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不幸自慢【R-15】

 ねぇあんた、生きてんの? 死んでんの?

 天井の鏡に映る自分にそう問い掛ける。

 制服姿で縛られて、ベッドに身を投げ出したあたし。これ、何て言うんだっけ? 亀甲縛り?

「い、痛くない?」

 横からおどおどした声が掛かる。気が弱そうなサラリーマン風の痩せた男。根性のない髪が汗で広めの額に張り付いている。年齢はよくわからないけど、意外と若いのかもしれない。

「うん、まぁ痛くないけど」

 そう答えると、男はほっとしたような顔をする。だけど分厚いメガネの奥の目は既に血走っていて、息も荒い。制服の上から縛るなんて、ちょっとマニアックな感じ。ちなみに事前の指示で、下着は先に外した。だから今、素肌の上に直接ブラウスを着ている状態だ。そういうコダワリって、妙に気持ち悪い。追加料金三万円とは言え、緊縛プレイを許可したことを、あたしはちょっとだけ後悔していた。

「始める前に確認だけど……水とか掛けていいかな?」

「……どうぞ」

「しゃ、写真は撮っていい?」

「一万。動画は三万。プラスこっちも顔写真撮らせてもらいたいのと、名刺ももらう」

「な……生ハメは?」

「二万。ゴム着けるんなら追加はいらないけど」

 この辺りはお決まりのトークだ。相場がいくらか知らないけど、お客が妥協できるかどうかの微妙なラインで料金を決めた。

 男はうんうんと頷いて、口元に気色の悪い笑みを浮かべる。

「す、すごいな……お金出せば何でもやらせてくれるんだ」

「何でもってワケじゃないけど」

「じゃあとりあえず、写真と生ハメでお願いします。ちょっと水持ってくるから待っててね」

 男はさっそくユニットバスに向かっていった。あたしは小さく息をついて、目だけで辺りを見回す。

 薄汚れた、ダサいピンク色の壁紙。水が出るだけの、最低限の流し台。小さいガラステーブル。コトを済ますためだけの、いかにも安っぽい部屋だ。

 建て付けの悪いユニットバスの扉がキィっと音を立てて開いたので、あたしは視線を天井に戻す。男が水を張った洗面器を手にして戻ってきた。

「それじゃあ行くよ」

 言うなり、水が掛けられる。

「やっ……冷たっ……!」

 思わず身を仰け反らせたけど、縛られているおかげでロクに身動きが取れない。濡れたブラウスが肌にぺっとり張り付く。反応でかたくなった乳首が布地を押しているのが、自分でもわかる。

 あたしのリアクションに、男はひひっ、と不気味な笑い声を漏らした。

「そ、そうだ、カメラカメラ……」

 男が鞄を探っている間、あたしはぼんやり天井に映る自分の姿を眺めていた。濡れたせいか、さっきよりも縄が身体に食い込んでいるように見える。髪を乱したあたしは、すっかり諦めた目をしていた。

 ねぇあんた、生きてんの? 死んでんの?

 もう一度、問い掛ける。

――どうだっていいよ、そんなの。

 鏡の中のあたしは投げやりにそう答えて、そっと目を閉じた。





 二日ぶりに来る学校は、校舎に一歩足を踏み入れた途端にわかるくらい、相変わらずいろんな香水の匂いが充満していた。さすが、県内最低ランクの女子高というだけのことはある。

 脳みそごとガンガン揺さぶられるようなひどい頭痛と、胃からむかむか込み上げてくる吐き気をどうにか堪えながら、あたしは自分の教室に向かっていく。

 この体調不良は、モーニングアフターピルの副作用だ。商売柄、生ハメされたときのために通販で買い置きしているのだ。お値段はちょっと張るけど、ネットはこんなものも手に入るから便利だ。ちなみに売りの相手も、いつもネットの掲示板で適当に見繕っている。

 あたしが教室に入っていくと、それまで動物園のサルみたいに騒いでいた派手な集団が一瞬静かになったのがわかった。そいつらの視線をなんとなく背中に感じつつ、窓際にある自分の席へと移動した。

 授業が始まるまでにはまだちょっと時間がある。さっきの集団がこっちをチラ見しながらひそひそ何かを喋っている。そして次の瞬間には、狂ったように笑い声を上げる。出席日数が足りないから来たけど、やっぱ今日もサボれば良かったかな。

 頭痛と吐き気、匂いと音が混ぜこぜになって、ぐるぐると景色を回転させる。

 あー、気持ち悪。

「あの、桜井さん……」

 突然声を掛けられて、あたしははっと顔を上げた。すると目の前に、小柄で地味な雰囲気の同級生が立っていた。えぇと、この子誰だっけ?

