嵐の予感
嵐が来る。
そう直感したのは、海にさざなみが立っているのを目にした時だった。
この日も僕はマリンのリードを片手に、海沿いの道をゆったりとした足取りで歩いていた。濃い青色の空を、ほどけた綿菓子のような形の雲がすごい速さで流れていく。白く乾いた舗道の上に揺れるくっきりとした影を、僕はぼんやり見つめていた。
九月に入ったというのにまだまだ陽射しは強く、外にいるだけでじとりと汗が滲む。時おり強い風が正面から吹き付けてくるが、湿気が多くて余計に蒸し暑く感じてしまう。僕の少し前を短い脚でとことこ進むマリンも、ずっと舌を出して息を切らせている。
学校から帰って着替えたら、すぐにマリンを散歩に連れ出すのが僕の日課だ。何も部活動をしていないので、少しぐらい体を動かすべきだと、いつの間にか家族からこの役目を押し付けられていたのだ。
この堤防の遊歩道は定番の散歩コースで、毎日同じ時間に通っていれば、同じ犬と飼い主に出くわす。顔見知りとなった彼らに軽く会釈をしながらも、視線や言葉を交わすことはない。いつもの道を、マリンにリードを引かれてただ黙々と歩くだけだ。
何度目かの突風に髪を煽られ、顔をしかめた。こんな風の吹く日は、訳もなく胸が騒ぐ。
突然、むわりと潮の匂いが濃くなった気がして、僕は足を止めた。リードが突っ張り、マリンが抗議の目で見上げてくる。
ふと、視界の端に黒いものが映り込んだ。何気なくそちらの方に顔を向けて、僕はぎょっとした。
堤防の斜面に置かれた消波ブロックの上に、女の人が座り込んでいたのだ。
長い黒髪が横顔に掛かっている。俯きがちの姿勢は、なんだか泣いているようにも見える。
僕が素知らぬふりで通り過ぎようとすると、マリンがわん、と吠えた。すると彼女はびくりとして立ち上がり、こちらを振り仰いだ。
目が、合ってしまった。
彼女はきょとんとして、僕たちを見つめている。背中まで掛かる、少し乱れた髪。色白の頬に、黒目がちの瞳。年齢はよくわからないけれど、きれいな人だと思った。
どぎまぎしていると、彼女が口を開いた。
「可愛い」
それはほんの小さなつぶやきだった。一瞬、何のことだかわからずぽかんとしてしまったが、彼女の視線が僕の足元に向いているのを見て、マリンのことを言ったのだと気付く。
彼女はかすかに口角を持ち上げた。
「おいで」
そう言って、こちらへ両手を伸ばす。マリンは嬉しそうに尻尾を振り、彼女の方へ行きたがった。僕は戸惑いながらも、引っ張られるようにして消波ブロックの上に降り立った。
マリンが不安定な足場を器用に渡っていくと、彼女は身を屈ませた。そして、長くふわふわした耳の飾り毛を慣れた手つきで撫で始める。
僕はどうにも落ち着かない気分で立ち尽くしていた。靴底ごしに踏み締めるコンクリートが妙に硬い。こういう場合はちゃんと会話をするべきなのだろう。だけど何と話し掛ければいいのか見当もつかない。僕は途方に暮れ、彼女の姿をぼうっと眺めた。
この蒸し暑さだというのに、彼女は長袖のニットのカーディガンを着込んでいた。それに、くるぶしまでの長いスカート。袖口から覗く手はひどく痩せて骨ばっている。荷物は何も持っていない。この近所に住んでいるのだろうか。それにしては、一度も見掛けたことのない人だった。
「いい天気ね」
ぽつりと零れたその言葉が僕に向けられたものだと気付き、はっと我に返る。
彼女は長いまつげの下から、じっと僕を見つめていた。その濡れたような瞳に、どきりとする。
「そ、うですね……」
どうにか返事をしたが、語尾が消えいってしまった。
彼女は小首を傾げる。
「学生の人?」
「あ、はい……高一です」
「ここはよく来る?」
「えぇと、犬の散歩で毎日……」
細い指が髪をかき上げ、形の良い耳があらわになる。左手の薬指にくすんだ銀色の指輪がはまっているのが見えた。
「素敵ね」
彼女がわずかに目を細めた。極端にまばたきの少ない人だ。視線を外す隙もない。吸い込まれてしまいそうな真っ黒の瞳だった。
沈黙を、びゅうっという風の音が遮る。彼女は相変わらず僕を見つめている。
何か、何か話をしなきゃ。焦る気持ちから、口を開く。
「あ、あの……こんなところで、何をしていたんですか?」
するとたちまち彼女の顔からすうっと表情が消えた。目の焦点も曖昧になる。久々に彼女のまなざしから解放されて少しほっとしながらも、ざわざわと心臓が騒ぎ始める。
何か、いけないことを訊いてしまったのだろうか。
彼女はどこかぼんやりした様子で、ふわふわと視線を漂わせている。そしてゆっくり立ち上がると、海の方へ向き直った。
「約束をしているから」
独り言のような言葉が返ってくる。
僕は首を捻った。誰かと待ち合わせをしているということだろうか。こんな、何もない場所で?
