04話/「『こすぷれ』とはどういう意味かね?」
諸事情で時間があきました、すみません。
さて、使い魔は相変わらず、客人たちの対応に追われています。
――09月18日(土曜日)/座標軸:風見ナミ
須田タツヤ、25歳。1児の父である。
魔力持ちの男性らしく、女性遍歴は実に豊か。そして誰が呼んだか。彼のあだ名は「中野町の種馬」である。但し、判明している子種は、今のところ、彼がその小さな手を握っている5歳の姫魔女1人である。ただ、ひょっとすると、それ以外にも彼の知らないところで子どもがいる可能性は否定できない。
その「中野町の種馬」は、この世でただ一人、神矢レイジをとんでもないあだ名で呼んでいる。
「三十路童貞」と。
そもそも、2人の出会い方もまた拙かったのだ。そのことを、ナミははっきりと思い出す。
拳道の道場で、ナミがこっそりと魔力で自分の使い魔に加担して、2人に立会をさせたというのがその2人の初日のこと。神聖なる道場で、魔力を使って拳道の試合を左右するとは言語道断、と彼は魔力持ちというよりも武道者らしく筋を通した考え方でもって、真摯に怒りをぶつけてきた。
怒ったついでに、彼が抱いた神矢レイジへの第一印象がそのまま口に出た。それが、「三十路童貞」である。
それが神矢レイジにおける事実かどうかは、ナミにはよく分からない。ぶっちゃけ、大した関心は無い。所詮は他人事だ。他人の過去にも下半身事情にも首を突っ込む真似はしないししたくも無い。ただ、その下品な物言いに、感心はしないが。
そんなことで、女性に対してある種のだらしなさを持つ須田兄ィからすると、もうすぐ三十路がちらつくレイジのカタブツぶりは、童貞並みなのだろう、きっと。そう、彼女は判断しているのだが。
「あ、ごめん、客人がいたんだっけ」
「……」
「……」
「……」
「……」
どうやら、そのあだ名はしっかりと、2人の先客の耳にも届いてしまったらしい。
恐らく彼は、客人はナミの客であって、大方2階にいるものと思い、それで声を掛けたのだろう。まさか、うら若き女子高生というナミの客を、この堅物の使い魔がもてなしているとは想像すらしなかったに違いない。
但し。ナミにとって不幸中の幸いだったのは、「三十路」「童貞」よりも、より知られては拙いことになる「使い魔」という役職で彼が呼ばれなかったことに尽きる。須田兄ィは、レイジに対してよくそっちの呼称も口にするのだから。
「ど……あ、いや、なあ、三十路!」
とりあえず、須田兄ィが空気を呼んで、言い直してくれる。だが、それもあまり嬉しくは無い。
絶対に触れたくない汚物を見るような目の色で、レイジが兄ィを睨みつけている。
「タツー、どうしたの? どうして、『どうてい』はおこってるのー?」
きょとん、とした顔で、傍らの5歳児がダメ押しをしてくれた。
基本、須田兄ィは、下品でガサツで口が悪くて尚且つ魔女相手だと女癖が大変悪いという、子育て環境にはあまり向かない人格の持ち主ではあるのだが、しかし最低限空気を読むこと、その場の人びとの気持ちを和ませたり気分を高揚させたりといったことに関してはそこそこの采配を振るうことのできる人物ではあった。
しかし、ミドリはその空気に気がつく程の年齢には達していない。
「ミドリ、すまねえ。今日一日だけでいい。アイツのことはその名で呼んじゃいけねえ。そうだ……『三十路』でどうかな、って……」
「種馬。それも断る」
いつの間にか、ミドリに向かって屈んでいた須田兄ィの真後ろに、拳道の試合前と変わらない、殺気一歩手前の威圧感を漂わせて、ナミの使い魔が立ち位置を獲得していた。
「ワタシの和名通称は『神矢レイジ』だ。それ以外の呼称は、許さん」
「いや、だけどよ、童……いや、ミソ……いや……」
「ねー、タツー。ミソって、おみそしるのことー?」
須田兄ィの目が泳ぐ。普通に拳道の腕前だけで言えば、勿論師範手伝いをするくらいなのだから須田兄ィの方が実力は上なのだが、しかし今のレイジの怒りっぷりからすると、恐らく負ける。確実に負ける。それは、傍で見ているナミにも理解のできるほどの、圧倒的な威圧力の違いだった。
しかし、その威圧感の違い、その空気など、5歳児という小さな魔力持ちには何らの意味ももたらさなかったらしい。
「ミドリちゃん」
おっさん連中のやり取りは無視して、ナミは子どものフォローにかかることにした。
「前から言ってるでしょ。魔力無しだからって、莫迦にしていてはだめよ。だから、ウチの……神矢レイジは、ちゃんと『神矢さん』とか『レイジさん』とか『お兄ちゃん』とか呼んであげないと……拗ねるわよ」
「拗ねるの?」
「拗ねるんだ」
後ろで、先客の少女たちから小さくハモって声が出る。
「でもね、青のねーさま。あの、『神矢さん』だと、おししょうさまとおんなじになっちゃうでしょ」
ミドリがその苗字で意識したのは、拳道の道場の師範、神矢老師のことだったらしい。
「じゃあ、『レイジさん』とか『レイジお兄さん』は?」
「うーん、イマイチだなぁ」
ナミの後ろで2人の先客が笑いを堪えている、その空気が伝わって来る。真上近くで睨み合っている長身の2人の存在は敢えて無視して、彼女は続けた。
「でも、さっきの呼び方はもうやめてね。ミドリちゃん。お願いできるかな?」
「そうだー。ねえさま。『ミソお兄さん』はどうかなー?」
