんじんと痛んでいる。フミオはぶすっとむくれたまま、バーベキューの肉をもしゃもしゃと咀嚼していた。
確かに元を正せば、無茶なお願いをしたフミオが悪いだろう。大使館職員の魔女にも、それはトンランが可哀相だと意見されてしまった。
だからと言って、猛スピードで振り回された挙句、不可抗力でちょっともたれかかったくらいで、『これ』はないのではないか。魔女の世界は圧倒的に女性上位だ。トンランから受けた暴力行為は全て記録しておいて、後できっちりと清算してもらわなければ割に合わない。
「お待たせしました、サクラヅカさん」
準備があると言って大使館の中に入っていたサトミとトンランが、ようやく戻ってきた。よし、さっきの件についてもう一言二言、と勢い込んでそちらに顔を向けて。
「ほら、トンランも」
「別に、フミオさんには見せなくても良いよ」
フミオは思わず、ぼう、っと見惚れてしまった。
二人は浴衣に着替えていた。サトミは上品な紫色に、菖蒲の模様。トンランは純白の地に朝顔の花だった。髪も綺麗にまとめていて、うなじが見えている。並んで立つと、二人ともとても美しい年頃の娘だった。
「……すごいな」
「大使館で貸してもらったんですよ。トンランも似合いますよね」
フミオと視線が合うと、トンランは慌ててそっぽを向いた。褐色の肌に、白は良く映える。浴衣だとあまり乱暴な動作は出来ないだろうから、立ち姿も自然とお淑やかだ。そんな普段とのギャップが、妙な色気となって感じられた。無意識のうちに、フミオは「ああ」と生返事をしてしまっていた。
「サクラヅカさん、こんな可愛い女の子のホウキの後ろに乗せてもらってるんですから、ちゃんと感謝しないとダメですよ?」
サトミに言われて、フミオははっとした。ついさっきまで、そこにいるトンランの身体に力いっぱいにしがみついていたのだ。トンランが、上目づかいに抗議の目線を送ってきている。色々と言ってやりたい文句があったはずなのに、フミオの中にはもう申し訳ないという気持ちしか湧きあがってこなかった。
「その……ごめんな、トンラン」
「フミオさんを乗せるのは嫌じゃないけど、恥ずかしいってことは判ってほしいよ」
若い魔女にとって、ホウキの二人乗りはちょっとだけ特別なことだ。それをちゃんと理解して、慮ってあげる必要があった。魔女は、魔女である前に一人の女の子だ。何も知らないフミオには、まだなかなか思い至らないところがそこかしこに散見された。
「サクラヅカさんがワルプルギスの魔女のことを良く判っていなくて、トンランとはそういう関係ではないということが示せれば良いんですよね?」
「まあ、そうだな」
バーベキュー中の大使館の庭に、二人乗りのまま着地したのは悪目立ちだった。もしここにデイリーワルプルギスの記者でもいれば、明日の一面は確定だ。そんな噂が立ってしまっては、フミオとしてはトンランに悪いことをしたと思うし、今後の仕事がやりにくくなる。トンランの方にはトンランの方で、都合とかその他諸々があるだろう。その……彼氏とか、好きな人とか。いればだが。
「じゃあ、こうしましょう。サクラヅカさん、私のホウキに乗りませんか?」
サトミは自分のホウキを取り出すと、その上に脚を揃えて横座りした。
「ええっ?」
フミオはトンランと付き合っているから、二人乗りをしているのではない。ワルプルギスの常識を知らなくて、あくまでもビジネスライクにホウキを使わせてもらっている。その証拠に、相手が誰であっても二人乗りをするのだ。
その様子を実際に見せてしまうのが最も手っ取り早い方法だと、サトミは説明した。
「あの、お手柔らかに」
「星を追う者だからって、かっ飛ばしたりはしませんよ。でも、しっかり掴まっててくださいね」
――どこに?
