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公的ニート

「あなた方は、もう労働する必要は一切ありません。寒さで凍えることも飢えることもなく、安全で健康的な生活が送れます。いろいろな経歴の方がいらっしゃいますが、家柄や学歴、過去の犯罪歴など、ここでは無意味です。全ての方が平等で、煩わしい人間関係のしがらみもありません。最低限のルールさえ守って頂ければ、平穏で素晴らしい人生をお約束いたします」

 私たちは広いホールのような場所に集められ、きれいに整列して体操座りでその中年男性の話を聞いていた。ちょうど、中学生の頃の学年集会のような感じだ。

「今後わたくし共はあなた方に、いくつかの指針をご提示いたします。指針と言っても、そんなに難しいことじゃありません。ちょっとした生活のアドバイスのようなものです。ただし、それはここにいる全員の方にして頂かないと意味のないことですので、わたしく共からの指針が皆さんに行き渡るように『伝言役』の方を一名選出したいと思います。あぁ、誤解されるといけませんので最初にお断りしておきますが、『伝言役』と言っても皆さんの代表者という意味ではありません。先ほど申し上げたように、皆さんは平等です。『伝言役』の方に特別な権利等を付与することはありません。他の皆さんと同じ生活を送って頂きます」

 男性はそこまで一息に話し、話の内容が全員に行き渡るのを待つかのように、少し間を取った。声が少し甲高いのを別にすれば、これと言って特徴のない男だった。

「その『伝言役』の方は、僭越ながらこちらで選出させて頂きました」

 彼はそう言うと、ゆっくりとした足取りで私の方へ向かってきた。聴衆の一人としてぼんやり話を聞いていた私は、心臓が飛び上るほど驚いた。彼は私を立たせ、皆の方へ向き直させた。

「彼女が『伝言役』です。恐れ入りますが皆さん、よろしくお願いいたします」


 ■


 日々は淡々と始まった。

 一人一部屋あてがわれ、着る物やベッドのシーツなどは毎日清潔なものが用意された。それらは全て、一点の汚れもない白色をしていた。余程きれいに洗濯するか新品を揃えるかしないと、そこまでの白さは保てないだろう。

 服やシーツだけでなく、その建物全体が白で統一されていた。ただ唯一、各部屋の隅に置かれた鉢植えの観葉植物(よく見る木なのだけれど、名前は分からない)だけが、この世に色彩があることを思い出させた。

 食事の時間が決まっている他は、完全に自由時間だった。朝の七時。正午。夜の七時。その時間に食事さえすれば、昼間に寝て夜中に活動していようとも特段の問題はなかった。「食事は決まった時間に」というのが、「指針」のひとつだったのだ。人数が多いので、恐らく手間の問題だろう。

 出てくる食事は取り立てて美味しいというわけではないが、食べられないほどひどいわけでもない。きちんと栄養管理されているようなので、食生活が原因で体調を崩すことはなさそうだ。

 それ以外の時間は、皆思い思いの過ごし方をしているようだった。ある者は何種類もの新聞を隅から隅まで読み、またある者は施設内にあるジムで運動した。一日中ベッドでごろごろしている者もいた。ずっとインターネットをしている者もいた。どんな過ごし方をしても、誰にも文句を言われないのだ。


 毎日六時半に起床し、顔を洗って新しい白い服に着替える。ここでは、毎朝何を着ていくか悩む必要がない。髪を巻く必要も、念入りにマスカラを塗る必要もない。電車の時間を気にして慌てることもない。ただ、七時の朝食に間に合うように、洗顔と着替えをすれば良いだけなのだ。

 朝食が済むと、自室で朝の情報番組を見る。毎日様々なニュースが流れるが、どれも遠い世界のことのようだった。どこかの国で大地震が起ころうとも、どこかの母親が子どもを虐待して死なせようとも、葉物野菜の価格が高騰しようとも、今やそれらが私の生活に支障を及ぼすことは何もない。浮世から離れたこの平穏の地で、雲の上の神様になったような気分だった。

 昼食の後は、施設の中を散歩したりジムのランニングマシーンで少し走ったりと、軽い運動をする。図書室で本を読んだり、インターネットをすることもある。大抵のんびりとしたいことをして、夕食までの時間を過ごす。