へん? と真剣に訊いてくる子どもの顔は愛らしく、その瞳の純真さには胸を打たれんばかりなのだが。ミソ、とは勿論「三十路」の略だということは、ナミにも見当がつくことだ。
「ミドリ、すまない、それも止めて貰えないだろうか」
真上から、ナミの使い魔の低く、しかし硬い拒否の念を込めた声が飛んでくる。
「えー?」
しかしここで、普段通り「つかいまー」などと言われては大変である。ナミは、覚悟を決める。
「レイジ、それで妥協しなさい!」
そう、命じていた。
――座標軸:風見ナミ
それは結局、主たる魔女から従たる使い魔への、「命令」のかたちをとってしまったらしい。
思いっきり不満に満ちた男の顔が、ナミを見下ろしていた。しかしどうやらこの場はそれで収まったようである。
恐らくは、使い魔に位置付けられている存在として、ナミの魔力が行使された以上、その命令に反する道を持たないからだろう。彼から、次の声は出なかった。
一方のミドリはというと、自分が命名したばかりの「ミソお兄さん」の名前を思いの外気に入ったらしく、ルンルンと歌うようにしてソファに収まっている。そして父親たる須田兄ィもまた、娘に従って、彼のことを「三十路」と呼ぶ始末である。
「須田、いい加減にしろ。ワタシはまだ28歳だ。三十路まで1年半もある」
彼もまた、日常的な呼称である「種馬」遣いは控えたようである。
「ターコ! ちょっとくらい年上だからって威張るなジジイ。悔しかったら、子ども産んでみろー」
「種馬、ミドリは貴様が産んだのではないだろう。その出生は、貴様のかつての細君の命がけの行為ではないか。他人の努力を自分の手柄として言い立てるのは見苦しいぞ!」
先客2人は、どうしたものかと顔を見合わせている。先程まで滔々と時代劇への愛を暑苦しく語っていた風見家の新しい下宿人の応援をすべきか、それとも新たに闖入したチャラくて若い父親に加担すべきか。
もちろん、それを遠巻きにしてオモロイ見物とばかりに見物しているのが、一番楽で面白い。だから2人は、遠慮無くその立ち位置に収まることにしたようだ。
だが。この家の、年若いとはいえ主でもある風見ナミはそれを放置するわけにはいかない。何と言っても、この見苦しい喧嘩は、同席する5歳児の情操教育にあまりいい影響があるとは思えない。
既に2人の客人と、須田家の2人との挨拶は住んでいる。だがしかしその間も、男2人のやりとりは女性陣を無視してヒートアップしていた。
もういっそ拳を出すか、あるいは魔力を通して制裁しまおうかとナミが思った瞬間。彼女の視界の隅に、カヤの手にしているバスケットボールに釘づけになっているミドリの姿が入った。それに気づいたのかどうか、カヤが、ボールを独楽のようにして綺麗にクルクルと回し始めた。
思ったよりも、長い。そして綺麗なボールさばきである。
「わー」
単純に、面白かったのだろう。ミドリが心底嬉しそうに声を上げる。
「へへん!」
回した側のカヤもまた、嬉しそうに、クルクルとボールの長回しの更なる延長に入る。
「おねーさん、じょうずー」
「そりゃあバスケ部だもん」
「バスケ、するのー?」
「うん、ミドリちゃんも、する?」
「したいー!」
子どもの澄んだ声が響く。そこで初めて、莫迦な年長者2人の罵り合いの声が止んだ。
「ええっと……カヤちゃんねーさん。バスケってどうやるのー?」
「見たこと無いか、ミドリちゃんは」
隣で優しく助け舟を出すのは、サエである。
「ない」
きっぱりと、子どもは言い切る。
「テレビとかは?」
「テレビはねー、アニメとかー、うたばんぐみとかー、ドラマとかー」
「まあ、そうだよね」
「アニメは、『にゃんこロイド』みるよー」
「ああ、『にゃんこロイド』ね!」
サエの方が、その番組を知っていたようだ。
「サエちゃんねーさんは、『にゃんこロイド』しってるんだ。すきー?」
「うん、好きよ、結構。子ども向けと言っても侮れない面白さだよ、あれは」
「あ、私もたまに見るけど。朝の5分番組だよね。ダンスが巧みな」
ナミを除く3人が、ようやく発掘した共通の話題を転がして行く。その様子に、男2人は恥ずかしくなったのだろう。声を立てることなく、いつの間にか、そっと静かにソファに腰を下ろしていた。
「『にゃんこロイド』のダンスの振り付けはねー、オレンジャーのダンスの先生と一緒なんだよ。ミドリちゃん、オレンジャー系とか見る?」
「うん、たまにー。あのね、『テトラ・ポッター』とか、『ソング・レボリューション』とか、かあさまはすきよ」
「おう! ミドリちゃんのお母さん、趣味いいじゃん! 『テトラ・ポッター』、すっごくいいわよ、うん! 私、リョージ君が好きなの。大好き!」
案の定、カヤが急にノリノリで話を転がして行く。瞳は少し瞳孔が広がっていて、ちょっぴり怖い。しかし流石に5歳児相手であれば、先程のような話にはならないだろう。希望的観測を込めて、ナミは2人を見る。
それに、母親を褒められたミドリは、素直に嬉しそうだ。
「そうそう、今ね、その話でこっちの神矢のお兄さんと盛り上がっていてねー」
「えー、ミソお兄ちゃんも『テトラ・ポッター』のすきなひとなのー?」
「ううん、神矢さんが好きなのは、残念ながら『犬侍』の方よね」
「『イヌザムライ』はねー、ときどき、お兄ちゃんのヒトがみてる」
「お兄ちゃんのヒト」? ナミは、ミドリから少しだけ小声で囁かれたそのことばに不安を抱くが、客人2人はさして不思議と思わずにその先を続けていた。
「あれ、ミドリちゃん、お兄さんもいるの?」
