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愛してるの言葉さえ【R-15】

 警鐘のような頭痛が、頭蓋骨を打ち鳴らしている。

 全身を包む倦怠感と眠気に抗うように身を起こして、視線を滑らせる。淡いピンク色に統一された待合室。私の座る位置から右手上方の壁に掛けられた時計は、十二時三分を示していた。

 そろそろ、出席するはずだった講義が終わる時間だ。バイトまではまだ二時間近くある。

 私は小さく息をついて、再びソファに身体を沈める。最初はやけに深いソファだなと思ったのだが、身を預けるようにしてそれに座るおなかの大きな女性を見て、妙に納得した。たぶん、あの姿勢がいちばん楽なのだろう。

 それにしても待たされる。

 私は手の中にある「42」と書かれた小さな紙を、くしゃりと握る。中待合へと案内する通し番号は、先ほどから私の一番手前で止まっている。

 文庫本でも持ってくるべきだった。ソファに座る人の姿勢に合わせてかなり上のほうに設置されたテレビはわざとらしい笑い声を延々上げ続けるバラエティ番組を映していたし、ラックに並べられた妊婦用の雑誌は手に取る気もしない。かといって発表の近いゼミの資料を広げるのも、ひどく場違いな気がする。

 さしあたってすることもなくぼんやりし始めた私の思考を、しわがれた咳が遮る。見ると二つ左隣のソファに一人で座る男性が、口元を押さえて激しく咳込んでいるのだった。

 こんなところに、風邪を引いた旦那を連れてくるなんて。

 恐らく診察中の奥さんを待っているだろう彼に軽い非難の視線を送りながら、視界の端で呼び出し番号のデジタル表示が「42」に変わるのを見た。中待合の扉が開かれ、私の母親くらいの年代の看護師が「四十二番の方ー」と声を張る。私は資料の詰まった重い鞄を持ち、頭痛を振り払うように深く息を吐いて、ソファから立ち上がった。

 私と入れ替わりで外待合に出てきた三十代半ばほどの女性が、「男の子だって」と笑顔交じりに言いながら先ほどの男性の元へ歩いていった。彼は咳込みつつも、「本当か、良かった!」と嬉しそうな声を上げる。私はそれを背中で聞きながら、中待合の扉を閉めた。


 中待合でも五分ほど待たされ、ようやく診察室に通される。

 自分の父親とだいたい同年代の医師は、私が受付で書いた問診票にさっと目をやると、「じゃあまず内診からしますね」と短く言った。アコーディオンカーテンで区切られた内診室に手際よく案内された私は、看護師から「靴と下着はそこのカゴに入れて、台に上がってください」と説明を受けた。

 言われたとおりに靴と下着を脱ぎ、いざ内診台に上がろうと目を向けたとき、私は思わず逃げ出したい衝動に駆られた。

 その台は奇妙な形をしていて――初めて歯医者の診察台に上がろうとしたときの感覚を思い出した。座ったときちょうど目の前になる位置に、ノートパソコンくらいの大きさのモニターが設置されている。画面は真っ暗で、右上のほうに訳のわからない数字やらアルファベットやらが並んでいた。

 躊躇う私の様子に、いつの間にか内診台の向こうに移動していた医師と看護師がやわらかい表情を作る。

「大丈夫よ、すぐ終わりますからね」

 そう言われては、逃げ出すわけにもいかない。泣き喚いて周りを困らせるような子どもでは、もうないのだ。

 平常心を装って台に上がるや、目の前をカーテンで塞がれた。腰から下が見えなくなる。それとほぼ同じタイミングで台が不穏な音を立てながら動き、身体が傾く。カーテンの向こうの脚が、私の意思に反して大きく開かれていく。

「じゃあ内診を始めますね。少し痛い感じがするかもしれないけど、すぐ済むからね」

 薄布越しの医師の声は穏やかだったが、私の不安を払拭するには至らない。心臓が苦しいまでに跳ね、腋の下を冷たい汗が伝っていく。しかし声を上げる間もなく、何かひやりとしたものが宛がわれ、内壁を擦るような痛みとともに挿し込まれた。

「はーい、力抜いててね」

 医師がやわらかい、しかし事務的な口調でそう言うが、とても力を抜くことなんてできない。挿入時の痛みは既になかったが、無機物が私の中を動く違和感に、私は肘当てをぎゅっと握ることで耐えていた。

 強くしかめた顔のすぐ先には、あのモニターがある。今そこには一面に断続的な白っぽい砂嵐が映し出されており、真ん中のあたりに親指ほどの黒い穴が開いているのが見える。

 その穴は、私の心音に合わせて激しく脈動していた。どっくん、どっくん。私は吸い寄せられるように、そのブラックホールを凝視した。

 ――これは、いったい、何?

