夕やけ色をまた明日
「この四月からみんなと一緒に勉強することになった、杉浦奈々実さんです」
見慣れない教室。見知らぬクラスメイトたちの視線が、すべて自分に注がれている。担任の渡辺先生に呼ばれて教壇の上に立った奈々実は、カチコチに緊張していた。
細い銀縁の眼鏡をかけ、色褪せたようなピンク色のスーツをもったりと着た渡辺先生が、ちらりと目配せをする。奈々実はからからに乾いた唇をどうにか開いた。
「す、杉浦、奈々実です。よろしくお願いします」
上ずった、変な声になってしまった。頬がかあっと熱くなり、脇の下を冷たい汗が伝っていく。心臓はばくばくとすごい音を立てていて、呼吸が苦しかった。
「杉浦さんはお父さんの仕事の関係で、東京から引っ越してきました。これから一年……」
「東京やって!」渡辺先生の言葉を遮って、男子の一人が叫んだ。教室がにわかに騒がしくなる。
「はい! みなさん!」先生がパンパンと両手を打つ。「これから一年、杉浦さんもこの四年二組の仲間ですので、みなさん仲良くしていきましょう」
はーい、とクラスメイトたちが返事をする。
「じゃ、杉浦さんは席に戻って」
先生に促されて、奈々実はそろりと段から降りた。
教室が再び静かになる。みんなの注目を浴びながら、奈々実は自分の席へと戻っていく。整然と敷き詰められた正方形の床板は、まだワックスがきれいにかかっていてピカピカだ。それを一歩ずつ踏んでいくごとに、上履きの底でベタベタと足跡を付けているような気分になった。
出席番号順に割り当てられた席は、よりによって教室のど真ん中だ。奈々実は自分の苗字が『杉浦』であることを恨んだ。
できるだけ音を立てないように椅子を引き、そっと腰を下ろす。机の表面に目を落としていても、教室じゅうの意識が自分に向いているのがわかった。
「はい、このあと九時から始業式ですので——」
渡辺先生の話が再開されて、奈々実はようやく息をついた。
始業式が終わって教室に戻ってくると、奈々実はさっそく三人の女の子たちに囲まれた。声が大きくて、ちょっと派手な感じの子たちだ。それぞれ、興味津々の顔で質問をしてくる。
「ね、杉浦さんて東京住んどったの? 渋谷とか原宿とかって行ったことある?」
「えっと、ううん、行ったことない」
「東京って芸能人いっぱいおるんやろ? 誰か会ったことある?」
「ううん、ない……」
「アイドルやったら誰が好き?」
「えっと……あ、あんまり、アイドルとか詳しくなくって……」
耳慣れないイントネーションがなんだかきつく聞こえて、奈々実はたじろいでいた。三人の勢いに気圧されたということもあり、すべての返答がしどろもどろになってしまった。女の子たちは少し困ったように顔を見合わせている。
何か、何か言わなきゃ。
頭の中で話題を探してみても、気ばかりが焦ってどんなことを話したら良いのかさっぱりわからない。また頬が熱くなるのを感じた。
そうこうしているうちに、三人は昨日のテレビ番組の話をし始め、背を向けてしまった。
せっかく声をかけてくれたのに。
奈々実はうつむき、誰にも気づかれないように小さくため息をついた。きりきりと胃が痛む。
つまらない子だと思われただろうな。
東京の小学校でもそうだった。ああいう、クラスの中心にいるような、おしゃれで活発な女の子たちの話題に、奈々実はとてもついていけなかった。教室の片隅で、同じように大人しいタイプの友達と固まって、自由帳に絵を描いたりして過ごすのが好きだった。
だからただでさえ転校してきたばかりのよそ者なのに、その上こんな教室のど真ん中の席というのは、どうにも身の置き場のない気分だった。
そのとき、丸めた奈々実の背中を、誰かがつんつんとつついた。びくりとして振り返ると、後ろの席の女の子が身を乗り出すようにして奈々実のことを見つめている。妙に距離が近くて、思わず少し身を引いた。
ぎょろりとした目に、小さな鼻と大きな口。天然パーマの髪をひっつめにして後ろでひとつに結んでいる。魚みたいな顔の子だな、と奈々実はこっそり思った。
魚の子が、にっと笑って言った。
「わたしね、千田夕希っていうの。前後ろの席やでよろしくね」
妙に甲高い声。しかも早口だったので、奈々実は一瞬ぽかんとしてしまった。
「ね、ななみちゃんて呼んでもいい?」
夕希と名乗った女の子は、ますます前のめりの姿勢になり、目を真ん丸にして奈々実の顔を凝視している。
奈々実は落ち着かない気持ちになり、「うん」と小さな声で返事をするついでに、視線を夕希の目から口もとへと逸らした。
「やった! わたしのことは、ゆうきちゃんでいいよ」
三日月型になった唇の間から、ずらりと並んだ歯列矯正の金具が覗いている。奈々実は戸惑いながらもどうにか笑みを作り、「あ、うん、よろしくね」と短く答えた。
そこでようやく、渡辺先生ががらりと扉を開けて教室へ入ってきた。立っておしゃべりしていた子たちが慌てて自分の席に戻っていく。奈々実も、おずおずと夕希に背を向けた。
ほっとした反面、心臓はさざめき立っていた。今の会話や態度、おかしくなかっただろうか。相手の子は、気を悪くしていないだろうか。初対面だと特に距離の取り方がわからず、どぎまぎしてしまう。そして後からうじうじ気にするのが、奈々実の癖だった。
始業式の次の日からは、もう普通授業だ。奈々実は真新しい教科書をランドセルに入れて、緊張しながら教室に入った。