海を眺める彼女は、なんだかとても哀しそうだった。
僕は自己嫌悪に陥った。どうしてよりにもよって彼女の傷に触れるような質問をしてしまったのだろう。天気のことや犬のこと、無難な話題はもっと他にあったはずなのに。
ジョギングする誰かの足音が近付き、そして遠ざかっていく。
こういう時はどうしたらいいのだろう。助けを求めてマリンを見下ろしたが、彼女にもっと撫でてもらいたそうに尻尾を振っているだけだった。
もう、これ以上余計なことを言わずに帰った方がいいだろうか。彼女に気付かれないようにリードを引き、そっと立ち去ろうとしたその時だった。
ひときわ強い風と共に、彼女がこちらを振り返ったのだ。
「ねぇ」
どくん、と心臓が大きく跳ねた。
口紅の塗られていない薄いくちびるが言葉を紡ぐ。
「明日も来る?」
真っ黒の大きな瞳が、再びしっかりと僕の目を捕えている。顔がかあっと熱くなるのを感じた。
「あの、ええと……はい、散歩で、明日も、通りますから」
しどろもどろになりながら、そう答える。
「良かった」
彼女はぱっと表情を輝かせた。
思わず、息が止まりそうになる。
それはまるで可憐な花のような、自然で柔らかい笑顔だった。きっと僕よりもずいぶん年上であろう彼女が、あどけない少女のように見えた。
ざあっと突風が通り過ぎていく。
海面が小さく波立ち、傾き始めた陽の光をちかちかとはじいている。
あぁ、嵐が来る。
彼女の長い髪が、湿った風に弄ばれて、空中に踊っていた。
■
台風が迫っていた。
教室は朝からずっと、どこか浮ついた雰囲気だった。真面目な生徒ですら、強い風が校舎を殴りつけるたびに、それとなく窓の外を気にしている。
口には出さずとも、みんな期待しているのだ。平凡で退屈な日常をかき乱してくれる存在に。
かくいう僕も、ひどく落ち着かない気持ちで自分の席に座っていた。先生の声も、教科書の内容も、まったく頭に入ってこない。何をしていても、昨日出会った女の人のことばかりを考えてしまうのだ。
これが今日みたいな日で良かったのかもしれない。僕も台風を心待ちにする一人のような顔をしていられるのだから。
結局この日は午前十一時に暴風警報が発令され、午後の授業は取り止めとなった。
家に着いてからも、僕は自室のベッドに寝転がってずっとそわそわしていた。外を吹き荒れる風は、だんだんと強さを増している。
壁の時計にちらりと目をやる。いつも散歩に出掛ける時間が、徐々に近付いていた。
僕は迷っていた。こんなひどい天気なのだから、下手に外に出るのは危険だ。彼女だって、来ていないかもしれない。
でも、もし、来ていたら?
今日もあの場所で、僕のことを待っていたら?
