さよならテレビくん
秋の虫の声が空気をふるわせる、静かな夜でした。
誰もいなくなった三年二組の教室に、あわく月明かりが差し込んでいます。日直の子が戸締りを忘れたのか、少し開いた窓からかわいた風がひゅるりと舞い込みました。
「はぁ、今日も疲れたなぁ……」
窓際のいちばん前、月の光がもっともよく当たる場所に腰を落ち着けた机くんが、ため息とともに呟きました。その言葉を聞いて、机くんのペアの椅子ちゃんががたりと音を立てます。
「ふふ、お疲れさま。今日は火曜日だから、六時間目まであったものね」
「うん、それもそうなんだけどさ。ぼくを使ってる子、ちょっとひどくないかな? 見てよこの穴」
机くんが椅子ちゃんのほうに少し身を傾けました。すると机くんの体にあるたくさんの傷が、月明かりに照らされてよく見えます。
机くんが言った「穴」は、椅子ちゃんから向かって右下のほうにありました。ちょうど鉛筆の先が入るほどのその穴には、何か黒いものが詰め込まれています。
「消しゴムのカス?」
「そう」
いま机くんたちの席にすわっている山下少年は、授業中にねり消しを作るのが趣味の男の子です。机くんにあいた大きな穴は、彼のねり消し工場にうってつけだったようです。
「そのくらいならいいじゃないか、おれなんて明日も扉にはさまれる運命なんだぜ」
声のしたほうを向くと、黒板消しくんが白い息をおおげさにまき散らしながらぼやいています。
「今どきあんな見え見えの手に引っかかる先生なんていないのにさ。それなのにまるで、おれが失敗したみたいな雰囲気になるんだ。しかも体を床にしこたま打ちつけるときた。ほんと、いいことなしだぜ」
「そんなこと言ったらわたしたちだって」
「男の子たちのチャンバラごっこの盾として使われているのよ」
今度は黒板消しくんの真下から二つの声がします。壁の低いところに掛けられた三角定規さん姉妹です。
「ほんとはわたしたち、まっすぐな線を引くためのものなのに」
「そうよ、さいきんじゃ線を引くより盾になっているときのほうが多いくらいよ」
息ぴったりの姉妹は、自分たちがそもそもの役目以外のことに使われるのががまんできないようでした。二人そろって性格までまっすぐです。
「そう言われればぼくも……」
「わたしも……」
「ほんと、もっと大事に使ってほしいよな」
つられるように教室のあちこちから、つぎつぎに文句の声が上がります。それはしだいに大きくなり、ひとかたまりのざわめきとなって教室じゅうを満たしました。みんな、自分たちの使われ方が気に入らないようでした。
そのざわめきに、ふと暗い声がまざります。
「……いいなぁ、みんなは」
そのひとりごとのような声はとても小さかったのに、やけに教室に響きました。続いて深く長いため息が聞こえます。
それは教室の上空からみんなを見下ろす、テレビくんのものでした。
すると先ほどまでのざわめきが嘘のように、ぴたりと止みました。いまや教室のなかの空気はぴんと張り詰めています。
しばらくのあいだ、誰も何も言いませんでした。ただ外から聞こえる虫の声が、みんなの気まずさをあおるようにじりじりと流れ込んできます。
「そ、そんな……いいじゃないか、もう子どもたちに乱暴な使い方をされることもないんだし」
「そ、そうよ、むしろうらやましいくらいだわ」
「そうよそうよ……」
黒板消しくんと三角定規さん姉妹が、ようやく口を開きました。しかしその言葉はテレビくんのため息にかき消されて、よりいっそうの気まずさだけがあとに残されます。
机くんはその様子を見上げながら、今日の帰りのホームルームでのできごとを思い出しました。
「みんなに大ニュースがあります」
黒ぶちめがねの先生が、教室をゆっくり見渡しながら言いました。
「今まで使っていたこのテレビ、このところずっと調子が悪かったと思います。そこで先生は、校長先生に新しいテレビをもらえるようにおねがいしていました。ちょっと時間がかかりましたが、ついに明日からこの教室に新しいテレビが来ることになりました」
