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欠落ちぬ月【R-15】

 月が、ついてくる。


 ざく、ざく、と草履が地面を踏む音が、途切れ途切れに鼓膜を揺らす。

 虫が鳴く季節は疾うに過ぎ去ってしまったらしい。僅かの風もない今夜は、草木もすっかり眠っている。

 これはどこへ続く道なのか、そもそもどこへ行くべきなのか。それすら判らぬ心許なさを誤魔化すように、若者は一歩一歩を力強く踏み締める。

 胸元でランタンが揺れる。肩ごしに伸びる白い手が掴むそれは、彼の迷いそのものだ。

 見知らぬ街を包む空気はひどく冷たい。ただ背中に寄り添う娘の身体だけが、確かな温もりを若者に伝えている。

「……ごめんなさい、背負わせてしまって。こんな時に鼻緒が切れるだなんて」

 負われた娘が、小さな声でそう言った。うなじに掛かる吐息にぞくりとする。背にあたる柔らかな感触から意識を遠ざけながら、若者は低い声で言う。

「……力仕事には慣れていますから」

 あら、と娘が言う。

「ごめんあそばせ」

「すいません、そういう意味で言ったんじゃ……」

「解っているわよ」

 ふふ、と笑みが零れる。少しだけ、空気が緩んだ気がした。





 ある山の中に、いつとも判らぬ昔から脈々と続く旧家があった。

 その家は人里離れた処にひっそりと隠れるようにしてあったので、その存在を知るのは近くの集落に住む人々だけであった。

 もっとも、屋敷の外縁はぐるりと高い生垣に囲まれており、外側からでは中の様子を伺うことすら儘ならない。時おり、麓の街から来た用聞きらしき者が裏口より出入りしているので、屋敷に住人が居ることは確かなようではあったが、集落の村人の中で屋敷の主人の顔を知る者は誰一人とて居なかった。

 屋敷を守る表の門は、いつもぴたりと閉ざされている。その鈍色の鉄の門扉には、奇妙な文様が描かれていた。

 絡み合う二匹の蛇。

 それは何とも近寄り難い荘厳な佇まいであり、故に人々は噂していた。

 蛇信仰を強く持ち続けた古き豪族の末裔にあたる一族が、天皇を神と奉る皇族や施政者から疎まれ、落ち延びてここに棲み付いたのではないか――と。

 しかしそれとて誰が言い出したか判らぬ根拠のない話で、確かなことは誰も知らなかったのである。


 庭師の弟子であった利吉は、月に一度、庭木の手入れの為その屋敷に出入りしていた。そうでもなければ、元来そのような身分の高い家に縁などない。

 利吉の生家はここより遠く離れた漁港近くの村にあり、漁に使う道具を作って細々と生計を立てていた。利吉は先の見えない暮らしを嫌い、十六の年に田舎を出て高名な庭師に弟子入りしたのであった。


 かの旧家に初めて連れられて来た時分には、利吉もその陰々鬱々とした雰囲気をひどく訝しく感じたものだ。しかも蛇の文様の描かれた立派な正門ではなく、さっと見ただけでは殆ど生垣と見分けの付かぬ裏手の小さな扉から、人目を憚るようにして入らねばならぬときた。

 一体この屋敷にはどのような人物が住んでいるのか。田舎から出てきたばかりの若者が好奇心に胸を躍らせたのも、無理からぬことであった。

 しかしひと度足を踏み入れると、その庭の見事さに利吉は思わず息を飲んだ。

 堂々とした見事な枝ぶりの松、鮮やかな茜色に染まった紅葉、色とりどりに咲く花。それまで親方についていくつかの庭を目にしていた利吉であったが、その美しさは群を抜いていたのである。少なくともここの主人は風流を解する人物なのだろう、と思った。

