2:はじめの一週間
転移した場所は、随分冷えていて、
「……ヒィ・クライト? それに、あなたは」
空に青みが戻り始める時刻。
肌が凍りつくほどに寒い土地には、透き通るような白い肌の女と、闇に紛れそうな褐色の少女と、そして獣のような下半身を持つ悪魔が居た。
極北である。
未開の地で誰にも関わらず死にものぐるいで特訓するかと思いきや、まさかのとんぼ返りである。
大見得切っといて戻ってくるのもなんだか恥ずかしかった。
「ああ、ども」
もはや敵対する理由など無い。
そして俺と師匠の出現に、無事リフを止めたことを理解したのだろう。
つん、と顔を逸らすルゥズでさえフリィの影に隠れて破顔し、オリジは腕を組んだまま、口もとに笑みを湛える。
「リズ……あなた」
「この子を後継者として育てることにしたのよ。ライアを待たせて、まず始めにこの私を救うって、ねえ。馬鹿な子よ、まったく」
上背のある師匠は、俺とほとんど身長が変わらない。だから気軽に俺の頭に手をおいて、手首だけでポンポン頭を叩く。
それでもニヤニヤしている顔を覗けば、悪い気がしなかった。
「蓋を開けてみれば、というやつか。正直、己には理解できないな。怒って、殺して当然なのだと思うが……」
「できたら苦労しねえって。実際戦って、術も何も封じ込められて完封だよ。ホント、年の功ってヤツ――」
ズン、と肘鉄が水月を穿った。
目に見えぬ動きは、決して術を行使した気配を見せない。つまり、体術だけの動きだ。
がふ、と肺腑から空気を抜き、酩酊したように朧気な足元で師匠の肩を掴む。途端に暗くなった視界、重くなった頭が呼吸と共に回復し始めた。
「師匠、っていうのはただの二人称でないことを忘れちゃあいけないわねえ? ヒィトリット」
「え、ええ」
五百年生きていても、やはり歳は気になるのだろうか。
そんなもの、俺がどうにかしてやるというのに。
なんて言ってやれればかっこいいのだろうが、まあ言ってもどうせ馬鹿にされるだけだから言わないけど。
「それでは、まさか”あの施設”を利用致しますの?」
フリィが問う。
敵でなくなった途端にとんでもない美人でイヤラシイ身体をしてるとか思うけど、いやまさか、どうにもなるまい。彼女とて師匠に次ぐ手強そうな女だ。
「ええ……とんでもない事になってるけど、まあ、無事よね?」
視線の先には瓦礫の山。
イクスとローゲンの戦いの痕跡だ。館が一撃で崩れたが、しかしローゲンは一矢報いた。
そうだ、と思って俺達がいる庭を見渡す。
すると、そそり立つ巨大な剣の脇に、土を掘り返したように、色の違う部分が二つあった。墓標には適当な石を置いてある。
「エルフの娘は、辛うじてもとの形を残す寝室を利用して寝かせている。気がついた時に街へ送ろうと思っていたが……顔を見ていくか?」
俺の心配に気づいたように、オリジがそう言った。
「ありがとう。だけど、大丈夫。多分ライアも行ったと思うから、北の都市まで送ってやってくれ」
あそこなら知人もいる。なんとかなるだろう。
「ああ。まあ、そういうことだ。フリィ、頼めるか」
「承知しましたわ。奇しくも私たちを斃した男の願いですもの。責任をもってお送りさせていただきますわ」
「ん、オリジが飛んで送るんじゃないのか?」
まさかのフリィに、オリジを見上げる。つかでけえな、改めて見ると。
「なあに言ってんの。私より大御所の大先輩差し置いて、私だけで後継者の育成できるわけないでしょう?」
「大御所?」
脇から伸びてくる手が俺を掴んで引っ張る。
ずんずんと大股で瓦礫の山へと進みながら、傍らに追随するオリジが解説した。
「己は二千年の時を生きた。二代目の魔女によって創られた。そして悪魔として、初めての存在だ」
「それで私は八代目」
二代目から八代目までで二千年。うち八代目が五百年生きてるとなると……だいたい一人がニ五○年生きている。つまり彼女はその倍以上、この世界に居ることになる。