サトミの後ろでホウキに跨って、フミオは困惑した。紫の浴衣に包まれた、ほっそりとした腰つき。顔のすぐ近くには、真っ白な首元。気のせいか、トンランの表情が数段険しいものになっている。壊れ物でも扱うみたいに、フミオはそっとサトミの身体に腕を回した。
「では、ゆっくり行きましょう」
ふわり、と二人を乗せたホウキが宙に浮く。サトミは大使館の庭にいる魔女たちに見せつけるように、わざと速度を落として飛行してみせた。ひらひらと手なんかも振って、何でもないことであるとアピールする。
フミオの方はそれどころではなかった。追い求めてきたヤポニアの魔女と一緒に、ホウキに乗って空を飛んでいる。デイリーワルプルギスがいるなら、是非ともベストショットを収めておいてほしかった。金なら言い値で出す。
「男の人とこうやって二人乗りするのは初めてですけど、他の魔女の子たちが憧れる気持ちが判りました」
空に舞った小さなホウキの上は、二人だけの狭い空間だった。寄り添っていなければ落ちてしまう。フミオはその生殺与奪権を、全てサトミに預けなければならなかった。フミオを何処に連れていくのか。フミオをどうするのか。サトミの意志一つで、何もかもを決めることが可能だった。
フミオがサトミのことを信じているから、任せてもらえるのだ。そのままでも良いし、裏切ってみても良い。魔女のすることなのだから、どちらにせよ認めるしかない。このホウキに乗った時から、その相手はもう魔女の自由、魔女のものだった。
「こういうゆったりとした感じなら、まあ、そうだな」
フミオも、サトミと二人で地上を見下ろすのは楽しかった。どきどきと胸が高鳴るのは、墜落の恐怖からではない。ホウキなんて小さなものの上で、サトミと世界を共有できているからだった。このままどこか、見知らぬ場所まで飛んでいってほしいとも願ってしまう。力強く、何よりも早いスピードで。
「トンランにも、こんな風に乗せてもらったらどうですか?」
「どうかな。あいつ、メチャクチャ怒ってるみたいなんだけど」
足元では、トンランがぷりぷりと不機嫌全開な表情だった。フミオ的には美味しい想いをしているが、これはそもそもトンランのためにやっていることだ。のけ者にされるのが嫌なら、自分もホウキに乗ってついてくれば良いのに。何だかわからん。これも、魔女特有の何かなのだろうか。
「それに、トンランの場合はこうじゃなくて、凄く高く、全力で真っ直ぐに飛んでる感じが良い。なんだかその方が、トンランらしいかな」
フミオを後ろに乗せる時、トンランはいつもそうやって飛んだ。人に見られたくないという理由もあって、なるべくワルプルギスの高いところまで急上昇した。
国際高空迎撃センターの塔と、眼下に広がるワルプルギスの街並み。それを見下ろしたと思ったら、一気に急降下する。思わずしがみつくと、「苦しい」と文句を言われる。しかしそれでもそうしていなければ、振り落とされてしまいそうなのだ。ぎゅうっとトンランに身体を押し付けていると、安心する。一緒に飛んでいるという感覚が、とても心地好かった。
「星を追う者を差し置いて、言いますねぇ」
「勘弁してくれ。君にそれをやられたら、俺は間違いなく墜落死だ」
笑いながら地上に戻ってくると、まばらな拍手と歓声が上がった。ちょっとした余興だと思われたらしい。ぺこり、とサトミは頭を下げてみせた。フミオはこうして、「良く判ってないままに魔女のホウキに二人乗りしてしまうヤポニア人」の称号を得た。今後はトンランのホウキに乗せてもらっても、そこまで注目されることはないだろう。
当のトンランは、見事なまでの膨れっ面だった。何がそんなに気に食わないのか。トンランはフミオとの関係を、あれこれと誤解されるのが嫌だったのではなかったのか。どう声をかけて良いやら戸惑っていると、サトミが明るくトンランの肩を叩いた。
「サクラヅカさんはトンランと飛ぶ方が楽しいってさ。私だと加速した時に振り落とされそうだって」
「なっ」
そうは言っていないし、そこまでは言っていない。口を開けて固まっているフミオを尻目に、サトミはそっとトンランに耳打ちした。
「素直に、ね」
トンランはしばらく黙ってうつむいていた。それから「もうっ!」と一声吠えると、フミオの方を向いた。真っ赤になった顔は、怒っているのとは微妙に異なっていた。
フミオの手を、トンランが握ってきた。トンランの掌は温かくて、少し汗ばんでいる。緊張していたのだろうか。琥珀色の瞳には、フミオの姿だけが映っていた。
「判った。仲直り。ただし、いつでも気軽に私のホウキに乗るとか、それはなしだからね」
「了解だ」
その点については、フミオも反省していた。魔女にとって二人乗りは、特別な意味を持つ行為だ。フミオはトンランの好意に、すっかり甘えてしまっていた。新聞を購読するのはやめられないが、何か他のことで倹約を考えてみるつもりだった。
「賑やかにやっているみたいだな、防御士トンラン・マイ・リンに、フラガラハ隊サトミ・フジサキ候補生」
フミオの後ろから、落ち着いた女性の声がした。途端にトンランとサトミは素早く姿勢を正して、敬礼した。その姿勢のまま、微動だにしない。余程の高官がそこにいるのか。フミオは恐る恐る背後を振り返った。
「挨拶が遅れて済まない。ヤポニア新報の記者フミオ・サクラヅカ、ようこそワルプルギスへ」
そこにいたのは、国際高空迎撃センターの制服を着た、妙齢の魔女だった。肩の辺りで切り揃えられた金髪が、魔女帽子から伸びている。射すくめるような、鋭い碧眼。肩につけられた徽章は、フミオが今までに見たどれよりも立派なものだった。
それもそのはずだ。そこにいたのは――
「私は国際高空迎撃センターで迎撃司令官を務めている、ノエラ・ピケットだ」
国際高空迎撃センターの頂点に立つ人物。かつては星を追う者、ゲイボルグ隊の隊長であった魔女だ。
そして今はトンランやサトミを含めた、ここにいる魔女たちとそれ以外の全職員を統括し、隕石迎撃の責務をその背に負う、ワルプルギスの最高責任者だった。




