02話/「父さんが、捕まった」
現代日本とよく似た「和国」が作品の舞台です。
今話は、その「和国」で人気のポップカルチャーなどの話が出てきます。
使い魔と魔女殿は、その好みが随分と異なるようです。
――09月15日(水曜日)/座標軸;神矢レイジ
神矢レイジは、大の和国文化フリークである。
その中でも彼が多大な関心を寄せエネルギーを注いでいる対象は、「時代劇」である。
『犬侍』。
それは、この和国において、現在、最大のヒットを誇る、ある痛快アクション時代劇作品の名称である。
TV番組である『犬侍が行く!』をシリーズの始まりとして、現在5シーズン分の放映が既に終了している人気作品だ。
その人気は、和国に留まらない。海外、世界各地の和国文化フリークにとっても、「時代劇」の最新ソフトとして注目を集めているコンテンツである。
かつて彼が本国でやさぐれていた頃、彼が辛うじて人としての道を踏み外さずに済んだ、その契機となった映像ソフトの一つでもある。このスカッと爽快、勧善懲悪に基づく外連味溢れたストーリーテリングに貫かれたTV時代劇のビデオフィルムと、風見ナミとの再会を願う己の決意がなければ、今の彼はこの地球上に存在していなかったと言ってもいい。
そしてそれはまた、資金不足による学業の断念後、彼が和語を勉強するために活用した最大の教本ともなっていた。外国人である彼が今、異国であるこの和国の地において和語でそれなりに意志疎通ができているのも、この作品が存在していたからだ。これは決して誇張ではない。
さて。その『犬侍』シリーズである。
それは、『井戸黄門』以来、長いことヒットのなかった「時代劇」ジャンルが、この和国において、21世紀に入ってから漸く息を吹き返すこととなったコンテンツでもあった。
最初こそ定番通り中高年向けの内容であったものだが、それがいつしか若年層をも巻き込んだ人気を得ていった、という。現在はシーズン5の放映を終えて久しく、6期シリーズのTV放映が待ち望まれているところでもある。
一部は劇場版の映画にもなっており、更に小説化はもとよりコミカライズもされて出版、人気がより拡大することとなった。
時代劇というコンテンツの立ち位置からすると、和国におけるメディアミックスとして、これはとても珍しい展開を見せている、ということらしい。テレビ番組が原作となること、それも時代劇という分野が複数のメディアで展開されることはとても珍しいのだと、彼の魔女殿、風見ナミが彼に解説をしてくれた。
和国育ちではない彼にはそれがどの程度凄いことなのかはよく判らなかったが、それでも彼の大好きな『犬侍』シリーズが、この和国においても当然の如く人気の娯楽作品であり、幅広い層からの支持を得ているという事実に、彼は自分のことではないにもかかわらず、誇らしさと、どこか胸の熱くなる想いを抱いていた。
それを傍で見ている彼の大切な魔女殿はと言うと、とても冷ややかな目線であったのだが。なんとも残念なことである。
TVドラマだけを見てみれば、作品の主な視聴者と人気は中高年の男性がターゲットであろう。それは、彼の視聴した感触でもそうであった。ただ、女性よりも男性向けの内容であるとはいっても、決して、「その手」のシーンがあるという訳ではない。お色気シーン等は皆無である。骨太のストレートな物語構成と、カメラ捌きも素晴らしい映像美、そして何より硬派な剣劇シーンの見応えが堪らない。
そうした健全さも背景にあったからだろう。シーズンが3か4を重ねた頃には小学校中学年前後の男児にも人気は飛び火し、子どもたちを中心に時代劇ブームが巻き起こったのだという。それを受けたからこそ、映画、そして少年向けのコミックスへと、多面的なメディア展開が可能になったのだろう。そう、彼の魔女殿は友人の葉山サキと一緒に、彼に教えてくれた。
その人気コミックス一式を、彼は、葉山サキの弟から拝借していた。
尤も、そのコミックスが2人いるという彼女の弟のうち、どちらの人物の所有物なのか、彼は確認していない。2人の共有財産である可能性もある。
彼がコミックス一式を丸ごと借りているその間に、団地の一室にあった葉山家は借金取りに荒らされた。更に諸々の事情で、彼等は一家離散をした。その葉山家では家族のさまざまな財産も荒らされ、離散し、あるものはごみとして放棄するしかなかった。
だが偶然、彼が借りていた『犬侍』のコミックス約30冊分は、そうした借金取りたちに荒らされること無くこの風見家で綺麗な状態で保存され、返却の日を待っていた。
そうした意味からも、彼は葉山サキの弟2人に借りがあり、また貸しがある。そんな状態だった。ある意味で、会ったことはない2人の少年ではあるが、彼にとっては大切な人物でもあったのだ。共に『犬侍』というコンテンツの愛好家である、という共通点において。
「『犬侍』……だとぅ?」
時代劇の口調を真似て、彼は一人ごちる。
因みに、彼は大学中退から結構な年月を経ているため、和語の扱いはかなり能力が落ちている。口頭での会話はましとはいえ、ひらがなとカタカナは辛うじて読み書きが可能といったレベル、漢字は使用頻度の高い文字以外は読み書きが難しい状態に戻ってしまっている。
だから、その液晶表示に書かれた文字のうち、きちんと判読できたのは、『犬侍』という固有名詞の漢字の他は、『ご』『プレゼント』『のお』『らせ』の部分だけであった。