朝の会が始まる前の教室は、席の後ろのスペースで上履きを飛ばして遊ぶ男子たちや、あちこちで固まっておしゃべりする女子たちで、ざわざわしていた。昨日最初に話しかけてきた三人組は、教卓を陣取って大きな声で笑っている。誰も奈々実を気に留める者はいない。奈々実は机の間を走り回る男子を避けながら自分の席へと向かった。
四年二組は、三年生からの持ち上がりの学級らしい。クラスメイトの女子たちはみんな、それぞれ仲良しグループに分かれている。
そうでなくとも友達を作るのは苦手なのに。クラス替えのタイミングで転入したのであればまだチャンスがあったかもしれないが、既にでき上がっているグループの輪に加わるなどということは、奈々実には到底不可能だった。
奈々実がランドセルの中身を机にしまっていると、背後から声をかけられた。
「ななみちゃん、おはよ!」
「あっ……おはよう」
後ろの席の夕希だ。どこから出ているのかわからないような甲高い声にはまだ慣れなくて、内心びっくりしていたが、挨拶してくれたことが素直に嬉しかった。強張っていた気持ちが、ふわりと緩んだ気がした。
ほどなくして渡辺先生がやってきて、朝のざわめきは収まっていった。
一限目は学級会で、学級委員や係決めが行われた。委員長に立候補したのは、三年生のときと同じ子であるらしい。「賛成の人は手を挙げてください」という渡辺先生の言葉に、ほとんど全員の手が挙がった。奈々実は置いてけぼりの気分だったが、みんなに合わせて賛成した。
係決めが始まると、教室は騒がしくなった。友達同士で一緒の係になりたい女子たちの間で、激しいじゃんけんが繰り広げられたのだ。
「やったあ!」
ひときわ大きい歓声を上げたのは、あの三人組の中心らしき子だ。三人で保健係に決まったようだ。
「こら大谷さん、もうちょっと静かにね」
先生がそう言うと、大谷と呼ばれたあの子が「うちだけやないやん」と先生を睨みつけた。不満顔の大谷がぶつぶつ言いながら席へ戻るころには、教室は徐々に落ち着きを取り戻していた。
残るのは人数の多い配膳係や、誰もやりたがらないごみ捨て係などだ。無難に配膳係でもやろうかと考えていると、つんつんと背中をつつかれた。
振り向くや否や、夕希が口を開く。
「ねぇななみちゃん、一緒にごみ捨て係やんない?」
「えっ?」
奈々実は面食らった。よりにもよって、ごみ捨て係とは。
「だめ?」
夕希がじっと見つめてくる。そう言われると、とても断れない。
「うん、じゃあ、いいよ」
「ほんと? ありがと!」
夕希がにっと笑う。
まぁ、いいか。別にどうしても配膳係になりたかったわけでもないし。奈々実はそう思うことにした。どうせどの係でも、何かしら面倒な仕事があることに変わりはないのだ。
その後も休み時間がくるたび、夕希が背をつついてきた。あの特徴的な甲高い声で、いつも早口で、いきなり質問を投げかけてくる。しかも距離が近い。奈々実が返事をすると、矯正の金具を見せて笑う。
ちょっと変わった子だな、と奈々実は思った。だけど夕希が話しかけてくれるおかげで、見知らぬ教室でも一人ぼっちにならずに済んでいたのだった。
その日の帰り道。奈々実が一人で東門を出て通学路を歩いていると、後ろから声が飛んできた。
「なーなーみーちゃーん!」
夕希だった。ランドセルの肩帯を両手で握り締めながら、力いっぱい駆けてくる。
「ゆうきちゃん、どうしたの?」
問いかけると、夕希は息を切らせながら笑顔を見せた。
「ななみちゃんが見えたから! 一緒に帰ろっかなと思って!」
「ゆうきちゃんちも、こっちのほうなの?」
夕希がぱちぱちと瞬きをする。
「うん、そうだよ」
「そっか、じゃあ一緒に帰ろう」
「やったぁ、ありがと!」
二人で並んで歩き始める。夕希はちょっと強引な感じがするけれど、だんだんそのペースにも慣れてきていた。
夕希がにこにこしながら言った。
「ななみちゃんが転校してきてくれて嬉しいな」
「ほんと?」
「ほんとやよ。また明日からいっぱい遊ぼうね」
「うん」
奈々実は笑顔で頷いた。
「あっそうだ。仲良くなったしるしに、わたしの宝物見せたげるね」夕希が肩越しに自分のランドセルを見やる。「これ!」
ランドセルの側面には、キーホルダーが付いていた。透き通ったオレンジ色で、金魚の形をしている。目がぎょろりとしていて、ちょっと夕希に似ていた。
「へぇ、可愛いね」
なんと言ったら良いのかわからず、奈々実はとりあえずそう返した。
「へへ、ありがと! お母さんがくれたやつなんや。お守り代わりにずっと付けてるの」
「そうなんだ」
夕希の歩調に合わせて、キーホルダーの金魚が踊る。それはあたたかな春の日差しを弾いて、きらきらと光っていた。
やがて、大通りの交差点に差しかかる。
「じゃあ、わたしこっちやから。また明日ね、ななみちゃん」
「うん、また明日」
手を振り合って、二人は別れた。
歩道の桜並木から、ひらひらと花びらが舞い落ちる。見頃を過ぎた枝には、新しい緑が芽吹いていた。
また明日、だって。思わず口もとがほころんだ。
一人で帰路を行く奈々実の足取りは軽い。新しい学校生活が始まって、すぐに友達ができた。なんだかみぞおちの辺りがくすぐったくて、胸に吸い込む空気が甘かった。
「ななみちゃん、絵めっちゃ上手やね!」