あらゆる文化の盛栄と衰退を見てきたのだろう。
己を知る者たちが、己とは異なる時間の進みで死んでゆくのを見てきたのだろう。
そしてもう、魔女という存在でしか知られなくなった彼女は、どうやってその精神を保ってきたのだろうか。
この男だってそうだ。
改めて、横目でオリジを見る。
その四倍を生きるこの悪魔は、どうして生きているのか。彼らには死ぬという選択だってあった。死ねたのだ。
そして――俺は今、この二人の全てを吸収しようと言うのか。
「ここで待ってなさい」
瓦礫の前に立つ。
そう言い残す師匠は、一歩進んで腕を組む。と、まるで彼女の眼前から重力が消え去ったように、パラパラと石が、砂が浮上しはじめて。
「狂うが早いか、諦めるが早いか。お前なら、逃げ出すかもしれんな」
「なんで前向きな可能性がねえんだ」
「なに、”普通”の感想だ。ただの人が耐えられるものではないし、己は別段、お前を特別だとは思っていない、ただ」
巨大な瓦礫が浮く。
その上に積載される、俺よりも遥かに大きい瓦礫群が載せられたまま宙に浮かび上がる。
そいつを、館の敷地から奥へと飛ばす。問えば多分、師匠は慎重という言葉の意味を答えられないだろうな、と確信するぐらいには乱暴な早さで、崖の下へとたたき落としていた。
ずどん、と響いてくる衝撃が空っぽの胃を震わせる。
嫌な衝撃だった。
「期待はしているさ」
その轟音の中で、掻き消えそうな声量でオリジが言った。妙な所で終わった言葉尻が気になっていなければ、多分聞こえていなかっただろう。
俺はそんな言葉に、ちょっとうれしくなる。
根が単純なんだ。仕方がない。
拳を作って、オリジの胸を叩いてみせた。
「いい意味でな。期待を裏切ってやるよ」
にこやかな笑みは果たして爽やかだったろうか。
驚いたように目を見開くオリジは、まさか聞こえていたとは、といったように苦笑して俺の背中を押す。その頃になると、撤去された瓦礫群、その館の基礎部分がむき出しにされている地点に師匠が立っていた。
浮いている瓦礫は無く。
彼女の目の前には、埋め込まれている巨大な鉄板があった。
歩みを進めて、随分とすっきりした館の跡地を見る。建物がなくなれば結構しょぼいんだなあとか思いながらも、でもこれって故郷の半分くらいあるんじゃね? とか規模の大きさを具体的な例を出して比べる。
遠くの方で、唯一残っている寝台を見る。そこに寝かされる少女の影を見て、そこの壁や屋根まで撤去しなくても、と少し頬をふくらませたくなるが、俺がやっても可愛くないのでやめておいた。
鉄板は、そこそこの大きさだった。
俺が両手を伸ばして三人分、そんな正方形である。
把手など無い。本当に埋め込まれているだけで、指はおろか、爪をひっかける余地すらない。
「どう」
開けるんですか? そう聞こうとするよりも早く、オリジが思い切り地面を蹴り飛ばした。石を置く基礎部分は容易く砕けて、鉄板の分厚さが見える程度の窪みが出来る。力技だ。
そうして生臭もいいとこ、オリジはそこにつま先を引っ掛けてまた蹴り上げる。鉄板は最初こそ勢い良く吹き飛ぶように上向いて、指一本分の厚さを見せつける。だが垂直になる後少しの角度の所で勢いがなくなって、
「ちッ」
跳躍。蹴撃。
オリジのケリが強引なまでに鉄板を叩き伏せて、凄まじい風圧と金属音が周囲の砂埃を振りまく。思わず目を閉じて咳こめば、オリジがその間に俺を小脇に抱えて飛び込んでいた。
階段が無いのだと理解した時にはもう俺は、つい数時間前と同じく、落ちていて――。
◇◇◇
特訓一日目、とでもしようか。
館がまるまる入るだろうその空間は、閉鎖的だからこそより広大に見える。
照明は師匠が打ち上げた光球。それも魔法だという。魔法ってすごい。
それは真昼間の地上よりも眩く室内を照らしていて、何もないここには、もう影がない。