教室じゅうから、わぁっという歓声が上がりました。なかには立ち上がって喜んでいる子もいます。
「先生、どんなテレビが来るの?」
「それは来てからのお楽しみ」
「うす型のやつ?」
「さぁ、どうかなぁ」
子どもたちがつぎつぎに質問します。みんな新しくやってくるテレビに興味しんしんです。
そんななか、机くんの席にすわる山下少年がねり消し作りの手を止め、顔を上げて言いました。
「先生、いままで使っていたテレビはどうするんですか?」
「今までのテレビは、粗大ごみに出すことになっています」
「ふうん」
山下少年は小さくうなずくとそれきり口を閉ざし、ふたたびせっせとねり消しを作りにかかりました。
「先生、明日のいつごろ来るの?」
「ねぇ先生、何インチのやつ? ぼくのうちのテレビより大きい?」
その後もしばらく、教室はその話題でもちきりでした。子どもたちの誰もが、新しいテレビがやってくるのを心待ちにしているようでした。
「……しかし先生もひどいよな。いくら調子が良くないからって」
「そうよね、修理するとか、ほかの方法もあるのに……」
「テレビくん、これまでずっとがんばっていたのにね……」
いま教室には、黒板消しくんと三角定規さん姉妹がひそひそしゃべる声だけが響いていました。テレビくんをなぐさめるつもりで言っているのか、それとも先ほどの後ろめたさをごまかすために言っているのかわかりません。いずれにしても、彼らの声はかえって教室にただよう気まずさを際立たせていました。テレビくんは画面をくもらせたまま、彼らの声を聞くともなしに聞いています。
机くんはかける言葉も見つからず、ただ黙っていました。テレビくんを気の毒に思う一方で、机くんの心のなかにある想いがよぎりました。
――自分じゃなくて良かった。
そう思ってしまった自分に驚きましたが、ほっとしたのも本当でした。
みんな口には出しませんでしたが、教室じゅうの誰もが机くんと同じことを考えていたのです。
学校で使われるものはたいてい子どもたちに乱暴にあつかわれたあげく、ぼろぼろになるとあっさり新しいものに交換されます。いま教室にいる仲間たちはそれぞれ長いこと使われていて、みんな傷だらけでした。
次に交換されるのは自分かもしれない。誰もがそんな想いをかかえながら、テレビくんに声をかけられずにいました。
そのときでした。
がらりと音を立てて、三年二組の扉が突然開かれたのです。
それまでひそひそと話を続けていた黒板消しくんと三角定規さん姉妹がはっと口を閉ざしました。話をしていなかったほかの仲間たちの息を飲む音も、聞こえました。
ぱちりと電気がつけられ、教室全体がぱっと明るくなります。
扉のところに立っていたのは、なんとあの山下少年でした。
山下少年がまっすぐに自分の席まで歩いてきたので、机くんはぎょっとしました。机くんが身がまえるひまもなく、山下少年は机くんのことを持ち上げます。そしてそのまま教室のすみ――テレビくんの真下まで来ると、机くんを床に下ろしたのです。
いったい何をするつもりなのだろう。教室じゅうの誰もが、かたずを飲んで山下少年のことを見守っていました。
しばらくテレビくんを見上げていた山下少年は、そろりと机くんの上に乗りました。その手にはかたくしぼられた雑巾が握られています。そしてつま先立ちをしてせいいっぱいに手を伸ばし、雑巾でテレビくんのことを拭き始めたのです。
誰もいない教室に、雑巾とテレビくんの画面のこすれる音が響きます。きゅっきゅっという音は、そのまま振動となって机くんに伝わってきました。
脚の高さが少し合わなくなっていた机くんは、山下少年が倒れないようにふんばりました。山下少年は何度かよろめきそうになりながら、それでもしっかりとテレビくんを拭き続けました。
雑巾が真っ黒になるころには、テレビくんはすっかりきれいになっていました。くもりがちだった画面も、今は電気の光をはじいてぴかりと輝いています。