転校して三日目の休み時間。二人は机に自由帳を広げ、お絵描きをしていた。奈々実の絵を見た夕希が、目を輝かせてそう言った。
「そ、そんなことないよ」
「そんなことあるって! 将来漫画家になれるんやない?」
「えー、そうかなー」
そんなふうに褒められると、満更でもない。実は、絵にはちょっと自信があるのだ。
「そうやよ! この女の子めっちゃ可愛いもん。魔法使い?」
おや、と思った。奈々実はある少女漫画雑誌の名前を言った。
「ゆうきちゃん、まだ五月号見てなかった?」
「えっ?」
「これ、五月号から新しく始まった漫画の主人公なの。練習したから描いてみたんだ」
「あ、そうなんだ……」
夕希の表情が曇った。奈々実ははっとする。
「あっ、もしかしてゆうきちゃん、別の雑誌買ってるの?」
少しうつむいた夕希が、ちらっと伺うように奈々実を見た。
「あのね、ななみちゃん、わたしね……漫画の雑誌とか、何にも買ってないんや」
「えっ、そうなの?」
「うん、お母さんがだめって言うんや……」
いつもは楽しそうな夕希が、見てわかるほどしょんぼりしている。夕希の自由帳に描かれていたのは、何かの漫画のキャラクターではなかった。髪の長い、花柄のワンピースを着た女の子だ。アクセサリーや靴も凝っている。
わぁ、と奈々実は小さく歓声を上げた。
「ゆうきちゃんこそ上手じゃん。服の柄とかも、細かくてすごい。わたしもそういうの描いてみようかな。漫画のキャラじゃなくって、自分で考えたやつ」
夕希がぱっと顔を上げた。そして驚いたように目を見開いて、奈々実のことをまじまじと見つめている。やがてその表情は、きらきらした満面の笑みに変わった。頬はほのかに赤くなっている。
「あっ……ありがとう。そんなこと言われたの、初めてや」
奈々実はその反応を少し不思議に思ったが、夕希に笑顔が戻ったので、あまり気にせずにまたお絵描きを再開した。
「よし、色塗りもしよう」
新たに女の子の絵を描き上げた奈々実は、道具入れから色鉛筆セットを出した。
「……んじゃ、わたしも」
夕希もつられるように色鉛筆セットを取り出す。夕希はまず、髪の毛を黒で塗った。それが終わると、次にだいだい色を手に取った。そしてなんと、それで肌の部分を塗ろうとしている。奈々実は驚いた。
「ゆうきちゃん、それで塗るの?」
「うん、だいだい色を薄ーく塗ったら、肌色みたいに見えんかなって」
そう言って夕希は色鉛筆を寝かせ、芯の側面で薄く色を付けた。しかしやっぱり、だいだい色はだいだい色だ。
夕希の色鉛筆ケースの中身は、何本か歯抜けだった。肌色や青、ピンクなどが見当たらない。
「……ちょっと、うっかり失くしてまったんや」
奈々実の視線に気づいた夕希が、あはは、と笑った。
「わたしの肌色、貸すよ」
奈々実が申し出ると、夕希は目を丸くした。
「えっ……いいの? ほんとに?」
「うん、良かったら他の色もいいよ。一緒に使お」
「わぁ……ありがとう! ななみちゃんて優しいね」
そしてまた、にっと歯を見せて笑う。奈々実は照れた。
「そんなことないよ」
夕希はちょっとしたことでもきちんとお礼を言ってくれる子なんだなと、奈々実は色塗りをしながら思った。
それから二人は毎日、休み時間には絵を描いて過ごし、掃除の時間にはごみ捨て係の仕事をし、下校時にはランドセルを並べて帰り道を歩いた。
転校前は友達ができるか心配していた奈々実だったが、今やすっかり新しい教室にも慣れ、楽しい日々を送っていた。
しかし四月も終わりに差しかかったある日のことだ。夕希が、風邪で欠席したのである。
夕希とばかり一緒にいた奈々実には、他に友達はいない。夕希がいなければ、奈々実は一人ぼっちだった。
一限目の後の休み時間、教室のど真ん中の席で、奈々実はぽつんと取り残されたような心細い気持ちになった。他の女子はみんな、いくつかのグループに分かれて、楽しそうにおしゃべりなどをしている。
一人でいる自分のことを、みんな蔭で笑っているんじゃないか。そんなふうに思えてきて堪らなくなり、奈々実はトイレに立った。
二時限目が終わりに近づくと、ひどくそわそわした。どうやって休み時間をつぶそうか。そればかりを考えていた。今日はまだ始まったばかりで、休み時間はあと四回もやってくるのに。
授業終了のチャイムが鳴り、日直の号令で起立礼をして、先生が出ていく。それとほぼ同時に男子たちが教室を飛び出す。女子たちはまた仲良しグループに分かれ始める。奈々実はぽつんと席に座ったまま、次の授業の教科書とノートを取り出して、きっちりと揃えて机に置いた。
早速することがなくなってしまって、奈々実は途方に暮れた。次が移動教室であれば良かったが、そうではないのでまたゆっくりトイレに行くか、ロッカーの中を確認するふりなんかをしてみようか。
いっそのこと、一人でも絵を描こうかな。何もせずにいるよりはマシだ。そう思って机の中の自由帳に手を伸ばしたとき、誰かに声をかけられた。
「ねぇねぇ、杉浦さん」
大谷たちのグループだった。三人は机の前に立ちはだかるようにして、奈々実のことを見下ろしている。驚いたのと身構えたのとでうまく返事をできずにいると、大谷が口を開いた。
「杉浦さんさ、いつもあいつと一緒におるやんね」
「え?」
大谷が、奈々実の後ろの席を顎でしゃくる。
「センダ菌」
菌。その言葉の不穏な響きに、どきりとした。それは、夕希のことを言っているのか。