「うん。かあさまがよくつれてくるのー。でもね、どのお兄さんも、アタシにはつめたいよー。かあさまにしかキスしないし、かあさまのおちちしかもまないの」
……今度は、その場にいた、「子ども」以外の全員が、ことばに詰まる番だった。
――座標軸:風見ナミ
ミドリの家庭環境がいかに危ういか、そしてどうして須田のようなチャラチャラとした阿呆な父親でも引き取り手としてましなのかということを、初めての対面となるカヤ、サエでも早速理解したらしい。
サエは慌てて話題を『にゃんこロイド』や『テトラ・ポッター』に戻して、子どもの話を逸らす。
空気を読むなどという概念を持たない傍若無人な児童のミドリは、その誘導にあっさり任せて、すぐに2人で『にゃんこロイド』の歌を歌い始めた。その簡単な旋律はナミの初めて聞く歌であるが、解り易くて朗らかなものだ。
「で、『にゃんこロイド』のダンスはねー」
ナミにバスケットボールをパスして寄越すと、カヤが立ち上がって、すぐに『にゃんこロイド体操』なるものを始めた。
体操とはいっても、カヤが言う通り、殆どダンスと同じ動きである。意外と運動量があり、しかも案外カッコいい。
ナミのような武道ではなく、球技に長年親しんでいるからだろう。カヤの身体の動きも巧みで、その動きに釣られてすぐにミドリも立ち上がり、手足を振り始める。狭い室内いっぱいを使って動く2人は、楽しげだ。サエの美声にも救われている。
「部屋はちょっと狭いから、天気もいいし外で遊ぼうか。ボールもあるし、ダンスの続きもいいし。あと、薬草あるわよ、薬草」
きりもいいとばかりに、ナミは庭へと皆を誘う。
ナミは、魔女の嗜みとして、小さな庭に畳一畳ほどの薬草菜園を持っている。
薬草栽培は、多くの魔女、魔力持ちにとって、野草摘みと並ぶ、ごく日常的な習慣の一つだ。だからナミのこの嗜みも、魔女、魔力持ちとしては平凡かつ標準的な在り方だともいえる。
魔女であるにもかかわらず、母親の影響なのか、ミドリはあまり薬草に興味を持っていない。庭を持たない団地住まいの須田夫婦ですら、春秋には当たり前に野山への薬草摘みに行く。だがそういった経験も、この子の場合、殆ど無いらしい。
この様子では、このまま子どもはダンスをつづけるか、あるいはボールで遊ぶか追いかけっこか、といったことになるだろう。
この家に遊びに来る度、何度水を向けても、この子は薬草になかなか興味を示さない。流れ者気質の強い母親の影響なのだろう。そう、ナミは思っているのだが。
そこまで思って、彼女は思考を今の状況をどう転がすべきかへと、意識し直す。
「須田兄ィは、後でいいから、2人の女性陣に腕を揮って美味しいコーヒー淹れてあげて。豆はあるから。あと、レイジは急いでお菓子買ってきて。自分の食べちゃった分。急いで。自転車で、はい!」
いがみ合うだけで子どもを放り出していた成人男性2人にそれぞれ役職を言いつけると、ナミは庭へと降りて行った。先に降りた少女2人と子どもは、既にバスケットボールを小さく放って遊んでいる。
「つーかさ、兄ィも、早くミドリちゃん、引き取っちゃいなさいよ。完全に」
すぐ後ろにいるであろう須田兄ィの気配に、ナミはキツい声色でことばを投げる。
「うんにゃ、面目ねえ」
「今、ミドリちゃんの……ベリッシマさんのところに何人男が通ってるのか知らないけど。一人でも、『おかーちゃんの乳』じゃなくて、子どもの乳、揉んでくる奴が出たら、どーすんのよ。あんた、父親でしょ!」
「ああ、解ってるんだ。解っちゃいるんだけどよ」
「けどよ、じゃないの! ミドリちゃんに何かあったら、どうする気?」
「いや……そりゃサクッと相手殺しに行くよ」
「そういうことは、先にやっとくべきことをやってから言いなさい!」
9は年上の男魔女に、しかし彼女は本気で声を荒げる。
15の誕生日を迎えた日から、ナミもまた魔女文化圏では「半成人」として認められているのだ。彼女と須田兄ィは歳の差に関係なく、魔力持ち同士としては対等の関係である。少なくとも、魔女、魔力持ちの文化的基準としてはそう見做す。
「少なくとも今晩は、きちんと中野町に泊めなさい。ハルカさんだって、そのくらい解ってるでしょ。できるでしょ」
現在の連れ合いの名前を出して、ナミは尚も若い父親を諌めた。
「ああ……面目ねぇ」
「ハルカさんには、わたしからもメールしとくから」
本気で、背の高い若い父親がしょげている。いつも飄々とした表情を崩さない兄ィとしては珍しい。先程、レイジを怒らせ、からかっていたときですら、本気の顔では無かったというのに。
「ターツー!」
ミドリが、無邪気に父親を呼んでいる。
「おう、ボールか。いいねえ」
彼はしかし、その顔色を子どもには向けることは無い。すぐさまいつもの陽気な表情に戻ると、子どもと、その相手をしてくれている2人の女子高生に手を振って近づいて行った。
ふと見下ろすと、南の斜面からその先に、遠く西乃市の市街地が見える。そのずっと先には、海も。ああ、海、行きたいな。一瞬だけそう思った気持ちを思考回路から締め出して、彼女もまた同じ方向へと歩きだした。
ボール遊びに興じ、更に狭いながらも人数の多さを活かして鬼ごっこのような追いかけっこをしていると、ナミに使い魔からの念が届く。
――菓子は買った。須田たちは泊りそうか。時間があればもう少し夕食用の食物を買って帰るが――
――時間はまだ大丈夫。お願いしていい? 泊るかどかは不明だけど。そうだ……――
