エピローグ
その人は、いつも宝石店の同じ場所で指輪を見つめていた。
もう数日もそれを続けていれば指定席にもなるし、店員も最初は熱心に勧めていたけれど、まるで暖簾に腕押し、決して無言ではなく、言葉に抵抗するわけでもなく、のらりくらりと躱しながらも毎日ここに通う彼女を、ついには諦めた。
紫の肌に、側頭部にはうねる角。その身体には、この季節だと少し頼りないベージュの外套。
蠱惑的な微笑みを湛え、琥珀色の瞳はその――エンゲージリングだけを、見つめていた。
婚約をするのだろうとわかる。
だけれど、だったらその相手はどこにいるのだろうかと思う。
なぜ彼女だけが毎日ここに来ているのだろうかと、疑問を抱かずにはいられなかった。
しかし、雰囲気に加えて婚約者となる男がいるということが、より一層近づき難くする。高嶺の花で、その美貌はあまりにも地に落ちぬがゆえに、肝を据えるナンパ男ですら声をかけられない。
だけれど、毎日見ていればわかることもある。話をしなくても、その微笑みが、指輪を見て、その未来を想像しているからではないことくらいは、わかる。
憂いを帯びているのだ。
まるで、もう手に入らないものを遠く見ているように。誓い合った相手が送ってくるはずの指輪が、未だここにあることを無念に思うように。
ある日、彼女はまたその宝石店を訪れて――ガラスケースを見下ろし、硬直する。
口をぱくぱくと、己でも何を言いたいかわからないのに、何か言わなくてはならない衝動に駆られるように目を見開いて、何かを探す。
察した店員が駆け寄るが、彼女の目的は店員ではない。かけられた声を無視して、決してそう多くはない来客を一人ひとり見る。だが、望んだ人影は、無い。
「ご予約を、しておいた方がよろしかったでしょうか?」
彼女がいつも見ているのを知りながらも販売してしまった店員にも、負い目があるのだろう。控えめに、どこか気まずそうにそう訊いた。それでも声は明るかったのは、他人事だからなのだろうか。
問われて、しかし我を失っていたわけではない女は、ふるふると小さく首を振った。
「いえ。ただ、目についただけなので。約束を、していたわけではないのよ。ただ、彼に似合うと、思ってただけだから……あなたが、気にすることじゃないわ」
凛とした声は張り詰めていたが、同じく張り詰めて引き裂けそうな胸を抑えて、彼女はゆっくりと出口へと向かう。
出入り口の扉を開けた時、だからこそ、彼女は今度こそ息を止めた。
目を見開いて、瞳孔を開いて、驚愕を伴う感動に瞳が潤おうとも、その姿を強く、見つめたいと思った。
◇◇◇
慌てふためいて外に出てくるライアを見て、少し微笑ましくなる。
俺は少し高い位置――彼女がその気になれば見つけられるだろうその宝石店の屋根の上でそれを見ていた。
「イジワルも程々にしておいたほうが良いですよ?」
「こっちのセリフです、フレイさん」
確かに以前、明るめの色の服を仕立ててくれとは言った。
もともと素質があったのかもしれない。この二年で腕を上げたのかもしれない。
出来上がった服は完璧なものだった――ただ一点、純白の礼服であるということを除いては。
その上、手に握るのはつい先日購入した婚約指輪。
キザったらないだろう。これより臭い格好があればむしろ教えて欲しいくらいだ。乱れる心を落ち着かせるために。
この間の報酬を丸々使ってしまったためにフレイへと支払う代金は無いが、「お得意様になるんですから」とのことでまけてもらえた。
「だってクライトさん、ニ年ぶりに帰ってきたのに、すごい汚い格好だったじゃないですか? 髪も爪も伸びっぱなし、垢だらけで、息も臭かったです」
つんとした表情で、後ろ手を組んで胸を逸らすウィズ。二年も空いたのに随分と距離を縮めてくれているのは、果たして二年前の死闘のおかげだろうか。
いや――魔法使いとしての経験が伝えている。
彼女は記憶を取り戻している。もっとも、彼女と契約していた悪魔が死んだのだ。最強の力が失われる代わりに、記憶が戻らぬわけもない。
「酷いいいようだな。傷つくぞ、結構……」
だって極北に風呂なんてないし。
そもそも悪魔って新陳代謝するのか?