 思わず睨むように見上げてしまったあたしに、その子は怯えたような顔をする。そしておどおどしながら一冊のノートをこちらに差し出してきた。

「あの、桜井さん、いつも休みがちだよね? これ、授業のノート、取っといたから……」

 あたしは一瞬ぽかんとして、その子とノートを見比べた。

 ちょっと、ワケがわかんない。あたし、今までこの子と喋ったことってあったっけ?

 それでも一応、お礼は言ったほうがいいかと思って、口を開く。

「えぇっと、ありが――」

「ちょっとぉ、委員長!」

 だけどあたしの言葉は、さっきの派手な集団からの声で遮られてしまった。委員長と呼ばれたその子が、びくっと身を震わせる。

「委員長ぉ、早く今日の課題見してよー。うちら委員長だけが頼りなんだからさぁ」

 ねっとり媚びるような声色に、その取り巻きたちのくすくす笑いが続く。

「は、はいっ」

 委員長はあたしの机にノートを置き、慌ててあいつらのほうへ駆け寄っていった。

 その様子を見て、あたしはようやく思い出した。

 委員長。

 今やあだ名になっているその役割を、四月の初めに出席番号が一番だからと無理やり押し付けられて、文句の一つも言えずに俯いていたあの子だ。



 その後も体調は最悪で、結局あたしは二時限目の授業が終わったところで勝手に早退した。さすがに今日は寄り道する元気もなくて、ガラガラの電車に揺られながらまっすぐ家に向かった。

 最寄駅からの道をだらだら歩く。やたらと空き地の多いさびれた地区。昼間から一杯ひっかけたおっさんが野良猫たちにエサをやっているのを横目に通り過ぎる。小さな踏切を渡って、錆びたトタンの壁のボロアパートが見えてくると、あたしの足取りは自然と重くなった。

 どうか、来てませんように。

 今にも崩れそうな鉄の階段を上って、できるだけ音がしないようにゆっくりと玄関の鍵を回す。そうっと扉を押し開くと、コンビニ弁当の殻やラーメンのカップが詰まったゴミ袋に紛れて、ヒールの高いパンプスがばらばらに脱ぎ捨てられているのが見えた。

 良かった、今日はあいつ、いないみたいだ。

 ゴミを避けながら家に上がる。奥の部屋では、お母さんが毛布に包まって眠っていた。生ゴミと香水とタバコが混ざった臭いが、辺りに漂っている。灰皿の吸殻から細く煙が上がっているところを見ると、お母さんもまだ帰ってきたばっかりなのだろう。お勤めから帰ったら、一服してすぐに寝るのが昔からのパターンだから。

 あたしはほっと息を吐いて、肩に掛けたブランド鞄をその辺に投げ置いた。身体がひどく重い。どうにか制服を脱いで、床に散らばっていたスウェットに着替える。そしてのろのろと奥の部屋に行って、お母さんの隣の布団に潜り込んだ。


 目を覚ますと、辺りはすっかり暗くなっていた。お母さんの姿もない。今、何時なんだろう?

 あたしは身体を起こし、腕を伸ばして電気の紐を引いた。数秒経ってやっと蛍光灯が点き、あたしは眩しさに顔をしかめた。壁の時計は六時半を指している。吐き気はだいぶ良くなったけど、やたらと喉が渇いていた。

 そういえば、鞄にお茶のペットボトルが入ってたっけ。

 あたしはようやく布団から這い出て、寝る前に適当に放った鞄を探った。するとペットボトルよりも先に、見慣れない表紙のノートが目に留まる。

 今日委員長がくれた、授業のノートだ。

 あたしはペットボトルに口を付けながら、表紙をめくってみた。最初のページには「○月×日 1限 数学」とあって、丁寧な文字でいくつかの公式が書かれている。その何ページか後には日本史、更にその後には生物。日ごと、授業ごとに分けて、きれいにノートが取ってあった。