――なんだ、ナミ? ――
――ミドリちゃんに、何か柑橘類、買ってきて――
――ああ、その子はその手の食料が好きだったな。了解だ。あとはいいか?――
――ええ。時間を優先して――
――把握した。over――
「おら、ぼんやりしてるんじゃないよ、カザミン!」
念話へ気持ちを割いていたその隙に、カヤがナミにボディタッチしている。足の速さが同じくらいだった彼女に追いつかれるとは。少し悔しいが、けれども魔力無しの彼女たちに使い魔とのやりとりのことを洩らすわけにはいかない。曖昧に笑って、ナミは再び遊びに意識を戻す。
それから暫く狭い庭を走り回った後、疲れた子どもに倣って、皆が風見の庭に尻をついて座り込む。お洒落着の筈のミニスカートのサエも、それを気にする様子は無い。きっと、高校でお洒落に目覚めた彼女には大量の服があるに違いない。いちいち構わずに済むのだろうと、ナミはぼんやりと推理する。
その後、子どもに薬草園、というほど立派ではないが薬草畑の観察に水を向けてやんわりと断れたり、カヤがバスケのボールを使って模範演技を見せたり、そのバスケの相棒としてナミが引っ張り出されたり、その2人のパスを須田兄ィが邪魔しようと割って入るがカヤのパスの的確さとナミの移動の速さについていけずにいたり、といったようにして狭い庭をいっぱいに使って遊び続ける。
またも、念が飛んでくる。彼が、帰宅の途についたという簡単な報告だ。
「そろそろレイジ、帰って来るかな」
それを念だと気づかれないよう、ナミは多少わざとらしいと思いつつも携帯で現在時間を確認しながら、独り言のように呟いた。
「お、言っているそばから戻ってきたね、神矢さん」
ナミのことばを受けて、風見の家の小さな門へと視線を向けたサエが呟いた。
一方、「おう!」とまるで男の子の呻き声のような声を出しつつそれに反応したカヤが、いの一番に軽やかに立ち上がる。ナミも、彼の自転車の籠の荷物を見て、すぐに立ち上がり自転車の方へと向かった。
意外なことに、既に立ち上がっていたカヤもついてくる。他の3人は疲れたまま芝生に座っているというのに。
「神矢さん、おかえりなさい」
「レイジ、ありがとう。悪いわね、使っちゃって」
「ただいま、ナミ、客人」
一番に声をかけたのも、カヤである。どういった心境なのかは判らないが、今日の彼女は積極的だ。手にしたバスケットボールを軽やかに操りながら、買い物の確認をしている風見の2人をしげしげと眺めている。だが、ことばは無い。
カヤがいるものの、それを半ば無視するように、ナミがレイジと買い物の収納とこれから客人たちに振舞うお茶の段取りを話し続けた。そして、カヤがその会話の丁度終わりといったタイミングで口を開いた。
「神矢さん。あの……」
声をかけた相手は、友人のナミではなく、彼女の使い魔であった。ナミは声を返さずに顔だけを向け、レイジは軽く「はい?」と疑問形を匂わす尻上がりのイントネーションで返事を返す。
「改めて聞きますが、神矢さんは『テトラ・ポッター』はお好きでもないみたいだし、別に興味も無いんですよね?」
どうしてここで、この話題か。ナミは多少げんなりした表情を浮かべて、どうこの友人を往なそうかと思い、そこでふと、思い当たる。
「そういえば。カヤちゃんが今日、いきなりウチに来たのって、まさか……」
「ああ、ごめん、カザミン」
「いや、謝られても。ただなんとなく、想像はつく。サキから言われたんでしょ?」
というか、恐らくは、葉山サキが話題にしていた、彼女の当たったという『犬侍』挿入歌のプロモの撮影会、それの参加の権利について、だろう。
「うん。そう。カザミンもサキちゃんから聞いてるんでしょ? 『テトラ・ポッター』のプロモ撮影の話」
……成程。カヤちゃんにとっては、あくまであの当選は『テトラ・ポッター』のプロモ撮影会である、という位置づけなのだろう。
「客人、ワタシはその話は全く知らないのだが」
「ああ、そうか」
何を理解したのか、カヤがどこか意地悪気にニヤニヤと、口を挟んだレイジを見上げている。
「いや、カザミンの知り合いに『犬侍』の好きなおっさんがいるから、私か、そのおっさんか、どちらかに撮影会の参加のチケットを渡そうかと思ってるんだけど、って」
「客人、済まないが、ワタシはまだ『オッサン』ではない。そこは訂正して貰おうか」
「あ、ごめんなさい、神矢さん」
カヤは素直に謝る。しかし、彼はまだ憮然とした表情のままである。
「で、おっさ……おじさ、じゃなかった、神矢さんと私っていう組み合わせで招待もありかもって、葉山サキちゃんが打診してきたんですよ。でも、私はどうせならサエちゃんかカザミンか、あるいはサキちゃん本人か、でなけりゃ今の学校の友だちと一緒に行きたいなーって思うわけなんで。今のバスケ部の仲間にもクラスメートの子にも、オレンジャー系の好きな子は何人もいるし。モチ、リョージ君をここまで愛し抜いているのは私がイチバンですけどね!」
高校が離れ離れになってしまった仲良しのサエとの交流の機会か、あるいは別の学校とはいえそこそこの仲のいいサキとの遊びの機会か、更にはファン仲間でもある学校の友だちとの同行か。その選択肢は、女子高生としては標準的な思考だろう。
「……まあ、大体そういうものよね」
ナミはカヤちゃんの言い分に理解を示して返事を返すが、彼女の使い魔は不満気な表情だ。
