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明日はきっと別の顔

『そりゃ、香葉子さんと二人きりで会えるのは嬉しいよ』

 電話越しに聞いた彼の声には、かすかに不満の色が混じっていた。

 一瞬訪れた沈黙。サーという、春の夜に降る雨のようなノイズが、そろそろと耳に流れ込んでくる。

 背を向けた壁の方からは、小さくテレビの音が聞こえる。バラエティ番組だろうか。この築十七年のアパートは壁が薄く、よく隣人の生活音が響いてくるのだ。

 私は乾いた口を開き、できるだけ静かな声で会話を再開した。

「どこ行こうね。いつもみたいにあんまり歩き回るのは疲れちゃうから、たまにはゆったりしたいな。私ももう若くないからね」

 敢えて冗談めかしてそう言う。彼がふっと笑ったのがわかった。

『やだなぁ、まだ三十四の人が何言ってるの』

 三十四。あ、と小さく声を上げて、私は戸棚の横に掛けられたカレンダーに目をやった。

「そう言えば、私もうすぐ誕生日だ」

『え、いつ?』

「今度の水曜日」

 えー、と困ったような声が返ってくる。

『ほんとにもうすぐじゃない。そういう大事なことはもっと早く言ってよ』

「忘れかけてたのよ。この歳になってくると、自分の誕生日なんてどうでもよくなっちゃって」

『わからなくはないけどさ。でも、誕生日ならお祝いしなきゃ。何か欲しいものある?』

「んー」

 なんとなくくすぐったい気分になって、私は曖昧な返事をした。浅く腰掛けていた硬いダイニングチェアに、しっかりと座り直す。椅子の脚がわずかに動いてがたりと鳴った。

「すぐには思いつかないなぁ。気を遣わせちゃうのもなんだか悪いし」

『そんなこと言わないでよ。僕が祝いたいと思ってるんだからさ。明日デパートでも見に行こうか』

「そうねぇ」

 苦笑交じりの提案に、私は遠慮気味に同意した。

『とりあえず、明日は十一時に例の駅まで迎えに行くよ。どこかで昼飯を食べよう』

「ん、わかった」

『それじゃあ、また明日。おやすみ、香葉子さん』

「おやすみなさい」

 通話終了のマークに触れて電話を切る。静かになった部屋に、甘やかな余韻が漂っている。何を着ていこう。タンスは向こうの部屋だから、明日早めに起きて服を選ばなきゃ。

 ふと、また隣家のテレビの音が聞こえてきて、現実に引き戻される。短く息を吐いて顔を上げると、夕飯の食器や鍋が無造作に置かれた流し台が目に入った。

 あぁそうだ、洗い物の途中だったんだ。

 腰を浮かせたその時、そろりとふすまが開いた。

「ママ……」

「莉子、まだ起きてたの?」

 薄暗い居間兼寝室から、テディベアを抱えた莉子が台所に入ってくる。驚いて思わず声を上げそうになったのをどうにか堪えて、私は椅子から立ち上がった。

 莉子はおずおずと傍までやってくると、黒目がちの大きな瞳でじっと私のことを見上げた。小さな声で電話していたつもりだったが、聞こえてしまったのだろうか。

「ごめんね、ママうるさかった?」

「ううん。あのね、あした……」

 明日。一瞬、どきりとする。

 莉子はぬいぐるみを抱え直した。それまでこちらを向いていたクマの顔が、莉子の胸に押し付けられる。

「あした、ちゃんとおこしてね」

 私は微笑み、頷く。

「もちろん。楽しみにしてるんだもんね。早起きしておしゃれしなくちゃ」

 すると莉子はぱっと笑顔になる。

「うん! おやすみなさい」

「おやすみね」

 再びふすまが閉ざされ、一人きりの空間が戻ってくる。私は宙ぶらりんに取り残されたような気分で、しばらくぼうっと立っていた。勢いで立ち上がったは良いものの、洗い物に手をつける気にはならず、再び腰を下ろす。