 やがて異物が抜かれ、今度は人肌より少し温かい何かで中を拭われたあと、内診台は元の形に戻っていった。

 台から降り、下着を手に取ると、自分でも驚くほどがくりと膝から力が抜けた。指先がすっかり冷えて細かく震えている。たった数十秒のことなのに、私はひどく疲弊していた。


 下着と靴を元どおり身につけて診察室に戻り、医師の前の丸椅子に座る。

「さっき見えたこの黒いものは、胎嚢といって、赤ちゃんの入る袋です」

 医師は先ほどのモニター画像と同じ超音波写真を差し出しながら、そんな説明をする。

「まだ時期が早いから、心臓とかは確認できないね」

 まるで心臓と同じに脈を打っていたが、あれは私自身の脈動だったようだ。そのことに少し、ほっとする。

 問診票を見ていた医師が、下のほうにつと目を留め、顔を上げずに平坦な声で言った。

「それで西野さん――産まれますか?」

 その問いに、私は答えられなかった。

 何も、迷っていたわけではない。産むか産まないか、私が選べる結論は初めから決まっている。しかしそれをこの場で告げるのは、まるで相応しくない行為のように思えたのだ。ちょうどあの待合室で、ゼミの資料を広げるのと同じに。

 私が答えに逡巡するうち、医師はまたやわらかい笑みを私に向けた。

「……この時期は流産の危険性も高いですし、また十日後くらいに来てもらって、様子を見ましょうか」

 私はようやく小さな声で返事をし、礼を言って席を立つ。そしてできるだけ静かに、待合室に戻った。逃亡中であることを隠して匿名を装う指名手配犯は、きっとこんな感じだろう。

 もらった超音波写真を鞄にしまいながらも、私の脳裏にはあの映像が焼き付いていた。まるで心臓のように脈動する、小さな胎嚢。あと十日もすれば、あの中に赤ちゃん自身の本物の心臓が現れるのだろう。

 私は周囲の、どこかふわふわした幸せな雰囲気を漂わせる妊婦さんたちに聞こえないように、短く息を吐いた。


 あの問診票の下段にあった項目――『旦那さん(パートナー)について教えてください』という欄に、私は何も、記入していなかった。


 ■


 私がバイト先のカフェに到着したのは、割とぎりぎりの時間だった。病院を出たころはまだ余裕があったのだが、電車に揺られているうちに気分が悪くなり途中の駅で降りてしまったのだ。

 事務所で手早く制服に着替え、タイムカードを押す。そして急いで来たことも体調の悪いことも気取られないよう息を整え、店先に出る。

「おはようございまーす」

 いつもと変わりない調子で挨拶をする。キッチンカウンターの向こう側には店長とバイトの後輩の竹内さんがおり、何やらにこやかに雑談をしていたようだった。ランチのピークと三時のピークの合間に挟まれたアイドルタイムの今は、店内にお客さんはいない。

 店長は私の姿を見ると、軽く挨拶を返してからカウンターの外に出て、店内の清掃を始めた。そんなあからさまに、と思ったが、私も特に何でもないふりをして彼と入れ替わりでカウンターの中に入った。

「おはようございまぁす」

 私と交代で二時までのシフトの竹内さんが、間延びした声で挨拶をしてくる。近くの有名お嬢様大学に通う彼女は、普段のマイペースに加え、仕事終了間際で緩んだ表情をしていた。

 そんな竹内さんが、緩く巻いた栗色の髪を指先で弄りながら話しかけてくる。

「ねぇ西野さん聞きましたぁ? 店長のとこ、あと一ヶ月で赤ちゃん生まれるらしいですよ」

「へぇ」

 私はさも、それは初耳ですと言わんばかりの表情を作った。そして先ほど産婦人科の待合室で見た夫婦のことを、ちらと思い出す。

「そりゃめでたいね。男の子? 女の子?」

「女の子らしいですよ。さっき聞いちゃいましたぁ」

 にこにこと話す竹内さんには「へぇ」と返しつつ、私はモップで床を磨く店長に向かって「店長ー、おめでとうございまーす!」と明るく声を投げかける。すると彼は軽く右手を挙げながら、得意顔をこちらに向けてきた。

