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おおぬきさんと私

 駅に続く地下街は、午後七時ともなると家路を急ぐ人々でそれなりに賑わう。縦に長く、端から端まで見通すことができるこの通路を、私は一定のリズムで歩いていく。今日も、いつもと変わらぬ帰り道だ。

 この地下街には、主に二十代半ばの女性をターゲットにした服や雑貨の店が立ち並んでいる。しかしだからといってとりわけ若い女性が多いかというと、そうでもない。ショッピングモールとしてよりも、駅までの連絡通路として利用する人の方がはるかに多いのだ。サラリーマンもいれば、おばあちゃんの集団もいる。いろいろな人がいろいろな状況で、この地下街を通っている。

 クリスマスの装飾で色めき立つウィンドウを横目に見て、そこに映り込む自分のシルエットを確認する。どことなくしょげたような、顔色の悪い女と目が合った気がした。私はふと、コーヒーが飲みたいな、と思った。

 私はたまに、会社帰りにこの地下街にあるコーヒーショップかファストフード店に立ち寄ることがある。両方とも、街じゅうでよく見かけるチェーン店だ。特にどちらがお気に入りという訳でもない。空いている方に入る。コーヒーが飲みたいと思った時に、ふらりと立ち寄れるのであれば、どこでも良かった。


 その日は金曜日だったせいか、コーヒーショップの方は待ち合わせに時間を潰す人で妙にごった返していた。だから私はファストフード店のレジに並んだ。

 かと言って、こちらも特に空いているという訳ではなかった。私の前には、三人ほどが順番待ちをしていた。

 そんな折だった。

「おい、ふざけんじゃねぇぞ!」

 一番前にいた男性が、突然大きな声を上げたのだ。

 何事かと思って見てみると、スーツを着たサラリーマンらしき男性が、レジ係の店員に食ってかかっていた。

「七時ってちゃんと伝えてただろうが! 出来てないじゃ、こっちは困るんだよ。この店はろくに注文も取れねぇのか!」

 事情はよくわからないけれど、注文していた品物の準備が、時間通りにできていなかった、ということだろうか。私を含め、レジ待ちをしている数名や店内にいるお客が、さも「聞いてませんよ」という顔をしながら、耳をそばだてている。

「ご注文は、七時、というふうにいただいておりましたでしょうか」

「だからさっきからそう言ってるだろうが!」

「かしこまりました、確認して参りますので、少々お待ちいただけますでしょうか」

 対応していたアルバイト店員は、二十歳前後と思われる若い女の子だった。苛立ち声を荒げる男性に対して、彼女は落ち着いたトーンでそう言って店の奥に入っていった。

 程なくして、彼女は戻ってきた。そしておずおずと切り出した。

「お客さま、ご注文ですが、七時半、というふうに伺っていたということなんですが……」

 すると男性がまた、声を張り上げる。

「はぁ? だから七時って言ったって、何べんも言ってるだろうが! 何寝ぼけたこと言ってやがるんだ。この店の責任者を出せ!」

「……かしこまりました、すぐに呼んで参りますので、少々お待ちください」

 彼女は再び奥に下がり、今度はなかなか表に出て来なかった。ようやく店長らしき人物を伴って戻ってきたのは、数分後のことだった。

 店長は、面倒な客だな、という顔で、はぁ、そうですか、などと気の抜けた相槌を打ちながら、その男性客の言い分を聞いていた。その間に、レジの彼女は通常業務を再開し、再び列が動き始めた。

 すごいな、と思った。

 理不尽な対応をされたとは言え、スーツ姿で周囲に構わず喚き散らす男性が、ではない。

 理不尽な罵声を浴びながらも、動じることなく冷静に対応したレジの彼女が、だ。しかも一連の様子から、彼女が受けた理不尽は、男性客のみならず、あの腰の重そうな店長からのものもあったのでは、と思った。普通ああいう客が来たら、店長が真っ先に飛び出してくるべきなのだ。

 怖かっただろう。

 自分の学生時代のバイトを思い出す。二十歳くらいの女の子が、あんなふうに大人の男性から怒鳴られることなど、そう滅多にあることではない。彼女の対応は、例えマニュアル通りだったとしても、なかなかできることではないだろう。