 お隣から、テレビの音といっしょに大げさな笑い声が聞こえる。なんだかきまりが悪くて、私は髪をかき上げた。


 翌朝。トーストと飲み物だけの簡単な朝食を済ますと、すぐ身支度に掛かった。

 莉子の長い髪は、両サイドで丁寧に編み込んでおさげに結わえた。莉子は自分で選んだ淡いピンクのワンピースを着て、さっきから何度も鏡を見ている。この春、年長クラスに進級して、ますます身だしなみを気にするようになった。

「ねぇママ、りこ、へんじゃない?」

「ぜーんぜん。そのワンピース、お姉さんっぽくて可愛いよ。ピンクだしママも好きだなぁ」

 素直にそう褒めると、莉子ははにかんだように笑った。

「ねぇ、はやくいこうよ」

「はいはい、ちょっと待ってね」

 鏡に映った自分に、隙も乱れもないことを確かめる。最後に少しだけ口紅を足した。

「お待たせ、莉子」

「ママもおめかしだね」

 私は軽く微笑んで、莉子の手を取り家を出た。


 初夏を感じさせる強い日差しに目を細めながら、私たちは手をつないで駅に向かっていた。密集した住宅街は風も抜けず、日陰を選んで歩いてもじわりと汗が滲む。午後にはもっと気温が上がって、蒸し暑い一日になるだろう。

 莉子の足取りは軽い。本当は今にもスキップしたいくらいだけど、どうにか抑えている。私の手を律儀にぎゅっと握る小さな手から、そんな雰囲気が伝わってくる。

「ねぇ、ママもおでかけ?」

 莉子が正面を向いたまま問い掛けてきた。私はほんの少しだけ躊躇ってから答える。

「うん、ちょっとね、ごはんを食べに行ってくる」

「ふうん」

 誰と、とは訊いてこない。疑問というより、確認だったのだろう。莉子の表情は帽子のつばに隠れて見えない。おさげの髪と肩から斜め掛けしたポシェットがゆらゆらと揺れている。

 約束している公園は、自宅アパートの最寄駅から五駅のところにある。ひと月ぶりに乗る電車に、莉子ははしゃいでいた。

「窓の外見るなら、靴脱ぎなさいね」

「はぁい」

 日曜日の電車は乗客もまばらだ。二人連れの若い女の子、足腰の弱そうなおばあさん、大きなトランクを持った大学生くらいの若者。なんとなく弛緩した空気の漂う車内を、私はどこか冷めた気持ちで眺めていた。

 途中の駅で乗ってきた家族連れが、私たちの正面に座った。幼い兄妹を挟んで、お父さんとお母さんがシートに腰を下ろす。これから遊びに行くところらしく、楽しげな様子だ。妹の方は莉子と同じくらいだろうか。

 両親と、子ども。どこにでもいるような、ごく普通の家族連れだ。心の片隅で何かがちくりと痛んだ。私はそれを無視して口元に薄らと微笑みを作り、傍らに座る莉子に目をやった。莉子は外の景色に夢中で、その家族のことは気にも留めていないようだ。私はほっとした。

 目的の駅で電車を降り、改札を抜けると、すぐ正面に大きな公園がある。私たちはまた手をつないで、園内に入っていった。

 相変わらず莉子は私の手をぎゅっと握っていたが、待ち合わせ場所の噴水が見えると、さすがにそわそわし始めた。

 私は短く息を吐いてぴんと背筋を伸ばす。白のブラウスに花柄のフレアスカート、そしてオープントゥのパンプス。あまり数のない手持ち服の中でも、いちばん華やかに見える組み合わせ。単なる送り迎えの格好ではないことは、一目でわかるはずだ。

 水遊びをする子どもや犬の散歩のおじいさんなど、休日の公園を楽しむ人々の中に、その人物はいた。

 噴水の縁に座っていたその人は、私たちに気づくと、ゆっくり立ち上がって軽く手を挙げた。

 莉子が、窺うようにそっと見上げてくる。私は微笑み、頷いてみせる。すると莉子はぱっと顔を輝かせ、彼に向かって走り出した。

「パパ!」

 その人が莉子を抱き上げるのを、私はその場に足を止めたまま見つめていた。くるりと一周して地面に下ろされた莉子は、満面の笑みで彼の腰に腕を回した。

 ふと彼と目が合う。私はわずかに口角を上げ、ほんの少しだけ会釈をする。

 今日は、私の別れた夫と莉子との、月一回の面会日なのだ。


 ■


 店内に流れる静かなクラシック曲を、私は聞くともなしに聞いていた。よく耳にする曲だが、タイトルは知らない。耳馴染みが良く、食事をする人々の邪魔をしない選曲なのだろう。