 夕食後はすぐに、自室に併設されたユニットバスでシャワーを浴びる。そしてまた新しい白いスウェットに着替え、いつでも寝られる態勢を整えたうえで、ドラマや夜のニュースを見る。そしてそれにも飽きてくると、そのままベッドに潜り込んでぐっすり眠るのだ。


 理想的な毎日だった。

 この生活を手に入れるために必死に働いてきたのだから、当然だ。

 くだらない電話を取り、クライアントにごまを擂り、年上の未婚の先輩に気を遣い、同期たちから浮かないように自分もきちんとした服装をし、仕事をしない上司のとばっちりを受けてサービス残業をし、やっと帰宅したと思ったらもうへとへとで、好きなことをする時間など一切なく一日が終わる。

 毎日毎日、そんな生活を続けてきたのだ。

 そのお陰で私は、この天国のような生活を手に入れたのだ。


 社会から受けてきたストレスからすっかり解放された私は、ここのところずっと穏やかな気持ちで過ごしていた。

 うまく行っていなかった彼氏とも、いざ連絡を取らない状況になってみたら意外にすっきりした気分になった。

 あの頃は毎日、彼とのちょっとしたやりとりにあんなに大きく心を揺らしていたのに。なんだ、ただ単に意固地になっていただけで、実際のところさほど未練もなかったのだ。悟りを開いたような気分だ。



 「伝言役」の役目は、まったく大した仕事ではなかった。

 週に一回、午後三時ごろに施設の入り口にあの中年男性の部下だという男性(三十歳くらいだろうか)がやってきて、「指針」がいくつか書かれた書面の束を私に渡す。この男性も、特徴のない平凡な顔立ちをしていた。

 渡される書面にはこれまた、本当に大したことは書かれていなかった。ジムや図書館の利用に関する取り決めだとか、「食事の時間に遅刻しないように」だとか、主にそういうことだった。そのうち「校区の外に行かないように」とか「生水を飲まないように」とか書かれるのではないだろうか。

 受け取った書面は、その日の夕食の後に皆に配布した。改めて読み上げるほどの内容でもないので、ただ配布するだけだ。皆がそれをしっかり読んでいるのかいないのかは分からない。少なくとも私は与えられた役目をきちんと果たしている。だから、皆が「指針」に従うかどうかは個人の判断だ。皆大人なのだから。


 最初に言われた通り、私が「伝言役」たることで私を特別扱いする者は誰もいなかった。

 当然だ。この程度のことで集団の代表者だと思われてもたまらない。そもそも、皆はお互いのことに無関心のようだった。誰が「伝言役」なのか、認識していない者だっているかも知れない。


 「皆が平等」と言っておきながら、閉鎖的な社会の中で様々な立場ができ、派閥が生まれ、ルールを破る者が現れ始め、対立と抗争に発展し、やがてその社会は崩壊する――。

 内心、そんな展開も予想していたのだが、全くそういうことは起こらなかった。

 あの中年男性の言葉を、ふと思い出す。

 『全ての方が平等で、煩わしい人間関係のしがらみもありません』

 あぁ、そうか。ここに来ている誰もが皆、争いが起こるほどの他人との関わり合いを望んでいないのだ。


 ■


 どのくらいの月日をそうして過ごしただろうか。

 このところ、日々の経過の感覚がよく分からなくなってきている。今日が何曜日かなんて、ここではどうでも良いことなのだ。「指針」の配布作業によって、辛うじて七日間の時の流れを思い出す程度だった。

 高々それだけの仕事なのに、この頃は酷く億劫だった。「指針」を運んでくる男性は相変わらずの無表情で、毎週会っているはずなのに、一旦姿が見えなくなるともう彼がどんな顔をしていたのか説明できなかった。


 この日々は、いつまで続くのだろうか?


 当初は平穏で素晴らしい日々だと思っていたが、あまりに変化のない毎日に、正直なところ飽きがきていた。

 かつての私は社会で様々な人と関わり、様々な種類のストレスを同時に抱えていた。

 でも、仕事のストレスを感じているときは私生活のストレスを忘れ、私生活のストレスを感じているときは仕事のストレスを忘れていた。そのようにしていつの間にか日々が過ぎ、物事が進んでいった。