 そんなことを考えながら待っていると、やがて私の順番が回ってきた。

「いらっしゃいませ、ご注文をどうぞ」

 彼女は、何事もなかったかのように接客の定型句を言った。レジカウンターの横では、先ほどの男性客がまだ文句を言い続けている。

「ホットコーヒー。飲んでいきます」

「かしこまりました、ありがとうございます」

 怖かったでしょう、とか。

 あなた凄かったわね、とか。

 言おうかと思ったが、言うべきではないと思った。

 なぜなら、彼女はすっかり「レジ係A」の顔に戻っていたからだ。今店に入ってきた客は、よもや彼女がついさっきまで怒鳴り散らす客をさらりとかわしていたなどとは、到底思いつきもしないだろう。

 結局私は先ほどの件について特に何もコメントせず、コーヒーの載ったトレイを受け取って、ガラス越しに通りに面したカウンター席に座った。


 何度か見たことのある子だった。どちらかと言えば地味な印象の子だ。美人でも、不細工でもない。一度見たら忘れてしまいそうな顔立ちだ。

 接客態度だって、特に目立ったところもない。暗くはないが明るくもない声で、淡々と定型句を言う。口元を軽く笑みの形にしながらも、全体的な印象は無表情に近い。無駄話などは一切せず、てきぱきと客をさばく。百点満点で言ったら七十五点くらいだろう。

 でも、ああいうイレギュラーな客にも動じず、冷静に対処することができる。


 コーヒーを飲み終わって、トレイを「返却口」に戻す。いつの間に、あの客はいなくなっていた。

 私は店を出る前に、レジにいる彼女に向かって「ごちそうさま」と言った。

「ありがとうございました、またお越しくださいませ」

 いつもの、淡々とした言葉が返ってくる。

 彼女の胸元の名札には、「おおぬき」と書かれていた。

 それが、私とおおぬきさんとの出会いだった。


 出会いと言っても、何か特別な交流が始まった訳でもなければ、必要最低限以上の言葉をかわした訳でもない。

 ただ、その店に「おおぬきさん」という店員がいるということを、私が一方的に認識しただけの話だ。

 それによって、コーヒーショップより彼女のいるファストフード店行く回数が劇的に増えたかというと、これがそうでもない。やはり私は、空いている方の店を選んで入った。

 だけど、コーヒーショップよりファストフード店の方が空いていた時は、ちょっぴり「今日はラッキーデーだ」という気持ちになった。

 そう思うくらいなら初めからおおぬきさんの方に行けばいいのにと言われそうだが、それは少し違う。

 寄り道をする店は、目的地では、決してないのだ。


 おおぬきさんは、私が立ち寄る時間帯には大抵レジに立っていた。そして、いつもと変わりない「七十五点」の接客で、淡々と仕事をしていた。

 私たちはいつも通り、必要最低限の言葉をかわす。

「いらっしゃいませ、ご注文をどうぞ」

「ホットコーヒーを、飲んでいきます」

「かしこまりました、ありがとうございます」

 お会計二百二十円です、という彼女に、私は五千円札を出す。

 お先に大きい方四千円のお返しです、と彼女が言う。

 私が受け取ったお札を財布にしまう間に、彼女はお後細かい方七百八十円のお返しです、と言う。

 そうすると、彼女が小銭を差し出すのと、私がそれを受け取ろうと手のひらを出すのと、ちょうどいいタイミングになるのだ。

「レシートはご入り用ですか」

「いえ」

 私の短い返事に、彼女はレジ脇の「不要レシート入れ」と書かれた小さな籠にそれを入れる。

 お札、小銭、レシート。

 決まりきった、だけど絶妙なテンポで、それらは私たちの間を行き来する。

 私の座るべき席は、大抵の場合私を待っていたかのように空いている。

 コーヒーを飲む間じゅう、店の中には彼女の声が淡々と響く。

 私はそれを聞きながら、地下街を行き交う人々の足取りを眺める。カウンター席に面したガラス越しに、様々な人の人生がひっきりなしに行ったり来たりする。その中の何人かは、ふらりとこの店に立ち寄ったりする。

