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真白にのぞむ

 除雪車が路面の雪を削る音で目が覚めた。

 枕元のスマホを手繰る。時刻は朝の八時半すぎだ。

 ハッと身を起こす。しかし、隣に夫の姿はない。

 あぁ、そうか、今日は当直でいないんだった。

 ほっと息をつき、私はベッドに倒れ込む。体の向きを変えて、まぶたを閉じた。

 全身がだるい。腕や太ももは筋肉痛になっている。こめかみの辺りでかすかに頭痛がする。ゆうべは早めに休んだはずなのに、疲れはまるで取れていなかった。

 外では相変わらず、除雪車が低く唸り声を上げている。

 耳障りな音だ。雪はまだ、馬鹿みたいに降り続けているのだろうか。

 目を開けて、再び身を起こす。うるさくて眠れやしない。

 私はベッドから這い出て、ふわもこ靴下を履きっぱなしの足をルームシューズに突っ込み、窓際へと近づいた。そして苛立ちに任せて勢いよくカーテンを開ける。

 窓ガラスは、大量の結露でベタベタに濡れていた。その水が桟に溜まり、凍りついてしまっている。流れ落ちた幾筋もの雫の跡から、白灰色にくすんだ外の景色が垣間見えた。

 一段と気分が沈む。連日の雪かきで酷使した手足の疲労が、さらに重くなった気がした。

 私はのそのそとベッドに戻った。やっぱり、もう少し眠ろう。今日は何もしたくない。

 身を横たえて布団をかぶろうとしたところで、ふと、ナイトテーブルの上にある本に目が留まった。

『高山市図書館』と書かれたバーコードシール。

「あ」

 意図せず声が出た。

 この本の返却期限、今日じゃん。


 夫の転勤で高山に越してきて、早九ヶ月。

 飛騨の小京都と呼ばれるこの地には、それまでにも何度か旅行で来たことがあった。

 市の中心部にある『古い町並み』は江戸時代の景観が保全された観光地で、外国人旅行者にも人気のスポットだ。春と秋に行われる『高山祭』は毎年多くの人で賑わう。飛騨牛や朴葉みそなどのご当地グルメも豊富。アニメ作品の舞台になったため、近年は聖地巡礼で訪れる人も増えているのだとか。

 しかしそんな風光明媚な街も、住んでしまえばあまり関係ない。それまでと同様に、自分の衣食住を淡々と営むだけだ。

 違いを挙げるとすれば、冬場の寒さや雪との付き合いが日常に加わったということだ。


 しばらくベッドの上で躊躇ってから、意を決して寝室を出た。冷え切った廊下の空気に身がすくむ。

 震えながら洗面台の前に立つと、冴えない顔色の自分と目が合った。蛇口のレバーを上げ、勢いよく流れ落ちる水道水をぼんやり眺める。お湯が出てくるまでにものすごく時間がかかるのだ。水が白く濁って湯気が立ってきたところで、私はようやく顔を洗った。

 居間へ移動し、石油ファンヒーターにあたりながらのろのろと着替えをする。保温性インナーの二枚重ねにセーター、タイツの上にウールの靴下、そして裏起毛パンツ。着込みすぎて多少動きづらいけれど、寒いのは耐えられない。

 だるい体を励ましつつ、トーストとインスタントコーヒーを作る。疲労が勝って空腹かどうかもよくわからなかったけれど、無理やり胃に流し込む。体があたたまってきたら、少しだけ気分がマシになった。

 時刻は早くも十時になろうとしていた。もたもたしていても、雪は降り積もるばかりだ。

 ニット帽をしっかり被り、スキーウェアのジャケットを羽織る。膝まである防寒ブーツを履き、スキー用のグローブを嵌める。そして玄関の壁に立てかけてあった雪かきシャベルと車用の雪落としブラシを掴んで、扉を開けた。