 あたしが真面目に授業に出ていたのは四月の最初のほうだけだったから、これを見ても何がどこまで進んでいるのかさっぱりだった。だいたい、教科書もどこに行ったのかわからない。

 でも、あれだけクラスの連中に振り回されながらも、委員長はわざわざあたしの分までノートを取ってくれたんだ。

 そのノートを、あたしは鞄の中に丁寧にしまった。





 珍しいことに、その次の日もあたしは学校に行った。

 さすがにネタが尽きたのか、クラスメイトの視線や話し声は昨日ほど気にならなかった。むせ返る香水の匂いやざわめきの中に、あたしもうまく紛れ込めているような感じがした。

 休み時間になんとなく教室の様子を眺めていたら、あの派手な集団の中に委員長がいるのが目に入った。机の上に座りながらバカでかい声で喋っては、たいして面白くもない話題で爆笑するあいつらに交じって、委員長は引きつった顔で相槌を打ったり笑い声を合わせたりしている。見ているこっちが辛くなってくるぐらいだ。

 鐘が鳴り、先生が教室に入ってきて、おしゃべりしていたクラスメイトたちが自分の席に着く。委員長が解放されたのを見て、あたしもなぜかほっとした気分になって前を向いた。

 授業が始まる。教科書も何もないけど、昨日もらったノートを広げてみる。もちろん、ぜんぜん理解はできないけど、あたしはちょっとだけマトモな高校生に戻れた気がした。


 その日のお昼休みに、トイレの個室に入っているときだった。

「ねぇ、珍しくね? 桜井のやつ」

 個室の外から響く声。突然名前を呼ばれて、あたしはびくっとした。

「あー確かに。二日連続でいるとか、今まであんまりなかったもんね」

 どうやらあの集団のうちの二人が、あたしがここにいることを知らずに喋っているようだ。

「昨日あいつちょっとヤバい感じだったよね? 目つきとか」

「なんかヤバいもんやってんじゃね? ハーブ的なやつとかさ」

 けっこう、言いたい放題言ってくれるじゃん。

「や、違うって。桜井はさー」

「売りっしょ? それってマジな話なの?」

「マジって話だよー。じゃなきゃJKがヴィトンとか持てないって」

 売りのことを言われて、ぎくりとする。

「母子家庭なんでしょ? 桜井んちって」

「母親は夜の仕事らしいじゃん」

「親子で身売りとか、ウケるんですけど」

 そんなこと、あんたらに関係ないだろ。さすがに腹が立ってきた。今ここから出ていってやろうか。

「そう言や、昨日の委員長の」

「あー、ノートね」

 ノートという言葉に、あたしはドアノブに掛けた手を思わず止めた。

「委員長ウケるよね。『桜井学校来てないからノートとか取ってやったら?』っつったら、マジで二人分取ってんの」

「ねぇ、桜井が今日も学校来てんの、委員長にノートもらったからとかだったりしたらヤバいよね」

「ヤバい。超ウケる」

 トイレの中に爆笑が響く。

 くぐもった音で予鈴が鳴った。大きな声で喚きながら、二人がトイレから出ていく。

 胸の奥が、すぅっと冷えていった気がした。

 ドアノブから手を離して、小さく息を吐く。

 なーんだ、そういうことだったんだ。あのノートは、委員長があたしのためを思って取ってくれたワケじゃなかったんだ。

 別に期待していたつもりもなかったけど、想像以上にがっかりしている自分にびっくりした。あのノートを広げて、マトモな高校生みたいに授業を受けていたことがバカみたいに思えてくる。

 急にまた、何もかもがどうでもいいような気分になった。あたしはトイレを出て教室に戻り、自分の席から鞄を取って、そのまま学校を後にした。



 適当にぶらついて時間を潰し、それにも飽きたので家に帰ることにした。

 寄り道も、一緒につるむ友達でもいたら楽しいのかもしれないけど。あたしは帰りの電車に揺られながら、ぺちゃくちゃおしゃべりに夢中になっている同世代の女の子たちをそれとなく眺めていた。