「ゆうべダメ元で電話したら、たまたま今日の昼に一組キャンセルが出たらしくてさ。ほんと、運が良かったなぁ」

 公園前の駅まで車で迎えに来てくれた彼――亮介くんに連れてこられたのは、いつも行くような店よりもちょっと格式の高いフレンチレストランだった。彼は何度かこの店に来たことがあるようだ。

 そこそこ広い店だが、テーブルはすべて埋まっていた。お客はみんな、さざなみのようにさわさわと会話をしている。誰もが満ち足りたような微笑みを浮かべ、目の前に置かれたやたら長い名前の料理を楽しんでいるように見えた。

 私は皿の上に載ったカラフルな野菜のゼリー寄せを、ナイフで切ってみた。すると三層になっていたそれは、ぼろりと分解してしまう。どうしようかと戸惑っていると、声が掛かった。

「香葉子さん、これ、フォークで直接切り崩したほうが食べやすいよ」

 正面に座った亮介くんが、右手に持ったフォークを胸の前で軽く掲げて微笑んでいる。私は少し恥ずかしくなった。

「ごめんなさい、あんまりこういう店って来たことなくて」

 やだなぁ、と彼が言う。

「そんなに堅苦しくしなくても大丈夫だよ。食べやすい方法で食べればいいんだから」

 きっと、この料理はナイフを使わずフォークだけで食べるのが正しい方法なのだろう。テーブルマナーはこうだ、などと言わないところに、彼の育ちの良さを感じた。

 言われた通り、崩れかけたゼリー寄せをフォークに載せた。途中で少し落としそうになりながらも、どうにか口へと運ぶ。思ったよりも優しい味で、舌の上でほろりと融けた。

 亮介くんは、私が食べるのをにこにこしながら見ていた。

「香葉子さんてさ、仕事の時はてきぱきしてるのに、食べる時とかちょっと不器用な感じになるのが可愛らしいよね」

「もう、からかわないでよ」

 何だかみぞおちの辺りがむずむずして、思わず顔が熱くなった。


 私が離婚したのは、一昨年の秋だ。

 原因は夫の浮気。私と結婚する前から、昔付き合っていた女との関係が切れていなかったのだ。心を入れ替える、彼女とはもう会わないと言われたが、ずっと騙されていた私は夫を信用することなど到底できず、一緒に暮らしていくことが苦痛以外の何物でもなくなってしまったのだった。

 かくして、莉子と二人の生活が始まった。

 私は出産前まで働いていた個人経営の保険代理店に、再雇用してもらった。社長夫婦に、営業社員が四名、事務員が私を含めて三名の、こぢんまりした会社だ。給料はそれほど良くないが、みんなが私の事情を知っているので気安かった。

 自宅と職場と保育園を行き来する、慌ただしい日々。いろいろなことが目まぐるしく過ぎ去っていき、毎日ヘトヘトで、自分のことをする時間もない。だけど嫌なことを思い出す暇すらなかったのは、私にとってありがたいことだった。

 亮介くんが大手損害保険会社の新担当者としてうちの代理店にやってきたのは、去年の春だ。

 しばらくは、私たちの間には業務上の事務的なやりとりしかなかった。しかしある時、彼の忘れ物を私が届けたことがきっかけで、少しずつ個人的な会話もするようになっていった。

 彼からランチに誘われたのは、今から半年ほど前――離婚から一年が過ぎ、母子二人の生活にも慣れて、やっと落ち着いてきた頃のことだった。

「私、バツイチだし、それに子どももいるんですよ」

 新たに恋愛する気なんてなかった私は、正直にそう打ち明けた。彼は独身で、私より三歳も年下だ。大手損保のエリート営業マンなら、他にいくらでも相手がいるだろうと思ったのだ。何も、私のような面倒を抱えた女でなくとも。