まあ雪で身体をこすったりしていたのは見たけれども。さすがに真似はできやしない。
「本当ですもの」
フレイが追撃する。
「でも、戻ってきて良かった。彼女だけではないんですよ。私も、ウィズちゃんも、今一緒に住んでるんですけどね? たまに、あなたの話にもなりますし」
そしてライアも一緒に住んでいる。
だからうまい具合に再会することができたのだが――。
「それは置いといて。いいとこ、見せてくださいよ! クライトさん!」
「そうですよ、クライト。見守ってますから」
「あーはいはい。わかりましたよ、と……っ」
最初こそ居心地が良かったが、徐々に小煩くなる二人から離れようと転移を試みる。が、それを阻害するように二人が手を掴んだ。
まだ何か言いたいことがあるのか、と振り返る。
彼女たちは極めて真面目な顔で、
「降ろしてから行ってください」
懇願していた。
◇◇◇
「付いてくる?」と訊いても、彼女らは口をそろえて「野暮はしませんよ」と退散した。
少ししてから振り返れば、慌てて物陰に隠れる人影があったのを見て、これほど言葉と行動の伴わない人間も居ないだろうな、と思った。
ご愛嬌だ。カワイイものだと思う。
そんな俺は、ついに空を飛び出したライアを待ってわかりやすい場所へ移動する。
そこは城下町の中央にある噴水の広場。今は初夏だから、その水の勢いも強く、気候もまだ温暖な方だ。というか、極北で二年も過ごせばどんな土地でもやっていけそうな気がする。
そんな噴水を目の当たりにするベンチ。円形の広場にはいくつかの屋台が並んでおり、人も賑やかだ。このベンチだって、他のところは親子連れや、子どもたちや、男女の組み合わせで埋まっている。
俺はそんな中で純白の礼服姿。その手には、指輪が入ってるのだろうと誰にでも分かる箱。
恥ずかしくなってきて、思わずうつむく。
こんな男を、誰も魔法使いだとは思わないはずだ。俺の思い描いた魔法使いは、もっと冷静で、落ち着いていて、どこか影があって、理知的で、物静かなイメージ。
髪は色を抜いてないから黒のままだが、どこか抜けたような面構えには真面目そうという印象が無い。
事実抜けているのだ。
だから――、
「ねえ、寒くないの? 目立ちたがり屋さん」
こんな時にまで、先手を取られてしまうのだ。
さざ波のような、耳心地良い声音であった。
暖かな空気が確かな質量を持って、ふんわりと隣に腰を落とした。
死人とも思しきすみれ色の肌には、だが透き通るような水々しさがある。触れれば肌に張り付き、弾く肉感がある。
側頭部には捻り上がる角がある。触れれば固く、骨のような質感を持つ。
輪郭をなぞるように手を下ろせば、絹糸のようなしなやかで柔らかな黒髪がある。日差しに照らされ、艶やかに青みがかる。
琥珀の瞳を覗けば、吸い込まれるようなほど深さを垣間見る。
その身は変わらず、身体にぴったりと張り付くような鎧姿――ではなく、ゆったりとした毛糸の暖かそうな服だ。襟元があまりにもゆったりしているものだから、肩も胸元も大きく露出していた。
箱を握りこぶしの中に隠して、両手を膝の上に置く。
彼女は俺の顔を覗きこむようにして、微笑んでいた。
「随分な格好よね。大道芸でも始めたの?」
「そんな大勢に見せる格好じゃない。これは、ライアだけに見せるために来てきたんだ」
「――っ、ベタな台詞よ。陳腐すぎて、アクビが出てくるわ」
頬肉がぴくりと弾む。それを力任せに抑えこまずに、自然なアクビにしてしまうのは根っからの嘘つき故だろう。
ぷいっとそっぽを向く彼女は、腕を組んで背もたれに身体を預けている。外から見れば、痴話喧嘩そのものだ。
今回の相手は、もう力任せにはいかない。
甘い言葉は今ので手一杯なんだが――顔が熱くなって、赤くなるのがわかる。静かに胸いっぱいに息を吸い込んでから、俺は言ってやる。
「二年も待たせて悪かったよ。でも、二年で済んだ、とも言えるんだがな。なあ、ライアは今、なにやってんだ?」
「……無職」
「穀潰しか。それも立派な仕事だよ。喰って寝る。たまに遊んでストレス発散。みんなの支えに」
「ならないわよ、さすがに。いや、フォローしなくてもいいから。っていうか冗談よう! 普通に働いてるわ」
「へえ、意外だな。出来るのか? そんなこと」
「出来るわよ、っていうかしてるのよ」
「何してんの?」
「占い師。契約なしでも、ある程度のことは見抜けるから。困ってそうなことを当てて、ただアドバイスするだけ。簡単よ、一時間で一万だもの。その気になれば一日で二十万くらい稼げるし。あたし、当たる占い師って評判なのよ? どんな場所でも、気兼ねなく相談できる人ってやっぱり必要みたいで」
「意外な天職ってやつだな。楽しいか?」
