お嬢様とチョコミント
名門私立小学校の瀟洒な鉄門扉が大きく開かれた。揃いのセーラーカラーの制服を着て、揃いの黒いランドセルを背負った小学生たちが警備員に見守られながら出てくる。
一定以上の所得を得ている家の子息子女だけが通えるこの小学校では、誘拐対策として自家用車での送迎が当たり前なので校門の手前に高級ホテルにも引けをとらない車寄せが設置されている。
高級車の見本市のように並ぶ車の列に自らも車を停めた。ちなみに言っておくが、ここは日本だ。
そして善良な羊の皮を被った子どもたちの群れから待ち人を探す。
ああ、来たようだ。少しうつむきがちにひとりで歩いてくるのに気づく。
雇用主である橘財閥総帥の一人娘である叶お嬢様を集団の中から見つけることは実は難しいことではない。
叶お嬢様の明るい色のふわふわとした髪は日本人の集団の中で目を惹く。日焼けを知らないミルク色の肌にすんなり伸びた手脚と小さな顎のラインにさくらんぼ色の唇。まるで動くビスクドールのような美少女ぶりだ。
叶お嬢様は伏し目がちに下を向いたまま、お嬢様らしくなく大股で車に向かって歩いてくる。待機していた運転席から出て、後部座席のドアを開いて待つ。
叶お嬢様は無言でランドセルを押し付けると、下を向いたままドアの側に立ちつくしていた。何か学校で嫌なことがあったのかもしれない。そう察しながらも、気丈な彼女の気性をおもんばかり余計な老婆心を気取られないよう、そして他の駐車待ちの車のためにも車に乗っていただけるよう声をかけた。
叶お嬢様は下を向いたまま、吐き捨てるように言う。
「……黒のベンツの気分じゃないわ。赤いのがよかった」
お嬢様のわがままは今に始まったことではない。私としても一刻もはやく社に戻り、仕事に戻らねばならない。だがまあ、令嬢の送迎は本来の業務から外れるとはいえ、仕事のうちといえばそうなのだと諦める。総帥直々の命令なのだから。たとえそれが目の前の令嬢のわがままなお願いが発端だとしても。
彼女の母親、つまり総帥夫人とよく似た栗色の髪のちょこんと愛らしいつむじを見下ろしながら私は答えた。
「は、かしこまりました。では一度戻り、車を替えてまいりますので少々お待ちを」
「……嘘よ、乗るから。帰ります」
「かしこまりました」
しばらくの無言ののち、ふて腐れたように答え後部座席に収まった。ミルク色の頬がぷくっと膨れている。なんともチョロい。
笑いをかみ殺しながら後部座席のドアを慎重に閉めると、運転席に戻った。
車を走らせながら、バックミラーで後部座席を盗み見る。
叶お嬢様は制服姿に似合わないサングラスをかけていた。お嬢様の瞳は母親譲りの珍しい色をしていてとても美しいのだが、本人はそれをとても気にしておられる。
「学校は楽しかったですか」
前を向いたままで後部座席の叶お嬢様に問いかけた。
「……マサ」
私の問いには答えず、お嬢様が私の名を呼んだ。加納政孝というのが私の本名で、彼女のような年下の子どもに愛称で呼ばれるのは実は少し事情もあって抵抗があるのだが、はい、と答えて次の言葉を待つ。
「チョコミントのアイスクリームは食べたことある?」
「は? あ……はぁ、まあ人並みには」
こちらは庶民ですからと喉まで出かかるが言葉を飲み込む。
「そう」
気のないような相槌に本音が見え隠れしているとも知らず知らず、吹き出しそうになる。
「叶お嬢様は食べたことがありませんか?」
「必要がなかったから」
「食べたいんですか?」
「……マサが食べたいのなら付き合ってあげてもいいけど」
腕時計で時間を確認し、余裕がないことを知る。
「申し訳ありませんが、17時には社に戻らないといけませんので今日は……」
「そう」