他の二人がくすくす笑う。
「ほらぁ、やっぱ杉浦さん知らんかったんや」
「やだやだ、知らんうちにうつってまうよ」
「あいつの手とか、服から出とるとこ直に触るといかんのやよ」
菌が、うつる? 心臓が、ざわざわと音を立てている。
「杉浦さん転校生やもんで、狙われとるんやて。杉浦さんて、東門のほうの通学路やら?」
大谷の問いかけに、奈々実はただ小さく頷いた。
「あいつんち、西門のほうなんやよ。わざわざ杉浦さん追っかけて、東門から出とるけどさ」
他の二人が、やだー、ストーカーやん、と声を揃えた。
大谷が、哀れむような表情を作る。
「杉浦さんかわいそー。ごみ捨て係とか一緒にやらされとるやんね。嫌やったら嫌って、ちゃんと言わないかんよ」
「そうそう。あいつ三年ときもごみ捨て係やっとったんやでさ。杉浦さん、付き合うことないって」
そうやー、と相槌が入る。
「でもあいつがごみ捨て係やるようになってから、正直助かったよね。三年の最初んとき配膳係やったやん? あれほんと困った」
「ねっ! あいつの触った給食、ちょっと食べれんかったわ。実際だぁれも受け取らんかったしね」
「やだっ! 思い出しただけでキモい!」
取り巻きの一人が自分を抱き締めて、大げさにぶるりと身を震わせた。三人の笑い声が教室じゅうに響き渡る。他のグループの子たちが、こちらの様子をそれとなく伺っているのがわかった。
うつむく奈々実に、再び水が向けられる。
「でもさぁ、杉浦さんてほんとやさしーよね。あいつと一緒におってもつまらんやら?」
「あいつって親から漫画とか全部禁止されとるらしいやん。そういうの見とるとバカになるとかでさ」
「えー? でも結局それってあんまし関係ないことない?」
「まぁ……ねぇ」
「てゆーか、むしろ逆に、だもんだから禁止なんやろ」
三人の顔ににやにやした笑みが浮かぶ。どうやら成績のことを言っているらしい。確かに夕希は、お世辞にも勉強ができるとは言い難い。
大谷はまた奈々実に向き直った。
「ま、そういうわけだもんでさ。杉浦さんも、あいつには気を付けやぁよ。ね?」
諭すような、それでいてどこか威圧的な笑顔。きゅうっと、心臓が縮んだ気がした。三人は奈々実の返事も待たずに去っていった。
今聞いた話が、頭の中でぐるぐると渦を巻いていく。冷たい血が体じゅうを駆け巡る。膝の上に置いた指先が、かたかたと震えていた。
再びざわめきが戻ってくる。まるで何ごともなかったかのように。奈々実はまた、教室の真ん中に一人取り残されてしまった。
同じようないじめは、東京の小学校でもあった。特定の子におかしなあだ名を付けたりして、仲間はずれにするのだ。
ターゲットは、必ずしも何か明確な理由があって選ばれるわけではない。言動が変わっている。持ち物がみんなと違う。先生に気に入られようとして良い子ぶっている。なんとなくムカつく、気に入らない。そんなはっきりしない理由でリーダー格の子から目を付けられることで、それは始まる。
確かに夕希には、少し変わったところがある。最初は奈々実だってそう思った。独特のしゃべり声や笑い方、そんなちょっとした挙動が、あの大谷たちには気に食わなかったのかもしれない。
漫画雑誌を何も買っていないと言った夕希。あのときの様子に、奈々実は今さら合点がいった。みんなと同じではないということは、夕希を仲間はずれにする格好の材料だったに違いない。
歯抜けになった色鉛筆セット。たぶん嫌がらせで抜き取られたのだろう。だから、だいだい色を肌色の代わりにしていたのだ。
ごみ捨て係に付き合わされている奈々実を『可哀想』だと、夕希なんかと一緒にいる奈々実を『優しい』と、大谷は言った。そのことがどうしてだか、とてもショックだった。
杉浦さんも、あいつには気を付けやぁよ。
あの言葉は、親切心からだろうか。
いや、違う。あれは――。
胸の中に、ひやりとしたものが入り込んでくる。
奈々実を気遣うかのようなセリフ。その端に載せられた、夕希への蔑み。三人の大きな笑い声。様子を伺う、他の女子たち。交わされた言葉に含まれた毒が、すうっと溶け込んでいくような教室の空気。まるでそれが暗黙のルールだとでも言うように。
――あれはつまり、警告なのだ。
みんなが守っているルールに従わなければ、次はお前がターゲットだ、という。
「ななみちゃん、おはよー!」
翌朝。風邪の治った夕希が、いつものように挨拶してくる。
「あ、うん、おはよ……」
奈々実は首だけをわずかに夕希のほうに動かし、しかし後ろを向くことはせずに、小さく返事をした。すぐに机の上に視線を落とし、教科書を読むふりをする。
教室のざわめきが、ふいに途切れる。大谷のグループや他の女子たちが、奈々実のことを監視しているように思えた。無意識に呼吸が浅くなる。
幸い、すぐに渡辺先生がやってきて、朝はそれ以上に夕希から声をかけられることはなかった。
しかしやはり、休み時間がくるたびに、夕希は背中をつついてくる。
「ななみちゃん、お絵描きしよ」
さすがに断り続けることもできず、奈々実はおずおずと振り返った。いつもどおり、夕希の机に自由帳を広げて絵を描き始める。
「ね、また肌色貸して」
夕希からそう言われ、奈々実は返事に詰まった。今までであれば、難なく貸せた。しかしあの警告を受けたあとでは、自分の持ち物を夕希に貸すことが、いったい何を意味するのか。