 電車を降りて、さびれた景色の中をとぼとぼ歩く。ボロアパートが見えてきて、またちょっと足取りが重くなったけど、あそこがあたしの家だし仕方ない。

 崩れそうな階段を上がって、そうっと玄関を開ける。

 いつも三和土に放置してあるゴミ袋は見当たらない。代わりにあるのは、きちっと揃えて置かれたパンプスと、かかとを踏み折ってある薄汚れたスニーカーだ。

 今日はお母さんの休みの日だったらしい。気付かれないうちにそのまま出ていこうとしたら、声が掛かった。

「おう、何だ、理華か」

 そう言って顔を出したのは、年甲斐もなく脱色した金髪に浅黒い肌をした、ガテン系の大柄な男だ。咥えタバコをして、おなじみの趣味の悪い金ネックレスにTシャツ、下はトランクス一枚という姿だった。呼び捨てされたことにカチンと来て、あたしはそいつを軽く睨む。

「なぁにー? 理華ぁ? あんた、学校はどうしたの」

 奥の部屋から、お母さんが言った。間延びしたその声は、ちょっとイラついているみたいだった。

「……体調悪いから早退した」

 あたしがぽつりとそう言うと、男がタバコを外して深く長く煙を吐いた。そしてあたしの身体を舐め回すように眺めながら、口を開く。

「何だよ、どっか悪いんか? ん?」

 ねっとりした声、キツいタバコの臭い、絡み付くような視線。

 ……気持ち悪い。

「早退って、あんた昨日も早く帰ってきてたでしょ? 授業料払ってんだから、ちゃんと高校くらい出てくんないと困るんだけど」

 トゲのある声。半開きになったふすまの隙間から、スリップ一枚で布団から身を起こしたお母さんが見えた。

 どうやらあたしは、二人がこれからおっ始めようとしていたところに、タイミング悪く帰ってきてしまったらしい。

「体調悪いんなら、その辺に横んなっとけよ」

 男はそう言って、もう一度タバコを咥えた。

 お母さんが鋭い目でこっちを睨んでいる。

「……いい。また出掛けるから」

 それ以上何か言われる前に、あたしはさっさと家を出ていった。


 こういうことは、今までにもしょっちゅうあった。あたしが小さいころからずっと。

 男が変わっても、お母さんが相手を家に連れ込んであたしを邪魔者扱いするのは変わらない。

 今回の男とは、いつまでもつだろうか。あたしのことを見る目つきが嫌だし、あの家で我が物顔をしているのも気に食わない。

 だいたい、どうしてあたしが出ていかなきゃいけないんだ。あそこはあたしの家なのに。

 イライラしたまま、さっき歩いてきた道を逆戻りしていく。

 今日はあいつが泊まっていくかもしれないし、駅前の漫喫かどこかでひと晩やり過ごそう。シャワーもあるし、下着なんかは買えばいい。幸い、おととい稼いだばっかりだから、お金はまだまだたくさんある。

 そう思ったら、ちょっとだけ気分が落ち着いた。



 それから三週間くらい経ったある日のこと。

 その日はまた二日ぶりの登校で、相変わらず校舎じゅうに漂う匂いにうんざりしながら、あたしは自分のクラスへと向かっていった。

 教室に入る前から、なんとなく違和感はあった。

 なぜなら、妙に静かだったから。普段はバカ騒ぎしているあの集団の声すら聞こえなかった。

 がらりとドアを開けると、あたしが登校してきたことに気付いたクラスメイトたちが、はっとしたように息を飲んだのがわかった。そしてみんな、ちらちらとこっちを気にしている。

 なんか、感じ悪い。

 もやもやしつつも、素知らぬふりして自分の席へ移動する。どかっと椅子に腰を下ろして、鞄を机の横に掛ける。そして顔を上げた、その瞬間。

 信じられないものが目に飛び込んできた。


 黒板に貼られた、一枚の写真。

 A4サイズでプリントされたそれには、亀甲縛りされた女子高生の姿が写っていた。

 顔はぼかされているけど、間違いなくうちの高校の制服だ。

 顔はぼかされているけど――間違いなく、あたしだ。


 驚いて、思わず立ち上がる。椅子の脚が床を引きずって、がたんと大きな音がした。

 改めて周りを見回す。

 教室中の誰もが、あたしのことを見ている。あたしの反応を、うかがっている。

 その中には委員長もいた。委員長はあたしと目が合うと、気まずそうに視線を逸らした。

 かぁっと顔が赤くなったのが自分でもわかった。心臓がきゅっと縮まって、冷や汗が吹き出す。

 何で、どうして、あの写真が?