 しかし彼は、動じることなく頷いた。

「えぇ、社長にそう伺ったので、昼飯に誘ったんです。夕飯じゃ難しいですよね?」

 子どもがいるから、例えお昼でも休日に出掛けるのは難しい。亮介くんの誘いを、最初はそう言って断った。

 すると彼は「それなら平日はどうか」と提案してきた。彼があまりに熱心だったのもあって、とうとう断り切れずに職場の近くでランチをごちそうになった。それからというもの、週に一度、彼がうちの代理店を訪れる日は、一緒に昼食をとるようになったのだ。

 初めて休日に二人きりで会ったのは、やはり莉子と元夫との面会日だった。お昼を食べて、映画を見て、少し街をぶらぶらした。

 楽しかった。

 女手ひとつで子どもを育てるシングルマザーという役目から解放されて、久々に私という個人に戻れた気がした。

 一人の女に、戻れた気がした。

 そんなふうにして、私たちは始まった。


 隙のない微笑を浮かべた姿勢の良いボーイが、スープを運んでくる。コーンポタージュです、と説明が添えられる。莉子の好物だ。あちらもそろそろ昼食の時間だろうか。

 ボーイが下がり、亮介くんが口を開く。

「ところで、来週の土曜日は空いてる? 香葉子さんの誕生日祝いを、ちゃんとしたいんだけど。今日は急であんまり何も準備できなかったからさ。今度は莉子ちゃんと三人で」

 彼の口から莉子の名前が出て、内心どきりとする。私をまっすぐ見る目から、彼が本心でそう言っていることが窺えた。

「空いてるよ。保育園の行事もないしね」

 私は頷き、スープをひと匙すくった。滑らかだった表面が崩れ、幅広のスプーンの形にくぼみが残る。しかしそれはほんの束の間のことで、すぐ元の平らな状態に戻った。甘いポタージュが喉の奥にとろりと絡む。

「それなら良かった。僕の部屋でやろう。ケーキも用意するよ。莉子ちゃんはどんなケーキが好きなの?」

「えー、そこは私の好みを訊くところじゃないの?」

「だって、莉子ちゃんが食べられなかったら楽しくないじゃない。僕たちはどうにでもなるけどさ」

 正直、亮介くんのこういうところにはいつもほっとしていた。莉子をないがしろにするような人だったら、とっくに別れている。

 だけど今日ばかりは、彼の口調に若干の焦りが混じっているように感じる。私はそれに気づかないふりをして答えた。

「莉子はね、いちごのショートケーキが好きなの」

 亮介くんは心得たとばかりに頷く。

「わかった、用意しとくよ。後はピザでも取ろうかな」

「何か作っていこうか」

「駄目だよ、香葉子さんは主役なんだから」

 私は肩をすくめる。

「男の一人住まいに押し掛けるんだから、そのくらいさせて。だいたい亮介くんの部屋、食器だってあんまりないじゃないの」

 彼は頭を掻く。

「まいったなぁ。香葉子さんに気を遣わせないようにと思ったんだけど」

「いいの。この歳になって誕生日パーティしてもらえるってだけで嬉しいんだから」

「じゃあ、莉子ちゃんにパーティのこと伝えといてよ。プレゼントも用意しといてねって」

「難しいこと言うなぁ。それ、私が自分で言うの?」

「だってもう僕から直接言うタイミングないじゃない。さすがにプレゼントは冗談だけどさ」

 一瞬、気まずい沈黙が流れる。

 今日、莉子が来ていれば。別れた旦那なんかに会わせずに、私と一緒に来ていれば。

 亮介くんがそう思っていることに、私はうすうす勘づいていた。

 面会は、離婚の時に決めた条件だった。私だって、私のことを裏切った元夫に、莉子を会わせたくはない。でも自分一人の稼ぎだけで莉子を育てていくことは難しい。だから――悔しいけど、どうしようもないことなのだ。