「……ごめん、今からちょっと、肌色使いたいから……」
「うん、そっか」
歯切れの悪い返事にも、夕希は気を悪くした様子もなく、色塗りを続ける。ほっとすると同時に、胸の奥がちくりと痛んだ。
その日、帰りの会が終わると、奈々実は早足で教室を後にした。しかし東門を出てからさほども行かないうちに、後ろから甲高い呼び声が追ってきた。
「なーなーみーちゃーん!」
あぁ、もう。無視することもできず、奈々実は立ち止まった。ブレーキのかからない心臓だけが、どくんどくんと体を急かす。
「ななみちゃん、待って!」
回り込んできた夕希が、膝に手をついて息を切らせている。呼吸が落ち着いたころ、再び夕希が口を開いた。
「ななみちゃん、そんな急いでどうしたの?」
「うん、ちょっとね……」
「ね、今日ちょっと元気ないことない? 何かあったの?」
奈々実は黙って首を振った。心配そうに覗き込む夕希の目を見ることができなかった。
「そっか……ね、一緒に帰ろ?」
頷きかけて、動きを止める。ランドセル姿の誰かが、二人を追い越していった。誰かの視線が奈々実に問いかける。お前はそいつと一緒に帰るのか?
「あの、ゆうきちゃん」口が勝手に動いていた。「ゆうきちゃんちって、西門のほうだって、ほんと?」
「えっ……誰に聞いたの?」
ぎょろりとした目が見開かれる。奈々実は答えず、うつむいた。
「あのね、でも、大丈夫やよ。こっちから出たってそんなに距離変わらんし。やで、一緒に帰ろ!」
ひときわ明るい夕希の声。奈々実は口を引き結び、足元を暗く染める自分の影に視線を落としていた。沈黙を破ったのは、夕希のほうだった。
「えっと、あの……わたしのこと嫌いになった?」
その声はわずかに弱くなっていた。奈々実は小さく首を振る。
「……ひょっとして」さらにもう一段、声が暗くなる。「わたしが、『センダ菌』やから?」
弾かれたように顔を上げた。夕希の静かな目が、奈々実をじいっと見つめていた。
そうじゃない。『菌』なんてものは存在しない。
ゆうきちゃんは『センダ菌』なんかじゃない。
そう言いたかった。だけど、じゃあなぜ避けるのかと訊かれたら、何の言い訳も思いつかなかった。舌の根が強張って、言葉が出てこない。
「……ち、違うの」
やっとのことで、それだけ言った。すると、ずっと奈々実に注がれていた夕希の視線が、重力に負けたように地面へと落ちた。
「そっかぁ……」
夕希はため息と一緒にそう吐き出して、ひどく悲しそうな顔をした。そして奈々実のほうを見ることもなく、くるりと背を向けた。
その瞬間、オレンジ色の金魚のキーホルダーがランドセルの側面に当たって、かつんと音を立てた。宝物だと言っていた、仲良くなったしるしにと見せてくれた、あのキーホルダーだ。
「待って!」
思わず口をついて出た。だけど、その先が続かない。伸ばした手も空を切る。夕希は足を止めることも振り向くこともなく、とぼとぼと行ってしまった。
胸の奥が、引き千切れそうに痛んだ。だけどどうすることもできず、奈々実はその場に立ち尽くした。
同じクラスの子が何人か、おしゃべりしながら奈々実を追い抜いていく。その笑い声が、麻痺したような頭の中にぼんやりと響いていた。
次の日、さすがに夕希も話しかけてはこなかった。大谷たちがこちらのほうを――恐らく夕希のことを――ちらちらと伺いながら内緒話をしては、くすくす笑っていた。他の子たちは相変わらず、我関せずといった具合にそれぞれでおしゃべりをしている。『暗黙のルール』に従った奈々実は、教室の真ん中で一人ぼっちだった。
その日は四月最後の平日で、一時限目の学級会では初めての席替えがあった。
くじ引きで決まった奈々実の新しい席は、廊下側のいちばん後ろだ。夕希は窓際の席になった。運の悪いことに、その後ろは大谷だった。机を動かすとき、大谷が大きな声で「最悪なんやけどー!」と叫んで、また渡辺先生から注意された。
教室の端に移動して夕希と離れ離れになった奈々実は、少しほっとしていた。これで夕希と関わることも、そして関わらないようにすることも、敢えてする必要がなくなったわけだ。
新しい席から、教室を見渡す。夕希のいる窓際がひどく遠い。明るい光がカーテン越しに注ぎ込んでいたが、奈々実の心はしんと冷え切っていた。
結局、夕希と口をきくこともないまま、ゴールデンウィークに入ったのだった。
あっという間に連休が終わり、五月が始まった。だんだんと半袖姿の子も増え始め、窓から見える鮮やかな新緑と初夏の強い日差しで、教室は爽やかな雰囲気だ。
休み明けしばらくは夕希とのことが心に引っかかって、奈々実は憂鬱な気分を引きずっていた。しかし席が遠いので、あれから話をする機会はなかった。淡々と過ごすうちに、あの痛みも徐々に薄れていった。
「杉浦さんて、絵描くの好きなの?」
ある日の休み時間、そう話しかけてきたのは、大人しそうな感じの二人の女の子だった。奈々実がうなずくと、二人は嬉しそうな顔をした。
「良かったら、一緒にお絵描きしない? うちんらね、一回杉浦さんとしゃべってみたかったんや」
「でも杉浦さん、いつもずうっと千田さんと一緒におったから」
ね、と二人は顔を見合わせる。そこに含まれるニュアンスを感じ取って、奈々実の心の内をさっと暗いものが横切っていった。
