押入れのアイツ
足の間をスルリと冷たい風が通り抜ける。最近の電車は座席の下からエアコンの風が出てくるのか……と感心して足元を見れば、なんのことは無い。半透明の猫だった。
俺の視線に気付いたのだろうか。前脚をペロペロと舐めて顔を洗っていた猫が、ふと顔を上げるとニャアと鳴いた。そして音も無く俺の膝に飛び乗り、窓から流れる景色を眺める。電車に棲んでいるデンシャ猫という奴だろうか。それとも何処か目的地があって旅しているタビ猫だろうか。猫の座った膝が、ひんやりと涼しい。
猫に別れを告げて電車を降りた途端に、夕暮れの風とは名ばかりの湿った空気が全身に纏わりつき、げんなりとする。溜息と共にネクタイを緩め、鞄を肩に掛け直す。鞄の底で、カランと小さくくぐもった音がした。
ボロアパートへ向かう緩やかな坂を登る。途中、コンビニに立ち寄り、冷たいビールとつまみになりそうなものを適当に見繕う。台所の棚の中の菓子類が少なくなっていたことをふと思い出し、しかしこちらは適当という訳にもいかず、新作の菓子などをそれなりに真剣に選んで炭酸類と共にカゴに放り込む。アイツの機嫌を取るのもこれで中々大変なのだ。
コンビニを出て再び坂を登る。荷物は増えたが、その重さの半分以上は冷えたビールと思えば足取りは軽い。ふと視線を感じて顔を上げると、電柱の陰から大きな犬がじっとこちらを見つめている。目が合うと、犬がハタハタと尻尾を振った。
無言で電柱に近付き、靴紐を結び直す振りをしてその半透明の頭を撫でてやる。しばらくすると気が済んだのか、犬は何事も無かったかのように坂を下って何処かへ行ってしまった。変に懐かれてアパートまで付いて来られたら面倒だと思っていたので、その素っ気無さに少しばかりほっとする。犬は嫌いではないが、アパートには大型犬を飼うような余分なスペースは無い。台所付き六畳一間は俺とアイツだけですでにかなり手狭なのだ。
ようやくアパートに辿り着き、玄関の前で鍵を探して鞄を弄っていると、ガチャリと隣の戸が開いて不健康そうな顔色の若い男が顔を覗かせた。
「あ、どうも」と男に向かって軽く頭を下げる。しかし男は俺と目が合った途端に隈の浮いた青白い顔を更に蒼ざめさせ、慌てて戸を閉めて中へ引っ込んでしまった。それを見て、あの男も永くはないな、と思う。死ぬと言う意味では無く、あの男もそろそろこのボロアパートから逃げ出すだろうという意味だ。正確には、俺の隣から逃げ出すということ。現に俺の階下の住人は一ヶ月以上前に引っ越して行った。次なる借り手はまだ見つかっていないようだ。
「ただいまぁ」
「……おかえり」
騒がしい銃声音の中、振り向きもせずに小さな背中が気の無い挨拶を返す。
「あ、それレベルアップしたんだ? 今どの辺?」
試しに尋ねてみたが、ピコピコと電子音を鳴らしつつ喰い入るように特大のモニターを見つめるアイツは返事もしない。気にしても仕方が無い。ゲームに夢中になると、アイツは周りが見えなくなるのだ。いつもの事だ。
肩を竦めて埃臭い服を着替え、顔を洗ってビールの缶を開ける。プシュッと良い音と共に溢れ出た泡を慌てて舐めていると、「ふう」と満足気な溜息を吐いてアイツが振り返った。その満面の笑みから察するに、上手くレベルクリアしたらしい。良い事だ。ゲームで負けたりすると酷く機嫌が悪くなって、相手をするのに疲れるのだ。
「この前テレビで見て食べたがってた菓子、買ってきたよ」
「お、気が利くじゃん。サンキュー」
生意気な口調の割には嬉しげに目を輝かせて、アイツはパタパタと軽い足音と共に台所へ走っていく。そして喉を鳴らして冷たいコーラを飲みつつ、新作のスナック菓子を口に放り込む。半透明の躰の中にゆっくりと消えてゆく炭酸の泡を眺めつつ、少し不思議に思う。あの泡は、一体何処へ消えてゆくのだろうか。
半透明の少年に初めて出逢ったのは、実家を出て一人暮らしをするために借りたアパートの押入れだった。子供の頃から慣れ親しんだ本もアルバムもポスターも無く、一切の過去から切り離されたようにガランとした部屋の押入れを開けたところに、その少年はいた。