約束をしているから。彼女の声を思い出す。遠い目をして海を眺めていた白い横顔――
いやいや、違う。あれは何も、僕との約束のことを言ったんじゃない。彼女は結婚指輪をしていた。きっと旦那さんとの約束か何かで、彼女は待っていたんだ。僕じゃあ、ない。そう自分に言い聞かせる。
だけど。
ごろりと寝返りを打ち、まぶたを閉じる。
良かった。そう言ってぱっと華やいだ表情。
あの言葉は、微笑みは、紛れもなく僕に向けられたものだ。
胸が苦しい。大きく息を吐き、両手で顔を覆う。
部屋の外から、扉をがりがりと擦る音がした。時計を見る。いつもの時間だ。マリンが散歩の催促に来たのだろう。
そうだ、僕はただ単に、犬の散歩に出掛けるだけなのだ。毎日そうしているじゃないか。何も特別なことなんかじゃない。
僕は意を決して身を起こし、立ち上がった。
母親には止められたが、まだ風だけで雨は降っていないし、マリンも行きたがっているからと、適当なことを言って家を出た。
外では、文字通り風が暴れていた。出歩いている人はほとんどいない。僕はマリンが吹き飛ばされないようにリードを短く持ち、足早に例の場所へと向かった。
街路樹の枝は休みなくざわめき、店の看板は大きく揺れている。いつもと違う街の風景。それに呼応するように、僕の心も騒いでいる。
堤防の道に行き着く。風はますます激しくなり、細かな雨が混じり始めていた。海は荒れ、大きな波が勢いよく叩き付けられている。
僕は少し後悔していた。やっぱり、さすがにこんなひどい天気では、彼女も待っているはずがない。
だけど同時に、どこかほっとしている自分に気付く。なぜなら、たとえ彼女に会えなくても、それは台風のせいなのだから。
風の音、波の音に紛れて、自分の鼓動の音がどんどん大きくなってくる。海の様子に怯えて足を止めてしまったマリンを抱き上げ、先を急ぐ。
いるはずがない。
彼女がいないことを確かめたら、すぐに引き返そう。
いるはずがない。
頭の中でそう繰り返しながら、両の足を交互に進めていく。約束の場所までもう少しだ。
不意に、正面からものすごい突風が吹き付けてきた。僕は咄嗟に目をつぶり、マリンを抱き締めてうずくまる。
そうして風をやり過ごした僕の耳は、ふと小さな声を捉えた。
「こんにちは」
まぶたを開けると、長い黒髪が目に入った。
あ、と無意識に声が漏れる。胸がどきんと高鳴った。
彼女は昨日と同じように、消波ブロックの上に立っていた。服装も昨日と同じ。濡れたスカートが脚に張り付いている。髪が吹き荒れる風に乱され、その表情を隠していた。
うねった波が次々にブロックへとぶつかり、彼女の足元を何度も何度もさらおうとする。今に高波が襲ってきて、彼女をまるごと飲み込んでしまってもおかしくない。
僕はマリンを下ろして身を起こし、彼女に向き直る。
「あの……そんなところにいたら、危なくないですか」
「どうして?」
「どうしてって……このひどい波ですよ」
「そうかしら」
乱れた髪の間から、きょとんとした瞳が覗く。僕は思わず手を差し伸べた。
「あの、せめて堤防に上がってください。今日はもう家に帰りませんか。僕、また明日も来ますから」
すらすらと言葉が出たことに、自分で驚く。明日も明後日も、この先ずっとここに来ますから。
だけど彼女はふるふると首を振る。
「だって、約束だから」
「約束って……こんな天気ですよ?!」
彼女はおもむろに髪をかき上げ、そして言った。
「ねぇ、今日もいい天気ね」
ざばんと、激しい波が打ち寄せる。ブロックにぶつかって散った水しぶきが、こちらまで飛んでくる。
彼女は、笑っていた。それは春の木漏れ日のように穏やかな微笑みだった。
その時になって初めて、背筋にうすら寒いものが走った。
明らかに、普通じゃない。
薄々、勘付いていたはずだ。季節外れの服を着て、こんな場所に座り込んで。どこか唐突な言動、噛み合わないやりとり、捉えどころのない虚ろな表情。
彼女は――気が狂っているんだ。
立ち尽くす僕に、今度は彼女が手を伸べる。
「一緒に行きましょう、約束の場所へ」
濡れたような瞳が、うっとりと僕を見つめている。
嫌だと言いたかった。彼女の問い掛けを無視して逃げるという手だってあった。