だけど、自分と仲良くなりたいと思ってくれたことは純粋に嬉しかった。一人で取り残されていた奈々実に、手を差し伸べてくれたのだ。救われたような気分だった。
二人とは漫画の話もできた。あの、新連載の主人公を描いてみせたら、「似てる」と感心して褒めてくれた。それ以降、その子たちと一緒に絵を描いて過ごすことが多くなった。
正直なところ、奈々実はほっとしていた。これで自分も、このクラスに紛れられた。いじめっ子でも、いじめられっ子でも、一人ぼっちでもない。『その他大勢』に紛れることができた。もう周囲の目を気にする必要なんてないのだ。この教室で安全に生きられるポジションを確保できたのだから。
だけど、色鉛筆を使おうとするとき、どうしても夕希のことを思い出した。遠く離れた席の夕希は、いつも一人で絵を描いていた。
今も肌色の代わりにだいだい色を薄く塗っているのだろうか。そう考えたら、胸の奥がぐっと詰まった。でももう、今さらどうしようもないことだった。
そうして奈々実は、後ろ暗い気持ちを隠しながら、表面的には平和な日々を送ったのだった。
あの事件が起きるまでは。
五月も半ばに差しかかったある日のことだった。
帰りの会が終わり、渡辺先生が教室を出ていって、みんなが席を立ち始めたころ。
「ちょっとぉ、あんた何してくれとんのやて!」
突然、大きな声が響き渡った。
教室じゅうの誰もが動きを止め、ざわめきがぴたりと静まり返る。奈々実もびっくりして、声のした窓際のほうに視線を向けた。見れば大谷が、前の席の夕希に食ってかかっているところだった。
「あんたさっき、わざとプリント落としたやろ」
大谷は前側に回り込み、腕組みして仁王立ちで夕希のことを睨みつけている。奈々実の位置からでは、夕希の表情は見えない。
「えりかちゃん、どうしたの?」
いつもの二人が駆けつけてくる。夕希はたちまち三人組に取り囲まれる形となった。
「さっき帰りの会んときプリント配られたやん。千田さんがうちに回すとき、わざと取りにくくして下に落としたんやて」
えー、何それー、と他の二人が声を揃える。夕希は首を横に振った。
「違う、それは、大谷さんが急に手を引っ込めたから……」
「はぁ? 何? うちのせいやって言いたいの?」
強い語気に、夕希は口ごもる。
「言っとくけどさ、プリント全部落ちたから、こっから後ろの席の人みーんなに迷惑かかったんやからね。うちだけやなくてさ。あんた、それわかっとんの?」
窓際の列の、大谷より後ろの席の子たちは、素知らぬふりをしている。そのうち一人はそそくさとランドセルを背負って教室を出ていった。
「えりかちゃんに謝んなよ、千田さん」
「えりかちゃんだけやなくて、後ろの席の人全員に謝ってよ」
「でも……」
「でもやないて!」大谷が、ぴしゃりと言い放つ。「言い訳すんな」
夕希はうつむき、机の上のランドセルに付いている金魚のキーホルダーを右手でぎゅっと握った。
「黙っとんなて」
「何か言えって」
「人に迷惑かけといてその態度とか最低やね」
「ふざけとるね」
「ちゃんと聞こえとんの?」
「それか、言葉の意味がわからんの?」
「ほんっとムカつくんやけど」
責めの言葉が容赦なく浴びせられる。夕希が黙り込めば黙り込むほど、三人はどんどんヒートアップしていく。キーホルダーを握ったまま、夕希はじっと耐えていた。
「あぁ、もう、そんなもんばっか弄っとんなて! こっち見なよ!」
ひときわ声を荒げた大谷が、夕希の右腕を掴んだ。ご丁寧に、服の袖があるところを選んで。
しかし夕希は頑なに下を向いたままだ。大谷が、掴んだ夕希の腕を乱暴に揺すり始めた。
「何とか言いなよ! さっさと謝れ!」
夕希は口を閉ざし続ける。どれだけ揺すられても、キーホルダーを離そうとはしない。
「いい加減に……!」
大谷がさらに息を巻いたときだった。
ぷつり、と。
鎖の切れる音がした。
「あっ……」
驚いて力を緩めた夕希の指から、千切れたキーホルダーがすっぽ抜ける。オレンジ色の金魚は、放物線を描いて教室の後ろのほうへと飛んでいった。
「あっ、やばっ」
大谷が、しまった、という表情をした。他の二人は、ちらちら視線を交わし合っている。
「……あんたが悪いんやからね!」捨て台詞を吐いた大谷は、「行こ!」と二人を連れ立って、足早に教室を出ていってしまった。
さぁっと波が引くように静寂が訪れたあと、いつもよりも控えめな下校時のざわめきが戻ってくる。席に座ったままの夕希は、身じろぎひとつせず、ランドセルに残った鎖をじっと見つめていた。
奈々実もまた、自分の場所から動けずにいた。まるで罵りを受けたのが自分であるかのように、心がズタズタだった。どうしてあんなにひどい言いがかりを付けられるのだろう。大谷たちの神経が理解できなかった。
一人、二人と荷物をまとめて、教室から去っていく。席を立たずにいるのは、奈々実と夕希だけだ。他の誰もが、何ごともなかったかのように帰っていってしまう。まるでこんなふうに痛みを感じることすら、ルール違反だとでも言うように。
やがて教室には誰もいなくなり、野球部のかけ声や吹奏楽部の自主練習の音が聴こえてきた。取り残された奈々実と夕希は、二人とも一人ぼっちだった。
しばらくの間、奈々実は夕希の後ろ姿を遠目から見つめていた。夕希はこうべを垂れ、席を立つ気配もない。
奈々実もまた、動き出すきっかけを掴めずにいた。何か声をかけなくては。でも、どうやって?