けれども。彼の注意を引くには、それだけで十分だった。
しかし。
偶然とはいえ、彼の魔女殿の親友の携帯電話である。勝手に盗み見ていいものではないというのに。彼は好奇心でつい目に入ったその文字を解読してしまった己に、自己嫌悪を抱く。抱きつつも……それがどういった情報なのか、気になって仕方がない、といった自己をも認識していた。その「プレゼント」とは何なのか、と。
『犬侍』に陶酔するあまり、彼は拳道どころか剣道も、自己流ながらも適度に齧っている。最近では、拳道とは別の日に開いている剣道の教室にも通う程なのだ。ドラマの『犬侍』における剣劇の描写は、彼の視線からすれば大層クオリティが高く、彼はどうしてもその技の幾つかを身につけたいと、真剣に願ってしまう程でもあったのだ。
因みに神矢家は道場を持っており、週7日、それを最大限活用している。週の内4日は拳道の教室として。そして残る3日は剣道の教室として。拳道は、神矢家の当主である神矢老師自身と、魔力持ちの拳道指導者が指導している。但し、剣道の日は、神矢老師は指導には関与せず別の魔力持ちの青年が指導に当たっている。
神矢家はこうして地域活動に魔力持ちの人間を複数登用することで地域における魔力持ち、魔力無しの交流の場つくりに腐心している人でもあった。
それはともあれ。彼はお茶を淹れ直しながら、葉山サキにその話題を尋ねるべきか否か、悩んでいた。しかし……結果として、彼はそのことを黙っていることにした。やはり他者の携帯を覗き見するということは、人間として恥ずべきことだということを、彼も理解していた。彼は、偶然であったとはいえ己のそうした行動が許せなかった。そうした自分の失態は、黙っているに限る。そう、彼は結論づける。
それに何かあれば、彼女の方から彼に話題に出してくれるかもしれない。何せ、彼が『犬侍』どころか和国の時代劇全般に心酔していることを、この客人もよく知っているのだ。
「あれ、お兄さん。どうしました?」
しかし、そうした彼の悩みを秘めた表情が、つい表に出ていたのだろう。戻って開口一番、葉山サキは彼の顔を見上げていた。
「いえ、ナミがまた電話に行ってしまったので」
そう、慌てて言い繕う。
「はあ、寂しいですか」
「いやいや、それは無いです。関係無いです」
彼は大慌てで否定する。先に帰った美貌の小動物はそうでもないが、この少女は彼とナミが必要以上に親しくしている状態をあまり快く思っていないらしいことを、彼は節々で感じていた。当人は隠そうとしているけれども、彼にだってそのくらいの彼女の感情は読み取れた。この客人は、自身の纏う感情を隠すことをあまりよしとしない性格でもあったから。つまりは、和語で言うところのあけっぴろげ、というパーソナリティの持ち主ということで、そこから彼はそう判断をしていた。
しかし、そうした客人と彼との攻防の空気を読み取ることのない彼の魔女殿が、間もなく戻ってきた。
「はあー参っちゃったよ、レイジ」
ナミが電話から戻りながら、客人の少女にではなく、彼に声を掛けてくる。念話で飛ばさないところをみると、客人に対する隠しごとに類するものではなく、また大した用事ではなさそうだ。
「どうした、ナミ?」
「うん、須田兄ィ。なんでもまた、ハルカさんとベリッシマとミドリちゃんと、三方向からの板挟みになっているみたい」
「まさか今日これからこちらへ来るいうことは無いだろうな」
「それは無いけど。ただ、下手すると今度の土日も、またあっちの騒動に巻き込まれる可能性はあるわね」
はぁ、と大きめの溜息をついて、彼の魔女殿は疲れた様子で椅子に座りこんだ。
ナミの言う「須田兄ィ」とは、この中野町に住む魔力持ちの青年だ。歳は彼より3つほど下。既婚で、子どもは一人。しかし妻は過去にも一人、今も一人、ということで、その前妻の子どもと現在の妻との折り合いの問題で悩んでいるという、女性に縁の無い生活を年齢と同じだけ重ねてきている彼からすると、とんでもなく腹の立つ生活上の問題を抱えている男でもある。
話に上がった固有名詞のうち、ハルカさんというのが現在の事実婚の妻、そしてベリッシマというのが過去の国際結婚の妻、最後のミドリというのが、その前妻と須田との間の娘、ということになる。ここで上がった4人は、いずれも魔力持ちだ。
因みに、神矢の道場で老師をサポートして拳道の指導を手助けしているのが、この魔力持ちの男である。単純な拳道の習得だけを言えば、段位も実力も彼より上である。
加えて、須田本人に関して言えば、人当たりなどはそう悪い奴ではない。ただ、女に対して手が異様に早いのだ。女、と言っても魔力持ちだけがターゲットだということがまだマシではあるが、それでも酷いものである。今の女房が手綱をきちんと握っているからいいものの、その節操の無さから、誰が呼んだか「中野町の種馬」の呼称が一部で定着している。
しかしナミはその男と、関係が良好である。「兄ィ」などと付けて呼ぶ程には。
「ああ、以前話題に出していた、拳道の人?」
「そうなのよ、サキ。一応、子どもをこっちに引き取ることで話はまとまりつつあるようなんだけどねー」
「ああ、それ方面の法律、面倒だもんね」
最近、離婚騒動で実感しているからだろう。葉山サキがうんざりといった声色でナミへと相槌のように声を合わせる。