 だが利吉にとってそれ以上に鮮烈だったのは、この屋敷に住む娘との出会いだ。

「こんにちは」

 鈴の鳴るような声を背後から掛けられたのが最初だった。驚いて返り見れば、利吉と同じ年頃の娘が陽の当たる縁側に立っていたのである。

「あなた、新しい人ね。お名前は?」

「……利吉、です」

 咄嗟に返事を出来ずにいた利吉は、ようやく口を開いて自分の名を言った。すると娘は木漏れ日のような笑みを零した。

「私は聡子。利吉さん、今日はよろしくお願いします」

 庭師たちの仕事の間、聡子は縁側にしゃんと坐し、彼らの様子をじっと眺めていた。

「お庭が綺麗に整えられていくのが面白くて。どうかお気になさらないで」

 聡子はそう微笑んだが、利吉は気にしない訳にはいかなかった。

 何しろ、美しい娘である。

 絹のように艶やかな黒髪、陶磁器のような白い肌。切れ長の目を縁取る長い睫毛、小さな鼻と口。ぴんと背筋を伸ばし膝の上に手を揃えて座る姿は、屋敷の庭に大輪の花を咲かせる寒牡丹にそのまま重なった。


 浮世から隔てられた屋敷の住人たる聡子は、穢れを知らぬ上質の真綿のようであった。同時に、その目には他の者に有無を言わせぬような強かな光を宿していた。聡子に微笑みかけられてその我儘を退けられる男など居らぬのではないか。利吉はそんな風に感じた。

 親方は聡子が少し苦手のようで、「見張られているようで敵わん」などと言った。しかし利吉には聡子が純粋に庭作業の様子を楽しんでいるように見えたし、年の近い自分に対しては他の兄弟子たちよりも気安く声を掛けてくれるようにも思えた。

 縁側に繋がる廊下を行き来するのは女中らしき年老いた女のみで、その奥に続く部屋は随分ひっそりとしていた。庭の手入れで出入りしているだけの身分では家の細かな事情など尋ねる由もなかったが、聡子が暇を持て余していることは目に見て明らかであった。



 利吉が聡子と女中以外の人物を見たのは、三度目に屋敷を訪れた時のことであった。

 いつもの如く親方の手伝いの合間にぽつりぽつりと聡子と言葉を交わしていた頃合、その人物が縁側を通り掛かったのである。

 それは利吉より少し年上に見える、聡子に良く似たかんばせの美しい青年であった。

 彼の雰囲気は女性である聡子よりもむしろ艶っぽく、その姿に視線を奪われたが最後、僅かたりとも目を逸らすことが出来なくなってしまった。彼の怜悧な眼差しが自分の方へ向けられた時には、利吉の心はぞくりと粟立つようにさざめいた。

 しかし何より異様であったのは、他でもない聡子の様子だ。

 いつもは凛としている聡子が、その青年を前にした途端まるで射竦められたかのように畏まり、床に指をついて深々と頭を垂れたのである。

 青年はそれを気にするでもなく、切れ長の目をすぅと細めて整えられた庭を一瞥し、満足そうに二、三度頷いた後、床に這い蹲った恰好の聡子にそのままの視線を向けた。

 そして涼やかな声で、言った。

「あぁ、いい塩梅だね」

 その言葉が、庭の感想を述べたものなのか、それとも聡子の様子を言ったものなのか、利吉には判らなかった。青年の顔に浮かんでいたのは、ぞっとする程の美しい笑みであった。

 青年はその後直ぐに縁側から立ち去ったが、聡子はなかなか面を上げなかった。ようやく身を起こした聡子の顔は真白で、いつも強い光を宿す瞳はびいどろ玉のように虚ろに揺れていた。


 かの人物こそ屋敷の主人であり、聡子の兄であった。早くに先代を亡くした彼は十五の年から家長を務めており、以来五年、屋敷の中では絶対の存在だったのである。

 利吉は、自分と然程年の違わぬ青年が屋敷の主人であるということよりも、彼が聡子の実の兄であるということにひどく驚いた。

 二人の様子は、利吉の知る「兄妹」の関係とは余りにかけ離れていたからだ。

 あんなに冷たい目で、妹のことを見るなんて。

 それはまるで、動けぬ獲物を愛でる蛇のような目だったのだ。



「私はこの家から出られないのよ」

 何度となく屋敷を訪れ、何度となく言葉を交わすうち、聡子が時おり寂しげな顔を見せるようになった。その訳を尋ねた利吉に対して、聡子はそう言って自嘲するような笑みを零したのであった。