グラウンドから金属バットがボールを打つ音が響いてくる。音楽室では金管楽器の合わせ練習が始まったらしい。黒板の右上にある丸い掛け時計はゆっくりと時を刻んでいた。いつまでもこうしているわけにはいかない。時計が四時四十五分を指したのを契機に、奈々実はようやく立ち上がった。
金魚のキーホルダーはロッカーの前に転がっていた。千切れた鎖をそっとつまんで持ち上げ、夕希の元へと向かう。
「ゆうきちゃん、これ……」
両の手のひらに乗せたキーホルダーを、おずおずと差し出す。
「うん……」
夕希は小さく返事をしたものの、視線を落としたまま、キーホルダーを受け取ろうともしない。奈々実はそれを机の上の、ランドセルの隣にそっと横たえた。
「これ……キーホルダーの輪っかのとこだけ、手芸屋さんで売ってるから、それを付ければ……」元どおりになる、と言おうとして、奈々実ははっとした。
オレンジ色の金魚に、ひびが入っていたのだ。
夕希の表情は暗く沈んでいる。胸がきりりと痛んだ。大谷たちのことを、許せないと思った。
「ゆうきちゃん、先生に言おうよ」
その言葉に、夕希は首を振る。奈々実は続ける。
「でも、こんなのひどいよ。色鉛筆のことだって……」
色鉛筆、と聞いて、夕希は少しだけ顔を上げた。
「いいよ。だって、もし、お母さんが知ったら……」
か細い声。その呟きとともに、夕希の目からぽろりと一粒、涙がこぼれた。それを合図にして、まるで堰を切ったように、たくさんの涙が次から次へと溢れ出てくる。
ランドセルを抱き込み顔を伏せてさめざめと泣く夕希を前に、奈々実は立ち尽くした。
お母さんが知ったら——。その気持ちは、痛いほどよくわかった。前の小学校のとき、仲の良い子とクラスが分かれてしまい、しばらく一人ぼっちになってしまったことがあった。それを絶対に親には知られたくなかったのだ。いじめを受けていることなんて、なおさらだろう。
夕希が洟をすする音の合間を、調子はずれの合奏の音が横切っていく。奈々実は一つ前の席の椅子を反対向きにして、夕希と向かい合わせに座った。
やがて、少し涙の落ち着いた夕希が、わずかに身を起こした。奈々実はポケットに入っていたハンカチを差し出す。すると、夕希は驚いたように顔を上げ、濡れたままの目で奈々実をまじまじと見つめた。久しぶりに視線が合った気がした。
「これ、使って」
奈々実が言うと、夕希はまた一瞬泣き顔になった。
「あ、ありがとう」受け取ったハンカチで涙を拭った夕希は、まるで独り言のようにぽつりと呟いた。「やっぱり、ななみちゃんは優しいな……」
「……そんなこと、ないよ」
奈々実の反論に、夕希が小さく笑みを浮かべる。
「あのね、わたしね、ななみちゃんを初めて見たとき、すごい優しそうな子やなぁって思ったんや」
夕希の視線が、再びわずかに落とされる。
「だからね、どうしても、ななみちゃんと友達になりたかったんやぁ……」
一瞬、息が止まりそうになった。
夕希のその言葉は、奈々実の心に深く深く突き刺さった。
そのときになって、奈々実はようやく気づいたのだった。自分がいったい、夕希に何をしたのかということに。
「帰る方向がおんなじだって、嘘言ってごめんね」
そんなこと。奈々実はただただ首を横に振る。
あの日。新しい学校生活が始まって間もないころ。夕希が帰り道を走って追いかけてきた、あのとき。
奈々実が転校してきてくれて嬉しいと言ってくれた。仲良くなったしるしにと、宝物のキーホルダーを見せてくれた。
今、机の上に横たわるオレンジ色の金魚には、修復することのできないひびが入っている。
奈々実は思わず、両手で顔を覆った。
ねぇ、違うんだよ、ゆうきちゃん。
わたしは全然、優しくないんだよ。
いじめっ子の大谷たちでも、知らんぷりするクラスメイトたちでもなく。夕希をいちばん傷つけたのは、他でもない、奈々実なのだから。
『センダ菌』などとひどいあだ名を付けられて、仲間はずれにされていた夕希。やっと仲良くなったはずの奈々実から、他の子と同じように避けられて、どんなにショックだっただろうか。
夕希を見捨てておいて。大谷たちから理不尽に責められる夕希を、一人安全な場所から眺めておいて。同じ痛みを感じた気になるなんて。今さら優しいふりをするなんて。
最低だ。最低の、卑怯者だ。
「ななみちゃん?」
名前を呼ばれて、顔を上げる。戸惑ったような夕希の目を、見つめ返す。
謝らなくちゃ。言わなきゃいけないことが、たくさんある。
知らない人ばかりの新しい教室で夕希が声をかけてくれて、すごくほっとした。休み時間にお絵描きして遊んで、楽しかった。友達になってくれて、とても嬉しかった。それなのに——。
わたしは、優しくなんかないよ。
何も優しさから、ゆうきちゃんと一緒にいたわけじゃないんだよ。
目の奥が熱くなる。伝えたい言葉は、ひとつとして出てこなかった。