「そうねえ、知らない人の話って結構面白いものよ? 自分と感じ方が違うから、同じ事に関してもそれぞれ悩み方が違うし。それにあたしの助言をどう受け取って、どう変わってくれるか、改善も悪化もあるけれど、その度にあたしを頼ってくれる。ヘンにやりがいがあるのよね」
一気にそう言って、思い返すように目を瞑り、小さく頷く。
「そう……だから、楽しいって言えば、楽しいのかしら」
だから、と続く。
ゆっくりと、出会ってからの数ヶ月よりもずっと長かった二年の空白を埋めるように話し始める。
まだ朝の抜けるような淡い蒼が、気が付けば色濃く存在感を持ち、全天を照らす日差しが強く降り注ぐ昼日中。かと思えば、西日が東の空を藍色に染め上げ、西の空を紅に燃やす。その藍が西日を追いかけるようにして空に夜の色を見せ始めた。
一番星を共に見上げ、気が付けば左手は、右手は、それぞれ緩く、だけれど決して離れずに握り合っていて。
やがて言葉も無いまま、人気の失せる広場に二人、ただ空を見上げる。
そろそろ頃合いだった。
「なあ、ライア」
呼んでも反応がない。
ちら、と脇を一瞥すると、俺の肩にもたれかかって穏やかな寝息を立てていた。
「ん……?」
肩を弾ませて頭を揺らす。
それでようやく反応を見せるライアは、べったりとヨダレで俺の肩を汚しながら、それでもその袖で拭うのは己の口もとだけだ。
一張羅なのに……。
「あら、寝てたかしら。ごめんね、なんの話、だっけ?」
寝ぼけて、虚ろな目で俺を見る。
俺はそれに苦笑してから、顔を引き締めた。
「俺と契約をしよう」
生涯で初めて、俺からのソレを。
「……ん?」
「これからずっと俺と一緒に居てくれ。その時間を代償に、俺は君を幸せにする」
汗ばむ手の中に収まっていた箱を、ようやく差し出す。
蓋を開けば、赤いクッションに入る筋に対となるリングが差し込まれていた。
重なる、輪廻の形。
リングの表には月明かりで鮮やかに煌めく無職の玉石。そこを中心にして、表面には螺旋を刻み、その溝にはより小さな、様々な色の玉石を無数に埋め込んでいた。
こいつが十五万。当然セット商品だから三十万。
俺が東大陸に戻った理由は、こいつだった。
「契約の証として、これを受け取ってくれ」
指の大きさは、きっとあってる。店員がニヤニヤしながら「何度もお伺いしましたもの」と言っていたのだ。これで間違ってたら、意地でも力任せに穴を広げてやる。
だけれど、差し出したその手を受けて差し込む薬指に、そいつはまるで元からの持ち主が彼女であったかのように嵌められた。
すみれの肌に映える銀の煌めき。そこにあるのは、婚約の意を為すリングだ。
己の手の中にそれがあることに驚いているのか、あるいは望んだ相手に渡されたことこそが感慨深いのか。
彼女はじっと自分の左手を見つめてから、思い出したように、だけれどそんな素振りなど無い自然さで俺を見た。
「でも、それじゃ契約にならないわ」
「……わかった。働かなくて良い。楽をさせてやる」
「違うわよ。察しなさい。それでもわからないなら、教えてあげる」
「なに、……っ!」
ふ、と息を吐けば同時に顔にそれがかかる距離。もはや隔てるものは何もなく、そのやわらかな唇が、俺の唇に触れる。
その瞬間、熱い何かが俺の中を駆け抜けた。脳髄から一直線に、激痛にも似た凄まじい快感が、興奮を伴って全身に、四肢に、指先にまで広がる。
思考が消える。
脳みそがトロける。
熱くなったのは、顔だけじゃない。身体が芯から、その心まで、何もかもが熱せられる。
ふ、と甘い吐息が顔にかかるのは、口づけが終えたから。
上気したようなライアの顔がすぐ近くにあって、ねっとりとした唇が紡ぐのは、囁くような言葉だった。
「もう幸せだもの。でもあなたからの契約じゃ、少し不安だから」
ジリ、と焦げるような熱さが頬に走る。
思わぬ火傷のような痛みに顔をしかめれば、熱した棒が頬をなぞるような感覚。それだけで、頬に刻まれたのが稲妻模様であるのがわかった。
「おんなじ内容だから、同意も要らなかったみたい。でもあたしとの契約、嫌だった?」
俺の左手を取り、残ったリングを薬指に押し嵌める。こっちはしっかりと測ってサイズが合った在庫を持ってきたために、入らないはずもなく。
そうして互いに同じ場所に、同じリングを持った。
ダメ押しで刻まれたライアの契約は永劫なる共存を誓う。
「そんなわけあるもんか。これ以上のことなんて、ありゃしない」
「本当に?」
「本当だよ」
ちゅ、と戯れのような口づけ。
彼女を思う気持ちが、浮き袋に息を吹き込むようにどんどん膨らんでいく。
「ずっと、一緒だからね?」
「ああ。もう二度と離さない」
これから続く長きに渡る人生が、新たな契機を迎えて、彼女と始まる。
人として見ればあまりにも長すぎる、だけれど魔法使いだからこそ僅かともとれるこの一時が。