 むせ返る香水の匂い、凍りついたような静けさ、クラスメイトたちの視線。それら全部があたしを取り囲んで、じわりじわりと責めてくる。

 居ても立ってもいられなかった。気付けばあたしは、鞄を引っ掴んで教室から逃げ出していた。


 階段を駆け下り、素早く靴を履き替える。昇降口を出て、校門を抜ける。角を曲がって校舎が見えなくなったところで、ようやく足を止めた。

 息が苦しい。伸ばした膝に手をついて、はぁはぁと荒く肩で呼吸する。

 あの写真。

 顔にぼかし加工がしてあったから、たぶん誰かがネットから拾ってきたものだろう。

 三週間前にあたしを買った、あのサラリーマン風の男。スマホのフォトフォルダーには顔写真がばっちり残してあった。

 あんなマニアックなプレイを要求してくるような変態だったし、ブログとかSNSとかに写真を載せたのかもしれない。

 あいつとやりとりしたのは、いつものサイトの掲示板だった。だけど当然そのログからでは、どこにあたしの写真がアップされているのか手掛かりもない。当てずっぽうで検索したところで、それらしきページに行き着くはずもなかった。ピンチのときに限って、ネットは役立たずだ。

 気ばかりが焦って、イライラが募る。あたしはスマホを鞄にしまって、大きく息を吐いた。

 名刺を、もらっていたはずだ。素性さえわかれば、警察に行くか、勤め先に連絡するか――何かしらの手立てはあるだろう。

 男たちからもらった名刺は、いつも家に置いてあった。

 とにかく早く、家に戻らなきゃ。あたしは再び走り出した。



 通勤通学ラッシュが終わって空いている車内。あたしは席に座る気にもなれなくて、ドアの前にそわそわと立っていた。

 のろのろ走る電車が地元の駅に着くや、あたしはドアから飛び出してダッシュした。

 改札をさっと通り抜け、階段を一段飛ばしで下る。駐輪場に停めてあった自転車のハンドルに鞄がぶつかって何台かがドミノ倒しになったけど、気にしてなんかいられない。

 さびれた街並みの中を脇目も振らずに走り抜けて、あたしはボロアパートに辿り着いた。

 カンカンと激しく足音を響かせて階段を駆け上りながら、鞄から鍵を取り出す。だけど鍵は開いていて、あたしはそのことに注意を払う暇もなく、勢いよくドアを開けた。

 玄関には、薄汚れたスニーカーが一足。

 それだけだった。

「何だ、理華か?」

 あの男が奥から顔を見せる。

「てっきり直美が早々に負けて帰ってきたのかと思ったぜ」

 どうやらお母さんは朝からパチ屋にでも行っているらしい。それで、どうしてこいつがうちで留守番しているんだろう。何にしても、今、家の中にはこの男しかいないということだ。マズいタイミングで帰ってきてしまった。でも、もうどうしようもない。

 あたしは無言のまま、靴を脱いで家に上がった。男の横を素通りして、奥の部屋へ進む。

 確か、鏡台の物入れにしまっていたはず。滑りの悪い引き出しを開けて中を探っていると、男がまた声を掛けてきた。

「お前、学校は? 何か忘れもんか?」

 無視。引き出しはごちゃごちゃしていて、目的のものはなかなか見つからない。

「おい、理華?」

 無視。

「なぁ、聞いてんのか?」

 大きな手が、肩に触れる。その瞬間に虫唾が走り、あたしはとっさにその手を振り払った。

「……触んないで」

 ぼそりとそう言って、名刺探しを続ける。早く、早く。

「なぁ、理華お前……」

 また、背中に声が掛かる。

「知ってんぞ。学校サボって、エンコーしてんだろ?」

 びっくりして、振り返る。すると男が腕組みをして立っていた。嫌らしい視線が、あたしの身体を舐め回している。

「は? 何言ってんの? そんなワケないじゃん」

 あたしはそう吐き捨てて、無理やり笑顔を作る。脇の下を冷たい汗が伝っていった。男はにやりと嫌な笑い方をして、鼻を鳴らす。

「小遣い足んねーなら、俺がやろうか?」

「……あたし、もう行かなきゃ。急いでるから」

 名刺はまだ見つかっていないけど、今すぐここから立ち去ったほうがいい。頭の中で激しくシグナルが鳴っていた。男を避けて、一歩を踏み出す。だけどそのとき、強く腕を掴まれてしまった。