「店長、初めてのお子さんだからって舞い上がっちゃってぇ、なんかその話ばっかりしてくるんですよぉ」

「まじで? 業務妨害じゃん、それ」

 ですよねぇ、と軽く笑う竹内さんに、私も笑い声を合わせる。気付くと店長がカウンターの前に来て、呆れ笑顔で私たちを見ていた。

「おいおい、なに聞こえよがしに俺の悪口言ってんの。ほら竹内さん、もう上がりの時間でしょ。タイムカードオーバーしちゃうよ」

「はぁい」

 竹内さんは相変わらずくすくすと笑いながら、「お疲れさまでしたぁ」と本当に疲れてしまうようなトーンで挨拶をして、事務所へと消えていった。

 竹内さんがいなくなると、先ほどまでの賑やかさが嘘のように店内はしんと静まり返る。店長が何か言いたげにこちらを見ていたが、私は目を合わせず軽く肩をすくめて、トイレ掃除に向かった。


 こういう距離感って、難しい。

 その後は三時のピークがやってきたので、変に手が空いてしまうなどということはなかった。いつもどおり、淡々と仕事をするだけだ。トレイの上で湯気を上げるコーヒーやミネストローネスープの匂いが何度か吐き気を誘ったが、深く長く息を吐いてどうにかやり過ごした。


 お客さんの流れが途切れ、ふと人気がなくなったときだった。

 吐き気を無視しながらサーバーにコーヒー豆を補充していた私のすぐ隣に、いつの間にか店長が立っていた。

 彼は私の背に軽く手を置き、私の顔を覗き込んで言う。

「大丈夫? なんか今日、顔色悪くない?」

 きっとこういうことをさらりとしてしまうところが、モテる人なのだろうと思う。私は動揺を隠して、笑顔を作る。

「大丈夫です。いつもの、貧血だから」

「そう」

 彼は頷きながらも、なぜか私の横を離れようとしない。何度かタイミングをうかがうような間があったあと、彼は再び口を開いた。

「あのさ」

「うん」

「さっき、ごめん」

「何が」

「いや……」

 私は視線を手元に固定したまま、ミルクを補充する作業に移った。私より頭一つ分大きい、十も年上の男の人が、顔を見なくてもわかるほどに困り果てている。

 いつもはそれで満足するのだが、今回はそういうわけにはいかない。私は顔を上げ、上目づかいで彼を見る。

「今度埋め合わせしてね、高原さん」

 「いつもどおりの」私の反応に、店長――高原さんは頬を緩め、私の頭にぽんと掌を置く。そして「いつもだったら」私がバイト中に名前で呼ぶと怒るくせに、今日はそれをしない。

 そんなに後ろめたいか。

 フード補充のため冷凍室に向かう彼の背中を眺めながら、私は思った。

 ――やっぱり、言えない。


 今年三十二歳になる高原さんとは、付き合って一年半が経とうとしている。大学二年の春からこのカフェでバイトを始めたので、出会ってから二年弱だ。

 職業柄か、彼は年齢より若く見える。最初のころ、二十代だと思っていた。笑顔が爽やかで、話も面白い。そのくせ物腰は落ち着いている。ひどく子どもっぽい前の彼氏と別れたばかりだった私は、今度付き合うならこういう人がいいと、漠然と思っていた。

 私が彼のメールアドレスを聞いたのが最初だった。旅行先から写メを送りたい。確かそんな理由で、教えてもらったのだ。

 私からはなんとなく聞かなかったし、なんとなくそうじゃないだろうと思っていたのだが――彼は、既婚者だった。誘われて行った食事の最中に、奥さんから電話がかかってきて発覚した。