「法律もだけれども、ベリッシマ……前妻さんもまた突拍子もないキャラクターだから」
そう言いながら、彼の魔女殿は、客人の少女がよく知らないであろう同族の青年のやや下世話な話を解説していく。
風見の2人は、この家族に世話にもなってもいるが、世話も掛けさせられている。顔見知りになってからというものの、彼等は何度も須田家の騒動に巻き込まれているのだ。
とはいえ、彼等も同程度には須田には世話になっているから、そう無碍にはできないのが面倒なところでもある。それ以前に、彼の魔女殿の世話好きな性格もある。今度の土日が潰れる可能性、とは決して誇張ではない。
ナミも、そうした事情を親友であるこの客人の少女に多少は話をしてあったのだろう。ナミの話にうんうん頷いているところを見ると、彼女もその背景は比較的きちんと把握しているらしい。意外な思いで、彼は2人の少女へと目線を向ける。
「大体、このところの土日はずっと、あの家に振り回されているし」
ナミの言う通りである。先週も、またその前の土日も似たようなことが繰り返されていた。
須田の妻、橘ハルカが5歳児のミドリに腹を立てて家を飛び出してきたのを、宥めもした。逆に、父の今の妻である女性との距離の取り方に戸惑い癇癪を起こす姫魔女のミドリを、宥めることもあった。風見の2人は、この2週間程は須田・橘のカップルの仲裁に彼等は結構な時間を割いていたのだ。
法的な問題が解決し次第、すぐにでもその子どもを引き取りたい。そう、子どもの父親である須田は考えている。だが、肝心の娘と新しい妻、その2人の折り合いがつかず、引き取りの件は暗礁に乗り上げている。
同時に、娘を手放したくないという元の妻の話も、彼は耳に挟んではいた。いたのだが、それは直接のことでは無い。ナミ、あるいは種馬からの又聞きだ。そも、彼はその元妻という魔力持ちの女性との面識が無い。それ故、その心情は彼の想像の外にあった。
「また次の土日も、須田、橘のどちらかが……泊ると考えた方が良さそうかね?」
念の為、彼が電話の内容を確認にかかる。葉山サキに隠すようなことではないと踏んでナミが発言しているのだ。ここでその手の事務的な話は詰めてしまった方がいいだろう。大体、彼女たちは明日も学校がある。この手のナーバスな話題はさっさと片付けて、今日は早くに2階に上がって睡眠に入りたがるはずだ。
「そうね。レイジ、一応その方向で考えていてくれる? 食材とか、お布団とか」
「明日の昼間は布団でも干しておこう。天気予報は問題無かったはずだ」
「助かる、レイジ……ホントに、ベリッシマさんがもっとちゃんとしてたらねー」
ナミが、彼の会ったことの無い、姫魔女の生みの母である魔女への愚痴を零す。
因みに、ナミ自身はその女性とは多少の面識があるという。但しそれもミドリが更に幼かった頃、もう随分と前の話らしい。
「まあ、母親だって人間なんだし。人間なんて、完璧なものじゃないんだし」
離婚騒動を実体験したばかりの葉山サキが、慰めるようにナミに声をかける。その口ぶりからは、彼女は彼が考えている以上に、その親子間トラブルについての相談をナミとしているらしいことが伺えた。
しかし客人の少女が継いだことばは、それまでとは少し毛色が違っていた。
「となると、風見たちはやっぱ9月は忙しそうだね」
ナミの肩に手を置きながら声をかけてくれる葉山サキに、ナミは甘えるように、ウーン、と嘆きめいたうめき声を洩らす。
「うん、遊びの予定は無理そう。って、サキだってバイト、大変でしょ? アカネさんだって仕事だろうし」
「ああ、そうじゃなくって……じゃあ、まあ、いいか」
何かを言いかけて、客人の少女がそれを引っ込めたのだと、彼はその会話から類推する。ナミと似て、事物を明確化させることを厭わないこの客人が、そうした歯切れの悪い会話の進め方をするのは珍しいのが、彼には妙に引っかかった。
しかしナミも疲れていたのだろう。
「まあ、明日も早いし。もう上がろうか」
「そうだね」
少女たち2人はそう言って、カップを手に頷き合って立ち上がる。彼も合わせて立ち上がった。
「……公開収録、どうしようかな……」
ぼそり。客人の少女が、声を洩らした。
しかし、隣のナミはそれを気にした様子は無い。きっと今の、須田からの電話の内容に頭を痛めているか、学校の宿題を片付ける為の段取りを考えているのだろう。
「コウカイシュウロク」。和語の専門用語は判らない単語が多い。その音を聞いても、和語を母語としない外国人である彼には、それが意味するところのコトが解ってはいなかった。同時に、その単語の意味は気になったが、彼女はあくまでもナミの客人である。彼は突っ込んで聞いてみたいその気持ちを抑え、2人に風呂の段取りを確認して、食卓の茶話会を完全にお開きにした。
――座標軸:神矢レイジ――
順を追って風呂を済ませ、殿の彼が風呂を片づけて出てくる。タオルを手にしたまま、玄関近く、階段の下にある自室へと彼が戻ろうと歩いていた、そのときだった。2階の少女たちから、嬌声のような大きな声が響く。それが、彼の耳に……飛び込んできた。
「凄いじゃん、それ! 『犬侍』の……」
声は、彼の魔女殿のものだった。
ドキン。
彼の心臓が跳ねて、止まる。体の動きも、止まる。
……『犬侍』が、どうした? どうしたというのだ、ナミ??