「待てよ」

「イヤ!」

 振り解こうとして暴れたけど、逃げられない。あたしは反対側の手に持った鞄を振り回して、めいっぱいの力で相手にぶつけた。

「痛って……何しやがる!」

 あたしは突き飛ばされて、壁に背中を打ち付けた。

 咳込みながらどうにか身を起こすと、男があたしを見下ろして立ちはだかっていた。その顔からは、にやにやした笑みが消えている。

「前から思ってたけど、お前ちょっと生意気だよな。いつもバカにしたような目で俺のこと見やがって」

 低く、ドスのきいた声。見開かれた目は血走っている。

――怖い。

「お前みたいなガキにゃ、一回思い知らせてやる必要があるな」

 言うなり、男があたしに圧し掛かってくる。逃げる間もなく、大きな身体の下に組み敷かれてしまった。

 両腕を捻り上げられ、頭の上で拘束される。暴れようとしても、男の力は圧倒的に強い。腰のあたりに乗られているので、もうぜんぜん身動きが取れない。

「や……やめて……」

 大声で叫びたかった。思い切り罵りたかった。だけど代わりに出たのは、か細い懇願の声だった。

 男が、口元を歪めて笑う。

 次の瞬間、ブラウスのボタンが引き千切られていた。

 にわかに自由になった手で男の身体を押しのけようと必死にもがく。だけどまったく歯が立たない。あたしがじたばた抵抗するのを面白がるように、相手は再び両腕を抑え付けてくる。

――ちくしょう。ちくしょう……!

 キャミを捲り上げられ、ごつごつした手で素肌を撫で回される。乱暴に胸を揉みしだかれて、思わず呻き声が漏れた。

「何だよ、けっこう育ってるじゃねぇか」

 タバコ臭い息が顔に掛かる。荒れた唇のすき間から、ヤニで黄ばんだ歯が覗く。上半身を押し潰すように覆い被さられて、呼吸が止まりそうになった。男の手があたしの太ももを這い上がり、ショーツの中に太い指が入ってくる。むちゃくちゃに蹴り上げた脚は、虚しく宙を切った。

――嫌だ、嫌だ、助けて……お母さん!

 そのときだった。

「ちょっと、何やってんのよあんたたち!」

 お母さんの声。男の動きがぴたりと止まった。その隙に相手の身体の下から抜け出して距離を取り、ボタンの飛んだブラウスを掻き合わせた。

「直美……何だよ、早かったな」

「何だじゃないわよ。当たりが悪かったからさっさと帰ってきてみれば」

 お母さんが、あたしと男を交互に睨みつける。

「お母さ――」

「いや、違うんだよ直美。こいつがさ、小遣いくれとか言ってきやがってさ」

 男の言葉に、あたしは思わず目を見開く。

「こんな制服姿ですり寄ってくるから……参ったぜ」

 へへ、と男が笑う。お母さんの鋭い視線があたしに突き刺さった。厚化粧の顔が怒りに歪み、見る見るうちに赤く染まっていく。

「ち、ちが――」

「理華ぁ……!」

 真っ赤なネイルをした手が、高く振り上げられる。

 その直後、耳元でばちんという音が鳴った。左頬に激しい痛みが走る。あたしはその衝撃で床に崩れ落ちた。

「あんたって子はぁ……ここまで育ててやった恩を仇で返すつもり? 薄汚いメス豚になりやがって!」

 お母さんがぶるぶると唇を震わせながら、あたしを見下ろしている。あたしは倒れ込んだ姿勢のまま、動くことも言い返すこともできずに、その鬼のような形相をただ茫然と見つめていた。

「あんたなんか、あたしの娘じゃないよ! この恥知らずが! とっととこの家から出てけ!」

 髪を掴まれ、玄関のほうに引きずられていく。乱暴に三和土へ放り落とされ、背中に蹴りまで食らった。

「消えな! 二度とあたしの前に顔を見せるんじゃないよ!」

 最後に思い切り鞄を投げ付けられて、あたしは家から追い出された。


 その後もしばらく、あたしはぼうっとしたまま家の前にうずくまっていた。扉の向こうからは二人の言い争う声が聞こえてくる。だけどそれはやがて、甘い嬌声に変わっていった。

 あたしはようやく身を起こし、いつもは開けっ放しにしているブレザーの前を留めた。ぐしゃぐしゃに乱れた髪も手ぐしで直して、よろよろと立ち上がる。そしてゆっくりと、錆びついた階段を下った。