「でも。サキちゃんがそれだけ言うってことはさ。ひょっとしてこのおじさんと私ってコンビで参観可能かもってサキちゃんが考えたってことでしょ」
「客人。度々済まんが、『オジサン』呼称もやめていただこうか」
「あ、すみません、神矢さん」
まあまあレイジ、抑えて。ナミがそう彼に穏やかな声をかけようとするその間も無く、カヤちゃんは爽やかな口調でその先を続ける。
「で、一度、どんな人かカザミンから話を聞いてから考えてもいいかな~なんて思って、カザミン家に来たんだけどさー。まさか、その人が、カザミンの遠縁のお兄さんだなんて思ってもいなかったし、一緒に住んでるだなんて、もっと思ってもみなかったよ、私ゃ」
「へ?」
今度は、ナミが間抜けな声を上げる番であった。
……なんということは無い。カヤ、サエの2人は、神矢レイジがここに住んでいるとは思わずに突撃してきた、ということらしい。
となると。ナミのやり方、立ち回りさえもう少し冷静であれば、家に使い魔を置いているという事情の情報開示を、この2人の友人にせずに済んだ可能性もあったわけである。
その事情を飲み込めたからだろう。彼が、いつものようにナミの左に立って、ただ黙って、彼女を見下ろしている。「またドジを踏んで、この娘は」といったどこか呆れた、生温かい眼差しで。
「で、おじ……神矢さん、どうします? 『テトラ・ポッター』のプロモ撮影は、私、絶対に行きたいんです」
「その撮影会とやらは、『犬侍』とはどの程度関係があるのかね、客人。もう一度、説明を頼めるだろうか」
気がつくと、自転車の前で長いこと立ち話をしていたからであろう。サエはもとり、須田兄ィとミドリも、こちらへとやって来ていた。
「ええとですね、つまりは『犬侍』シーズン6の劇中歌のときに流れるフィルムの撮影なんですよ。エキストラがお女中や町娘や侍や殿様にコスプレして、歌っている『テトラ・ポッター』を盛り上げる、みたいな感じだって。サキちゃんはそう言ってました」
「客人、『こすぷれ』とはどういう意味かね?」
「おう、三十路。まあそれは、仮装だな」
「仮装……? あと種馬、三十路は止めろとさっきも言っただろうが」
「まーいいじゃんかよー。アッチのあだ名よりかはましだろ」
一瞬、その場の空気が凍りかける。ナミは思わず須田兄ィを睨み上げる。
「ちょっと! 子どもの前、それにうら若き乙女が3人もいる前で、そういう下品なこと、言わない!」
「タツー、おこられてるよ。青のねえさまに」
反抗期も若干入っているのか、須田兄ィの右手を握ったままのミドリがナミの反論を嬉しそうに囃し立てる。
「ミドリは黙っとけ。そんで、そんで?」
カヤの先を促したのは、意外なことに須田兄ィである。
「ええっと……ですね。サキちゃんは招待チケットの譲り渡しは保険証やパスポートみたいな身分証があればいいってことで、『犬侍』のそのプロモの招待状の元のところにかけあってくれたらしいんです。彼女も、弟たちが行くことを考えていたから自分が行くことは考えてないって」
「っていうか、サキはそこまで『オレンジャー系』も『テトラ・ポッター』も『犬侍』も興味は無いからねえ」
そうナミが補足をすると、カヤの隣でサエがウンウンと大きく頷いている。だが恐らく、サエ自身もあまりそれらには興味が無いに違いない。彼女は、男性アイドルとの逢瀬よりも身近なカレシの方を欲している少女である。
「それと、特別観覧も一緒にあるんですよ。シーズン6の放映に先駆けて、1話分、先行で、チョー綺麗な迫力の大画面での視聴ができるんです」
ナミの使い魔が、そのことばに目を大きく見開いた。普段表情を変えないことを旨としているらしい彼が、それを抑えることなく、身を乗り出すようにして、体をグイッとカヤへと近づけている。
「私、神矢さんさえよければ、一緒に観覧とエキストラ撮影の参加をサキちゃんから譲って貰おうかと思っていたんですけれども……」
ゴクリ。ナミの横の大柄な使い魔が、唾を飲み込む音が彼女にまで聞こえてきた。
「でも、ごめんなさい! 私、やっぱり神矢さんとよりも……同性の友だちと行きたいです!!」
その返事に、明らかに落胆の表情を浮かべる、使い魔。ナミは、ここまであからさまな表情を浮かべる彼も珍しいとしげしげと眺めつつ、「まあ、そうよねー」とまるで他人事のようにサエの言に大きく頷いた。
「まあ、サキはどうせバイトで無理だろうから、サエちゃんか、あるいは学校の友だちにでも声かけたら……」
と、ナミがいなそうとする声を、低い声が素早く遮った。
「客人! いや、ええっと……」
「カヤでいいですよ、神矢さん。屋ノ塚カヤです」
「屋ノ塚サン! その権利、もう葉山サンから譲ってもらったのですか?」
「……あ……」
などと、間抜けな声を発して、カヤちゃんが身体の動きをピタリと止める。
「まだ、葉山サンから譲り受けてはいないのですね?」
「え、ええっと……そういうこと、に、なります、ねぇ」
急に、カヤがしどろもどろになりながら、語尾を濁して返事を寄越す。
「ならば、ワタシも葉山サンに、その譲渡のお願いをしても良いだろうか?」
「ジョートの申し出、ですか?」
カヤだけではない。その場にいる神矢レイジ以外の5人が、彼の申し出がよく分からずに、不思議そうにして大柄な赤銅色の外国人に視線を向ける。
「葉山サンは、まだその参加の権利を手放していないわけですよね?」
「まあ……ええっと、その……そうかもしれないですね」