 表へ出るなり、氷点下の空気が頬を刺した。うっかり深めに息を吸い込んでしまい、肺まで凍りつく。軽く咳き込み、涙が滲んだ。

 空は、一枚布を広げたような鈍色の雲に一片も残らず覆われていた。既に昇っているはずの太陽は影も形もわからない。見ているだけで気が滅入る。

 近隣の家の屋根という屋根には、分厚い掛け布団のような雪が載っている。ご丁寧に、電線の上にまでしっかり積もっていた。

 もうすっかりお馴染みの風景だ。雪はだいぶ収まってきているものの、まだちらちらと降り続けているのが見える。

 転ばないように気をつけながら、アパートの階段をゆっくり下っていく。地面の雪は他の住人によって踏み固められ、薄汚れた色に変わっている。

 駐車場に辿り着いたとき、私は軽く打ちのめされた。

 私の車が、巨大な雪だるまと化していたのだ。

 昨日の昼すぎに出かけたとき、きれいに雪下ろししたはずなのに。この一晩でまた四十センチほど積もっている。

 なんという不毛。

 思わず漏れた溜め息は、この景色の中でもひときわ白かった。


 ようやく雪かきが終わって出発するころには、時刻は十一時を回っていた。

 国道41号線をのろのろと北上していく。もう雪は止んでいたが、路面がガリガリに凍結している。こんな主要道でさえも、除雪が追いついていないらしい。

 本来なら二車線あるはずの道は、路肩に退けられた雪が壁のようにせり出して幅が狭くなっており、一列でしか走行できない。おまけに誰か立ち往生でもしているのか、車が延々と数珠つなぎになっていた。

 畝の谷間のような轍にタイヤをとられては、車体が大きく揺れる。時々前輪が空転し、そのたびヒヤリとする。路面から伝わる絶え間ない振動のせいで気分が悪くなってきた。

 どこもかしこも雪が積もっていて、どれだけ進めど景色はあまり変わらない。物の位置関係や距離感、時間の流れまでもがぼんやりしてしまう。

 総合庁舎口の交差点で右折して、東へ進む。こんな足元の悪さなのに、宮川朝市や国分寺通り商店街にはちらほらと観光客の姿があった。

 そう、旅行で来る分にはいいのだ。この大雪が非日常であるならば。私だって初めて大雪が降ったときは少しテンションが上がった。しかし今や、雪が視界に入るだけで鬱々とした気分になってしまう。

 緩い坂道を登って、どうにか無事に図書館へと辿り着いた。駐車券を取ってゲートをくぐる。いつもだったら十五分ほどで来られるのに、なんと四十分もかかってしまった。

 この駐車場は、図書館に用事がなくても利用できる。古い町並みなどにも程近い場所にあるため、普段はほぼ満車状態だ。

 しかしさすがに今日は、数えるほどしか車がいない。やっぱりこんな日は、外に出るべきではないのだ。


 高山市図書館、別名『煥章館かんしょうかん』。

 白い壁に、うぐいす色の柱とバルコニー。あずき色の屋根の上には、小さな塔屋。ヨーロッパ風の、洒落たデザインの建物だ。

 最初にここを訪れたのは、ちょうど桜が満開で、ぽかぽかと天気の良い日だった。私はこの素敵な図書館を、ひと目ですっかり気に入ってしまった。

 以来、本を借りにちょくちょく通っている。私にとっては、高山で初めてできた馴染みの場所だ。まだこちらには友達もいないので、生活に必要なこと以外で私が立ち寄る唯一の場所でもある。

 しかしそんな煥章館も、今日は屋根やバルコニーが雪に塗れていて、なんだかくすんで見えた。


 玄関の自動ドアから中へ入ると、すぐに大きな石油ストーブが出迎えてくれた。館内の空気はあたたかい。悪路の長時間運転による緊張から解放されて、ちょっと休憩したい気分だ。

 私は入り口の横にある自販機コーナーに寄り、ホットココアを買った。ベンチに腰を下ろし、それをちびちび飲む。

 ざっと見渡した限り、一階には私の他に利用客はいないようだ。このフロアには絵本や児童書ばかりが置いてあり、キッズスペースも併設されているので、普段はけっこう賑やかなのだけれど。

 それにしても静かだ。自販機の低い振動音だけがわずかに聴こえている。外に積もった雪が、音を吸い取っているのかもしれない。

 しばらくすると、玄関の自動ドアが開いて親子連れが入ってきた。三歳くらいの女の子と、そのお母さんだ。女の子は絵本を何冊か抱えている。

 二人はまっすぐにカウンターへ向かっていった。しかし返却の手続きが済むか済まないかのうちに、女の子は待ち切れず歓声を上げて絵本コーナーへと駆けていってしまった。

 大変だな、こんな日に。私も人のことなんて言えないけれど。

 ぬるくなったココアを飲み干す。さて、私も本を返しに行かねば。

 しかし一度ベンチに座り込んだがために、足腰がすっかり根を下ろしてしまっている。私はなけなしの気力を振り絞って立ち上がり、空になった紙コップをくず入れに捨て、自販機コーナーを出た。


