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天の川、遠く

『七夕の今日は生憎の曇り空ですが、科学館では満天の星空を見ようとたくさんの家族連れが――』

 テレビのニュースは家族連れで賑わうプラネタリウムの様子を伝えている。インタビューを受けた小さな男の子が、両親に挟まれて嬉しそうな笑顔を見せる。

 レポーターの明るい声が、表情が、なんだか癪に障る。

 台所のほうからは、お父さんとお母さんが言い争う声が聞こえてくる。何を話しているのかその内容まではわからない。もっとも、知りたいとも思わないけど。

 テレビの音量を上げる。レポーターの口調が一層わざとらしさを増す。

 だけどどうしてだか、喧嘩の声は私の耳にまっすぐ届く。家じゅうのものが息を潜めているみたいだ。つまらないテレビなんて、まるで役に立たない。

 ふと、縁側に目をやる。

 今年小学校に上がったばかりの弟は、薄暗いそこにぽつんと座っていた。その脇には、学校でもらったという一房の笹が裸のまま壁に寄り掛かっている。

 時計を見る。八時十五分。

 私は意を決して台所を覗きにいく。二人はまだ口論を続けていたけど、私に気付いたお母さんが少しだけ顔を出し、扉の隙間から何かを差し出してくる。

 千円札が一枚と、五百円玉が一枚。

 今日も、夕飯はないのだ。まぁ、触れたら切れそうな雰囲気の中での食事なんてこちらから願い下げだけど。

 ため息をついて、和室に戻る。

「涼太、ごはん食べに行こっか」

 声を掛けると、涼太は仏頂面のまま頷き、立ち上がった。


 夜だというのに外はじっとりと暑く、少し歩いただけで汗がにじみ出てくる。さっきのテレビが言っていたとおり、空は鉛のような厚い雲に覆われていた。これでは天の川もさぞ大荒れだろう。

 ざまあみろ、七夕。

「楽しみにしてたのにな、七夕」

 私の心の声に反論するかのように、涼太がぽつりと呟く。

 本当だったら、もらってきた笹に飾り付けしたり短冊を書いたりして七夕を楽しむべきなのだろう。だけど生憎のところ、今の我が家にそんな雰囲気はまったくなかった。

 たぶん明日小学校では、七夕の話題が出される。級友たちが楽しい家族の七夕の話をするなか、その輪に加われずひとり俯く涼太の姿を想像してみる。

 私は涼太の小さな右手をぎゅっと握りながら、どうせなら大雨でも降ればいいのに、と思った。


 家から辛うじて歩いて行ける距離に、ファミリーレストランがある。このところは今日のように夕飯が用意されない日も多いので、私たち姉弟はたびたびそこにお世話になっていた。

 子どもだけで夕飯を食べににファミレスに行ったという話をすると、友達はみんな口を揃えて「すごいね」と言う。中学生にとって、夜のファミレスは未知の世界なのだ。

 だけど一体、何がすごいと言うのか。

 私から見れば、家族仲良く食卓を囲むことの方が、よほどすごい。

 うちの両親の仲が悪くなったのはいつ頃だっただろう。

 何が原因だったのか私にはわからない。でもここ最近の言い合いの内容が、これまでのようなだたの罵り合いから離婚へ向けた具体的なことに移りつつあるらしい、ということだけはわかる。

 それは私と涼太のことについても含まれる。どちらがどちらを引き取るか、というような話だ。

 自分たちのことで両親が言い争っているのを聞くと、どうにも身の置き場のない気分になる。だから夜のファミレスは、いわば避難場所のようなものだ。



 とは言え、今日ばかりは失敗だったかもしれない。

 店の入り口をくぐった正面、レジのすぐ横の待ち合いスペースに、大きな笹が置かれていたのだ。家の縁側に置いてある涼太の笹とは違って、それには色とりどりの七夕飾りや短冊がたくさんぶら下げられていた。ソファの横の机には短冊とペンが置いてあり、「ご自由にお書きください」と丸っこい字で書いてある。

――余計なことを。

 時間のせいか店はわりと空いていて、私たちはすぐに席に案内された。涼太はちらりと横目で笹を見送っただけで、何も言わなかった。

 席に着くと、店員が水とメニュー表を運んでくる。子どもだけでこんなところに来ていることについて何か言われたらどうしようといつも思うのだけど、今までにそういうことは一度もなかった。世間は意外と、私たちに無関心なのかも知れない。

