1 豚と白菜のミルフィーユ鍋で元気だして!
会話は大阪弁です。
本屋のバイトは結構重労働だと、重いファッション雑誌を棚に綺麗に平積みにして西園寺結花は腰をトントンと叩いた。
制服の青いダンガリーシャツと、店のロゴ入りの黒いエプロン姿の結花は23歳、腰を痛める程の年ではない。
しかし、ギャルというには地味、山ガールを目指す体力もない、少しオタク気味な女子だ。
『本が好きだから社員割引の特権があると聞いて本屋のバイトに飛びついたけど、時給850円じゃやってけないわ。これじゃあ、一人暮らしの夢は遠のくばかり……』
結花は一人暮らしをするための軍資金を貯めるに、もっと時給の良いバイトを見つけなくてはいけないかもと溜め息をついた。
何故、結花が一人暮らしをしたいと思ったのかは、口うるさい家族から離れて暮らしたいからと、地味な性格にもかかわらず気になる彼ができたからだ。
『聡クンもお金無いし、バイトで忙しいから時間も無くて、デートもできないかも。一人暮らししてたら、何時でも会えるやん』
親が知ったらガッカリしそうな貧乏なミュージシャン志望の聡クンに結花はときめき中だ。ただし、聡クンを彼と呼んでいるのは結花の心の中だけで、実際は同じモールの楽器店でバイトしている顔見知りに過ぎない。
中高大とエスカレート方式で女子校で10年過ごした結花は、かなり世間の恋愛事情とズレている。気になる彼である聡クンと知り合うキッカケは結花が会社をクビになり、ハローワークに通い始めたからだ。
話は少し前の年末に遡る。
結花はお嬢様大学を出て、一旦はデザイナーズマンションを設計して販売している中小企業に親のコネなく就職したのだが、入社した時から週休3日制で、勿論真っ当な給料は出なかった。
入社した途端に、これは拙いかもと結花は察した。社内の雰囲気も殺伐としているし、とても新入社員を育てていこうという感じはない。
「お母ちゃん、会社辞めても良い?」
就職が決まるまでの苦労を考えると辞めるのを戸惑ってしまうが、不況風が吹き抜ける社内の雰囲気は最低だった。若い会社の経営陣と平均年齢32歳という若い従業員の会社は、新卒採用の内定を切るのを恐れたのか、それどころではなく忘れて結花を採用したが、会社の存続が怪しい状態だ。
「う~ん、もう少し我慢できへん? 自分から辞めたら、失業保険はなかなか出ないと聞いたよ~」
こんな状態なので夏のボーナスは出ず、年末には解雇されてしまった。
「こっちから辞めたら良かったわ。お母ちゃんがアレコレ言うから、辞めんといたらクビになったわ。クビやなんて目茶、格好悪いやんか」
会社から膨れ面で帰宅した結花は、クビになったと母親に八つ当たりする。
「失業保険貰えるでしょう?」
結花から会社が左前だと聞いていた母親は、恐る恐る尋ねた。
「倒産しかけの会社が真っ当に新入社員の失業保険なんか、払ってる筈ないわ! サッサと辞めて、他の仕事を見つけとけば良かったのに……」
結花だって会社が悪いのであって、母親のせいで無いのは解ってはいたが、気の毒そうにクビを宣告されてプライドはずたずただったので、八つ当たりしてしまう。
ドドドドド……と足音高く結花が不機嫌そうに二階から降りてくる。スーツから着古したスウェットの上下に着替えても、まだ文句を言っている結花に、母親はこの性格は父親そっくりだと内心で愚痴る。
「なんや、クビになったんか?」
仕事から帰ってきた父親と一触即発の雰囲気になり、まぁまぁと母親はテーブルの上に結花の好物の白菜と豚肉のミルフィーユ鍋を置く。土鍋の蓋を開けると、白菜と白出汁と、ほんのりと豚肉の香りが湯気と共に舞い上がる。
「わぁ、ミルフィーユ鍋や!」
父親が豚肉が嫌いなので、めったに結花の家ではミルフィーユ鍋は出ない。しかし、土鍋に白菜と薄切りの豚肉を交互に立ててぎゅうぎゅうに詰めたのに、ほんの少しの水と酒と白出汁で蒸し煮にしたミルフィーユ鍋は、見た目も美味しそうな冬の鍋だ。
案の定、父親は豚肉は嫌いだと愚痴り出したが、娘が落ち込んでるのにと母親に叱られて、ビールで誤魔化しながら食べ出す。
大阪とはいえ田んぼや畑が家の周りには残っている田舎なので、冬場になると玄関先にゴロゴロとキャベツが3個とか、ずっしり重い白菜が2個転がっていたりする。近所の知り合いの農家が置いていってくれるのだが、当分同じ野菜が続くのが欠点だ。