 エレベーターに乗って一般図書のある二階へと向かう。分厚い扉が開いてフロアへ出ると、すぐ右手が貸し出しカウンターだ。

 カウンターの向こうには眼鏡をかけた五十代くらいの女性と、奥に男性の後ろ姿も見える。

 女性のほうが私に気づいて、にこやかに声を掛けてきた。

「こんにちは」

 私も小さく笑みを作って「こんにちは」と返す。久しぶりに顔の筋肉を使った気がした。

 鞄から本を取り出して、ジャケットのポケットに入れていた駐車券と一緒に渡す。

「返却でお願いします」

「はい、どうも」

 バーコードリーダーを本にかざしてモニターを見た女性が、あら、と声を上げる。

「ひょっとして、今日が期限やったで来られたの?」

「あ、はい、そうです」

「あらー、こんなえらい雪のときに申し訳なかったですねぇ。こういう日はね、電話してもらったら良かったんやお。外出るだけでも大変やもんねぇ」

「あ、そうだったんですか……」

 はは、と渇いた笑いが漏れる。なんだか一気に脱力してしまった。そりゃあ、みんな来ないはずだ。自分の要領の悪さには呆れてしまう。

「返却だけで良かったです?」

「はい、とりあえず……」

「じゃあ、これで承りましたんで。駐車券も」

 無料化処理された駐車券が返ってくる。

「良かったらそこのコーナーも見てってくださいね。おすすめの本とか紹介してますんで。人気の本は順番待ちになっとるのもあるんやけど、言ってまえれば予約お取りしますよ」

 女性が示したほうに顔を向ける。少し離れたところにある低めの本棚に、『図書館スタッフのおすすめ』という手書きのポップと、何冊かの本が並べられていた。今まであまり気にしたことのなかったコーナーだ。私は礼を言って、そちらへ足を運んだ。

 おすすめコーナーに置かれた本のうち、ある一冊に目が留まった。この地方出身の作家の作品だ。確か、文学賞の候補にもなっていた。高山が舞台となったアニメの原作も、この人の著作だったはず。いずれにしても未読だった。

 手書きの作品解説の横に、地域のフリーマガジンのコピーが置かれている。この作家を特集したページのものだ。『ご自由にお取りください』と書かれたトレイからそれを一枚取り、四つに折って鞄に入れる。

 読んでみようかな、と思った。探せば他の著書も置いてあるかもしれない。


 ブーツの滑り止めが、木の床をカツン、カツンと叩いていく。広々とした空間に、見上げるほど背の高い書架が整然と列をなしていた。

 哲学・宗教。オセアニア史。北アメリカ史。今後もきっと縁がないであろうと思われる分野の本たち。

 社会。民俗学。年季の入った分厚い本が、ぎっしりと並んでいる。

 英米文学。ドイツ文学。フランス文学……。

 行けども行けども、この書架の林には、私の他に誰の姿もなかった。

 かすかな紙の匂いを感じる。たくさんの見知らぬ人たちが触れた、たくさんの本の匂いだ。そんな誰かの気配の只中でも、ここにいるのは私一人きりだった。

 なんだか勝手に他人の家に上がり込んでいるかのような気分になり、妙にそわそわしてしまう。自分の靴音だけが響くので、私は思わず歩調を緩めた。


 ようやく日本文学のゾーンに行き着く。五十音の並びを順に辿っていき、目当ての作家名を見つけた。

 その中から気になったタイトルの一冊を手に取ってみる。真新しい、きれいな本だ。

 表紙は、一面の緑だった。

 森の中の写真だろうか。生い茂った木々と、短い草に覆われた地面。手前のほうはあたたかそうな日の光で照らされている。

 遠い季節の、鮮やかな緑。

 今は決して目にすることのできない、懐かしい深緑しんりょくの色だ。

 ふいに、胸の奥がきゅうっと苦しくなった。

 冬は、いつまで続くのだろう。

 いつになったら、雪に煩わされる日々は終わるのだろう。

 本の表紙の輝くような緑に、そっと指を這わせる。だけど脳裏に浮かぶのは、白灰色に沈んだもの寂しい風景ばかりだ。

 もし本を借りて帰っても、また返却期日の辺りに大雪が降らないとも限らない。そういうときは電話してくれれば良いと言われたけれど、どのみちこの季節、外出のたびに多かれ少なかれ雪かきをしなければならないのだ。