しかし。そのまま彼が階段の下で凍りついたように固まって、耳をそば立てていても、続く声は聞こえてこなかった。先程叫んだのは、ナミ一人。多分階段に程近い、部屋の出口の辺りに彼女が立っていたのだろう。そうでなければ、この風見の家で、階下までこんなに声が通ることは無い。
因みに。彼がこの家に転がり込んだその日から、この家の2階は、男子禁制が敷かれている。階段の下と上、2カ所に、ご丁寧にもナミの魔力による結界が通されているという。少なくともナミの説明では、そういうことになっているらしい。実力突破を図ったことの無い彼は、その事実を実体験でもって確認をしたことは無いのだが。いずれにせよ、そこを自由に行き来できるのは、女性以外で言えば、猫だけだ。
そうした訳で、彼は階下で立ち尽くしながら情報を待つ。じりじりとその場で立ち止まっているが、しかし2分、3分と時間を経過しても、それ以外の会話は漏れ聞こえてこなかった。
じっと、その場で待つ。長い。待つ。長い。待つ。長い。少し、寒い……いかん、これでは湯冷めする。
少し前の休日に、和国は台風が列島を縦断していた。それから、この雨音地方の気候も急に秋めいて来ている。昼間はまだ夏の尻尾があれども、夜のこの時間はむしろ秋本番といった涼しさだ。
彼はブルッと寒さに身を竦ませると、その後ずっと音の漏れ聞こえてこない2階をやや恨めし気に見上げて、渋々、自分のねぐらへと戻って行った。
――座標軸;風見ナミ
「ねー、カザミ。最近、カヤちゃんと連絡取ってる?」
風呂を終え2階へ上がって間も無く、サキはそんな話題を振ってきた。
「カヤちゃん」は同級生だ。中学時代の友人で、今はナミとも、またサキとも別の公立高校へと通っている。中学時代は2年、3年とナミとはクラスが一緒だった。よく一緒に遊んだり騒いだりしたものだ。
勿論、人口の多数を占める魔力無し。だが気のいい性格で、3年間びっちりとバスケ部に所属した、根っからのスポーツ少女である。
サキは、彼女とはナミ繋がりで知り合った。3年間、クラスが一緒になることは無かったが、根っから気のいいスポーツ少女という性格面でウマが合ったのか、結構な仲良しである。クラスが違うことをいいことに、忘れた教科書や参考書、時折は宿題の借り貸しなどもしていた。
「メールだとね、結構頻繁に。相変わらず、バスケ楽しいみたいだし」
「うん、それは私もやりとりしてるけどさー」
ナミは、自身のズボラさについても自覚してはいるが、サキはそれに輪をかけてズボラ、もしくは大らかな性格をしていることを思い出す。ナミ自身もよくやりがちなのだが、サキはナミ以上にメールを活用していない。大変な面倒くさがりだ。
「最後に会ったの、8月だよ。サキにも前、話したでしょ、それ」
「ああ。私がカヤちゃんに会ったのは、どう考えてもその前だわ。まだ、家庭崩壊前」
夏にカヤと一緒に遊んだときは、バスケのことやカヤの大好きなアイドルの話などで盛り上がっていたことを、ナミは思い出す。
尤もナミ自身は、さほど芸能人には興味が無い。いや、それどころか、かなり疎い。TVそのものを殆ど見ない。
その上、最近では彼女の使い魔が、時代劇にチャンネルを合わせては彼女を洗脳しようとしているようで、閉口もしているのだ。その洗脳を躱そうという意図もあり、彼女は更にテレビ文化には疎くなっていた。
「好きなアイドルの話とか、した?」
そういうサキも、その傾向に関しては、ナミに近いものがある。尤も、彼女の場合は、今はテレビを見て寛ぐような時間そのものが貴重になっているという、家庭環境面での悲しい状況が根底にあるのだが。
それでもサキは、かつては洋楽を流しているようなMTVなど、やや背伸びをしたタイプのマニアックなコンテンツを好んで視聴していたはずだ。
「えー、なんだったかなー」
サキの問いかけに、彼女は上手く思い出せないまま、ぼんやりとした返事を返した。性格的にはさっぱりとしたカヤとサキはウマが合うが、2人の音楽の趣味は金星と木星の距離くらいは離れている。カヤが好きなのは男性アイドルグループで、それも、会う度にファンの少年の名前がころころと変わる。
ナミ自身に至っては、音楽の趣味そのものが乏しい。魔力の成長にかまけていて文化面に疎いという欠点を持つ自覚はあったが、しかし男性アイドルグループはナミの琴線には全く響かない分野でもあった。サキおすすめの洋楽の方は、まだ聴き応えがあると思ったのだが。
「あの子、今も『テトラ・ポッター』の『リョージ』君、ファンかな?」
「どうだろ」
ナミにとってはまるで異星人でしかない男性アイドルグループやアイドルユニットは、皆同じように見える。正直、あまり区別がつかない。関心があまりにも無い為、カヤが今好きなグループ名やユニット名、意中の男性アイドルの名前などは、とんと見当がつかない。せめて長く一人、一グループのファンをしていてくれたのであれば、友人の為にもまだ覚えようという意欲も出る。だが、毎回その固有名詞が変わるとあれば、ナミの関心が薄いままなのは仕方が無いというものだろう。
「あ、メール読み返してみよーっと」
少し間抜けな声を出して、ナミは宿題のノートを閉じてパールブルーの携帯に手を伸ばす。
「カヤちゃん、カヤちゃん、っと……」
「あ、やっぱり『テトラ・ポッター』大丈夫みたい」
先にずっと携帯をいじっていたサキが、その画面を見ながら頷いている。やはり、カヤの今の注目の相手を確認しているようだ。
サキの声に頷きながら、ナミもまた自分の携帯の画面に目を止めた。
「えーっと……あ、そうね。最後のメール、『テトラ・ポッター』の話題だわ」
最後のメールは3日前、9月12日のものだ。その日は台風が雨音地方を通過した直後のことで、ナミはカヤと、最初の話題こそ各地の台風被害の話をしていた。それがいつの間にか、同じ高校のバスケ部の仲間と、「テトラ・ポッター」のチケットを取るかどうかで悩んでいる、という話題でその日のメールのやりとりは締めくくられていた。
彼女の場合、アイドルの追っかけとバスケの両立が、どうやら今現在の最大の課題であるようだ。ちなみにそこに、勉学や、その結果でもある成績といった要素が考慮されている様子は無い。母親から、バスケの金ならばまだしもアイドルのコンサートのチケット代は出さないぞという脅しがあったと、ややしょげた内容の文面が、ナミの手元の液晶画面で絵文字つきで綴られている。
「今もリョージ君なのかな。まあ、いいや」
サキが、先に一人で納得して、携帯をしまう。
「どうしたの、サキ?」