 もちろん、ストレスだけではない。あの頃の私は、お金では買えない大事なものを確かに持っていた。

 例えば、金曜日の夜の解放感。

 例えば、ノルマをクリアした時の達成感。

 例えば、気兼ねなく話せる友達との楽しい時間。

 同じような日々の繰り返しだと思い込んでいたが、絶えず周辺の状況は変化していたのだ。

 だけど今はそうではない。

 本当の意味で、同じような日々が繰り返されている。同じビデオテープを巻き戻して、毎日見せられているような気分だ。テレビのニュースでは毎日様々な事件が報道されたが、嵌め込み画像のように無味無臭だった。

 世間は確実に前に進んでいるのに、この施設の中だけ時間がループしているようだ。

 私の体は今や、名前のない空虚な何かで埋め尽くされていた。喜びも悲しみもない、ゆっくり老いていくだけの体。ただ、生きるためだけに生きている体。

 私はもはや、何者でもなかった。誰にとっても、自分自身にとっても。

 あの頃私の周りにいた家族や友達、上司や彼氏のことが、妙に懐かしかった。

 でも私に会いに来るのは、あの顔のない男だけだ。


 この日々は、死ぬまで続くのだろうか?


 無限回廊を当所もなく彷徨っているうちに、人知れず力尽きて死んでいく自分の姿を思い描き、背筋が寒くなった。


 

 脱走しよう。

 そう思い立ったのは、それから程なくのことだった。


 私は施設の中を散歩するふりをして、脱出経路を探した。

 ところが、この建物は外へ出るための出口が見当たらない。今まで気付かなかったのだが、中庭につながるドアや窓はたくさんあっても、外部へつながるドアや窓はなかった。全てが内向きに作られているのだ。

 こんなことに今の今まで気付かなかったなんて、私はどうかしていた。部屋の中に閉じ込められた観葉植物の緑が、私の心を締め付けた。


 相変わらず例の男は淡々と仕事をしている。

 物言わぬその視線に思考を見通されているかのようで、私はぞっとした。


 よく考えろ。ここから出るんだ。

 元の世界に戻って、毎日色とりどりの服を着るんだ。

 毎日たくさんの人と関わって、経過する時間に見合った記憶をこの体に刻むんだ。

 五日間労働して、二日間休むんだ。

 そのうちに生きる意味が、価値が分かってくるだろう。


 一週間、と私は思った。そうだ、週に一回、「指針」を運んでくる男。彼が入ってくるあのドアが、唯一外の世界とつながる出口だ。


 ■


 チャンスは一度きりだ。

 あの男が「指針」を持って現れる日、私はいつものように午後三時きっかりにそのドアの前に立っていた。

 外へつながる唯一のドアが開く。彼はいつものように淡々と現れ、私に書面の束を手渡す。常に無表情の彼はしかし、いつも真面目な私に対して、少なからず安心感を持っているようだった。まさか私がいつもと違う行動を起こそうなんて、これっぽっちも思っていないだろう。


 男が私から視線を外した一瞬の隙に、私は隠し持っていた殺虫スプレーを彼の顔目掛けて噴射した。

 彼は短く悲鳴を上げ、両手で目を覆った。

 私は彼を突き飛ばし、ドアから外へ飛び出した。

 強い日差しに一瞬目がくらんだが、構わず私は走った。

 そうか、今は夏だったんだ。直射日光に肌を刺される懐かしい感覚に、涙が滲みそうになる。

 でも、もたもたしている暇はない。

 施設の外の地面は全てコンクリートで覆われており、建物から百メートルほどの距離を取って、周辺をぐるりと塀で囲われていた。

 塀はおそらく三メートルほどの高さで、最上部には鉄条網が三重に張られていた。

 私は塀に向かって走りながら、出口を探した。すぐに、塀の一部に梯子が掛かっているのを見つけた。

 もう迷うことはない。その梯子目掛けて、私は全力疾走した。皮肉なことに、毎日ジムのランニングマシーンで走っていたので、以前よりずっと速く走ることができた。


 梯子の袂にたどり着いた時、例の男が後ろから追いかけてくるのが目に入った。今まで見たこともないような、ひどく慌てた表情で、思わず笑ってしまう。

 私は構わずコンクリートの地面を蹴って、一気に梯子を上った。鉄条網の針が手や腕を引っ掻くのにも構わず、私は塀をまたいだ。


 さようなら、誰でもない人たち。

 私は外の世界へ行く。

 元いた世界へ、だけど新しい世界へ。

 私は後ろを振り返ることなく、塀のへりを蹴って反対側へ飛び降りた。



―了―

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