「あの門がずっと閉ざされているからですか?」

 利吉は思い切って、気になっていたことを訊いた。すると聡子は少し声を顰めて話し始めた。

「あの門に蛇が描かれているのを知っているでしょう?」

「はい」

「あれは我が家の守り神なのよ。だから門を開くことでそれが割れてしまうのは縁起が良くないって。そんな理由で閉ざされているの」

 莫迦みたいでしょう、と聡子は付け加えた。

「でも私たちが使っている裏口もありますんで、出掛けようと思えば出掛けられるんじゃないですか?」

「駄目よ、お兄さまに怒られてしまうわ。外には不浄が多いからって。それにきっと、どこへ行っても一緒だわ」

 聡子はつと、睫毛を伏せた。

「背中で縛られているの」

 その言葉の意味はよく解らなかった。

 しかし家から出られぬのであればと、利吉は外の話をした。遠い自分の故郷の風習や穏やかな平野の四季、漁港近くの市場の活気――武骨な語り口ながらも利吉の話はどれも物珍しかったようで、聡子はくるくると表情を変えては熱心に聞き入っていた。

 聡子はその中でもとりわけ、海の話に興味を示した。

「海……話には聞いても、一度も見たことがないの。どのくらい大きなものなの?」

「そりゃあ、海より大きなものなんてこの世にありませんよ。見渡す限りどこまでもどこまでも拡がっていて、遠い異国に繋がっているんです」

 ほぅ、と聡子は溜め息を漏らした。

「素敵……一度でいいから見てみたいわ」

 そう言って聡子は目を細めた。決して自分の手には入らぬものを、そうと知りながら望むように。その表情に、利吉の心は痛んだ。

 それを知ってか知らずか、聡子は無邪気な調子で続けた。

「ねぇ利吉さん、いつか連れて行ってね」

 柔らかな陽光の中で、聡子の笑顔が揺れた。その瞬間、心臓を締め付けられるような甘やかな苦しさにはっとして、利吉はようやく気付いたのであった。

 自分もまた、手に入らぬものを望んでいるのだと。





 それから二年の時が経ち、聡子が十八になった頃のことであった。

 先んじて遠縁の娘を妻として迎え入れた兄に続くようにして、聡子の縁談が持ち上がったのである。

 家に見知らぬ女が来てからというもの、どこか所在無げにしていた聡子は、更に見て判る程に表情を失くした。

「会ったこともない人の処にお嫁に行くだなんて」

 いつもの縁側で、聡子はそう独りごちた。利吉は胸の中ににじりと拡がる痛みから目を背け、努めて明るい声を出した。

「海に近い街だと聞きました。お嬢さんがあんなに見たがっていた海が見られるんですよ」

「……それでも私は、この家に縛られているの」

 利吉の顔も見ずに言った聡子の声は、秋の空気に乾いた余韻を残した。どこに行ったとて、聡子に自由はない。利吉にはそれ以上に掛ける言葉も見付からなかった。

 いずれにせよひと月後には、聡子は見知らぬ男の許へ嫁いでしまう。会うのはこれが最後かも知れなかった。

 初めから叶わぬ想いだった。ずっと秘め続けてきた気持ちを聡子に伝える気は、毛頭なかった。自分に出来ることは唯一つ、聡子の平穏を祈ることだけだ。遠い場所でも、見知らぬ男の妻としてであっても、幸せであればそれで良い。そう思おうとした。

 しかし運命の悪魔が、利吉の袖を引いた。

「ねぇ、お願いがあるの」

 白い指で利吉の骨ばった手に触れた聡子が、長い睫毛の下から彼の目を覗き込んだのである。

「私を連れて、逃げて頂戴」



 皆が寝静まった頃に裏口から聡子を連れ出し、夜のうちに山を下りた。

 山道に慣れていない聡子にとっては険しい道程だったが、彼女は弱音ひとつ零さずに利吉の後をついてきた。利吉は何度か聡子を背負うことを申し出たが、彼女は頑なに首を横に振った。