 そして帰り際、私の「ごちそうさま」に対して、彼女は言う。「ありがとうございました、またお越しくださいませ」

 私たちの関係には、それ以上のやりとりは必要ない。

 例えば何かのきっかけで彼女と個人的に親しくなってしまったら、私はこの店に立ち寄らなくなるだろう、と思った。



 そもそもどうして私は、帰り道にコーヒーが飲みたくなるのだろう。

 例えば、仕事でミスをした日。

 例えば、仕事で褒められた日。

 例えば、少し前に別れた相手からメールが来た日。

 私の感情は、ほんの些細なことでも揺れる。良い意味でも、悪い意味でも。

 言葉にして誰かに話してしまったら、きっとたちまち形を変えてしまう、ちょっとした感情の揺れ。

 自分の中に閉じ込めて、粉雪のように降り積もらせたら、やがて時が融かしてしまうのだろう。

 でも、それはなんだか勿体ないから、私は寄り道して一人でコーヒーを飲むのだ。


 常に冷静な彼女にだって、実はいろいろあるのだろう。必修科目の単位を落としたかもしれないし、親が離婚協定中かもしれないし、気になる男の子から一世一代の愛の告白を受けたかもしれない。

 でも、私にはそれはわからない。

 彼女の方も、同じだろう。

 私にとって彼女は「たまに行く店の店員さん」でしかなかったし、彼女にとっても私は「たまに来るお客さん」でしかなかったからだ。

 それでいい。それがいい。

 些細な感情の邪魔をしない、カウンター越しの関係。

 誰の人生も、交わるべき場所ではない。そんな気がする。


 

 おおぬきさんが店から姿を消したのは、私が彼女を認識してから一年ちょっと後のことだった。

 私は妙にそわそわして、レジにいたアルバイトらしき男の子(彼にもまた見覚えがあった)に話しかけた。

「あの、この店にいた『おおぬきさん』って、辞められたんですか? 最近見ないけど」

「あ、はい、先月いっぱいで辞めました」

 彼は一瞬意外そうな顔をしながらも、実に簡潔な回答をくれた。

 彼女とは必要最低限の会話しかしなかったのに、彼女のいないところで、彼女についてそれ以外の会話を別の誰かとするのは、何だか不思議な感じがした。

 私はいつも通りホットコーヒーを注文して、いつものカウンター席に座った。

 大方、おおぬきさんは学校の卒業と併せてバイトも卒業したのだろう。そういうシーズンだ。仕方のないことだし、学生のアルバイトとはそういうものだ。

 コーヒーを飲み終わって、私はトレイを「返却口」に戻す。

 私は店を出る前に、先ほどおおぬきさんのことを教えてくれた彼に向かって「ごちそうさま」と言った。

「ありがとうございました!」と元気な声が返ってくる。

 胸元の名札には、「たかはし」と書かれていた。



 変わらないものは、それだけで心安い。

 何故なら、世の中は移ろいやすいから。

 激流に飲まれないように、自分のテンポを刻むためのものとして、私は常に止まり木を探しているのかもしれない。

 私はコーヒーを飲むために、この店に立ち寄っている。それはずっと前から変わらない。「おおぬきさん」というとても冷静なバイトの女の子がいたけれど、いなくなった。そのことで私の生活や人生が大きく変わる訳でも何でもない。「おおぬきさんがいなくなった店」に、私は今後も立ち寄り続けるのだろう。そしてまたそのうち、おおぬきさんがいないことにも慣れてしまうのだろう。



 その後一度だけ、街でおおぬきさんを見かけた。

 どこかで見たことのある顔だなと、前方から歩いてくる女の子二人連れの片方の子に目を留めて、一瞬遅れておおぬきさんだ、と思い当たった。制服姿しか知らなかったので、すぐにはわからなかったのだ。

 声をかけようかと思ったけど、そうすべきではないと思った。

 彼女と私は、あくまで「店員」と「客」であるべきなのだ。

 あのファストフード店以外の場所でも、なお。

 例え彼女が既にあの店の店員でなかったとしても、それでも。

 結局私は横目で彼女を見送った。

 それが、私が彼女を見た最後となった。



 いつか私も、仕事を辞めてあの地下街を通らなくなる日が来るだろう。

 何十年も経ってから、そういえばコーヒーを飲むのに寄り道していたなぁ、なんて思い出すかもしれない。

 その時抱えていたちょっとした悩みや動揺、嬉しかったことや哀しかったこと、その具体的なひとつひとつは、きっと思い出せないだろう。ひょっとしたら、ファストフード店に「おおぬきさん」という店員の女の子がいたことすら、忘れてしまうかもしれない。

 それでもきっと、私は懐かしく思い出すだろう。人生のさりげない一場面として、私があの店に立ち寄っていたことを。

 その時には、私の心の中にほんの小さな穴を開けて、ふっとよみがえってくる優しいえくぼのようであれば良いと思う。


―了―

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