 頭によぎったいろいろなことを振り切るように、私は頷いて笑みを作った。

「わかった。今度の土曜日、亮介くんちでパーティするって莉子に伝えとく。ピザやケーキが食べられるって言ったら、あの子きっと喜ぶわ」

「ありがとう。よろしくね」

 いつものようにくしゃりと微笑む彼を見て、私はそっと息をついた。


 亮介くんが莉子に会いたいと言い出したのは、プライベートで出掛けるようになってから三ヶ月が過ぎた頃だ。

 彼は、五歳の子どもともきちんと目を合わせて話をする人だった。柔らかな物腰と人懐っこい笑顔。普段は人見知りの気のある莉子も、彼に対してはあまり警戒心を持たなかったようだ。

 それから更に三ヶ月が経つ。このところは毎週のように、テーマパークや水族館などに出掛けていた。三人での時間はいつも和やかで、概ね楽しく過ぎていった。

 だけど、私は気づいていた。亮介くんと一緒にいる時、莉子がときどき私の顔をじっと見上げているということに。

 何か文句を言うわけではない。ただ、すべてを見通そうとするかのようなまっすぐな瞳で、私を見ているのだ。

 そもそも、亮介くんに対する印象や、彼と会うことについてどう思うかを、これまで莉子の口からひとつとして聞いたことはなかった。「出掛けるよ」と言うと、「わかった」と頷くだけなのだ。

 莉子はどう思っているのだろう。亮介くんを、彼を連れてきた私を、本当はどう思っているのだろう。

 莉子の視線が、怖かった。


 食事の後は、T百貨店をぶらぶらした。

「香葉子さんって、指輪のサイズいくつ?」

 アクセサリーショップのショーケースを覗きながら、亮介くんが言った。JRの改札に直結する入口の真横にある店舗のせいか、人の往来が激しい。お互いの話し声が周囲のざわめきに埋もれてしまうので、私たちはいつになく身を寄せ合っていた。