「何食べたい?」

 私が声を掛けても、涼太は口を引き結んだままメニュー表に視線を落としている。

「ほら、涼太の好きなハンバーグもあるよ。それともお子さまランチのほうがいい?」

 むりやり明るい声を出す。それでも涼太は応えない。たっぷり時間をとってから、ようやくぽつりと口を開く。

「……いらない。お腹空いてないもん」

 これは拗ねているときの反応だ。私は小さく息をつく。

「後からお腹空いたって言っても、お姉ちゃん知らないからね」

 言い含めるようにそう言って、私は呼出ボタンを押す。ピンポーンという間延びした音が、店内にやけに大きく響いて少しびっくりする。やってきた店員に、ハンバーグセットひとつと、念のためポテトフライを注文した。これくらいなら涼太もつまむかもしれないと思ったのだ。


 料理が来るのを待っている間、私たちは何も口をきかなかった。涼太は相変わらずだんまりだ。連れて来ないほうが良かったかなと一瞬思った。しかしそれでも、家にいるよりはずっとましだろう、とも。

 ふいに、私たちのテーブルの脇を一人の女の子が駆けていく。涼太と同じか、少し上くらいの子だ。

 その子は待ち合いスペースまで行き、ちょっと背伸びをして手に持っていた短冊を笹に結んだ。ピンクの短冊が引っかかったのを確認すると、くるりと振り返って満面の笑みで来た道を戻っていく。

 女の子が向かった先に目を向けると、少し離れたボックス席に、家族連れが座っていた。お父さんとお母さんと、お兄ちゃんらしき男の子。その家族の誰もが笑顔で、いかにも幸せそうだった。

 あぁそうか、ここは「ファミリー」レストランなんだ。私は今さら気付く。

 ちらりと涼太のほうを伺うと、やっぱり仏頂面のままだった。

 他のお客さんや店員から見て、私たちはどう映っているのだろう。急に不安が押し寄せてくる。

 子どもだけで、こんな夜に、暗い顔をして。可哀そうな子たちに見えるだろうか。

 それはちょっと――たまらないな。

 私は笑顔を作った。

「ね、涼太。せっかくだから涼太も短冊書いてきなよ。あんな立派な笹だったら、お願い事も叶うかもよ」

 我ながら、変に明るい声だった。涼太は一瞬顔を上げて、しかしすぐさま視線を落とす。そしてぼそりと呟いた。

「いい。七夕なんてつまんないもん」


 ファミレスのトイレは、どうしてこうも殺風景なのか。空調の低い唸り声がわんわんと響いている。

 くぐもった鏡に映る自分の顔をにらみ付ける。

 誰も彼も、一体何だっていうんだ。

 どうして私が、こんなに惨めな気分にならなくちゃいけないんだ。

 なんだか無性にいろいろなものが憎かった。両親や無神経なテレビや、あの家族連れまでもが。

 意地を張って自分勝手に拗ね続ける涼太にも腹が立った。

 私の気も知らないで。

 手洗い台の蛇口に手を差し出す。緩い勢いの水が指の間をすり抜けていく。細かい泡が排水口に吸い込まれていくのを見届けてから、顔を上げる。おそろしく暗い表情の自分と目が合って、どきりとする。

 私は首を振って、小さく息をつく。眉間に寄った皺をぐいと伸ばす。だめだ、ちゃんとしっかりしないと――

 手を拭き終わった紙を溢れかけたごみ箱に無理やりねじ込んで、私はトイレを出た。



 席に戻ると、ハンバーグセットとポテトフライがテーブルの上で湯気を上げていた。その陰に隠れるようにして、涼太は何かを書いている。湯気の間から覗き込むと、水色の短冊が見えた。なんだ、結局書くんじゃない。

 私の視線に気付いた涼太は、テーブルに突っ伏すようにして短冊を隠す。

「……見ないわよ」

 涼太はしばらくそのままの姿勢でいたけど、顔を上げるや短冊を掴んで待ち合いスペースのほうに走っていった。短冊を笹に結ぼうとする涼太の後ろ姿を横目に見ながら、また息をつく。

――可愛くない奴。

 涼太が戻ってくるのを待たずに、私はハンバーグを切り分け始めた。


 結局、涼太は一口も料理を食べなかった。私は苛立ちでごわごわしたお腹をいじめるように、ハンバーグセットとポテトフライを全部ひとりで片付けた。

「……行くよ」

 ぼそりと低い声で言って涼太の返事も聞かずに立ち上がり、レジへと向かう。

 レジでは、さっきの家族が会計をしているところだった。

 お母さんがお金を払う間、兄妹はおもちゃが並んだ棚を見ていた。妹が「これ欲しい」と言って小さなキーホルダーのようなものを掴むと、後ろからお父さんが「そんな訳のわからないもの買ってどうするんだ」などと笑みを含んだ声で言う。