 麓の街には、利吉自身の住まいがあった。仕事仲間も住んでいる。聡子と一緒にいるところを誰かに見られでもしたら不味い。二人は夜が明けるのを待って、朝一番の列車に乗り込んだ。

 誰も自分たちを、知り得ぬ場所へ。

 何も彼女を、縛るもののない場所へ。


 聡子は列車に乗るのは初めてだったようで、ひどく心許なげな表情で俯きながら、他の乗客や窓の外を流れる景色をそっと目で追っていた。

 車掌が切符の確認に来たので、利吉は居住まいを正して二人分のそれを見せた。切符が手許に戻ってくると、ようやく人心地が付いた。少なくとも、終着駅まではここにいることが許されたのだ。

 隣に座る聡子は、未だ頬を強張らせたままだ。利吉は聡子の方を伺いながら、ぎこちなく手を握った。驚く程ひやりとした手であった。

「冷たい手ですね」

 聡子はそろりと顔を持ち上げて利吉の方を見、ごく僅かに唇の端を上げた。

「……少し疲れたわ」

 利吉が握った手に力を込めると、聡子は再び俯いて、少し気恥ずかしそうに微笑んだ。

 しばらく無言の時が続いた。利吉はそれから聡子の顔を見ることが出来ず、ただ自分の体温で小さな手がだんだんと温まっていくのを感じていた。

 ふと、肩に何かが触れた。

 顔を向けると、聡子が首を持たせ掛けて音のない寝息を立てていたのであった。長い睫毛の影が白い頬に落ちている。利吉とて疲れてはいたが、聡子の頭の重さが心地良く、眠ってしまうのは勿体なく感じられた。

 列車はいくつもの見知らぬ駅に停まり、その度に幾人もの見知らぬ人々が二人の脇をすり抜けて行った。誰も彼らを気に留める者は居ない。今この場に於いて、確かなものは互いの身体のみなのだ。そう思うと、隣に寄り添う熱を一層愛おしく感じるのであった。

――海をお見せしたら、お嬢さんは喜ぶだろうか。

 屋敷を出て以来、いや、縁談が決まって以来影を潜めていた聡子の笑顔を思い描くと、利吉の胸は甘く疼いた。聡子の首を擡げる不安、そして利吉自身の不安は、目にも留まらぬ景色の中に置き去りにしてしまえばいい。そう思った。



 何度かの乗り継ぎを経て海沿いの街に到着したのは、ちょうど陽の沈んだ頃であった。晩秋の夕陽は足が速い。西の空の茜色は、すぐに東から下りる深い群青の帳に追い遣られてしまう。

「何だか不思議な匂いがするのね」

 聡子はそんなことをぽつりと漏らした後、一つくしゃみをした。街を包む空気は潮の匂いがして、しんと冷たい。

 早く今宵の宿を探さねば。

 利吉は聡子の横顔をちらと伺った。すると先刻まで利吉の隣で眠っていた無防備な娘は既にそこには居らず、ぴんと張り詰めた顔の女がごく小さく息をしていた。その輪郭は宵闇に融け、この世の果てに辿り着いた旅人のようにも見えた。

 見知らぬ街の空気の冷たさが、先程まで利吉の心を満たしていた温かさすらも奪い去ってしまったようであった。代わりに、寒気にも似た不安が自分の中に滑り込んでくるのを感じていた。

「海が見たいわ」

 利吉がうまく言葉を返せずにいるうちに、聡子は独り言のようにそう呟いた。

「しかしお嬢さん、もう暗いですから、明日にしませんか」

「海が見たいのよ」

 聡子は顔を上げ、今度は強い眼差しで利吉を見据えた。聡子にそう言われて、断る術を利吉は持っていなかった。

「……解りました。ではそこらでランタンを一つ、買って来ましょう」


 店じまいしかけた小さな工具屋に飛び込み、手提げランタンを買った。

 火を灯すと、辺りがほの明るくなった。利吉の一歩後ろを歩く聡子の俯きがちな顔が、ぼんやりと照らし出される。ゆらりと揺れる炎の作り出す陰が、聡子の白い頬を闇色に染めていた。