薄茶色の瞳を不安気に瞬かせ、押入れの隅で膝を抱えた小さな姿が、窓から差し込む西陽に今にも消え入りそうに頼り無く揺らめく。それは不可解で、けれども不思議なほど綺麗で、そして何処か切ない光景だった。
最初の驚きが去った後に、試しに名前を尋ねたら分からないと答えた。その横顔が何だか酷く寂しそうだったので、「じゃあおまえ、今日から幽霊のユウタな」と命名してやった。
「なんだよそれ、テキトー過ぎ」などと言って口を尖らせつつ、アイツは満更でも無さそうに笑った。
「ユウタ、おまえさ、今日は一日中ゲームしてたのか?」
「うん? まぁね。でもジッとしてたら身体がナマルから、ちょっと壁サッカーやったけど」
菓子を頬張りつつ、ユウタがしれっとした顔で答える。
「おまえなぁ……」
隣の青年のノイローゼ気味な顔色を思い出し、思わず溜息を吐く。
「部屋の中でサッカーはしない約束だろう? 近所迷惑だし、古いアパートなんだから、そのうち壁が壊れるよ」
そもそも幽霊の身体がナマルなど、鈍る肉体そのものが無いのだから有り得ないだろうとも思ったが、それは言わないでおく。ユウタはこれで結構デリケートなのだ。肉体が無くて心が剥き出しな分、傷つきやすいのかも知れない。
「だけど先に壁ドンしてきたのはアッチなんだぜ? ゲームの音くらいで『ウルサイッ』とか叫んじゃってさぁ」
ユウタが不服気に頬を膨らませた。
「アイツ、大人のクセに大学にも仕事にも行かずに引きこもっちゃって、どっかオカシイんじゃね?」
誰もいない筈の部屋から笑い声がしたり繰り返し壁を叩く音がすれば、誰だっておかしくもなるだろう。ユウタはシラを切っているが、俺が居ない間に不審に思った大家が階下の住人と共に部屋に入ったらしい。誰もいない部屋で転がり続けるボールや勝手に点いたり消えたりする電球を見て、階下の住人は逃げるように引っ越していった。
大家の方はたまに出会うと何やら気味悪げな視線を向けてくるが、しかし俺の部屋の騒音やら怪奇現象やらについては素知らぬ顔を通している。中々に脂ぎった感のある爺さんだから、霊障付きの部屋を借りる物好きは他にはいないだろうと考え、損得勘定の結果、俺のことは放っておくことにしたに違いない。まぁこちらとしては有難い話だ。
♢
翌日の土曜日は、ユウタのリクエストで近所のビデオ屋で借りて来た映画を観た。それは恋人を残して死んだ男が幽霊になって自分を殺した相手を探そうとする話で、ユウタには少し精神年齢が高いような気がしたが、それでも本人が観たいと言うのだから別に反対する理由も無い。
「おまえってさ、彼女とかいないわけ?」
床に腹ばいになって映画を観ていたユウタが不意に尋ねた。
「なんだよ、いきなり」
「だってさ、おまえってけっこーいい歳だろ? シャカイジンなんだろ? なのに週末にボロアパートに引きこもってひとりで映画観てるとか、ヤバくね?」
ボーナスで買ってやった特大の液晶テレビから目を離さないまま、生意気な口調でユウタが口を尖らせる。
「普通の人間は食っていく為に、毎日嫌でも外に出なくちゃいけないからね。たまの休日には家でのんびりしたいんだよ」
「……俺に気を使ってんなら、その、別に遠慮することないからな」
「なんで俺がおまえに遠慮しなくちゃいけないんだよ? 居候の癖に」
笑いながらユウタの髪をクシャクシャと掻き混ぜてやる。指に絡まるユウタの髪はひんやりと冷たい。そして後頭部が赤黒く固まって、ゴワゴワしている。暇にまかせて度々櫛で梳いてやるのだが、ここの毛だけは直ぐにまたゴワゴワになってしまう。ユウタがうるさそうに頭を振ると、軽く俺を睨んだ。
「彼女や友達と遊びに行きたければ、勝手に行けばいいんだからな? 俺は外に出れないから……別に独りでテキトーにやってるし」
「残念ながら彼女なんていないよ。ちなみに友達もいない」
「は? なんだよそれ」
「子供の頃から人付き合いが苦手で、クラスでも浮いててさ。別に酷いイジメを受けてた訳じゃないんだけど、まぁ何て言うか、無視されてたんだよ。まるで誰の目にも映らず、そこに存在しないかのように」