ナミは不思議そうな眼を、手元だけは明日の時間割に合わせた教科書を揃えながら、しっかりとサキへと向けて話題の先を促した。そのサキはというと、ダレた姿勢でローテーブルに肘をつきながら、ナミを見上げつつ「うーん」と何かを言い淀む。
「いや、それがね。最初は弟たちにプレゼントしようと思ってたんだけどさー」
「何を?」
「いや、『犬侍』シリーズ6の、特別視聴と、プロモビデオの公開収録」
「……『犬侍』?」
いや、それは、知っている。ナミでも。主に、彼女の使い魔経由の情報で。でも、それの特別視聴、更には公開収録とは、一体何のことやら。
「それがねー。この秋から、『犬侍』のTVシリーズ、シーズン6 が、始まるってことでさー。あ、カザミは知ってるわよね。レイジさんが大ファンだから」
「いや、よく知らない」
できるだけ、時代劇の話題になると彼女は彼から逃げるようにしている。その瞬間、彼には別のスイッチが入る。怖くて、近づくと洗脳されそうで……だから、そうなると彼女は己の使い魔から逃げるしかない。
「でさ。今回、そのシリーズ6のレギュラーだか、準レギュラーだかに、『テトラ・ポッター』の若手が起用されたらしくてさ」
「若手も何も、あのグループ、みんな高校生男子だけでしょ、メンバー」
「ま、そうだけど。その縁なのかなんなのか、シリーズ6の劇中挿入歌を『テトラ・ポッター』が歌うんだって。多分、毎週流れると思うんだけどさー。それのね、劇中のプロモビデオを、何本か収録するんだって」
「へー」
誰が? まあ、その『テトラ・ポッター』の面々がだろう。ナミは誰一人として、顔も名前も知らないが。大体、今『テトラ・ポッター』は何人組なのか? 何度もメンバーの加入と脱退が言われていて、数カ月毎に人数が違うというのに。そうしたイメージを漠然と抱きながら、ナミは怪訝な顔つきのまま、サキの眠そう無顔を見る。
「それの、プロモビデオのね、収録。当たったのよ。エキストラ」
「当たったって……それって、抽選だったの?」
「うん、抽選。『犬侍』ヴァージョンの方はね。『犬侍』の視聴者、ファン100人をご招待して、100人が殿様や侍やお女中や町娘の格好をして『テトラ・ポッター』の新曲に合わせて踊ったり演技したり、ってのがビデオに映る、っていう寸法。ついでに、同じ日に番組の先行視聴もありだとか」
「ファンって……流石に、沢山応募があったでしょ?」
「うん、よくわかんないけど。かなりの数、来たみたいよ。特にシーズン6はテコ入れなのかなんなのか、『テトラ・ポッター』とのコラボじゃない。完璧な。元々の『犬侍』ファン枠だけじゃなくて、『テトラ・ポッター』ファンの女子から、たっくさんあったみたい」
当選のお知らせによると、5万通近くの応募だって。
そう続けたサキのことばに、ナミの呼吸は一瞬、止まった。
「5万……通?」
「そ。で、当選は、50組、100名様」
彼女の手も、止まったまま、動かない。
「す……凄いっ! 凄いじゃん、それ!! 『犬侍』の癖に!!! 何その倍率!!!!」
思わず、叫ぶ。
因みにナミが「『犬侍』の癖に」などという言い回しをしたのは、やはり彼女の中では時代劇というのはオヤジ向けであり古臭い趣味であるといった見立てに基づく偏見によるものである。更に言えば、現役女子高生の間に関してであれば、その感覚は標準的価値観に近い。
だからこその男性アイドルによるテコ入れ、なのかもしれないが。
「なんかねー、これは『犬侍』ヴァージョンのプロモビデオだからだけどさ。勿論、本番の『テトラ・ポッター』ヴァージョンのプロモビデオもあるって。そっちのヴァージョンだったら、そのうちTVの音楽番組でガンガン流れるようになるわよ」
今や飛ぶ鳥を落とす勢いの『テトラ・ポッター』ということだけは、ナミも把握はしている。たとえ現在のメンバーが何人かも分からず、名前と顔を誰一人として言い当てられないとしても。だからサキが言う通り、きっともう少ししたらそういうことになるのだろう。ナミは神妙に頷いた。
「なんかさー。私、この抽選で、今年の運、全部使いつくしちゃった感じだよ。カザミ」
「でも、弟君たちは、なんて?」
「いや。もう『犬侍』は趣味じゃなくなったから、だって」
折角の姉心を、何と心得る! そう、形式的に頬を膨らませて、サキは両肘をついて手に顎を乗せて、ブー垂れる。
「うーん、いやきっとね。今回収録するのはさ、TVドラマの『犬侍』の劇中で毎週流れるらしい、それのプロモビデオづくり、らしいのよ。だから、『テトラ・ポッター』のファン層じゃない年齢層の人たちを、選んで当てていったと思うんだよねー。保護者として私の名前で応募したけど、応募欄には弟たち小学生男児2名で応募してるしさ。集める人数100人だし」
「うん、うん」
「プロモビデオともなれば、一瞬でも映るわけじゃない。だから、結構気を使ったと思うんだよねー、抽選するTVスタッフだかの方も」
「……でも、それと、カヤちゃんと、何の関係があるの?」
何となく、薄々とは考えるものがあったのだが、ナミは敢えてそれは無視して、サキの考えを聞くことにする。
「だ、か、ら。『テトラ・ポッター』はカヤちゃんも好きでしょ」
「うん。でも当選してないじゃん」
「いや、応募はしてるみたいなんだよね」
「……よく知ってんのね、そんなこと」
「いや、メールで『犬侍』シリーズ6に『テトラ・ポッター』のリョージ君とショーヤ君が出るとかって情報来たの、彼女からだし」
「へー」
やや平板な声色で、ナミは更に先を促す。
「まあ、私の応募は、『当たるワケ無いだろうけどもしも当たったら弟たち喜ぶかなー』くらいの感覚でさ。ホンキでキアイ入れてたカヤちゃんみたいなファンの人たちと、意気込み違い過ぎるから」
けれども、そうした肩の力の抜け具合が、逆に幸運を引き寄せたのではないか、と彼女はサキに言ってあげたい気もした。けれども、その幸運を「いらない」と弟たちがあっさり否定したことを思うと、ことばは彼女の口から出ることは無かった。
この夏。夏休みに入る直前。葉山家は、一家が文字通り解体したのだ。小学生の弟たち2人が辛い思いをしていることは、想像に難くない。姉としては、自分の辛さはもとより、より大変な思いをしている弟たちに、なんとか力になるようなことをしてやりたかったのだろう。
そうしてナミがサキの姉心をあれこれと想像していると、その顔をずっと見ていたことにサキが気づいたからだろう。急に照れたように赤くなって、彼女はそっぽを向いた。
「まあ、弟たちもそろそろ、時代劇は子どもっぽいってことで卒業かねー」
「子どもだったらTVに映るってだけでも嬉しくないのかしら?」