 生まれて初めて家を離れ、遠い街へ来てしまった心許なさか。いつ屋敷の者が追ってくるか判らぬ不安か。あるいは家を飛び出したことそのものに対する後悔か。

 いずれにしても、聡子の顔に過る翳りは利吉の心にざわめきを生み出した。

 それでも揺らめくランタンを頼りに、海岸を目指す。ゆらゆら、ゆらゆらと見知らぬ街が移ろう。何もかもが――聡子さえも――不確かで、まるで現によく似た夢の中に居るようであった。

 ふと、ぷつんと何かの千切れる音がした。

「あ……」

 聡子が小さく声を上げ、しゃがみ込んだ。

 見れば右足の下駄の鼻緒が切れている。その華奢な下駄は、思えば長い道程を旅してきたのだ。本当はもう、この辺りで立ち止まるべきなのかも知れない。

 しかし困り果てたように真っ直ぐ見上げてくる聡子の表情は何故だか妙に懐かしく、利吉の心に僅かばかりの灯を与えた。

 利吉は背を向けてしゃがんだ。聡子は今度こそ素直に、利吉の背に身を預けたのであった。





 辿り着いた海岸は、ひどく物寂しい場所であった。

 漆黒の天鵞絨びろうどを拡げたような空には、真円の月が張り付いている。態とらしい程に煌々と光を放つそれは、真白に乾いた砂浜を照らし出していた。

「下ろして」

 利吉が聡子を下ろすや、彼女はランタンを彼に預け、下駄と足袋を脱ぎ自らの足で砂を踏んで進んで行った。聡子の向かう先にあるのは、空の黒よりも一層深い、闇のような海だ。

 ざ、ざ、と寄せては返す波は厭に静かで、命あるものを気付かぬうちに取り込んで無へと誘う死神の呼び声のようだ。聡子は引き寄せられるようにふらふらと波打ち際に近付き、波の届く一歩手前で足を止めた。

 聡子の眼前には今、どこまでもどこまでも続く海が拡がっている。

 どこまでも、どこまでも続く闇。

 その縁に、聡子は立っている。

 声を、声を掛けなければ。利吉はそう思ったが、言葉は舌の根に張り付いたままであった。

「お願いがあるの」

 さざめく波の音を遮って、聡子の凛とした声が冷たい空気を切り裂く。その声は利吉の心臓に突き刺さり、彼の呼吸を一瞬止める。聡子は相変わらず利吉に背を向けたままだ。

 ざ、ざ……今や波の音は、利吉をも取り込もうとしていた。

 聡子はやおら、背中に手を回して帯を解き始めた。

 か細い衣擦れの音がしゅるり、しゅるりと甘く利吉の耳朶を打つ。心臓の鼓動が足を速める。徐々に苦しくなる呼吸の一方、利吉はでき得る限り息を詰めていた。

 しゅるり、しゅるり――錦糸の刺繍の帯が砂浜に落とされ、続いて深い藍色の羽織が華奢な肩から滑り落ちる。

 遠くに見える松木林が利吉の心音に合わせて跳ね踊っている。手の中にあるカンテラの灯が、それを煽るように煌々と燃えていた。松木林、灯、砂浜。一通り視線を巡らせた後、利吉は再び聡子の後ろ姿に目を向けた。

 見てはいけない、聡子を止める言葉を掛けなくてはならない。そう思いながらも、甘美な衣擦れの音は利吉の頭蓋の中に反響し、彼から自由を奪った。脳髄はまるで酔ったかのように痺れ、陽物に抗い難い熱が生まれる。