ユウタの薄茶色の眼がたじろいだ様に揺らいだ。
「俺は子供の頃から普通の人の眼には映らないモノが視えた。人の中にうまく溶け込むことが出来ないのは、その所為もあるかも知れない。でも低学年の頃は完全に独りぼっちって訳じゃなくて、近所に幼馴染がいてさ。学校の裏山に秘密基地とか作って、よく遊んでたなぁ」
甘酸っぱいフルーツ味の飴のブリキ缶に、宝物だと思っていた様々なモノを入れて土に埋めた。あの当時は子供たちの間でタイムマシンなるモノが流行っていて、未来への自分への手紙なんかも飴の缶に入れて埋めた気がする。無垢で無知な少年達が書いた手紙は、微かに甘い香りの残るブリキ缶の中で、静かに朽ち果てたのだろうか。
「……そいつとは遊びに行かないワケ?」
目を伏せて、遠慮勝ちに尋ねるユウタに向かって静かに微笑みかけてやる。
「人は変わるんだよ」
成長するにつれて人の好みや興味の対象は変わる。生きている者は、永遠に同じではいられない。
「恨んでも仕方無い。去る者を追うことに意味なんて無い。でもそうやって諦めながら生き続けるのは、少し疲れるね」
生きた人間の相手は疲れる。そう言って笑う俺を見つめ、薄茶色の瞳が困ったように瞬いた。
♢
ユウタは時々さしたる理由もなく、酷く不機嫌になることがある。そんな時に下手な事を言えば焚火に放り込まれた爆竹のように荒れて、部屋中の物を滅茶苦茶に投げ散らかす。ポルターガイストってヤツだ。
さしたる理由もなく、とは言っても、ユウタの不機嫌にはユウタなりの理由があるのだろう。自分の本当の名も、親の顔も、生きてきた過去も知らぬままに、籠の鳥のように古いアパートの一室に囚われている。そしてその事に時々無性に苛つきを覚えるのは、人として自然な感情だろう。
出来ることならユウタを外に連れて出してやりたいと思うが、俺にも何故ユウタがこの部屋から出ることが出来ないのか解らない。この部屋の押入れには、ユウタを捉えておくモノなど何も無い筈なのに。
とにかく機嫌の悪い時のユウタは手が付けられない。宥めようもないので放っておくと、やがて押入れの中に引き籠って出て来なくなる。此の世の全てを拒絶するようにぴったりと閉じられた押入れの戸を、無理に開けようとするのは逆効果だ。別に引き籠ったままで構わないと言いたいところだが、これをやられると押入れの中の布団が人質になるので面倒なのだ。夏は床にゴロ寝すれば良いが、隙間風の吹くようなボロアパートでは流石に冬場はキツイ。更に我が家はユウタのお陰でアパート内の他の部屋より数度は室温が低い。だからそんな時、俺はユウタの気を引きそうな話題を探し、押入れに凭れて、まるで独り言のようにのんびりと話し続ける。
「ユウタがハマってる例のゲームの最新版、来週発売されるんだよな。予約待ちで凄いらしいんだけど、実は発売が決まった時に即座に予約しておいたから、直ぐに手に入る筈だよ」
押入れの戸はピクリとも動かない。
「そう言えばこの前さぁ、近所で犬を見たんだよな。シェパードかなんかの雑種だと思うんだけど、半透明の毛並みが見事で人懐っこくてさ。可愛かったなぁ。今度また見つけたら、連れて来ようか? 飼えるかどうかは分からないけど」
「……俺、デカイ犬は苦手だ」
ズズッと鼻をすする音と共に押入れの襖が細く開き、僅かに赤くなった鼻が覗いた。
「……仔犬は好きだけど」
「そうか。じゃあ今度、仔犬を見つけたら連れてくるよ。約束する」
押入れに凭れたまま、俺はにっこりと微笑んだ。
不思議なことに、仔犬の幽霊というモノは滅多に見掛けない。けれども俺は約束を守るだろう。ユウタが望むなら、陽の光に淡く透ける愛らしい仔犬を連れてこよう。
そう、たとえ仔犬を殺してでも、俺は約束を守る。
♢
今日は早目に仕事が終わった。久し振りにユウタの好物のカツカレーでも作ってやろうなどと考えつつ、足取りも軽く駅を降りて歩き出した矢先に激しい夕立に降られた。安物のスーツは雨に濡れると皺がいき、酷く染みになる。俺は急いで雨宿り出来そうな軒先に逃げ込んだ。
「お前さん……」
背後から掛けられた声に振り返ると、汚れた笠を被った着物姿の老人が驚いた様に大きく眼を見開き立ち尽くしていた。