「ならば、ワタシがその参加の権利を彼女に譲って貰えないかどうかを申し出ることは、まだ可能ではある、と?」
「それはどうだろうな、童……三十路」
横槍を入れてきたのは、須田兄ィだ。
「どういうことだ、種馬」
「『種馬』も止めろ、っちゅーの。ま、いいや。それって、その閲覧とプロモ撮影参加の当選をした子が、もうこっちの子に譲るって決めちゃってたら、終わりだろ」
つか、もう決めてんじゃねーの? やや意地悪い声色で、須田兄ィが続ける。
「いや……ワタシも、参加したい」
そこで、きっぱり。彼が、言い切る。
……実は、この使い魔が、ここまで私欲をはっきりと表明するのは、食欲以外に関してはかなり珍しい。その事実を意識して、ナミは小さく驚いた。
どちらかというと我欲を満たすことに関してはあまり興味が無い、せいぜい『犬侍』をはじめとする時代劇を堪能する程度しか世間への興味を持っていない彼にしてみれば、こうした願望をきちんと口に出し、相手へアピールする姿を見ることは殆ど無い。この8カ月ほどの共同生活を思い返してみても、ナミの記憶の中には、常に我欲とは無縁の、一線を引いた行動様式が基本だった彼の様子が基準となっている。
とはいえ。今のこれも、時代劇、それも彼の大好きな『犬侍』絡みのことではあるのだが。
そこまで『犬侍』が好きか、とナミは呆れながら自分の使い魔を見上げる一方で、普段は我欲にすら嫌悪感すら見せることもあるこの男のこうした我が儘をどこかで満たしてあげたいという気持ちが少しばかり湧いてきたのも事実だ。
「でも、私、神矢さんと行くのはちょっと……」
「ならば、公平にここは、2人で葉山サンに、その権利の譲渡を申し出て、彼女にどちらへ譲るかを決めて貰う、というのはどうだろう?」
「へ?」
5人の中で真っ先に間抜けな声を出して、ナミは左に佇む自身の使い魔を見上げる。そこまでして行きたいのか、コイツは。
「客人、ええっと……」
「カヤです。屋ノ塚カヤ」
「ああ、屋ノ塚サン」
先程と全く同じ言い回しでナミの使い魔はカヤとの交渉に戻る。というかいい加減、人の名前を覚えて欲しいものなのだが。相変わらず、人間への興味が乏しい男である。そう思ってため息をつく間も無く。
「屋ノ塚サンさえよければ、ワタシは貴女と合同で参観に参加することは厭わない。だが、屋ノ塚さんはワタシと行動を共にすることに拒否感があるようだ。ならば、ワタシは……」
ちらり。そこでどうして、わたしを見るのだ? ナミは眉を寄せながら、目線を急に合わせてきた自分の使い魔を見上げる。
「ワタシは、ナミを連れていきたい」
「へっ?」
ナミは再び、ここでもまた、間抜けな声を洩らし上げていた。
――座標軸:風見ナミ
「まあコイツら、確かに兄妹仲はいいもんな」
そこで、そう言って間を取りなしたのは、須田兄ィだった。
「ナミ。どうだろうか」
彼が少し心配そうな声色で、彼女を見下ろしてくる。
しかしそうは言っても、レイジからのお誘いは、ナミにとっては取り立てて興味も関心も無いものだ。芸能人を生まれて初めて生で見られるという、多少は珍しい体験ができるのかもしれないが。だが、大切な友人でもあるカヤを差し置いてまでしたい経験でも無い。
「……わたし、正直言って、どっちも興味無いわよ。全然」
っていうか、それ、サキが決めることじゃない? そう素直に彼女は自分の感情を言い放つと、大柄な彼を見上げる。相変わらず、デカくて腹が立つ、といつものように思いながら。
しかし彼の瞳の色には、諦める気配など微塵も浮かんでいない。
「ならば、葉山サンに聞くのが早かろう」
そう言うと、彼は周囲を見ることも無く、携帯を取り出して、数が少ないであろう携帯のメモリーから葉山サキの電話を選び出す。
因みに、和語の読み書きがあまり得意ではない彼には、余程簡単な文言でない限り「和語メールを送信する」といった行動はその様式に組み込まれていない。そして今回は、そのケースに該当していた。
「あ、でもサキちゃん、バイト中かも」
そう言い添えたのは、サエだ。
「着信履歴があれば、折り返し電話をくれるだろう」
しかし彼はそうしたサエの指摘にぶれることも無く、こともなげに言うと、電話をかけてしまう。
「うわー、迷惑」
ナミは思わず、眉を八の字に寄せながら彼を見上げる。
サエが、「どうする?」と問い掛けるような目を、隣のカヤへと向けているが、カヤの方はと言うと、何かを考えている様子で彼を見ていた。
「神矢さん、神矢さん。なら、私がメールを入れますよ」
ナミの説明に納得したからだろう、カヤがそう申し出たものの、しかし、もうコール音は鳴り響いている。彼がその旨を皆に告げると、とりあえずその対応を待つか、といった調子で、少女3人は声を止めて彼を見る。
須田兄ィだけは、どこか面白い見物だといった様子で、ニヤニヤとした視線で彼を眺めている。
ミドリは父親にだっこを強請り、既にその腕の中だ。空気を一切読むことなく、その須田の耳元で、「あつくたぎるー、せいぎのち・し・おー」など、『にゃんこロイド』の主題歌を歌っている。須田兄ィの腕に抱かれながらも、それを気にも留めずにダンスつきで。一瞬、振り落とされないかとナミは心配したが、平素から拳道で鍛えている武道者の父親は、それを意にも介さないといった様子で上手く支えている。恐らくは上手い具合に魔力も通して重力を操作し、娘が落ちないようにしているのだろう。