 しかしその熱は、聡子が絹の襦袢を肩から落とした時に掻き消えた。

 カンテラの灯が滑らかな肩の曲線を浮かび上がらせる。露わになった聡子の背中にあったものに、利吉は息を呑んだ。


 その透き通るように白い肌の上にあったのは、大きな刺青であった。

 まぐわうように絡み合う二匹の蛇。屋敷を守る鉄の門に描かれていたのと同じ文様だ。


 それはさしずめ何かの呪印のように、聡子の小さな背を覆っていた。

「私の背中を、焼いて頂戴」

 振り返ることなく発せられた聡子の言葉の意味を解するのに、利吉は数瞬を要した。

 辺りには相変わらず波音が漂っていたが、今やそれ以上に利吉自身の心音が大きく鳴り響いていた。

 背中で縛られているの。いつか聡子の言った言葉が不意に蘇る。

「お嬢さん、その刺青は……」

「私が、あの家の娘であることの証。私がどこへ嫁いでも、あの家の血筋が穢れないようにするためのまじない。お兄さまはこの血を絶やさぬためだけに、私を嫁がせようとした。お兄さまは私の背中しか見ていない。私はお兄さまの、所有物でしかないのよ」

 利吉は聡子の兄を思い出した。自分の妹のことを、まるで庭木でも見るような目で眺めていた男を。

 聡子はついと、空を仰ぎ見る。

「だから、私の背中を焼いて頂戴」

 利吉は刺青から目を逸らすことが出来なかった。

 焼く? 誰が? 何を? どうやって?

 ゆらりゆらりと揺れる灯りに照らされて、聡子の肩が小さく震えていた。

「……出来ません」

 利吉の喉からようやく出た声は、ひどく擦れていた。

 聡子は襦袢で胸元を隠しながら、静かに振り返った。久々に交わった眼差しが利吉を鋭く射抜く。

「あなた、私をここまで連れ出しておいて、私を解放することもしてくれないの? これがある限り、私はお兄さまから逃れられないのよ。どこに行ったって一緒だわ。あなたがしてくれないのなら、私……」

 にわかに聡子の喉が詰まる。その背後には、闇の海が今も飽きることなく拡がっている。それはほんのふとした切欠でいつでも容易く聡子を飲み込んでしまうように思えた。

「だから、さぁ、この背中を焼きなさい」

 もはやそれは、依頼でも懇願でもなかった。利吉を射竦める聡子の眼差し――それは彼女の兄によく似て底冷えする程美しく、利吉に承諾以外の返事を許さぬ強さを孕んでいた。

 他にどうすることが出来ただろう。

 利吉は足元に転がっていた木切れを拾い上げ、持っていた手拭いを先端に巻き付けた。そしてカンテラの蓋を開け、布に火を移した。最初は小さな火だったが、次第に布じゅうに燃え拡がり、即席の松明となる。

 それを見た聡子は、再び利吉に背を向けた。

 利吉は一歩、一歩と聡子へ歩み寄っていく。

 ぱちぱちと音を立てて燃える炎は、聡子の白い背中とそこに横たわる蛇の刺青とを、闇からくっきりと浮かび上がらせている。

 聡子は砂浜に膝をつき、首を擡げ、自らを抱き締めるような恰好で身を固めた。空からは満月の白い光がしんしんと降り注ぐ。聡子の後ろ姿はまるで、何かに祈りを捧げているかのようであった。

 無防備に晒された聡子の背中に、利吉はゆっくりと火を近付けていく。松明を握る指先は氷のように冷え、震えを止めることが出来ない。小刻みに揺れる炎が、遂に聡子の皮膚に触れた。

「あぁ――っ!」

 その瞬間、聡子が声を上げ身を仰け反らせたので、利吉は咄嗟に火を離す。

「お嬢さん、やはり……」

 しかし聡子はキッと振り返り、尚も鋭い視線で利吉を睨み付ける。

「……いいから、構わず続けなさい!」

 ぴしゃりとそう言い放ち、聡子はまた正面を向く。そして先程よりも固く身を抱き締め、右手の甲を唇に宛がった。

 利吉に出来るのは、少しでも早く苦痛の時間を終わらせることだけであった。再び松明を聡子に近づけ、今度は躊躇うことなくその背中に炎を押し付ける。

「んっ――……」

 聡子は身を震わせ、小さく呻き声を上げた。しかしそれ以降は更に身を固くし、じっと耐えていた。細い左手の指が、自身の右腕に爪を喰い込ませる。背後からでは見えないが、右手はぐっと唇に押し付けられ、声の漏れるのを防いでいるようであった。