山下少年はそのまましばらくテレビくんの画面を見上げ、そしてぽつりと言いました。
「今までありがとう」
それはごく小さな声でしたが、教室じゅうの仲間みんなに届きました。
山下少年はゆっくりと床に降りると、ふたたび机くんを持ち上げて元の場所に戻しました。そしてまっすぐ扉のほうに歩いて、電気を消し、教室から出ていきました。
廊下では山下少年のお母さんらしき女の人が待っていました。
「もう終わった?」
「うん」
そんな短いやりとりの後、ふたりは三年二組の教室から遠ざかっていきました。
「良かったね、テレビくん」
廊下に響く足音が消えたころ、椅子ちゃんが言いました。
「……うん」
テレビくんは小さく答えました。ぴかぴかになった画面が、やさしい月の光を映しています。
「テレビくん、これまでずっとがんばっていたもんなぁ……」
黒板消しくんがしみじみと言いました。
テレビくんの役目は番組を映すことでした。理科や社会の時間には教育番組を、台風が近づいたときには天気のニュースを。でもここは学校なので、テレビくんの働く時間はそれほど多くありませんでした。番組を映していないときには、当然テレビくんは見向きもされません。
それでも初めて三年二組の教室にやってきた十五年前から、テレビくんはずっと教室の様子を見守ってきました。画面にくぎづけになる子どもたちのしんけんな顔を、テレビくんは一人ひとりよく覚えています。そんな子どもたちがふだん元気にしているすがたを見ることが、テレビくんの何よりもの楽しみだったのです。
机くんはテレビくんのことがうらやましくなりました。
いつも文句を言ってはいますが、机くんだって子どもたちのことが大好きです。今まで机くんを使ってきた子のことは、残らず覚えています。机くんにあいあい傘を彫った子の手が、どんなにふるえていたか。机くんの体にぽたりと落ちてきた涙のしずくが、どんなに冷たかったか。いっしょうけんめい泣いたり笑ったりする元気な子どもたちのすがたを、机くんはずっと見てきました。机くんは子どもたちといっしょに、よろこんだり悲しんだりしてきたのです。
みんな口には出しませんでしたが、教室じゅうの誰もが机くんと同じことを考えていました。
子どもたちから見たら、机くんたちはただのものでしかありません。
それでもいつか役目を終えるときに、誰かひとりでも自分に目を向けて、「おつかれさま」「ありがとう」と言ってくれたら。
それはきっと、とても幸せなことにちがいありません。
次の日、テレビくんは作業服の男の人たちに運ばれていきました。それと入れ替わりで、ぴかぴかの液晶テレビさんがやってきます。
たくさんの子どもたちがわぁっと声を上げるなか、山下少年だけはテレビくんが出ていったほうをじっと見つめていました。
机くんは山下少年と同じ気持ちで、テレビくんを見送りました。
――テレビくん、おつかれさま。今までありがとう。
テレビくんが教室を出ていくその瞬間、ゆうべ山下少年がきれいにみがいた画面が、きらりと光った気がしました。
今日も三年二組には、子どもたちの元気な声があふれています。
教室の前のほうでは、二人の男の子が画用紙をまるめて作った剣と三角定規さんの盾を手にチャンバラごっこをしています。そこへ「こら男子! 教室で暴れるな!」という女の子の声が響きます。
扉の上のほうに黒板消しくんをはさもうとしていたお調子者の男の子は、今日の日直当番の子に怒られています。かくして日直の子に助け出された黒板消しくんは、クリーナーをかけてもらったうえ無事にいつもの場所に戻されました。
山下少年はあいかわらず、机くんにあいた穴でねり消しを作っています。机くんは前ほどそれがいやではなくなりました。
きっとこれから先、この穴を見るたびに山下少年のことを思い出すのでしょう。そのことを、机くんはうれしく思いました。
―了―