 天気予報によれば、この先しばらくは最高気温すら氷点下の日が続くらしい。ガタガタの路面は、当分元には戻らないだろう。あんな状態の道では、いつか事故を起こすかもしれない。

 生活に必要なものの買い出しだけでも大変なのに、余分な用事を作っている場合ではないのではなかろうか。

 身の内に積もった根雪のような疲れが、心の底をしんと冷やしていく。

 結局私は手にした本を開くこともせず、そのまま棚へと戻した。

 小さな溜め息をひとつ。後ろ髪を引かれる思いで、私は踵を返した。


 カツン。カツン。カツン……。さっきよりもゆっくりのペースで、足音が響く。着膨れた体がいっそう重い。一歩ごとに倦怠感が増していくような気さえする。

 カウンターの前を通りがかったとき、あの女性がまた声をかけてきた。

「お帰りも、お気をつけて」

 やわらかな笑顔。

 それを目にした途端、なぜだか急に泣き出したくなった。

 帰りたい。

 地元に帰りたい。

 どうして私はこんなところで生活しているのだろう。

 雪に閉ざされた街。

 知り合いの一人もいない、灰色の街。

 この図書館は、せっかくできた馴染みの場所だったのに。

 女性に軽い会釈だけを返して、私は逃げるようにエレベーターへと乗り込んだ。


 エレベーターが止まり、扉が開く。重い足を動かして、一階のフロアへ出る。

 次に来られるのは、いったいいつになるのだろう。

 春はまだ、途方もなく遠い。

 床板の継ぎ目を視線でなぞりながら、とぼとぼ歩いていく。石油ストーブの赤い火を横目で見送り、玄関へ進む。

 自動ドアが開き、冷たい空気が頬をかすめる。反射的に首をすくめ、ぎゅっと目をつむった。

 再び、ゆっくりとまぶたを開ける。

 その瞬間、視界に飛び込んできたものに、私は思わず息を飲んだ。


 見渡す限りの辺り一面、やわらかな白い光に満ち溢れていたのだ。


 空を隠していた分厚い雲が切れて、そこから透き通った淡い群青色が覗いている。

 長らく姿を見せていなかった太陽も久しぶりに顔を出し、まばゆい光が地上へと降り注いでいた。

 澄んだ日差しが、自然に降り積もったままの雪を照らし出す。木を、地面を、家々の屋根を覆う白銀に、繊細な陰影が生まれる。まるで、なめらかな絹の衣に包まれているかのようだ。

 しばしの間、呼吸すらも忘れた。この目に映る全てのものが、清々ときらめいていた。

 長く、深く、息をつく。その溜め息は、この景色の中でもひときわ白い。


 高山の冬が嫌いだった。

 早く春が来れば良いのにと、憂鬱な気分で毎日を過ごしていた。

 けれど、知らなかったのだ。

 雪がこんなにも、きれいだなんて。


 背後で扉が開く。さっきの親子連れが、立ち尽くす私を追い越していく。女の子の腕には新たな絵本。二人は軽い足取りで、明るい光の中へと歩んでいった。

 私はつい今しがた出てきたばかりの建物を振り仰いだ。

 純白の雪をまとった煥章館は、太陽の光を受けて、やさしくきらきらと輝いていた。

 初めてここを訪れたときの記憶が蘇る。

 こんな素敵な図書館に通って、たくさん本を読んだら、どんなに楽しい日々になるのだろうと、そのとき思ったのだ。

 日差しが頬をあたためる。視界がぼやけ、滲んでいく。凍えて強張っていた心が、ゆるりと解けていった。

 鞄に入れたチラシに触れる。胸の奥から、弾むような気持ちが湧き出てくる。

 大丈夫。きっと大丈夫。

 いつだって、ここへ来られる。

 私はまた踵を返す。そして今度は顔を上げて、図書館の中へと戻ったのだった。



—了—

先日pixivで行われたユーザー企画、第1回テーマコンテスト『私を街まで連れてって』にて、金賞をいただいた作品です。実在する街を登場させた作品を書く、という企画でした。

主催の抽斗さんから、ご丁寧な感想を寄せていただきました。→ http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=7920618

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