 獣のような炎が、聡子の白い肌を焼く。その表面にある蛇の刺青を、焼く。

 ぶすぶすと嫌な音を立てながら、獣は蠢く舌で聡子の背中を舐めていく。白く滑らかな肌は徐々に消え失せ、その下にある赫い肉が露出する。

 皮膚の焼ける臭いが利吉の鼻腔をつんと衝く。立ち込める煙が彼の身を包む。額には脂汗が滲み、脇の下には冷たい汗が伝っていく。聡子の背中を蹂躙する炎が、利吉の瞳をも容赦なく灼いていた。

 しかし、目を逸らすことは許されない。獣が蛇を焼き尽くすのを、しっかりと見届けなければならない――。


 やがて刺青の大半が赫く塗り潰された頃、利吉は松明を聡子から遠ざけ、砂浜に突き立てて火を消した。

 それまでじっと耐えていた聡子は、途端に意識を失ってその場に倒れ伏した。力なく地面に落ちた右手の人差し指にはくっきりと歯型がつき、血が滲んでいた。

 ざ、ざ……と途切れ途切れに続く波の音が、くぐもった意識を少しずつ洗っていく。利吉はがくりと膝を折った。今頃になってようやく、冷たいものが背筋を駆け昇っていった。

――自分は、何てことを。

 気付かぬうちに高度を上げていた真円の月は、二人の姿を逸らすことなくじっと見下ろしていた。





 気を失った聡子に軽く襦袢を着せ掛け、再び背中に負って砂浜を後にした。

 いつの間にか吹き始めた海からの風に煽られながら進んで行くと、陰鬱とした一角に迷い込んだ。

 うらぶれた雰囲気の飲み屋や宿が並ぶ通りには、派手な化粧をした女が幾人も立ち、道行く男たちに声を掛けている。橙火に照らされた人々の顔はどれも妙に明るく、しかし一方で誰も彼もが世の万物を値踏みするような視線を辺りに巡らせていた。

 冷やかし気味に掛けられる気怠げな女の声を無視して、利吉は足を速めた。どこでもいい。早く聡子を休ませられる処に身を落ち付けたかった。

 壁や柱に品のない装飾の施された待合宿のうち、最も質素に見えた建物に利吉は逃げ込んだ。



 元々そういう宿なので、襦袢を羽織っただけの聡子を背負っていても宿の主人は何も言わなかった。

 宛がわれた部屋は二階の角部屋であった。中央に薄い布団が敷かれている他、くぐもった姿見と蜀台が置かれているだけの、四畳半程度の狭い部屋だ。しかし今の彼らにはそれで充分だった。

 早速布団の上に聡子を下ろし、うつ伏せに寝かせる。そして傷痕に障らぬよう、肩に掛けていた襦袢を取り去った。

 すると再び、利吉の眼前にそれは現れる。

 滑らかだった肌を汚す、無惨に爛れた火傷。

 赫く塗り潰された隙間からところどころ覗く蛇の刺青。

 それらは先刻利吉が火を押し付けた時以上の生々しさで、そこに貼り付いていた。

 傷が痛むのか、聡子は時おり小さく呻き声を上げながら荒い呼吸をしていた。汗の滲む額には髪が張り付き、眉間には深く皺が刻まれている。もしかしたら熱が出始めたのかもしれない。いずれにしても明日の朝一番に、医者に見せに行く必要がある。

 しかし聡子の身を案じる一方で、利吉の中にはある想いが芽生えていた。

 聡子の命運は今、自分の手に握られているのだ、と。

 利吉は部屋の隅に腰を下ろし、膝を抱えた。この狭い空間の中で、動くものは唯一つしかない。

 華奢ながらも柔らかな曲線を描く聡子の身体が、呼吸に合わせて上下する。半開きになった形の良い唇から漏れ出る吐息が、部屋の温度を上げている。きっとあの肌は、燃えるように火照っているに違いない。