そうして暫く電話がつながることを待つが、しかし声が返って来る様子は無いようだ。
「まー、バイト中だったら電話取れないでしょ」
それを察して、ナミが彼に声をかけつつ、その広い背中をポンと小さく叩く。
「だったら、私、メール入れますね」
そうレイジへと言って続きを引き受けたのは、カヤだ。隣のサエも頷いている。
「わたしもメールしてみようか」
ナミも同じく声を出していた。
「そうだねー。私からだけだと、情報偏っちゃうから。カザミンからも一報入れといてよ」
既に携帯を弄っていたカヤちゃんは、顔を上げることもなくナミへと依頼を寄越す。
「まー、私だったら、別にバスケで対決、って感じでもいいんですけどね。フリースローでも何でも」
携帯から顔も上げず、カヤはそう続ける。
「バスケ、みたいー」
そこで急に、カヤのことばに反応を示したのは、『にゃんこロイド』の歌を歌い終えたミドリだ。
「そっかー。ミドリちゃん、バスケ、見たこと無いんだっけね」
メールを終えたのか、カヤがミドリへと優しい目を向けて、バスケットボールを見せながら須田親子へと近づいた。
「……ナミ、済まない」
メールを打っていたナミは、しかし左隣に立つ彼女の使い魔の反応にはあまり注意をしていなかった。
「っと。これで、送信、っと……で、何? レイジ」
「いや……その……ワタシも」
そこでなぜか、赤銅色の大男は、ことばを区切った。
「はい?」
ナミが見上げる。カヤとサエ、そして須田兄ィも、視線をレイジへと向ける。
「いや、ワタシも、『バスケ』は、あまり知らないんだ」
どこか照れた表情で、赤い男は、ことばを継いだ。
――座標軸:風見ナミ
それならば、と朗らかな顔で外へと誘ったのはカヤだ。
この中野町の風見家から一番近いバスケットのコートは、中野町の小学校にある。小学校は、土曜日の午後は地域社会への開放時間に当たっており、地域住民が使うことも可能になっている。そのことを、3人の女子高生は地元住民としてよく知っていた。
中野中央小学校は、ナミ、そして神矢家の二男坊である悟朗も通っていた小学校である。因みに、カヤ、サエ、そしてこの場にいない葉山サキの3人は、小学校はその隣の学区、中野西小学校に通学していた。中学は学区が大きくこの4人はいずれも中野中学に登校していたのだが、居住地の区分の関係から小学校は別だったということだ。
「俺も、球技で遊ぶなんて、高校以来だぜ」
ミドリの手を引いて、楽しげに須田兄ィが喋っている。カヤ、そしてサエとは、随分と打ち解けた様子だ。3人でバスケの話で盛り上がっている。
「でも、私、流石にレギュラーにはなれませんでした。高校の壁は厚いっていうか高いっていうか……」
「はー、まあ、まだ一年なんだろ? 今は下地つくって、2年にレギュラーをもぎ取ればいいんでね?」
「でも、高校はレベル高いですよ、やっぱ。先輩もホント、上手い人ばかりで」
「それを言ったら、1年で剣道部のレギュラー入りした神矢君ってすごいよね」
須田兄ィが神矢家と仲がいいと理解して、サエが悟朗の話題を出してくる。
「まあ、悟朗は、拳道はモノにならなかったけど、剣道だけはやたらと筋がいいからなー」
でもって努力も欠かさないし、と須田兄ィが高校生たちに返事をしていると、珍しく悟朗を褒めた父親が嬉しいのか、ミドリが、
「悟朗、悟朗!」
と応援歌のようにリズムを刻んで叫び出す。ミドリが、なぜか神矢悟朗に御執心なことを思い出して、ナミと須田兄ィ、そしてレイジはいつものことだと軽く微笑む。けれどもカヤとサエの2人は結構驚いて、目を丸くしている。「やだー、神矢、マジ、モテ期じゃんかよー」などと、カヤの声が小さく響いているが、それはミドリの耳には入っていない模様である。
こうして神矢家の話題などもしている内に、すぐに一行は中野中央小学校へと着いた。
バスケットのゴールポートは幸いにも開いていて、誰もその周囲では遊んでいなかった。校庭の向こう側、サッカーの方は随分と盛り上がっているが、そのくらいだ。
「レイジ。ここ、わたしが通っていた小学校よ」
「……そうかね」
どこか。何かの感情を込めて。けれどもそれが何かということは言わずに、彼が彼女へと返事を返す。
「あ、神矢さん、私とカヤちゃんはもう一つ別の小学校だったんですよー」
と、サエが会話を繋いでいるが、彼はそれに返事を返すことは無く、学校の校舎そのものをしげしげと眺めていた。
しかしカヤはというと、バスケットコートを見て、ずっと疼いていた気持ちが抑えられなくなったのだろう。ウォーミングアップとばかりに念入りに柔軟体操を始めている。シューズも、バスケ用ではないが、運動には差し障らないスポーツメーカーの質の良いタイプのシューズだ。こうした小さなタイミングでも少しでも身体を動かせるように、という彼女の普段の姿勢が反映されているチョイスなのだろうと、ナミはフムフムと頷く。
柔軟体操を始めたカヤが珍しいのか、ミドリがその真似をして「おいっちにー、おいっちにー」と掛け声を掛けて、手足を動かす。須田兄ィも身体を動かす気持ちになっていたのだろう。すぐにそれに合わせて、独自の柔軟を始める。拳道の前にいつも行うものだ。
「レイジ、あんたはいいの?」
「いや、ナミ。ワタシは、『バスケットボール』という……スポーツを、よく知らないんだ」
彼が再び、照れた、けれどもどこか寂しい表情を一瞬だけ浮かべる。
ナミは思い出す。この夏のことだ。