 ひと気のない道をぼんやり歩きながら、あたしはさっき起こったできごとを思い返していた。

 名刺を見つけられなかったこと。

 あいつに犯されそうになったこと。

 お母さんに殴られたこと。

『ここまで育ててやった恩を仇で返すつもり?』

 お母さんのヒステリックな声と、鋭い目つき。他の誰でもない、あたしに向けられたものだ。あたしの言い分を聞こうともせず、あいつの言葉を信じた。

 そう思ったら、だんだん腹が立ってきた。

「育ててやった恩」だなんて。親らしいこと、何ひとつしてくれなかったくせに。いつだってあたしのことを邪魔者扱いして、家から追い払ったくせに。

 左頬が痛い。レイプされかけたことなんかよりも、ずっと。

 悔しくて、情けなくて、景色が滲む。

――泣くな。泣いたら余計、惨めになる。

 ふと、立ち止まる。がりがりに痩せ細った野良猫が一匹、あたしを見てにゃあと鳴いた。

 早く大人になりたかった。

 誰かの世話にならなくたって、独りで生きていけるようになりたかった。

 だけど今のあたしには、そんな力なんてどこにもなかった。

 何人の男と寝ようとも、ひと晩で何万も稼ごうとも、あたしはただの子供だった。

 ただの子供が独りで放り出されて、どうやって生きていったらいいんだろう。

 学校には行けない。帰る家だって失くしてしまった。泊めてくれる友達なんて、もちろんいない。

 あたしの居場所は、この世界のどこにもなかった。

 雁字搦めに縛られた、鏡の中のあたし。虚ろな目をして、もう少しも動けない。

――ねぇあんた、生きてんの? 死んでんの?

 そう、問い掛ける。

 鏡に映ったあたしは心底疲れた顔をして、こう答えた。

――もう、いいんじゃない? こんな人生、終わっちゃっても。

 いつの間にか、猫はいなくなっていた。あたしは再び、ふらふらと歩き出した。



 学校に戻ったのは、他に適当な場所を思い付かなかったからだ。

 苦しまず一瞬で確実に死ぬなら飛び降りがいいだろうと考えたのと、どうせなら最後の最後で学校や親に大迷惑を掛けてやろうと思ったのだ。

 まだ三時限目の授業中で、校舎は静かだった。昇降口にも廊下にも人の姿はなくて、あたしは誰にも気付かれずに屋上へと続く階段を上っていくことができた。

 しんと静まり返った空気を切り裂くように、授業終了のチャイムが鳴り響く。ただでさえそわそわしていた心臓が、思い切り跳ね上がった。ひとつ息を吐いて、ドアノブに手を掛ける。

 スチール製の扉を開けると、風が抜けてぶわりと髪を煽られた。視界の端で何かが動く。何気なく目をやって、あたしはどきりとした。

 フェンスの向こうに、人が立っていたのだ。

 小柄な体格。カラーリングしていない黒髪と長めのスカートが、風になびいている。

「……委員長?」

 あたしが呟くと、委員長はびくっと振り返って、驚いたように目を見張った。

「さ、桜井さん?」

「何してんの、委員長……」

 委員長は一瞬泣きそうな顔をした。その頬がかぁっと赤くなっていく。

 突然のことに、あたしはその場から動けずにいた。よく見ると、委員長の脚はがくがく震えている。ときどき強い風が吹き付けてきて、その細い身体は今にも飛ばされてしまいそうだ。

 あたしはゆっくりとフェンスのほうへ近付いていく。

「あの、委員長さ……とりあえずこっち戻ってきなよ」

 委員長がこわばった顔でこくりとうなずく。そして恐る恐るフェンスをよじ登り始めた。

 相変わらず手足が震えていて危なっかしい。何度か風にスカートを捲られつつも、どうにか上まで辿り着く。慎重にフェンスをまたいでこっち側に来たら、少しほっとした表情になった。一歩一歩を確かめながらゆっくり降りてきて、やっとで地面に足を着けると、委員長はその場に崩れ落ちるようにうずくまった。