 恐らく、そこでやめておけば良かったのだ。それは今でも思っている。でも、引き止めてきたのは彼のほうだった。

 知らなかったのだ。好きになった人にたまたま、奥さんがいただけのことだ。以来私は、自分にそう言い訳し続けている。


 ■


 アパートに帰って安定の悪いパイプベッドに横になりながら、私は超音波写真を眺めていた。ワンルームの部屋では、玄関近くに置いた冷蔵庫が低く唸っている。いつもは意識の下に潜っているその音が、今日はなぜだか神経に障る。

 長時間立ち仕事をしたせいか、身体がひどく重い。頭痛がこめかみのあたりを脈打ちながらガンガン響き、その脈動と目の前の写真があの映像を再生させる。

 中絶するなら、早いほうがいい。

 こういう事態になって改めて認識したのだが、そのほうが身体に負担をかけず、費用も安く済むのだとか。

 できるだけ授業をサボらず単位をきちんと取ろうと考えると、テスト期間が終わり春休みに入ってから手術をするのがベストだろう。そのころ、胎児はおよそ十週目になる。そろそろ就職活動も本格化し始めるころだから、それにあまり影響が及ばないようにしたい。

 私は身を起こし、写真を手帳に挟んでテーブルに置いた。眩暈で頭がふらふらする。次のバイトは日曜の朝からのシフトだ。できれば休みたいところだが、今後のことを考えるとそうもいかない。

 妊娠・出産にかかわる費用は、基本的に健康保険適用外だ。病気ではないからだ。出産費用がそうなら、中絶費用などなおのことだろう。

 今日の診察だって、初診だったせいもあるが百パーセント負担で六千五百円も取られた。中絶手術の費用は、ネットで調べたところによると八~十五万円が相場らしい。できれば安いほうが助かるが、身体に異常が残るのは困る。

 週三回のバイトで得られる収入は、頑張っても月五万円弱。それもほとんど食費やサークル費で消えてしまい、貯金はほとんどないに等しい。シフトを増やそうにも授業が入っていたりサークル活動があったりして、これ以上はなかなか難しいのだ。

 両親に仕送りを前借りすることも思いついたが、正直に理由を話すことなどとてもできそうにない。きっと相手のことまで、根掘り葉掘り訊かれる。そうなったらどんな厄介なことになるか――父親など、怒り狂って高原さんのところに殴り込みに行くかもしれない。

 かといって友達に借りることは、できるだけしたくなかった。誰も彼も皆似たような経済状況なのだ。それに私とてすぐに返せる見込みもないので、そんなことで人間関係にヒビを入れたくはない。

 ――やはり、高原さんに打ち明けるか。

 ふと、今日の彼の様子を思い出す。生まれてくる赤ちゃんの話を、竹内さんと嬉しそうにしていた彼。「おめでとう」の言葉に、右手を挙げてみせた彼。それらのことに対して、私に謝罪する彼。

 奥さんとの子どものことを、そんなに私に後ろめたく思うくらいなら、なぜ避妊してくれなかったの?

 彼の無責任さに対して、徐々に怒りが芽生えてきた。

 いっそ大騒ぎしてやろうか。そんなことも考えた。自宅に電話をかけて、泣き喚きながら彼の奥さんに事実を話すのだ。きっと彼は困るだろう。もしかしたらそれが原因で家庭が崩壊するかもしれない。


 でも流されながらここまで来た私には、結局そんな大それたことなどできやしないのだ。


 ■


 その日から、不思議な夢を見るようになった。


 *


  ふわふわと漂うように、何かあたたかいものが身体を包んでいた。

  とくん、とくん。全身に響く音と振動だけが、この世界で確かなものだった。

  ひどく不安定だ、この居心地の良い場所は。

  とくん、とくん。

  なぜならここは、いずれ失われてしまうのだから――


 *


 目を覚ますなり、倦怠感が私を出迎えてくれた。あまりのだるさに身を起こすこともできず、私はそのまましばらくベッドに横たわっていた。

 冬だというのに、じっとりと汗をかいている。

 はっきりしない夢だったが、言いようのない不安感だけは今も色濃く残っていた。深呼吸しようと布団から顔を出すと、あまりの空気の冷たさに喉が張り付く。

 目の端で目覚ましを確認する。九時三十五分。今日の授業は午後からだから、まだ寝ていられる。私は十一時半にアラームをセットし、再び目を閉じた。


 午後の講義をそつなくこなし、夕方は間近に迫ったゼミの発表のためにコンピュータ棟で資料の作成をした。その間何人かの友人に会ったが、会話はお互いの卒論テーマや就活スケジュールを簡単に確認し合うだけの簡単なものに留まった。

 頭痛と少しの吐き気を別にすれば、なんてことはない普通の一日だ。

 私は短い一日を終え、再び寝床に就いた。

 

 *


  全身を包むあたたかいもの。辺りは真っ暗で、一条の光すら見えない。

  とくん、とくん。誰かの鼓動が聴こえる。自分の心音かもしれない。伸ばした腕の感覚で、それが水の中だと知る。

  だとしたら、呼吸は?