明らかにがっかりしたような様子に申し訳なく思いながらも、お嬢様を乗せたままでコンビニに寄るわけにも行かず橘邸へと滑るように車を走らせた。
◆◆◆
叶お嬢様をお屋敷に送り届けた後、社に戻った。総帥に無事送り届けたことを伝えると、何が楽しいのかにやにやした笑みを向けられる。思わず怪訝な表情になってしまい、それがますます彼を喜ばせる結果となった。
「わがまま娘のお守りをさせて申し訳なかったね」
労る言葉の中に彼が面白がっている様子が伝わる。
「は、」
下校時の様子が少し気にかかったことと、チョコミントのことは伝えるべきだろうか。 だが、と思い直す。彼は娘のことは目にいれても痛くないほど溺愛しているが、過保護というわけではない。子ども同士のトラブルは子ども同士で解決しろと、一歩離れて見守るスタンスを貫いている。
グループ会社を含めて社員のことも同様だ。だか、報告だけは怠せない。なにがあってもだ。
つまり……チョコミントのことはさておき、下校時の様子だけ伝えることにした。
報告を聞いた彼はべつだん心配する様子もなく、そうか、とだけ言った。
「加納にはすまないが、しばらく叶の相手を頼む」
「それは……つまり、」
「ああ、登下校の送迎やらなんやら叶の気の済むまで相手してやってくれないか」
なぜ、どうしてという疑問と、橘邸へはなるべく近寄りたくないのにという戸惑いと、初恋の女性に会えるという喜びでごちゃ混ぜになる。
「その間は出勤扱いにしておくし、時間外勤務の手当もつけておく。こんなことを頼めるのは加納だけなんだ、すまない」
「いえ、もったいないお言葉ですが……」
秘書業務をしている社員のなかでも私の扱いは特例だった。他の皆は会社に雇用されているのに対し、私の雇用主は橘総帥、その人だからだ。
どうしてこんな複雑なことになっているかと言うと、私はもともと橘家の執事の息子として生をうけた。小さい頃からお屋敷で下働きをしながら学校に行かせてもらっていた。いずれ父の跡を継いで執事として橘家に骨を埋めることに何の疑問も抱かず、むしろそうなりたいと思っていた。政財界の方々の相手を勤めるからには相応の礼儀と知識がなくてはいけない。そう前総帥の考えで私は身分不相応な学校に通わせてもらっていたのだ。辛いことがなかったとは言わないが、嫌みもからかいも受け流すほど鍛えられたのは確かだ。
そして私が15の時、美羽様、つまり現橘総帥の妻と出会った。明るい色のふわふわとした髪、白い肌、榛色の瞳は日本人離れ、いやむしろ人間離れした美しさで天使が舞い降りたかと思った。
恋愛にうつつをぬかす気はなかったが、初恋だった。
一年先に私は卒業し、深窓の令嬢とは住む世界が違うのだからもう会うこともないだろうと思っていた矢先、彼女と再会した。橘家御曹司のこの男の花嫁として。
総帥の声が回想を掻き消す。
「叶のたっての“お願い”なんだ。」
お嬢様のわがままに付き合うだけの簡単な仕事だ。じくりと疼く傷に気が付かない振りをして了解した。もとより私に拒否権などないのだけれど。
◆◆◆
それがどうしてこうなった。
叶お嬢様は先ほどから酔っていらっしゃるようにくだをまいていた。もちろんアルコールなど飲ませてはいない。
お嬢様の前にあるのは炭酸飲料だ。今日は叶お嬢様の小学校の創立記念日でお休みであり、お守り役を任じられた私は、お嬢様のたっての希望で遊園地に来ていた。
「だいたいチェーン店のアイスクリームパーラーに行ったことがないくらいで世間知らずだって笑うのよ。その発想自体が貧困で相手に失礼だと思わないのかしら。」
その気になればアイスクリームを全種類買い占めるどころか、会社を買収できるお嬢様によくそんな中傷を言えたものだ。