自分の過去を振り返ってもそういう思いを持つような子どもではなかったことを無視して、ナミはサキにぽつりと疑問を洩らした。
「いやー、『犬侍』はやっぱ、小学校低学年にはいいアイテムみたいなんだけどさー。あの子らも4年生と5年生だし」
あとは、母さんを置いてテレビに夢中とか、そういうのが嫌なのかもね。そう、続けて、サキはやや寂しそうに笑った。
「ま、弟たちへのプレゼントは、やっぱりなんか別のものを考えるとして」
と、そこでことばを区切ると、サキは立ち上がる。
「とりあえずは、この当選をどうするか、なのよねー」
「ふーん、辞退はできないの?」
「いや。だから、カヤちゃん」
「あっそうか」
譲渡ができるものなのかどうなのかナミにはさっぱり見当のつかない世界ではあったが、取り敢えずそこで話題は繋がった。
「でも、小学生男子2人の代わりに、女子高生って。ダメなんじゃないの?」
一応、思ったままに、ナミは疑問を口にした。
「うん。それ以前に、当選権利が別の人にあげられるのかどうかも判らないし」
「そうだねー」
ナミは半分無責任に言い放つ。
「あとさ、レイジさんも……興味持ちそうじゃない、これ」
「なんで、兄ちゃんが関係してくるのよ、そこで」
ナミは思わず、彼への呼び方が幼少時のそれに変わっていることも自覚無しのまま、この場に出てきたレイジの話題に警戒をする。
いけない。「アレ」に時代劇を関わらせては、いけない。
「いや、丁度応募の当選は2人分。そして、『テトラ・ポッター』と『犬侍』ファンが1人ずつ×2で2人分。頭数は合うじゃない」
「いや、そうだけどさ」
「まあ、まずは譲渡が可能かどうかってところからの話かもしれないし。ただ、カヤちゃんには、中学時代もあれこれと世話になったしなー、外せないよね、ってことよ」
「ああ、ノートとか宿題とか」
確かに。サキとカヤは、お互いの得意科目がまるで違っており、そうした意味でもサキは彼女に世話になっていた。ナミも多少はサキの勉強を見たこともあるが、カヤもまた同じようにしてサキにいろいろと手助けをしていたはずだ。あの子もなんやかやで面倒見は良かったのだから。
「でも、レイジとカヤちゃんに、一緒にその視聴だかプロモの収録だかをさせるわけ?」
「うーん、なんかあまり好まれそうには無いかもしれないけど」
少しだけ、サキが眉に皺を寄せながら返事を寄越す。
「まあ、レイジの方はまだ若いお嬢さんと小一時間ほどのデートと洒落込めるわけだからいいけど、カヤちゃんの方にはアレを押し付けるのは、ちょっと申し訳ないわね。大体、カヤちゃんにはレイジのこときちんと紹介したこと無いし」
「あれれ。顔合わせ、してないの?」
「うん」
自分の大柄な使い魔の顔を思い浮かべながら、ナミはサキの提案へと一応の問題点を指摘しておく。
「それにカヤちゃんだと、友達とかファン仲間とかと行きたがるんじゃない?」
あるいは、サエちゃんだとか。そう、ナミは続ける。
因みに、「サエちゃん」もまた、ナミとカヤの共通の友人である。
中学最後の3年生時代、ナミはこの2人とつるんで行動することがやたらと多かった。ただ、サエはそれほどアイドルには興味が無い。彼女の興味は、もう少し身近でリアルな男性一般である。因みにサエその人の口癖は、「カレシ欲しー」だ。
ただ、仲良しのカヤと一緒に芸能人を身近に見られる機会ということであれば、彼女は充分乗り気にもなるだろう。
「あー、サエちゃんの可能性はありそうだねー」
そう、サキも認める。
「ほら、わたしたち、高校がバラバラだから。カヤちゃんもサエちゃんと一緒に遊ぶ機会があると、喜びそうだよね」
「そうだねー、サエちゃんにも恩義はあるね、私」
ナミの思いつきに、サキもうんうんと頷く。
「でもさー。純粋に『犬侍』だけだと、レイジさんが圧倒的にファンの筆頭じゃない」
ナミの様子を見て布団を広げ始めたサキが、ぼそり、とそんなことを洩らした。ナミは返事を返せずに、その場に留まった。
「それに、夜逃げのときに車出してくれたりとかさ。あんたとレイジさんだけは、なんかね、いろいろと世話になる強度がね、半端なく強いし」
学校のノートどころじゃないくらいかもね、と笑いながら、彼女はその先を続ける。
「でも。レイジさん、きっとあんたと行きたがるんじゃないかな」
ナミは思わずことばに詰まる。
確かに。彼は「兄として」振舞うことをかなり喜んでいる節がある。そしてそれは、家族を失ったナミにとっては、決して悪くは無い感情であったのも事実だ。尤も2人のややこしい関係性を考えると、それ以前にいろいろと複雑な思いも過ることは多々あるのだが。
「まあ、先ずはこのプレゼントの譲渡とか辞退とか、その辺り確認してからだよねー」
「うん、そうだね」
「まー夜逃げ手伝ってくれたお礼が『犬侍』ってのも変だけど」
7月。夏休み前の怒涛のその一日を、ナミは少しばかり思い出す。
体一つで、ここから少し離れた団地から一人で逃げてきた、サキの、普段とはあまりにもかけ離れた弱々しい姿も。家に戻り、荷物を探そうとして付けた灯りに照らされた、あの荒らされた室内の様子と、それに驚愕して号泣した姿も。普段は弟たちしか心配していないという口ぶりでありながらも、実は行方不明の父親を語るときの声色に隠しきれない心配を滲ませていることも。そして離婚の決断をした母親を、彼女が支えたいと思っていることも……
「まあ、明日も早いし。カザミ。そろそろ寝よう」
「そうだね……」
そう言って、布団を整え終えた、そのときだった。
あまり聞き慣れない電子音が響く。サキの携帯の、電話の着信音だ。
「あれ、こんな遅くに……」
アカネさんにはメールでお休み言ったのに。そう言いながら、サキが怪訝そうな顔で電話を取った。
「もしもし、はい。そうですが……えっ」
最後の声は、小さかった。けれども、その驚きの様子は、かなり深刻な色合いを秘めていた。
「……はい、はい……」
ナミは一瞬、聴力に魔力を乗せようかと迷ったが、しかし流石にそれは人として恥ずべきことだと思い直して、真剣になったサキの顔を、守るように見つめるだけに留めておく。
「……はい。ありがとうございますっ!」
更にもう2、3回、礼を丁寧に言い続けると、彼女は思いの外長くなった電話を切った。
「カザミ。大変だ!!」
「どうしたの、サキ?」
「父さんが、捕まった」
「つ……」
捕まった、というのはことばが悪い。だが、彼女の父親は、7月頭から2カ月以上も行方不明の状態であったのだ。それを思うと、行方が判明しただけでも有り難い。しかも、生きているのだ。ということは、今の電話は?