  ――出たい。ここから出たい。

  途端に息苦しくなり、酸素を求めてもがき始める。

  出して。ここから出して。ここでは、生きられない。

  暴れる心臓。薄れゆく意識。

  早く、早く、早く――


 *


 弾けるように、目が覚めた。呼吸が荒い。心臓がばくばく言っている。

 前日の夢の続きだった。連続で見たそれらの意味するところは――心当たりはあるが、どうしようもないことだ。

 頭痛がひどい。全身が汗でぐっしょり濡れている。もはや何が原因かもわからない吐き気を抑えるべく、私はベッドから這い出て水道水を飲み干した。

 今日は午後からサークルの予定だ。私は主幹の友人にメールを打ち、風邪を理由に練習を欠席したい旨を伝えた。さすがにこんな状態で、テニスはできない。

 そのまま携帯を操作して、更にもう一通新規メールの画面を開く。宛先は――高原さん。顔を合わせてだと冷静でいられそうもないから、メールで打ち明けてしまおう。だけどいったい、どんな文面で?

 胸やけと頭痛が渦を巻いて、思考は一向に定まらない。結局私は諦めて、携帯を閉じた。

 どうしようもない、どうにかしたい。

 でも今日のところは、一歩も動けない。

 気ばかりが焦り、苛立ちが募っていた。


 それから数日、ぼんやりした取り留めのない夢を見ては、苦しい寝覚めに息をつく日々が続いた。

 私は体調不良をおして何食わぬ顔で予定どおり授業に出て、バイトをし、居合わせた人々と当たり障りのない話をした。

 バイトでは彼とも顔を合わせたが、例の話は何もできなかった。私一人が味わうこの物理的、精神的な苦しさから、言うべきでない言葉を発してしまいそうだったのだ。だから私は大人しく平静を装った。こんな状況でもいつもどおり笑ったり喋ったりできる自分の意外な器用さには驚いたが、それはほとんど何の役にも立たなかった。


 なぜならそうしている間にも、時は確実に歩みを進めているのだから。


 *


  遠くから、何かが聴こえる。

  甲高い音で、一定のパターンを繰り返す。

  最初はくぐもっていたそれは、徐々に明確なものとして私の意識に滑り込んでくる。

  ああ、これは、赤ちゃんの泣き声だ。

  その瞬間、視界いっぱいに広がるのは――


 *


 まるで、呪いだ。

 布団を跳ね除けて身を起こしながら、私は手の甲で額の汗を拭った。

 それは瞼の裏にしっかりと焼き付いていた。

 閉じたままの目で私を見上げる、胎児の顔。

 それを払うように頭を振って、私はベッドから出た。相変わらずの体調だが、休むわけにはいかない。今日は第一志望の会社の、企業説明会なのだ。


 私はリクルートスーツを着込んで、大会議室の椅子に座っていた。

 業界第二位の企業とあって、立派な建物だ。この会議室も、二百人近く人が入るだろう。私は後方の席から大勢の後頭部を眺めては、どこか心許なさを感じていた。

 部屋の前のほうでは、人事担当者が会社概要と採用スケジュールについて説明している。ふと隣を見れば、私と同じようにスーツを着た女の子が真剣な顔をしてメモを取っていた。誰もが匿名的に前を向き、ペンを走らせ、頷き、人事担当者に真摯な視線を投げかけている。

 笑い出したい気分だった。大声で叫んでしまいたかった。

 ねぇ皆さん、ここに妊娠していることを隠してセミナーを受けている女がいますよ。

 言わなきゃ誰にもわからない。なぜなら今の私は、リクルートスーツで偽装されているのだから。真面目な顔で将来のことを考えるふりをしながら、一方でおなかの子どもを堕ろそうとしている。