かつての「使い魔契約」の解約のごたごたで、ナミは自分自身の失われた過去を彼から開示されると同時に、混乱した念から、彼自身の過去も少し覗き見てしまっていた。
そこで見られた彼の過去は、過酷なまでの貧困と扱いの悪い少数民族としての立場にあった少年時代の暮らしぶりだった。当然、学業に余分に割けるような金銭などは有り得ない、それこそ明日のパンにもこと欠くといったような暮らしだったということを、彼の思い出のビジョンごと、覗いてしまっているのだ。
彼の貧しい暮らしがどのようなものなのかは、ナミも漠然としたイメージでしか掴んではいない。しかし、彼の生活圏にバスケットボールで遊ぶといった選択肢は無かったのだろう。
「テレビとかで、見たことないの?」
「ああ、テレビでなら、多少」
でも、どんなルールなのか、あれではよく解らんな。そう、彼は自信の無さそうな声で続けた。
都市部のスラムではなく、山村か農村の暮らしだったのだろうか。バスケットが身近ではなかったという暮らしが、ナミには想像できない。だがナミは、彼の過去を詮索することは止めにする。
だから彼女は、どこか困ったような、恥ずかしそうな顔を向けてくる自分の使い魔に、ここ一番という笑顔を見せて、見上げて見た。
「大丈夫だよ、兄ちゃん」
昔。彼女が5歳だったときの呼び掛けで、ナミはレイジを見上げて、にっこりと笑う。
「カヤちゃんに少し教えて貰えばいいだけのことだから。恥ずかしがらないの」
「いや、そうなのだが……というか、別に恥ずかしくは無いぞ、ナミ」
「嘘だー。ナナシ兄ちゃんがそういうとこ、ちょっと見栄張ることくらい、わたしにはお見通しなんだから」
そう言って。かつての彼の名前、そして彼がこの夏に「真名」として選びとったその名前で、彼女は尚も、彼へと呼び掛けた。
現在、この和国に限らず、世界的にも、人びとは真名ではなく通称で過ごす習慣を持つ地域が圧倒的に多い。
元は、真名を隠す習慣を持つ魔女、魔力持ちから派生したとされる文化習慣であったのだが、いつしかそれがここ2百年程の間に魔力無しにも浸透していったというのが、大まかな歴史的見立てである。
その意味で、「風見ナミ」もまた、真名では無い。
そして彼女は、今現在、生きている人間に対して、真名を公表している人物はただの一人もいない。それは目の前の「ナナシ」であっても。そして亡き母の親友であり彼女の魔力面での後見人である北の魔女こと「スズノハ」であってもそうである。逆に言えば、ナミですら、スズノハの真名は知らない。
真名を隠すということは、魔力持ちにとってはそのくらい大切なことでもある。
その流れで言えば、同族として長年の付き合いのある須田タツヤの真名も、その娘のミドリの真名もナミは得ていない。逆に、彼らに対して自身の真名を告げることも、恐らくは死ぬまで無いだろうと彼女は考えている。
どこまで親しく付き合っていたとしても、真名を告げることは特別なことであるのだから。
但し、魔力無しの間に関して言えば、通称遣いというのは、ここ2、3百年で根付いてきた文化的習慣に過ぎない。だから、ナミは、葉山サキの真名が「葉山早姫」であることも、鳴海トモエの真名が「鳴海友得」であることも知っている。魔力無しにとって、それはタブー視することでもなんでもない。
とはいえ今や、魔力無しの間であっても、通称ではなく真名で日常生活を営む人間は、かなりの少数派だ。ナミの周囲を見回しても、神矢家の二男坊である神矢悟朗と、あとは高校の担任教師である生物学担当の奥菜睦美先生くらいしか思いつく顔は無い。
そうした中。「神矢レイジ」は、やや複雑な背景を持つ。「神矢レイジ」自体は、彼の恩人でもあり拳道の師匠でもある神矢老師が与えた只の通称、「神矢零司」による呼称である。彼自身のパスポートに記載されている名前は、また別だ。しかし彼は、親との決別を選択し、さらにはナミを妹と認めることで「ナナシ」を自身の真名と位置付けることを選びとったのだ。
因みに「ナナシ」とは、ナミが5歳、彼が18歳、初めて出会ったその日に、ナミが勝手に彼につけたあだ名のようなものである。しかし彼はそれを選び、ナミはそれを認める、という関係にあった。
彼の中で、どのような葛藤があり、どのような取捨選択があり、どのような決別があったのか。ナミは、一切知らない。けれども、彼はそれを選んだ。だから、この男を兄として選んだ彼女に出来ることは、それを受け入れることだけだ。
「兄ちゃん……ほら、ナナシ。行くよ」
だから彼女は、ここ一番、というときだけ。彼をそう呼んでやることに、決めたのだ。
(続く)
さて、只ノの諸事情が非常に錯綜しておりまして、次の更新は若干間が空く可能性が高いです。
詳しくは活動報告の方に記していこうと思いますが。
ミドリとサエが歌い、カヤが踊る「にゃんこロイド」の歌は、我が愛猫を只ノが勝手に歌った歌でもあります。
あつくたぎる、正義のち・し・おー♪
この作中世界のサブカルものはいろいろと考えると楽しいのですが(犬侍からオレンジャーからにゃんこロイドから……)
次のネタもどんどん浮かんできて、困りものです。
それを消化する本編の方がメドが立たない程度には。
この「お茶とたまねぎ」以外にも、少しばかりアイデアはあるので、その内にお披露目が出来ればと思います。
お読みいただき、ありがとうございます。
少し間が空きますが、必ず戻ってきます。それでは、また。(只ノ)