「お、お前さんには浮かばれぬ霊が憑いておる。お前さんの影は黒く澱んでおる。このまま放っておけば、え、え、えらいことになるぞ」
「余計なお世話だよ、爺さん」
何事かと思えばくだらない。今までにもこういう事は何度もあった。実に不愉快だ。
「お、お前さんは事の重大さがわかっておらん! 何ならわしが祓って進ぜよう――」
焦って舌を縺れさせる老人に向かって鋭く舌打ちすると、枯れ木のように痩せた腕を振り払い、その白く濁った眼を睨みつけた。
「……アイツに手出ししたら、只じゃ置かないからな」
「ま、待て! 待たんか!」
何やら喚いている老人に背を向けて歩き出す。視界がけぶるような雨の中、不意にぐらりと足元が揺れた。老人に対する怒りの所為だろうか。手足が瘧に罹ったかのように震え、鞄の底でカランカランと乾いた音がする。
生温い雫が頬を滴り、首を濡らし、生き物のようにねっとりと背すじを這う。怒りを鎮めようと幾度も深呼吸を繰り返した。けれどもカラカラカラカラといつまでも止まない音が苛立ちを煽り、思考を奪う。
「ユウタッ」
全身から水を滴らせて玄関に駆け込んできた俺を見て、ユウタが驚きに眼を丸くした。
「なんだよおまえ、びしょ濡れじゃん?! どうしたんだよ?! うわ、ってかそのまま部屋に入ってくんなよ!」
文句を言いつつ、俺の為に慌てて風呂場にタオルを取りに行こうとしたユウタの腕を掴む。
「ちょ、放せよ! 床がびしょ濡れになるだろーが!」
暴れるユウタの腕をギリギリと音がしそうな程に握り締める。けれども俺がどんなに力を入れようと、ユウタは痛みを感じない。
ふと思う。悲しみや切なさで胸が痛むと人が言う時、あの細い針が突き刺さるような鋭い痛みは、息が詰まるような苦しさは、あれは肉体が在って故のものなのだろうか。
ユウタの腕を掴む指先がひんやりと冷たい。けれども俺に掴まれたこの細い腕が、俺の体温を感じることは無い。
♢
最近、夕暮れになるとユウタはよく窓辺に座って外を眺めている。カランカランと鞄を鳴らしながら帰ってくる俺を待っているのかと思ったが、どうもそうではないらしい。
「何を見ているんだ?」と何気無い風を装って尋ねると、ユウタは俺から目を逸らして僅かに口籠った。
「……幼稚園くらいの子供なんだけど」
「ふうん。男の子? 女の子?」
「……オトコだけど」
その少年の何がそんなに気になるのかと不思議に思っていると、ユウタが不意に頬を赤らめた。
「それでさ、ソイツ、多分俺のことが視えるんだ」
「……どうしてそう思うんだ?」
「だって、目が合ったんだ。そしたらソイツ、ニコッて笑って、手を振ったんだ!」
抑えきれない興奮に声を高めるユウタの姿に、胸の内にひんやりとした風が吹く。
「……その子とは、何度くらい会っているんだい?」
「何度って、見掛けたのは二度だけだけど……」
「そうか」
幼い子供の中には死んだ者を視る力を持つ者が多い。別にその少年が特別な何かを持っている訳では無い。じりじりと焦りのような何かが胸を焼くのを堪え、にっこりと笑って頷いてやる。誰かに気づいて貰えて良かったなとか、友達になれるといいなとか、何かそんな適当なことを言おうとした時だった。
「ほら! あれ! あの子だよ!」
まるでユウタの声が聞こえたかのように、道を行く一人の少年が振り返り、二階の窓を仰ぎ見た。幼稚園の制服だろうか。黄色いひよこに似た帽子の下で、丸い瞳がユウタを見つけて益々丸くなる。実に楽しげに飛び跳ねながらユウタに向かって手を振る少年に、ユウタが満面の笑みを返す。
「マァくーん」と遠くで誰かの声がした。少年が慌てて辺りを見回す。
「マァくーん」と再び呼ばれ、少年がパッと目を輝かせた。
「おかあさん!」
白いカーディガンを羽織った女性に、少年が駆け寄る。少年を抱きとめ、中腰になった母親に少年が何事か囁く。と、母親がふと顔を上げてアパートの窓を見上げた。