 どこへ行っても私は、何かを隠し続けなければならない。産婦人科でも、バイト先でも、企業説明会でも。

 頭痛と吐き気は、今なお遠慮も知らずに私を取り巻いている。

 きっと私に腹を立てているのだろう。

 平気な顔して普通の人生を送ろうとする私に。

 なんやかんやと理由をつけて、身に宿った命を消そうとする私に。

 そうだ。

 私がしようとしているのは、紛れもない殺人だ。充分わかっている。どんなに「真っ当な」事情があろうとも、それは逃れようもない事実なのだ。

 だからきっと、このおなかに宿った子は、私を憎んでいるに違いない。

 ――憎まれても、仕方ない。

 わかっていた。それすらも受け入れる覚悟だった。


 *


  瞼を閉じたまま私を見上げる、赤ちゃんの顔。あたたかな水の中で、眠っているようにも見える。

  とくん、とくん。鼓動だけがかすかに聴こえてくる。

  やがて赤ちゃんは、薄らと目を開ける。見えているのかいないのか、その表情は虚ろなままだ。

  小さな唇が言葉を紡ぐように、わずかに動く。どんなに耳を澄ましても、聴こえてくるのは心音だけ。私が首を傾げると、赤ちゃんはゆっくり瞬きをしてこちらに手を差し出す。

  笑った、のかな。

  その小さな小さな掌に触れようと、手を差し出しかけたその瞬間だった。

  突然赤ちゃんが目を見開き、口を大きく開けたのだ。

  見れば何か黒いものが、赤ちゃんの脚に絡みついている。赤ちゃんはそれから逃れようと、必死にもがいていた。

  それは命を食らい尽くす悪魔だった。私は驚き、身を竦ませてしまう。

  最初は脚だけだった浸食は、しだいに胴、胸、首元へと迫っていった。

  どんなに赤ちゃんがもがいても、悪魔は容赦しない。最終的に残ったのは顔と、目いっぱいこちらに伸ばした両の手のみ。

  黒い悪魔に飲み込まれる寸前まで赤ちゃんはずっと、こちらを見つめながら苦しそうに口を閉じたり開けたりしていた。まるで何かを訴えるように。

  指の最後の一本が闇に消える瞬間、私はようやく自由を取り戻して、思い切り手を伸ばし――


 *


 伸ばした手が空を掴んで、私は現実に引き戻された。

 見慣れた天井がひどく遠い。手の甲を額の上に落とし汗を拭おうと滑らせると、目尻からこめかみに涙が伝っていることに気付く。

 わかっていたつもりだった。

 いろいろなことを考えたつもりだった。

 でも私はこれっぽっちも、わかっていなかったのだ。

 体裁とか、費用とか、高原さんへの恨み辛みとか。そんなことは問題ではなかった。

 夢の中で、悪魔から逃れようとしていた赤ちゃんの様子を思い出す。声もなくぱくぱくと動く唇。あれはまるで、こう叫んでいた。


『おかあさん、たすけて』


 ――あの手を掴めるのは、私だけなのに。


 ■


 その日どうやってバイト先に辿り着いたのか、覚えていない。

 気付くと時間どおりに事務所にいて、制服に袖を通していた。更衣室の鏡に映った私の顔は蒼白で、これまでのようにうまく笑顔を取り繕うことすらできそうになかった。結局チークとグロスを足して申し訳程度の偽装を施し、店先に出る。

