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去りゆく車窓から

 たたん、たたんたたん……

 不揃いな振動が、体に響いている。

 私は座席の端に腰掛けて、背もたれに身を預けることもできず、冷たい手すりにそっと掴まっていた。

 空いているほうの手で、目の前に置いたベビーカーを小さく揺らす。赤ん坊はすやすやと気持ちよさそうに寝息を立てている。白い頬に長いまつげの影を落とし、つくりもののような手をきゅっと握って。

 ほっとして、顔を上げる。平日の昼間、各駅停車の私鉄。実家から自宅へ戻るのに、混み合う時間を避けて乗った電車には、それでもぱらぱらと乗客がいた。腰の曲がったおばあさん、スーツ姿のおじさん、カジュアルな服装の学生らしき男の子。それぞれがひとりずつで、言葉を交わす人は誰もいない。

 つぎはー、しもおたいー、しもおたいー。

 間延びしたアナウンスがお構いなしに響く。なにしろ、停まる駅が多い。子どもが目を覚ましやしないかと、毎回ひやりとする。

 電車が速度を落とし、ひと気のないホームに滑り込む。ぷしゅう、とドアが開き、新たな誰かが乗り込んでくる。ぴゅーういっ、と鋭い笛の音。プルルルルル、とけたたましいベルの音。また、ぷしゅう、とドアが閉まり、それでは発車しまーす、とアナウンスが続く。

 何も、毎度毎度そんなに大きな音を立てなくても。

 仕方のないことなのに、無性にイライラしてしまう。ちらりとベビーカーを覗くと、我が子は変わりなく眠っていた。

 気を紛らわそうと、車内をゆるりと見回す。すると、反対側のドアの近くに会社員風の若い女の子が立っているのが目に入った。この時間帯からして、外回りの仕事だろうか。きっと、さっきの駅で乗ってきたのだろう。

 華奢なパンプス。ストライプ柄のタイトスカート。皺ひとつない白のブラウス。肩に掛けたハンドバッグは、書類がすっぽり入りそうな大ぶりのものだ。長い髪はきっちりと巻かれ、背中に垂れていた。こちらに背を向けているので顔は見えないけれど、メイクもばっちりのはず。

 あぁ、私も数年前までは、あんなふうにきれいにしていたのに。思わず、乱雑に束ねた毛先に触れる。

 彼女はドアの横の手すりに掴まって、ぼんやり外を眺めているようだった。

 窓の向こうを、見覚えのある街並みが流れていく。古めかしい壁の図書館、やたらと大きな何かの工場、アパートのベランダに掛けられた怪しげなお店の看板。あまり、というより、ぜんぜん変わっていない。この景色を見ていたのが、まるで昨日のことのように思えてしまう。

 私は以前、通勤でこの線を使っていた。各停ではなく急行に乗って、満員電車に揺られて。今あの女の子が立っているドアの横のあたりが、ちょうど私の定位置だった。

 次の駅に着き、さっきと同じ順番で大きな音が鳴る。赤ん坊は眠ったままだ。電車がそろりと発車する。

 通勤中はいつも、イヤホンで耳を塞いでいた。周囲の音なんて気にも留めていなかった。手すりをぎゅっと握り締めて、他の乗客に潰されないようにじっと耐え続けた。そんなふうにして、どうにか自分のスペースを確保していたのだ。

 途中、小学校のプールが見える場所を通り掛かる。抜けるような空の青色に比べて、季節を過ぎたプールの水の色は暗く沈んでいる。

 不意に、胸の奥がきゅうっと苦しくなった。

 私は当時、どんなことを考えながらあそこに立っていたのだろう。

 何に悩み、何に涙し、何に喜びを感じていたのだろう。

 あのころの私をびっしりと取り巻いていたいろいろなことを、今の私はひとつとして思い出せずにいる。

 四角に切り取られた景色の中を、影のようなものがさっと横切っては、その姿を捉える前にどこかへ消えてしまう。ただ何かの感情の切れ端だけを、この胸にぽとんと落として。

 電車が地下に潜り、窓の外が暗くなった。いつの間にか車内には電気が灯っている。

 つぎはー、なごやー、なごやー。

 かつて私が降車していた駅。座っていた乗客も腰を上げ始める。ベビーカーの子どもがもぞりとする。

 ふと、はぁぁ、と深くて重いため息が耳に入った。

 見ればあの女の子が、俯いて手すりに寄り掛かっていた。どうやら、ため息の主は彼女らしい。

 電車は容赦なく、たくさんの人が行き交うホームに入っていった。するすると流れていく、顔、顔、顔。その誰もが皆、迷いなく前を向いているように見える。

 そのとき、女の子がぴんと背筋を伸ばした。そして、ふうっ、と短く息を吐く。

 やがて電車は止まり、ぷしゅう、とドアが開く。とたんにざわめきが溢れ出してくる。

 ヒールの靴が、一歩を踏み出す。一瞬ちらりと見えた横顔。その目には強い光が灯っていた。長い髪を翻して、彼女は人の波に分け入っていく。

 入れ替わるように、何人かの乗客が乗り込んできた。笛の音、ベルの音、ドアの閉まる音。短いアナウンスの後、電車が動き始める。

 ホームがまた、ゆっくりと流れていく。改札へと続く階段の人混みに、彼女の背中を見つけた。

 だけどそれもあっという間に遠ざかり、窓の外は再び真っ暗になった。

 ぐんぐんとスピードを増す電車が、緩やかな坂をのぼって地上に出る。光が差し込み、車内がぱぁっと明るくなった。

 目を覚ました我が子が、ふぇ、と小さく声を上げた。じぃっとこちらを見つめる瞳に、そっと微笑みかける。

 窓の向こうに、あまり馴染みのない街並みが見える。ドアの横のスペースには、もう誰もいない。

 私も、あんな顔をしていたのだろうか。

 キッと視線を上げて、何かに挑みかかっていくような目をして。

 あの日の私が、混み合うホームに飛び出していく。細いヒールで階段を駆け上がり、改札をすり抜けて、前へ前へとひたすらに突き進む。

 たたん、たたんたたん……

 体に響く振動が、胸の奥を打ち鳴らしている。

――がんばれ。

 人混みに消えていった後ろ姿に、そう、心の中で呼び掛けた。



―了―

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