 手を伸ばせば簡単に触れられる距離だ。

 きっと聡子には抵抗する力もないだろう。

 決して自分の手には入らぬと思っていたものが、今やすぐ目の前に無防備な姿で横たわっているのだ。

 湧き上がる欲望の一方で、もう一人の自分が必死にそれを押し留めようとしていた。

 聡子を傷付けてはいけない。守らなくてはいけない。聡子には自分しか、頼れる者が居らぬのだ。裏切るような真似をする訳にはいかない。利吉は努めて聡子から意識を逸らそうとした。

 しかしどうしても、視界の片隅に紛れ込んでしまうのだ。

 その、爛れた背中が。

 どんなに言い訳をしようとも、それは変わることのない事実であった。


――お嬢さんの無垢な身体を汚したのは、他でもないこの自分なのだ。


 薄い壁を隔てた隣の部屋から、見知らぬ女の喘ぎ声が聴こえる。不意にその声と、聡子の呼吸がぴたりと重なる。

 気がおかしくなりそうだった。

 行き場のない熱を冷ます為、利吉は小さな格子の窓を開けた。窓は建て付けが悪く厭な軋み方をしたが、それでもどうにか拳二つ分程の隙間が出来た。その瞬間、薄らと潮の臭いを孕んだ風が舞い込み、小さくくゆっていた蝋燭の火をさっと掻き消した。直ぐさま夜の闇が、猥雑な街を揺らす橙火から逃げるように部屋の中へと迷い込んできて、二人の身体を融かした。


 ふと、聡子が声を漏らす。

 利吉はびくりと身を震わせ、恐る恐る聡子の方を伺った。起こしてしまったかもしれない。俄かに心臓が強く脈を打つ。

 利吉は膝と手をつきながら、そろりと聡子の顔を覗き込んだ。どうやら起きた訳ではないようだ。ほっと小さく息を吐くのと同時に、再び聡子の唇から声が漏れる。

 最初は何と言っているのか、よく聴き取れなかった。しかしじっと耳を傾けるうち、聡子の繰り返し発する音が利吉の中でようやく一つの意味を結んだ。


「……いさま……おにい、さま……お兄さま――っ」


 聡子は切なげに眉根を寄せ、目尻には涙すら滲ませていた。繰り返される声はいよいよ強く、狂おしく、小さな唇から零れ出る。

 まるで、愛しい者の名を呼ぶように。

 瞬間、利吉は全ての合点が行った。

 背中で縛られている――聡子が何から縛られているのか。

 ここから連れて逃げて――聡子が何から逃げたかったのか。

 逃れられない、どこに行ったって――背中に刺青がある限り、思い出してしまうから。

 いつも強かで凛とした聡子が、唯一抗えない相手。

 生まれながらにして無条件に平伏してしまう相手。

 例えどんなに恋焦がれても、決して結ばれ得ぬ相手。

 毒蛇のように美しい、血の繋がった兄のことを。

 自分の背中を焼けと命じた、聡子の鋭い眼差しを思い出す。決して聡子に抗えない利吉に注がれていた眼差しを。聡子が利吉の姿に重ねたものは、何だっただろうか。

 薄く開いた窓から、ちょうど満月が覗く。白く差し込む月の光は、部屋の隅に置かれた姿見に鈍く反射する。男女のまぐわいを映す為にあるその姿見は今、闇に沈みかけた聡子の背中を映し出している。

 既に赫く塗り潰されたその絵柄を、利吉はまだはっきりと思い出すことが出来る。

 官能的に絡み合う、二匹の蛇。

 それを掻き乱す火傷はさしずめ、許され得ぬ背徳の欲望を燃やし尽くさんとする業火のようであった。



 外の喧騒が、遠く聴こえる。人の欲を剥き出しにしたような音の集積は、凍り付いた利吉の思考に覆いを掛ける。

 これまで二人を取り巻いていた世界には、そのような音は存在しなかった。それが今や、彼らを隔てる静寂はそれによって埋められている。

 二人の間はもっと清廉で純粋なものに拠って繋がっているはずだと、心のどこかで信じていた。信じたかった。

 もはや自分たちは一体、どこへ来てしまったのだろう。

 そして、どこに行けば良いのだろう。


 月だけが変わらぬ様子で、ただ二人を見つめていた。



―了―

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