 キッチンカウンターの向こうでは、先週と同じように彼と竹内さんが談笑していた。

 私は少し俯き、彼らと目を合わせずに挨拶をする。問題なく返される同じ言葉。私はカウンターには入らず、そそくさとトイレ掃除へ向かう。

「西野さん、なんか今日元気なくないですかぁ?」

 トイレから戻ってくるなり声を掛けてきた竹内さんに、私は口角を上げてみせる。

「うーん、まぁちょっと……二日酔いみたいな……」

 そう口ごもりながら、実際にむかむかする胃を軽く押さえた。あはは、と軽い笑い声が返ってくる。

「やだ、珍しくないですかぁ? ほんと辛そうですけど、大丈夫ですか? あたしのレモンウォーター飲んでいいですよ、飲みかけですけど」

 差し出されたペットボトルに目を落としたとき、一瞬何かが外れそうになった。

 お願いだから、これ以上私に構わないで。

 私本当はとても、ひどい女なんだよ。

 無邪気に揺れる明るい笑顔。きっとこの子は、私のような悩みなどとは無縁なのだろう。

 そう思ったら何だか、自分の影が暗闇に沈んだような気がした。私はいったい、どこで間違えてしまったのだろうか。

「……ありがとう、でも大丈夫だから」

 どうにか力ない笑みを返して、やんわりと断る。竹内さんは気分を害した様子もなく、いつもどおりの力の抜けた挨拶をして、店から出ていった。

 店の中が静かになり、私はほっと息をついた。店内にお客さんの姿はない。

 気付けばまた高原さんが私の横に立って、こちらを覗き込んでいた。

「……なんか本当に元気ないな。ここのところ調子悪そうだし、風邪でも引いた?」

 鈍感な人。

 私はほんの少しだけ彼に顔を向けたが、結局目を合わすことなく視線を下に落とした。

「えぇと……ひょっとして何か怒ってる?」

 うかがうような声色に、私は小さく首を振る。私がこういう怒り方をしたりしないことは、知っているはずだ。あなたの奥さんとは違う。

「……何かあった?」

 瞬きひとつ。

 いい加減なあなた。

 調子ばかりが良くて、無責任。

 でも私も大概のものだ。

 いろいろなものに責任転嫁して、ただ一人私だけが守れる命を、見捨てようとしている。

 そんな私がいったい、何を口にしようというのか。

 何を望もうというのか。

 謝罪とか、費用の援助とか。

 ――違う。私が欲しいのは、そんなものじゃない。

 私は少し顔を上げ、口を開く。

「……聞いてほしい、話があるの」


 ただ、誰かに、寄りかかりたかった。


 ■


 最初の検診から十日後、私は同じ産婦人科の待合にいた。

 ついてくると言った高原さんを断って、私はまたひとりソファに身を沈めていた。すっかりお馴染みとなった頭痛が、今日も私の視界を阻んでいる。

 ここの医院は、彼の奥さんと同じなのだそうだ。

 そういうところから私たちの関係がばれても困るでしょう。私の主張にしぶしぶ身を引いた高原さんに、がっかりした私は卑怯者だ。

 待合室に取り付けられたテレビから、笑い声が降ってくる。私の不遇を嗤っているのだろうか。胃がむかむかする。

 手にした整理券を、くしゃりと握る。責任取るよ。費用は出すから。そう言った彼の顔を思い出す。どんな言葉をかけられようとも、結局私は一人なのだ。わかっていたのに、期待してしまった自分が嫌だった。

 ふと斜め前を見ると、前回見かけた夫婦と思しき二人が寄り添って座っている。旦那さんの風邪は前よりも良くなったようだが、まだマスクをしている。彼らはどうやら、おなかの赤ちゃんに話しかけているようだった。

「ねぇ、パパひどいねぇ。ママを置いてゴルフ行っちゃうんだって。まだ風邪もちゃんと治ってないのにねぇ」

「えぇー、りっくんに告げ口するのはひどいよ。りっくんはパパの味方してくんないかなぁ」

「だめよ、りっくんはママの味方だもんね。ねぇ?」

 幸せそうに微笑み合う二人。その後ろ姿が、高原さんとその奥さんに重なる。

 きっと彼らの間に生まれてくる赤ちゃんは、たくさんの愛情をもらうのだろう。

 そう思ったら、途端にたまらなくなった。


 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――

 私は自分のおなかに手をあてる。

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 かわいそうな、私の赤ちゃん。

 愛してあげられなくて、ごめんね。


 ――どうして、私なんかのところに。

 

 がちゃりと扉が開き、看護師の声が私の番号を呼ぶ。

 波のように寄せては返す後悔と懺悔。受け取り手もないその気持ちがこの罪に対する罰だというのなら、私に涙を流す資格などない。

 きっと私の罪が赦される日など来ないだろう。

 顔を上げ、立ち上がる。審判の部屋に繋がる扉。それを静かにくぐる。

 警鐘のような頭痛が、今も飽きることなく頭蓋骨を打ち鳴らしている。



―了―

参考資料『沈黙の叫び(The Silent Scream)』(1984年/米)

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