けれども彼女の眼には、風に揺れるカーテンの陰から自分達を見つめるユウタの姿は映らなかったのだろう。僅かに首を傾げると、母親は少年に向かって何か言い、その手を引いて歩き出した。少年は残念そうに一度だけ窓を振り返ったが、母親に再び何か言われると、慌ててその後を追って駆け出した。
「……ユウタ」
手を繋いで歩み去る親子の後ろ姿を、ユウタの薄茶色の瞳がいつまでも追う。
「……ユウタ、おまえ、寂しいのか……?」
ユウタの眼がすうっと色を失った。
「嬉しいとか、悲しいとか、寂しいとか……きっと俺たちのような存在は、感じる心が無くなったら消えていくんだと思う」
全ての感情を押し殺したかのように、ユウタが淡々と答える。
「……この世界から、消えることが怖いか?」
「今はまだ怖い。でもそれを怖いと思わなくなったら、次の世界に行けるのかも知れない」
「……俺は、おまえにいなくなって欲しくない。我儘かも知れないけれど、でも俺はこれからも、おまえとゲームをしたり、映画を観たりしたいんだ」
ユウタが少し驚いたように眼を瞠り、俺を振り返った。
窓から吹き込む夕風に、きゃはははは、と子供達の笑い声が響く。
ゆ〜びき〜りげんまんうそついたらはりせんぼんの〜ます
ゆ〜びきった
指切った、と子供達が歌ったところで、ユウタがふと視線を落として自分の右手を見つめた。半透明のその右手は、小指が欠けている。
「たぶんなんだけど……俺、誰かと約束したんだ。指切りげんまんってさ」
……そう。おまえは約束した。そして約束を破った。
ユウタが空へ向かって小指の欠けた手を伸ばす。半透明の指先が沈む夕陽に紅く染まり、それはまるで血が滴るように美しい。
「たいした約束じゃなかったんだよ。明日も遊ぼうとか、そんな感じの普通でクダラナイことでさ」
確かにおまえにとってはくだらない事だったのだろう。でも俺には大切な約束だった。だから約束を破ったおまえを、俺とはもう遊ばないと、幽霊が視えるなどと嘘を吐く奴は友達ではないと言ったおまえの背中を、俺は両手で突いた。
「自分が死んだ時のこと、思い出せそうか?」と優しく訊ねてやると、ユウタは少し困った顔で首を傾げた。
「ハッキリとは覚えてないんだけど……でも最近、少しづつ何かを思い出せそうなんだ。なんかね、ぼんやりと曇った映像が浮かぶんだよ。俺は地面に仰向けに倒れていて、動けなくて、土が冷たくて、怖いよりもただびっくりしてて……そんな俺を誰かが見下ろしているんだ」
今でもはっきりと覚えている。耳から血を流し、焦点の合わない薄茶色の瞳がゆらゆらと揺れる。やがて忍び寄る宵闇にその眼が虚ろになり、何も映さなくなるまで、俺はおまえを見つめ続けた。
「頭がいたい」
眉間に皺を寄せてユウタが訴える。
「俺はどこから来たんだろう。どうしてここにいるんだろう。俺の小指はどこにいっちゃったんだろう。そしてアレは、誰だったんだろう」
「無理に考えることないさ」
苦しそうに顔を歪ませるユウタの肩にそっと腕を回す。質感の無いその細い肩は、指先にひんやりと冷たい。
「おまえが誰だろうと、俺は気にしない。おまえの気が済むまで、ずっと俺の側にいればいい」
だって俺たち友達だもんな、と囁くと、ユウタは僅かに視線を揺らめかせ、やがて小さくコクンと頷いた。
このアパートに引っ越してからもうすぐ一年になる。そろそろ潮時か。
明日にでも新しいアパートを探しに行こう。ユウタの事は心配いらない。俺がいつ何処へ引っ越そうと、あいつは必ず俺について来る。引越し先の押入れを開ければ、あいつは必ずそこにいる。そして膝を抱えて座り込み、ぽかんとした顔で俺を見上げるのだろう。不安気に淡い薄茶色の瞳を揺らめかせながら。今までずっとそうだったように。これからもずっとそうであるように。
俺が引っ越す度に、あいつは記憶を喪い、そして全ては一から始まる。
鞄の底に隠された錆びたドロップ飴の缶の中で、小さな白い欠片がカラカラと鳴る。これが俺の手元にある限り、きっとあいつが俺から離れることは無いのだろう。
こうして、繰り返し、繰り返し、俺たちは友情を育み続ける。
「ずっと友達だよ」と指切りをしたこの小指を愛しみ、永遠に、唯ひたすらに、此の世に心というモノが在り続ける限り――
(END)