「えーと、七号だったかな。変わってなければだけど」

 前にきちんと測ったのは結婚指輪を作る時だ。もうずいぶん前から、私は指に何も着けていない。亮介くんが何かを言い出すより先に、私は口を開いた。

「でも、指輪って家事の邪魔になるから、あんまりする機会ないかも」

「そっか。じゃあ、ネックレスとかの方がいいかな。これなんてどう?」

 彼が指したのは、ハート形のペンダントトップにピンクのストーンがあしらわれたものだった。

「うーん、ちょっと可愛すぎない?」

「そうかな? 似合うと思うんだけどなぁ」

 至近距離で見下ろされる。彼の指が私の首元に掛かる髪をそっと払う。目が合うと、彼はにこりと微笑んだ。二人きりだからこその距離感。心臓が独りでに早鐘を打つ。

 しかしそれとは裏腹に、私は心の中でほっと胸を撫で下ろしていた。

 良かった、うまくかわせた。

 指輪なんて貰ったら、きっと何かが決定的に変わってしまう。

――本当はまだ慣れないのだ。亮介くんがこんなふうに私を甘やかすことにも、それに対して若い娘のようにときめいている自分自身にも。


 ■


 約束の四時が近づくと、亮介くんは公園前の駅まで送ってくれた。結局ネックレスは買わなかった。

「僕の独断と偏見で選んで、今度の土曜日に持ってくから」

 楽しみにしてて、と笑う彼は、私の恋人であることが信じられないくらいに素敵だった。

 亮介くんと別れ、待ち合わせ場所に向けて歩き出す。陽は徐々に傾きかけているが、まだじとりと蒸し暑い。湿気をはらんだ空気が肌にまとわりついてくる。

 芝生の広場では、若いカップルや小さな子どもを連れた家族が遊んでいた。バドミントンのシャトルが空高く舞い上がるのを横目に見ながら、私は足早にそこを通り過ぎた。

 朝、莉子と別れた噴水が視界に入る。私はまた背筋を伸ばし、しゃんと顔を上げる。

 正面に、赤い風船がぷかりと浮かんでいるのが見えた。その風船のすぐ下には莉子の姿が、そして莉子と手をつなぐあの人の姿があった。

 そのまま近づいていくと、彼が軽く手を挙げた。

「莉子、ほら、ママが来たぞ」

 私は笑みを作る。

「風船、どうしたの?」

「そこのAモールに行ってきたんだ。ちょうど何かのイベントをやってて、配ってた」

 言われて見ると、その赤い風船にはこの近くにあるショッピングモールのロゴが印刷されていた。

「そう。良かったね、莉子」

 莉子は俯いて口をぐっと引き結び、私の方を見ようとしない。頬に落ちたまつげの影が、かすかに震えている。

 元夫が莉子の正面に回り、しゃがんで目線の高さを合わせた。

「莉子、元気でな。ママの言うことをちゃんと聞いて、保育園も頑張って行くんだぞ」

 一瞬、莉子の瞳が揺らいだような気がした。だけどやはり顔を上げようとはしない。

「じゃあ、また来月な。今度は動物園に行こうな」

 大きな手が莉子の頭をくしゃりと撫でる。莉子は結局、父親の目も見ずに、ほんの小さくこくりと頷いただけだった。

 彼は立ち上がり、私に向き直る。

「じゃあ、また」

「えぇ」

 私たちが短く別れの言葉を交わすと、莉子はそろりと一歩を踏み出し、私の手に掴まった。

 ゆっくりと、駅に向かって歩き出す。来た時とは打って変わって、莉子の足取りは重い。小さな手はひやりとしていた。

 莉子は聞き分けのいい子だ。こういう時でも、だだをこねて泣き喚いたりしない。きっと帽子のつばの下では、さっきの表情のまま必死に涙を堪えているのだろう。

 不意に、正面から突風が吹きつけてきた。赤い風船が後ろに押し流され、来た方へ戻ろうとする。

 しかしそれは莉子の持つ細い糸に繋がれ、進むべき方向へと引っ張られていく。程なくして風は止み、風船は諦めたようにのろのろと私たちの後をついてきた。

 遠くで声が聞こえる。誰かの楽しそうな声が。

 周囲のざわめきに紛れて、静かに洟をすする音が耳に入った。

 いいんだよ。大声で泣いて、ママの手を振り解いてもいいんだよ。

 重い歩みは、しかし止まることはない。すすり泣きの声は、やがて苦しそうにしゃくり上げる声に変わった。

「ケーキでも買って帰ろうか」

 私には、そう言うのが精いっぱいだった。


 夕飯は莉子の好きなオムライスを作った。莉子は帰り道からずっと口数が少なかったが、ケチャップで名前を書いてあげたら、少しだけ笑顔になった。

 食後のショートケーキのいちごは莉子にあげた。莉子は二つのいちごを、大事に最後まで取っていた。

 少しずつ、莉子の様子が普段通りに戻っていく。月に一度の特別な日が、いつもの母子二人の日常へと収束していく。

 だけどそれは、一日が終わる直前に、また揺り戻されてしまった。

 風呂から出て台所を通り掛かった莉子が、あ、と声を上げたのだ。

 その視線の先にあったのは、莉子の胸の位置ほどまでに高度を下げたあの赤い風船だった。

 ついさっきまで、天井に頭をつけていたのに。心なしか萎んでひと回り小さくなったようにも見える風船は、ふわふわと所在なく空中を漂い、今なおゆっくりと沈みつつあった。

 莉子はその場に立ち尽くしたまま、茫然と風船を見つめていた。

「あら、残念。もうガスが抜けてきちゃったね」

「……うん」

 莉子は風船を手に取った。そしてその表面を、慈しむようにそっと撫でた。

 私はぎくりとした。

 莉子の目が、深い哀しみに沈んでいたのだ。

 父親と別れて公園から立ち去った時のように、堪えきれず漏れ出てしまうような激しい感情ではない。もっとずっと冷えびえとした、静かな感情だ。それは五歳の子どもとは思えない、大人びた横顔だった。