泣いちゃだめだ。自分が夕希にひどいことをしたくせに、その夕希の前で涙を流そうだなんて。
だけど堪えようと思えば思うほど、息が詰まって、ますます声が出せなくなった。
「ごめ……さ、い……」
ようやく、どうにかそれだけを言うと、とうとう大粒の涙が溢れた。
「ななみちゃん、どうしたの? なんで泣いとるの?」
心配そうな夕希の声が、心を締めつける。抑えようとしても抑えられず、奈々実はしゃくり上げながら泣いた。
情けなかった。こんな自分が、嫌で嫌で仕方なかった。
「ななみちゃ……」
夕希がまた涙声になる。そして今度は、わぁわぁと声を上げて泣き始めた。
しばらくの間、放課後の教室に、二人の泣き声だけが響いていた。
涙が乾き、呼吸を整え、目の充血が治るのを待ってから、二人揃って教室を後にした。既に部活動も終わっている時刻だ。廊下にも階段にも人影はなく、学校じゅうが静まり返っていた。
西日の差す昇降口を出て、立ち止まる。奈々実は東門、夕希は西門だ。ここで別れるべきか、それとも今度は自分が西門から出て夕希と一緒に帰るべきか。奈々実が迷っていると、夕希が先に口を開いた。
「それじゃあ、またね」
「あ、うん……じゃあね」
つられて、そう切り返す。夕希は暗い顔をしたまま、早々に立ち去ろうとしていた。
「あっ……ゆうきちゃん!」奈々実は思わず呼び止める。「あ、あの、また明日ね!」
少しだけ振り向いた夕希はわずかに口角を上げて「ん……」と曖昧に返事をした。だけどそれ以上にかける言葉も見つからず、奈々実はそのまま呆然と夕希の背中を見送った。
やがて奈々実も、ゆっくりと自分の帰路を歩き出した。地面に伸びた影が、がっくり肩を落としている。胸の中をもやもやしたものが渦巻いていた。
また明日、なんて。言うべきことは、もっと他にもたくさんあったはずだ。
わだかまりを吐き出すように、深く息をつく。うっかり気を抜いたら、また涙がこぼれてしまいそうだった。
好きなものを好きと、楽しいことを楽しいと。ただ口に出すだけのことが、どうして自分にはこんなにも難しいのだろう。
それどころか「ごめんなさい」のひと言さえも、結局うまく伝えることができていなかった。思ったことを素直に言葉にできる夕希が、羨ましかった。
明日、夕希が学校に来なかったらどうしよう。そう思ったら、堪らなく寂しかった。
奈々実は足を止め、肩越しに夕希をかえりみる。眩しい太陽の光に、一瞬、目を細める。
そのとき心臓が、どくんと脈を打った。
ちょうど夕希のほうも、こちらを振り返るところだったのだ。
少し距離を置いて、再び視線が合う。夕希の、驚いたような目。きっと自分も同じような表情をしているはずだ。
どちらからともなく、ふっと頬が緩んだ。柔らかな風が駆け抜けていき、お互いの笑みが深くなる。
とくとくと心に血が通い、ほのかに胸があたたかくなった。二人同時に振り向いたのが、なんだかおかしくて。なんだかとても、嬉しくて。
喉の奥がぐっと詰まりそうになる。だけどしっかりと顔を上げ、お腹から声を出す。
「バイバイ、ゆうきちゃん! またね、また明日ね!」
奈々実は手を振った。どうかまた明日、会えますように。そう願って、大きく大きく手を振った。
「……うん、また明日!」
久しぶりに聞いた、張りのある高い声。なぜだか今日はそれが、心地よく耳を打つ。
泣き笑いのような顔で手を振る夕希の姿が、じわりと滲んでいく。その頭上では、傾き始めた太陽が、西の空を淡いだいだい色に染めていた。
翌朝。そわそわと教室の入り口をくぐった奈々実は、自分の席に着く前に、窓際に夕希の姿を探した。相変わらず一人きりでいる背中を見つけて、胸を撫で下ろす。
ひとまず椅子に座り、ランドセルの中身を机の中へと移した。そして何気ないふうに教室じゅうを見渡す。教卓を占領して大きな声で笑う大谷のグループ、あちこちでふざけ合う男子たち、さざめくようにおしゃべりする女子たち。大丈夫、いつもどおりだ。
全身を巡る血がざわざわと騒いでいた。心臓が痛いほどに鼓動を打っている。たぶん、最初にこの教室で自己紹介をしたときの何倍も、何十倍も速く。
大きく息を吸い込む。意を決して席を立つ。何人かがこちらを見た気がした。しかしもう、ためらう気持ちは微塵もない。
教室を横切り、窓際へ向かう。夕希の席がだんだん近づいていく。奈々実の動きに、大谷たちが気づいたかもしれない。それでもいい。何があったとしても、自分の気持ちを捻じ曲げて、大切なものを傷つけるのはもう嫌だ。
やがて、夕希のもとにたどり着く。
「おはよう、ゆうきちゃん」
力強い心臓が送り出した声。夕希が顔を上げ、奈々実の姿を認める。強張っていたその表情が、ほっと緩んだのがわかった。そしていつものように、にっと笑って言った。
「ななみちゃん、おはよ」
カーテン越しの日差しが、教室を明るく照らしていた。
—了—