あまいやまい
「禁煙してるんだって?」
細身の煙草に火をつけた彼女は、僕にそう問うた。少し酔いが回っているのか、そのまなざしはどこか熱っぽい。懐かしいメンソールの匂いが鼻先を掠めていった。
店内には、タイトルも知らないジャズの曲が静かに流れている。
曖昧にうなづき返すと、じゃあ代わりに、と以前と変わらないしぐさで彼女はそれを僕に差し出した。
赤いポッキーの箱。いたずらな微笑み。
だから僕も調子を合わせて、一本を受け取る。かつて煙草をそうしていたように。
控えめに一口かじる。「似合わないね」と彼女が笑うから、僕も笑って見せる。甘い甘い、チョコレート。
不意に、鋭いデジタル音が柔らかなBGMを遮った。電話に出た彼女が細々とした声で話すのを、その濡れたような唇がつやつやと光るのを、僕はぼんやり眺めていた。
「じゃあ、そろそろ行かなくちゃ」
通話を終え、彼女は席を立つ。僕は笑みのまま、彼女を見送る。
去り際に光った銀色の指輪。彼女を引き止める言葉を、僕は持っていない。
扉の閉まる音がして、店内は再びまどろみのような音楽で満たされる。
灰皿に横たわるマルボロライトから、細く長く煙が立ち昇っている。フィルターに残った口紅のあとに視線を留め、そっと目を伏せた。
僕が煙草をやめた理由を、彼女は知らない。
一気にグラスをあおる。
だけどしばらく消えそうにもない。この舌に残る後味が、もっと苦ければ良かったのに。
―了―