叶お嬢様のミルク色の頬がぷっくりと膨れているのを眩しく微笑ましくみていると、ふいにお嬢様の手が伸ばされ細い指が目の横を撫でていった。
「……まだ残ってる」
私の右目横にはお嬢様が五つの時にナイフを振り回し、お嬢様に悪口雑言とともに斬りかかった暴漢からお守りした傷痕がある。計画性もなにもない通り魔のような事件はあっという間に終息された。不当に契約を破棄されたことで会社が倒産になったと逆恨みをした元取引先の役員の家族による犯行。
傷痕はお嬢様の心と私の右目横、そして社会的に抹殺されたあの会社だけに残った。
それからだ、お嬢様がご自分の『色』を忌まれるようになったのは。彼女と同じ『色』それを見られないのが少し残念だと思う自分に未練がましいと苦笑する。
後悔を滲ませたような表情の叶お嬢様ににこりと笑みを見せる。
「もうなんでもないんですよ。それよりお嬢様にお怪我がなくて良かったです。チョコミントのアイスクリームがあるようですよ。召し上がられますか?」
ワゴンのアイスクリーム店舗のメニューを遠くに見つけて話題を反らせた。
「チョコミントと、サワーチェリーも食べたいわ」
「はい」
「シナモンのチュロスも食べたい。揚げたてでなくてはダメよ」
「はい。聞いて参りましょう」
「カスタードとピンクグレープフルーツのクレープも捨てがたいわ」
「はい」
「まだお母様のことが忘れられない?」
「は……いえ」
「気づいていないとでも思った?」
叶お嬢様がサングラスを外し、色素の薄い瞳で見上げてくる。
「マサを傷物にしちゃったのは私だもの。私が責任取ってあげる」
傷物って……意味を分かっているのか、このお嬢様は。
ああ、ミルク色の肌が耳まで真っ赤だ。
二十も歳の差があるおっさん相手だ。気の迷いもいいところだが悪い気はしない。
「どう責任を取られるおつもりで?」
愉快な気分を隠せずにそう問いかければ、なにを想像したやらもっと真っ赤になって俯いてしまった。残念。
階段を三段降りたところで「お手をどうぞ」と手を差し出した。さすがに意地が悪いかと思ったのだが、叶お嬢様は手を繋ぐと、それを思い切り引いた。それくらいの力で私の姿勢が崩れるわけもないが、万が一お嬢様が怪我をされたらと思い、身体を支えようとしたところ、首に腕を回された。
チュッ
「マサのお嫁さんになってあげるから待っていなさい」
「はぁ……どのくらいお待ちすればいいんでしょうね」
本気ではない返事にお嬢様の頬が膨らむ。
「そんなに待たせないわ。ほんの四年よ」
確かに16になれば法律上ば問題ありませんがね。総帥が許しはしないでしょう。
「なによ、文句があるの?」
「いえ」
お嬢様をエスコートしながらワゴンまで歩く。私は決して少女趣味があるわけではない。なのに彼女と同じ色の少女を見ると心がざわつく。
少女期の四年は長い。いつまでもこんなおっさんを待つことなどないのだ。いや、待ってくれはしまい。
「お母様なんて忘れさせてあげる。覚悟してなさい」
少女らしい傲慢さに少しだけ救われる気がした。
「仕方がありませんね。お礼にバニラアイスにパイとリンゴの甘煮とはちみつトッピングのクレープをごちそうしますよ」
「チョコミントもね!」
「チョコミントとアップルパイクレープは合いませんよ」
無邪気なお嬢様に苦笑しつつ、チョコミントも単品で注文する。店員からアイスとクレープを受け取ったお嬢様は、チョコミントを私に差し出した。
「だってこれはマサの分でしょう?」
そういいながら私のかじったアイスを横からペロッと舐める。緑色の溶けたアイスにまみれた唇を桃色の舌が舐めとった。
「歯みがき粉みたいな味。マサのオススメのアップルパイクレープの方が好みだわ。でも、ふふっ」
お嬢様は上機嫌だ。私はこの続きを食べるかどうかと頭を抱えた。