でも、白菜は鍋物、漬け物、煮物、炒め物とバラエティーが多いので助かる野菜だった。土鍋でコトコト蒸し煮したミルフィーユ鍋は結花の好物だ。
「美味しい!」
「ホンマやなぁ」
豚肉のこくが白菜に染み込んで、なんともいえない美味だ。結花と母親は美味しい白菜をぱくぱく食べる。
「白菜だけで炊いてくれたら良かったのに……湯豆腐の方が好きや」
折角、結花が機嫌良く食べているのにと、母親は気のきかない父親を睨みつける。
「何やねん?」
俺は豚肉は嫌いやと前から言ってるのにと、ブツブツ文句をつける父親に、母親はめんどくさいなぁと台所から柚子胡椒の瓶を取ってきて渡す。
「なんや、これ?」
「小鉢に柚子胡椒をちょっと足して食べてみたら?」
父親が柚子胡椒の蓋を開けて、クンクン嗅ぐのを結花は眉を顰めて見る。
『犬みたいやわ、格好悪~』
柚子胡椒をほんのチョッピリ器に振りかけて、白菜で豚肉を包み込んで口にいれる。
「あれ? これはいけるで! 豚肉の匂いが気にならへんわ」
母親も結花も柚子胡椒を自分の小鉢に振って、一口食べて驚く。
「ホンマや! 美味しいわ」
「お前ら、俺に毒味させたんか?」
美味しくなるのを知っていたから勧めたのでは無いと、気づいてぼやく。
「いややわ~、何となく柚子胡椒入れたら美味しいかなと思ったんよ。私って料理の天才かもねぇ」
「阿呆ぬかせ」
結花は両親の軽い言い争いには慣れていたし、父親は外で食べるより母親の料理が好きなのも知っていたので、無視して食べる。
家族から見て欠点が目に付く父親だが遣り手の税理士だ。裕福な生活をさせてやっていると、偉そうなので家族からは煙たがられているが、外では猫を被って大層に評判が良い。その上、大阪の男らしく極度のマザコンだったが、料理に関してだけは亡くなったお祖母ちゃんのより、母親に軍配をあげていた。
リビングのコタツで母親が剥いてくれる食後のデザートの蜜がタップリ入ったリンゴを食べていると、チロリと父親がこちらを見る。
「何か文句あるん?」
結花の口調に喧嘩の予感を感じる。父親を嫌っているくせに、そっくりな気性だと母親は溜め息をつく。
「親に向かって偉そうに言うな! さっきから剥いたリンゴ、お前がパクパク食べるから俺は食べてないで。そういう気がきけへん所が、クビになった理由と違うか? それに昔から、働かざる者食うべからずと言うやろ。次の仕事、早よう見つけなアカンで」
リンゴが食べれないからと、娘の傷口に塩を擦り込む夫に腹が立ち、このままでは喧嘩になると、母親は夫の口に剥いたリンゴを突っ込んだ。
「もう年末やもん、無理やわ。ハローワークも役所やら開いてないやろ。お正月があけてからで、ええと思うわ」
何するねんと文句言いながらも、口に突っ込まれたリンゴは、大好物なのでモグモグ食べる。
「お母ちゃんの大掃除やお節作りを手伝うんやで。働いてないんやから、そのくらいはせななぁ」
口の中のリンゴを食べ終わった父親が小言を言いながら、皿に置かれた剥きたてのリンゴに小さなフォークを刺そうとする前に、結花はサッと刺した。ムッとしている父親の頭を軽く母親が小突く。
「阿呆ちゃうん、あんたのお父さんの喪中やろ! 今年はお節はなしや! 結婚して30年、あんたのお父さんはお母さんの喪中にも昆布巻き食べたいとか、鯛のお頭焼き食べたいと言って、ずっとお節作らされたわ。今年はホンマはハワイへ行きたかったなぁ」
今年の3月に結花の祖父が亡くなり、田舎ならではの盛大な葬式を挙げたのを忘れたのかと、父親に女二人から冷たい視線が投げつけられる。
「喪中なのは知っとる! でも、喪中やからといって、お節はいるやろ~正月に何食べるねん? それに正月のハワイなんて高いばっかりやで、普通の時期なら2回行けるわ!」
母親は父親の話を無視して、りんごを剥いていた包丁とミニまな板を片付けた。結花は台所にフォークや皿を運んで行き、煩い父親に聞こえないように尋ねる。
「お母ちゃん、当分はバイトで良い? 就活するの、しんどいわ」
皿を洗う手を止めて、真剣な顔で結花を見る。
「あんた、永久就職する気ないか? ちょっとでも若い方が条件ええねんで。今なら玉の輿にも乗れるで! お母ちゃんの頃は、女の子は24歳までに結婚せなあかんと言われてたんやで。25歳になったら売れ残りのクリスマスケーキやと陰口叩かれたんや」
ひぇ~何時の話やねん! と結花は叫びながら、絶対に職を見つけようと決意した。