「警察。なんか、無銭飲食で捕まったみたい。これから私、警察に行かないといけないんだけど……」
「サキ、わたし、ついていこうか?」
気づいたら、ナミは即断で声を返していた。
「いや、ちょっと待って」
そうは言っても、風見家には車が無い。ここ中野町は駅前から離れた住宅街で、外へのアクセスはバス便が中心だ。そしてその市街地へのバス便は、そろそろ終わりの時間帯である。
7月の夜逃げのときは、近所の須田家の自家用車を強引に借りたのだ。今回もそうするかとナミが内心で算段を組み立て始めたその脇で、サキは電話で話し始めていた。
「あ、アカネさん。サキです。そうです、ええ。あ、そっちにも連絡が……」
どうやら、警察は同じ父方の親類、サキの父親にしてみれば姪っ子となる葉山アカネにも連絡を入れていたらしい。事情はすぐに通じた様子で、2人はテキパキと会話をキャッチボールしている。
「はい、じゃあ、アカネさん待ちということで」
アカネも自動車は持っていないのではないか、ということをナミはぼんやりと思うが、何かアテがあるのだろう。時間的に、職場である学習塾で残業をしているのかもしれないし、そこで車を借りるということは可能性として無くは無い。未成年であるサキとは違い、大人の職業人であるアカネならば予算を無視してタクシーでの移動を考えることもできる。
「ええ、カザミん家に留まっておきます。警察への連絡は……あ、はい」
じゃあ小一時間後に。そう言って、サキは2本目の電話を終える。
「カザミ。そういうことだ」
「そういうこと、か。うん」
「……カザミ?」
何故、疑問形で、サキがこちらを見上げているのだろう。それも、心配そうな顔で。
「カザミ。あんた、泣いてるの?」
「へ?」
その先は、ナミはことばが出なかった。
「いやだなぁ。そこまで心配しなくても、よかったのに」
そういうサキも、妙に嬉しそうな顔だ。
……生きていたんだ。
「無事、だったんだよね?」
情けないくらい、自分の声が掠れていることを、ナミは自覚しながら声を出す。
「ああ、無事だって。少し風邪気味らしいけど。あと、衰弱っていうか、相当食べてなかったみたい」
サキの方が、むしろしっかりとした声だ。そして、その表情が、温かい。
それを見た瞬間、ナミは頬に温かい何かが触れたことを意識する。
「あれ、なんで……」
「なんであんたが泣くのよ、私じゃなくて」
そう言うサキの声は、えらく嬉しそうだ。
「だって、サキ……」
それから先は、声にならなかった。
だから彼女は、体で先に行動してやった。
「……カザミ?」
抱きついた。拘束するというほどではないけれども、少しだけしっかりと、彼女を抱きしめた。
「きちんと。5人、揃って。家族。生きていたんだね」
良かったね。
それだけを言って、彼女はまた声を詰まらせた。もう、喋る必要は無いだろう。
「あ、ありがと、カザミ」
コツン、とサキが、ナミの肩へとその頭を預けてくる。その温かさが、心地よい。気がつくと、ナミ肩口が少しだけ濡れていた。
ポンポン、とサキの背中を軽く叩く。それは母親か父親が赤子によくやるような、優しい仕草だった。
サキもまた、それ以上は声を出すことは無かった。肩口の濡れ具合が、少しだけ増えた。それだけのことだ。
2人の少女は、殆ど身長差が無い。体重などもそう大きな差は無い。しかしその彼女を、ナミは妙に軽いと感じた。それだけ、彼女が弱く感じた。
「さて」
長いことそうしていたが、先にそれに一区切りをつけたのは、サキの方だった。彼女の促しに従って、ナミも身体を離す。そして乾いた綺麗なタオルを出してくると彼女へと差し出した。
「アカネさんの迎えが来るまでに。顔、ちゃんとしとこうか、サキ」
「そうだね」
それから、2人して鼻をかんだり顔を洗ったり、身辺をきれいに整える。パジャマに着替えていたサキは改めて昼間の服装に戻り、尚且つ明日の用意一式を改めて持って行くように整える。
「まだ少し時間あるかな。サキ。お茶でも飲む?」
「ううん、いいよ。下手したらレイジさん、起きちゃうでしょ」
「まあ、あれはわたしの使い魔だし。そういう気遣いは不要よ」
サキに関していえば、神矢レイジが魔女の使い魔であるということを理解している数少ない人間であるため、ナミは安心してそう言った。
2人、暫くことばも無く部屋に座りこむ。しかし少しだけ時間を置いて、ぽつりとサキがことばを洩らした。
「……2か月も。何やってたんだろうね、親父」
「風邪気味だっけ? 怪我とか病気とかしていないといいね、お父さん」
ウン、と小さくサキが頷いたようだ。
「そうだ、サキ。お母さんには?」
「うん、警察は先にそっちに連絡したみたい。それからアカネさん、私、と……」
ナミも小さく頷いて、あとはサキが話したいことだけを言えばいいと、そのまま沈黙を守ることにした。
静かになったからだろう。猫の無有がそっと入って来て、2人並んで座るその少し先の床へ、コテン、と寛ぎながら横たわるようにして座る。サキは声も出さぬまま、静かに黒白斑の若猫を見ていたが、やがてそっとその身体へと手を伸ばし、静かに彼の体を撫でた。
「行き先は、アカネさんが分かってるんだね?」
「うん」
「西乃市署?」