 途端に、胸の奥からもやもやしたものが湧き出してくる。

 どうしてこんなにも、心を揺さぶられなきゃならない? 私たちはただ、静かに暮らしたいだけなのに。

 月に一度の面会の後、莉子がひどく落ち込むのが、見ていてとても辛かった。いっそのこと、あの人に会う機会などなければ。毎回そう思っては、苦々しい気持ちになる。

 だって、選択肢なんかなかったじゃないか。自分を裏切った相手の世話になる以外、母子二人でこの先やっていくことなんてできないじゃないか――。

 理不尽だった。

 あの人との関係を完全に断ち切らない限り、この溜飲が下がることは決してない。

 誰かと新たに出会い、どれほど綺麗に着飾っても、私は裏切られた女であり続けるのだ。

 惨めだった。

「ママ」

 不意に呼ばれてはっとする。莉子が私を見つめていた。その目にはもう哀しみの色はない。いつも通りの、まっすぐのまなざしだった。

「あしたも、おこしてね」

 昨日の夜と同じ言葉。だけどなぜだか、今夜は即答できなかった。

 莉子の瞳は、いったい何を映しているのだろう。

 少し間を置いて、私はようやく頷く。

「もちろん。明日はまた保育園だもんね」

「うん」

 莉子は少しだけ微笑んだ。そして風船を床の上に置き、代わりにダイニングチェアに座っていたテディベアを抱いた。風船はわずかに身を浮かせたが、またすぐ床に落ちてしまった。もう自力で浮き上がることはできないようだ。

「おやすみなさい、ママ」

「おやすみ」

 小さな後姿が隣の部屋に消え、すうっとふすまが閉ざされた。

 今度こそ、今日という一日が終わる。そして何ごともなかったかのように、明日がやってくる。

 私は目を伏せ、長く細く息を吐く。先ほど胸を渦巻いていたどす黒い感情は、いつの間にか和らいでいた。

 日常に戻らなきゃ。流し台には夕飯の食器が溜まっている。私はゆっくりと蛇口のコックを捻った。

 

 ひと通りの家事を終えて、ダイニングチェアに腰を下ろしかけた時だった。

 ふと、向かいの椅子の背もたれに掛けっぱなしになっていた莉子のポシェットに目が留まった。元の場所に仕舞おうと持ち上げると、中でかさりと音がした。

 何か入っているのだろうか。

 留め具を外して蓋を開ける。すると中から、手のひらほどの大きさの包みが出てきた。可愛らしいピンクの小花柄の紙袋に、赤いリボンの付いたシール。感触からして、中身はハンカチか何かのようだ。

 私ははっとした。

 もしかしてこれは、私への誕生日プレゼントではないだろうか。

 おそらく今日出掛けた時に買ってもらったのだろう。あの人が私へのプレゼントを買おうと提案するとは思えない。きっと、莉子がねだったのだ。

 ちくりと胸が痛んだ。今朝、行きの電車の中で幸せそうな家族連れを見かけた時に感じたのと、同じ痛みだった。

 私は思わず目をつぶった。

 ショッピングモールの中の雑貨屋さん。たくさん並んだハンカチを、真剣な表情で選ぶ莉子。莉子に手を引かれるあの人。

 ちゃんとお店の人に、プレゼント用ですって言うんだぞ。

 はぁい、パパ。

 そんな二人の様子を、ありありと思い浮かべることができる。

 平和で、ごくありふれた光景。彼らもまた、幸せそうな父子に見えたことだろう。

 もう一度、手元の包みに目を落とす。

――莉子ちゃんにパーティのこと伝えといてよ。プレゼントも用意しといてねって。

 優しい亮介くん。私を大切にしてくれるし、莉子のことも可愛がってくれる。

 でも、なんとなくわかるのだ。

 この先どれだけ時間を重ねても、私たちは「二人と一人」でしかない。

「三人家族から父親がいなくなった母子」と、「父親ではない別の男性」でしかない。

 今日一日の、莉子の様子を思い出す。

 出掛ける前、うきうきとおしゃれをしていた莉子。

 待ち合わせ場所に着いて、私の顔色を窺った莉子。

 父親と別れる時に必死に涙を堪え――それでも私の手を離さなかった莉子。

『面会は離婚の時に決めた条件だから、しかたない』

 いったい何に対する言い訳なのか。

 とっくに気づいていたはずだ。

 いや本当は、初めからわかっていたはずだ。

 莉子が何を望んでいたのかを。そして何を諦めさせてしまったのかを。

 小さく首を振り、ぽつりと呟く。

「ごめんね、莉子」

 自分は不幸だと、無邪気に浸っていられたら良かったのに。

 視界の片隅では、もう二度と浮かび上がることのない風船が、そっと床に横たわっていた。


―了―

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