だが、舌の根が張り付いて言葉が出ない。足はその場から少しも動くことができない。まるで体の隅々までをも彼女の視線に絡め取られて、わずかの身じろぎすら禁じられているように感じた。
「ねぇ、来て」
甘いささやきが耳朶をくすぐる。薄いくちびるが愉しげに弧を描く。髪は逆巻いて暴れ、それ自体に命が宿っているかのようだ。一方で、僕に注がれるまなざしは慈母のように優しい。
僕の口からため息が漏れた。
荒れ狂う風を身に纏い、柔らかな笑みを浮かべる彼女は――とても美しかった。
無意識のうちに足が一歩を踏み出す。独りでに手が伸び、彼女の細い指にゆっくりと近付いていく。熱い血潮がどくどくと体じゅうを駆け巡り、すべての感覚を麻痺させていた。
指先が触れ合おうとする、まさにその瞬間だった。
足元にいたマリンが、わん、とひと声吠えた。僕ははっと我に返り、顔を上げた。
視界に飛び込んできたのは、彼女の背後から押し寄せる大きな波だった。
僕は思わず後ずさった。彼女の表情が凍り付き、目が大きく見開かれる。だけど僕はそれに構わず、踵を返して地面を蹴った。
通り慣れた堤防の遊歩道を、脇目も振らずに駆けていく。コンクリートのブロックを激しく叩く波の音が、ひたすらに追い縋ってくる。ぎゅっとリードを握り締めていた。マリンはどうにか付いてきているようだ。
嫌だ、嫌だ。約束なんて知らない。だってこれは、ただの散歩なんだ。
本降りになった雨が全身を濡らす。破れそうな心臓が悲鳴を上げる。でも、足を止めることなんてできない。先ほどの彼女の見開かれた瞳が、僕を責め立てていた。少しでも立ち止まったりしたら、再びあの目に捕われてしまうだろう。
そうして自宅に辿り着くまで、僕は一度も後ろを振り返ることができなかった。
■
翌日は嘘のような快晴だった。
昨日教室じゅうに満ちていた浮ついた空気も、跡形もなく消え去っている。あのひどい台風など初めからなかったかのように、誰もがいつも通り平然と過ごしていた。
だけど僕は相変わらず上の空だった。級友と言葉を交わし、みんなと同じように授業を受けていたけれど、意識は未だあの嵐の中にあった。黒板を眺めつつも、暴風に全身を煽られながらこちらへ手を伸ばす彼女の姿を、僕はまだ見続けていた。
そんなふうにぼんやりしたまま、いつの間にか一日の授業は終わり、気付けば自分の部屋に戻っていた。どうやって帰ってきたのかも、よく覚えていない。
がりがりと扉を擦る音が聞こえる。僕はのそのそと制服を着替え、マリンの首輪にリードをつないで家を出た。
いつものように、ゆったりとした足取りで歩いていく。なんだか辺りに漂う空気が、台風の来る前とは違っていた。
頬に触れる風はさらりと軽い。降り注ぐ陽射しも肌を温める程度だ。視界に入るすべてのものが、ごく薄いセピア色の絵の具をさっと塗り重ねたかのように彩度を下げていた。歩道の街路樹も、ふわふわ揺れるマリンの飾り毛も、地面に落ちる僕の影すらも。
堤防の道に出る。見慣れた海、見慣れた犬と飼い主。視線を下げ、彼らに小さく会釈をして、素知らぬ顔ですれ違う。そうして歩くうちに、僕はだんだんと落ち着きを取り戻していた。
変わらない、何も変わらない、いつもの僕の日常。ただほんの少し、季節が通り過ぎただけだ。
ふと足を止め、海の方へと目を向ける。ごつごつした消波ブロックの上に、もう彼女の姿はない。
僕も、嵐を待ち望んでいたのだろうか。平凡で退屈な日常を、かき乱してくれるものを。
仰いだ空は透き通るような群青色だ。目を凝らしたらこの世の果てまで見えてしまいそうで、不意に胸がざわめいた。
最後に見た彼女の表情が、今も脳裏に焼き付いている。あの時もし彼女の手を掴んでいたら、何かが変わっていたのだろうか。
海にはただ、さざなみが残るのみ。
乾いた風が僕を追い越していく。マリンがこちらを見上げて、わん、と吠える。僕は正面に向き直り、散歩の続きに戻った。
数日後、近くの浜辺に女性の遺体が打ち上げられたと聞いた。
あの嵐の日に彼女と会っていたことを、僕は誰にも言うことができなかった。
―了―
ツイッターでお題を募集し、いただいた「台風の目」「さざなみ」「わんこ」という三つのキーワードを元に書いたものです。
この時期特有の、季節が移り替わっていく感覚を書き留めておきたかった。