 あたしはそばにしゃがみ込む。

「ねぇ、大丈夫?」

「だ……大丈夫」

 そう言って、委員長はちょっとだけ身を起こす。その顔は真っ青だった。

「いったいどうしたの? いきなり、あんなこと」

「うん……」

 委員長は、口元を小さく歪めて、笑った。

「何かもう、嫌になっちゃって」

「……あいつらのこと?」

 委員長は一瞬うなずきかけて、だけど首を横に振った。黒髪がふるふると揺れる。

「私ずっと、独りになるのが怖くって……バカにされてるの知ってたけど、独りになるのが怖くって」

「うん……」

 教室での委員長の様子を思い出す。どう見たって気の合わない連中の輪に入って、無理して笑顔を作っていた委員長を。

「私、桜井さんに謝らなきゃいけないことがあるの……」

「何?」

「……あの写真」

 ちらりと、遠慮がちな視線があたしに向けられる。

「あそこに貼ったの、私なの」

「え?」

「貼れって言われて、逆らえなくって……ごめんなさい」

 委員長が頭を下げる。

「それでもう……嫌になっちゃって」

 そして俯いた姿勢のまま、さめざめと泣き始めた。

 今朝、委員長が気まずそうに目を逸らしたのは、そういうことだったんだ。あたしの胸の中に、どうにもやりきれないもやもやしたものが渦巻き始めた。

 元はと言えば、あの写真が教室に貼り出されていたからこそ、名刺を探しに家に戻ったのだ。それさえなければ、あたしはいつも通り適当に授業を受けて、またあの家に帰れたに違いなかった。あいつに襲われてお母さんに勘当されて、こんなふうにどこにも居場所がなくなるなんてこともなかっただろう。

 だけどまぁ……委員長も好きでやったわけじゃないし、それでなくても別の誰かがやったかもしれない。それに、今にも飛び降りようとしていた姿を見たあとでは、とてもじゃないけど委員長を責めることはできなかった。

 委員長は首をもたげたまま、「ごめんなさい、ごめんなさい」と小さな声で何度も呟いていた。

 あたしははぁっと息を吐く。

「あのさ、もういいよ、そのことは」

 委員長が少し顔を上げ、上目遣いにじっと見てくる。その目からは、大粒の涙がぽろぽろとこぼれている。あたしはなんとなく視線をずらした。

「それよりもさ、もうあいつらとつるむのやめなよ。委員長、辛いだけでしょ?」

「うん……」

 休み時間のざわめきが風に乗って聞こえてくる。あの騒がしい教室が、なんだか遠い世界のように思えた。

 委員長が、すん、と洟をすする。

「なんか、ごめんね。桜井さんの前で、こんなこと……」

 そして、たっぷり涙に濡れた目であたしのことを見つめながら、こう言った。


「私なんかより桜井さんのほうが、もっとずっと辛くて可哀そうなのにね」


 そのとき、予鈴が鳴った。屋上で聞くチャイムはやけに間延びして響いてくる。

 委員長はごしごし目をこすると、おもむろに立ち上がった。

「私、そろそろ行かなくっちゃ」

 長いスカートのひだを整えて、あたしに向き直る。

「ごめんね、桜井さん。いろいろありがとうね」

 淡い微笑を残して、委員長は去っていった。軽い足音が遠ざかっていく。背後でスチールの扉が、ばたんと音を立てて閉まる。

 だけどあたしはその場に凍り付き、しばらくぼんやりと座り込んでいた。

 ひゅるりと風が吹き抜けていく。

「はは……」

 独りでに、乾いた笑いが漏れた。


 母子家庭で育って、母親は娘より男が大事。

 友達もおらず、教室でもいつも一人きり。

 しょっちゅう学校をサボっては身体を売って、金さえ積まれりゃ何でもする。

 誰だって、あたしのようにはなりたくないだろう。

 それは自分でもわかっている。

 だけど――。

 おそるおそる差し出されたノート。

 みんながあたしに注目する中、そっとそらされた視線。

 ぽろぽろこぼれた涙と、去り際に残された清々しさすら感じる微笑。


――ねぇ、あたしはそんなに、可哀そうか?


 本鈴が鳴る。呆れるほど間の抜けたチャイムだった。

 コンクリートに強く手をついて、あたしは勢いよく立ち上がった。仰ぎ見た空は、わざとらしいほどすっきりと晴れ渡っている。

 あたしはそのバカみたいに透き通った青色をめいっぱい睨み付けながら、吐き捨てるように言った。


「クソッタレ」



―了―

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