「ううん、東乃市の中央警察だって」
「あー、そうかー」
和国の首都圏ではない、地方都市に過ぎない雨音地方の中でも、西乃市はさして大きな規模ではない。但しその東側に隣接する東乃市は、県庁所在のみならず、雨音地方の中心都市とも言える。都市の規模としては、そちらは随分と大きくなる。ナミたちの住む西乃市よりも、それはもう大分大きな違いが。だからきっと、サキの父親が保護された、もしくは捕まったのも、東乃市の圏内なのだろう。
「そういえば、あんた」
急に、サキが密やかな声で、話題を変えるかのように、正面を向いたまま彼女を見ないで話を継ぐ。
「随分と、泣き虫になったね」
「へ?」
「カザミ。中学の3年間。あんた、一度だって、泣かなかったじゃん。やっぱりカザミ、先月のレイジさんとのこと。いろいろと影響してるんじゃない?」
……サキの指摘は、結構当たっている。
先月、8月の夏休みのさなか、彼とナミとは随分と揉めた。しかし結局は、2人は義兄妹としての関係性を確認し、また使い魔とその主人としてその再契約を選択したばかりでもある。
その意識の根底には、9年前の2人の出会いと暮らしがあったのは事実だ。それ自体は、3カ月かそこらの、子どもの頃のおままごとのような暮らしに過ぎないものだった。
だがしかし、その3カ月間は、あの使い魔、神矢レイジにとっては至宝の時間であったのだという。それは同時に、彼女にとっても、ある種特別な思い出でもあり、複雑な気持ちの根源ともなっている。
そして続く9年間。長いこと、彼女の中でその記憶は封印されていた。彼女が泣けなかったのは、そうした無理も相当に影響があったのだろう。
封印の解かれた今、彼女の感情はもう少し自由になっている。
「まあ、悪いことじゃないと思うよ。キチンと泣けるってことは」
そう言って、ようやくサキは、彼女へと振り向いた。
「まさに、『雨降って、地、固まる』だったじゃん。あんたら。まあ、レイジさんの秘密とかやってきたこととか。決して褒められたもんじゃないけど」
「うん。わたしもそれは思う」
許す気も無い、と付け加えるのは、彼の名誉のために止めておいたが、彼女の神矢レイジに対する複雑な感情に関しては、サキはほぼ理解しているはずだ。
「まあ、あんたたちほどじゃないけれども、私も父さんにはいろいろと、ね」
不倫もあれば借金だって。一家離散の大きな要因は、その父親にあったからだろう。けれども、それでも、生きていて良かったと。サキは思っていたのだ。葉山サキの、その澄んだ瞳がはっきりと物語っている。
「じゃあ、私、そろそろ行くね」
携帯を見て、サキが大きく息を吐きだした。恐らく近くまで来たというアカネからのメールでも確認したのだろう。
「うん。見送らせて」
猫を名残惜しそうに撫でていたサキが、立ち上がる。ナミもそれに合わせて、静かに立ち上がった。
「レイジさん、寝てるかな?」
「別に、挨拶はいいよ」
そう言いながら、2人は階段を降りる。
しかし彼はまだ起きていたのか、あるいは目が覚めたかしたらしい。階段を降り切る前に、既に灯りのともっていた彼の部屋の扉が開いた。
「どうかしたかね? 二人共」
「うん、サキに急用ができて」
「あ、レイジさん。お世話になりました。事情はまた、改めて報告します。取り敢えず、いいことが起きました」
「いいこと、ですか?」
「はい。父が、生きて見つかりました。今、東乃市警察の拘置所だか留置所だかにいます」
彼が、ことばを発することも無く、客人の少女を見つめている。恐らく和語が母語でない彼にとって、こういった場合の適切なことばを選べないでいるのだろう。
「カザミ、ありがとう。そしてレイジさんも。また、この件は詳しく。では、行きますね」
「見送りはいいのかね?」
「アカネさんが来るって」
サキに代わって、ナミが彼の疑問へと返事を返す。
「遅いので、気をつけて」
彼は、事態の変動については何も言うことはせず、客人とその従姉妹の無事だけを声にして、足早に退室しようとする彼女をナミと一緒に見送るに留めた。
「サキ、なんか拙いことがあったら、夜中でも明け方でもいいから、電話でもメールでもしてね」
「うん、分かった。カザミ、ありがとう」
そして、ドアを閉める前に、もう一度。
「カザミ。本当に、ありがとう」
そう言って、葉山サキは、風見の家を後にした。
(続く)
「テトラ・ポッター」については、ジャニーズ系のグループ+EXILE÷2、といったイメージで考えて綴っています。
因みに只ノは、EXILEのATSUSHIはTV東京系のASAYAN(懐かしいなぁ)の男性ボーカリストオーディションで目にしておりました。5人の中では一番歌が巧かったと思って視聴していました。当時からヤクザ顔でしたが(確かあっちゃん20代)。
しかし、ATSUSHI以外のメンバーは、とんと見分けがつきません。
その意味では、ナミちゃんを笑えないんですが。
さて。「犬侍」と「テトラ・ポッター」。取り敢えず、今回の最重要キーワードが半分揃いました。
次は、主要登場人物が増えますよ、という展開です。
なるべく早くのアップを目指したいと思います。
どうか、次もおつき合いのほどを。では、また。