 それは本当に、何でもないやりとりだった。ごくありふれた、家族の会話。これに似たやりとりはきっと、探せば日本じゅうのどこでも見つかるだろう。

 涼太が私の影に隠れるように身を寄せてくる。引き結んだ唇を、ぐっと噛んでいるように見えた。


「何でもないもの」は、本当は何でもなくないんだ。

 奇跡のような偶然がいくつも重なって、夢みたいな確率で成り立っているんだ。

 そうじゃなければ、私たちが二人きりでこんなところにいる理由なんて、他に説明できない。


 やがて会計の順番が私たちに回ってきて、その家族は楽しそうな様子で店を出ていく。

 兄妹が勢いよく駆け抜けていくのに煽られて、笹に飾られた短冊たちがひらりと翻る。


 その瞬間、心臓を射抜かれた気がした。


 私は素早くお金を払うと、乱暴に涼太の手を取って店を後にした。


 雲は来た時よりも一層どんよりと厚い。湿気が肌に纏わりつく。ぽつりと立つ街灯の周りを、数匹の蛾がぶうんぶうんと小さな羽音を立てながら飛んでいる。その音の他には、私たちの不揃いな足音しか聞こえない。

 雨、今にも降りそうだな。そんなふうに思った。

 私は涼太の手を引っ張って、家に向かう足を速める。涼太は半ば掛け足になっているけど、何も言わずについてきた。

 どうか、どうか。家に着くまでもちますように。

 帰りの道のりは、なんだかとても長く感じた。



 玄関を勢いよく開け、小さな声で「ただいま」と言う。「おかえりなさい」というお母さんの声が、家の奥から返ってくる。

 帰り道の急ぎ足の反面、私はごく平静な顔で靴を脱ぐ。いつもと変わらないテンポで階段を上り、自分の部屋のたんすからパジャマを取り出す。そして、いつもより少し早足で階段を降りる。階段の終着点から脱衣所までは、八歩で辿り着く。

 あと、もう少し。

「お姉ちゃん、僕もお風呂……」

 振り返ると、涼太が着替えを持って立っている。あぁ、もう――

「たまには一人で入んなよ。あんたもう一年生でしょ?」

 私は抑えた声でそう言って、脱衣所の扉を閉める。

 汗で湿った服を脱ぎ去り、ようやく風呂場の扉も閉めると、思い切り蛇口をひねった。

 閉ざされた空間を、シャワーの音が満たしていく。私は頭からぬるいお湯をかぶりながら、ゆっくりと息を吐き出す。


 もう、大丈夫だ。


 息を吐き終わると同時に、みぞおちの奥から何かがこみ上げてくる。私はぐっと喉を狭くし、お腹に力を入れ、身構える。

 苦しい。

 苦しい。

ーー哀しい。

 こらえていたものがとうとう溢れ出し、後から後からこぼれていく。それはシャワーのお湯に混じって、タイルの床を打ちつける。形をなくした涙は、ぐるぐると渦を巻きながら排水口に消えていった。


 さっきファミレスの七夕飾りが翻った瞬間、見えてしまったのだ。

 笹の低い位置に結ばれた、水色の短冊。

 あの短冊に書かれた文字は、間違いなく涼太のものだった。

 他愛もないお願い事で彩られるなかに紛れて、そこにはこう書かれていた。


『おとうさんとおかあさんがなかなおりして、みんなでしあわせにくらせますように』


 泣きたくなんてなかった。気付きたくなんてなかった。

 ずっと、両親や自分を取り巻く状況に腹を立てていた。平気なつもりだった。

 涼太の手を引っ張って、何が起きても動じずにいられると思っていた。


 ねぇ、でも、涼太。

 私も本当は、同じ気持ちだよ――


 喉からきりきりと漏れる嗚咽を止めることができなくて、私は涙をシャワーで洗い流し続けた。



 ドライヤーもそこそこに、脱衣所を出た。鼻も目もまだずいぶん赤かったけど、風呂から出たばかりであればどうにか誤魔化せるだろう。

 自分の部屋へ上がっていく途中で、お母さんと出くわす。お母さんは私のほうをじっと見ていたようだったけど、結局何も言わなかった。

 泣いた後の顔だということに、気付いただろうか。

 気付かれたらたまらない。

 でもーー

 でも、本当は。

 それでもやはり私は立ち止まらず、後ろ手にぱたんと部屋の扉を閉める。

 すぐにベッドに潜り込み、タオルケットを頭からかぶる。窓の外から小さな雨音が聞こえる。


 織姫と彦星は会えただろうか。ふと思った。

 天の川の対岸に離れ離れにされてしまった夫婦。たとえ一年に一度しか会えなかったとしても、心さえつながっていればそこに幸せがある。きっと多くの人が、大切な誰かとの心のつながりを祈って、短冊に願いをこめるのだろう。

 こんなに近くにいるのにばらばらになっていってしまう、私の大切なもの。

 今夜くらいは私もせめて、祈るくらいはいいだろうか。願うくらいは許されるだろうか。それが叶わぬ希望だと、たとえ知ってはいても。

 雨は静かに降り続けている。きっと今夜はやまないだろうと、私は思った。



―了―

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