オリジには、まだできることはないと言った。
だからそこで、師匠と二人きり。行うのは戦闘――ではなく、お勉強会。
「だから一代目が築いたのが、魔女の基本形とも言える魔法の確立よ。わかる? 魔法はいわば悪魔の固有能力と同じで、これが魔術とどう異なるのか、同じ作用の魔術との差別化をどういった形で行なっているのかを確かにしたわけ。初代が蘇らせたのは、時間遡行。覚えてよ、外に出られないわよ」
「お、覚えます。それで、二代目が魔法の『創生』で悪魔を創ったと」
悪魔はもととなる個体が必要になる。殆ど四大精霊と同じだ。
「三代目以降はほとんど惰性ね」
「効率化、省エネルギー化、攻撃術の威力増大・拡大とか、転移の改良とか色々生み出してるって言ったじゃないですか」
「生み出してるっていうか、先人の術を発掘して、蘇らせているだけ。人一人分の人生があれば、そんなの余裕よ」
つまり、魔女ほど術に精通していたとしても、人生を費やしてようやく一つを使いこなせるということだ。
――こうして口頭で情報を覚えるには、いくつか理由がある。本来ならば全ての記憶を記録、知識として後継者に付与することが出来るのだが、俺は残念ながら未熟者だ。
だから、その下地を作る。
得た知識、記録を有効に使うために、それがどういったものかを事前に知っておく必要がある。つまりは予備知識だ。
そして、時間をかけてゆっくりと魔女について理解する必要があった。
覚悟と、実感が必要だった。
だからまだ若すぎる俺には、色々な意味で実験的で、師匠にとっても時間が要るものなのだ。
そんなこんなで、その日は夜遅くまで続いた。
二日目となれば、飲み込みの早い俺としては作業段階を一段回上に回せるわけだ。
「リフとの最後、殆ど精霊を使ってました。アレってつまり、大きな部分で魔術に近いってわけですか?」
「精霊を媒介にしてるだけってことね。そのとおり、感覚的にはそれが近い。精霊を使えば使用が楽ってだけ。本来なら、それだけでも十分なのよ」
十分すごいことなのよ、に聞こえて頬が緩みかける。
キッと引き締めて、頷いた。
「じゃ、やってみなさい」
「はい!」
師匠に背を向けて、短い呼吸を数回、そうして胸いっぱいに吸い込んだ息を、ゆっくりと吐き出す。
イメージを力にする。
精霊を用いず、己の体内から力を放出する想像。
そしてそれは、当然のように結果として現れた。
ぼう、と音を上げて右腕が燃える。しかし熱さはあるが衣服が燃えることはなく、掌底を突き出すように放てば、炎は螺旋を描いて噴出。思ったよりも凄まじい速度で瞬く間に対面の壁にぶち当たった。
「そうそう。意外にいけるわねえ。じゃあ今日はそんな調子で二百発終わったら終了で」
「……に、二百……?」
それでもそんな理不尽に挑んだ俺は、翌日の朝までかかってノルマを達成させる。
翌日の朝までかかったので、もちろん休憩などはない。
三日目はほとんど二日目の延長で、
「次、水」
「は、はい!」
「それ終わったら風!」
「へい!」
「土!」
「えいっ」
それぞれ百ずつ、立てなくなっても寝っ転がりながら、と言えば優雅だが、全身を痙攣させながら威力を保って生命エネルギーを消耗しているこの訓練は、自殺としか言いようがなかった。
そんな過酷な三日間だったから、四日目は事実上の休みで、
「ね、ヒィトリット」
久しぶりに出てきた地上、もう居なくなっていたウィズがそれまで使っていた寝台に腰掛ければ、横になるより早く師匠が隣に来た。寝台を囲むようにちょっとした壁と屋根が出来ている。
その窓越しに、庭に小屋が出来ていることに気づく。それをみてれば、ちょうどその小屋から出てきたルゥズがこちらに気づいて立ち止まった。
軽く手を振れば、うーっす、とでも言うように頭を下げてどこかへ行く。
その背を見送りながら、
「なんです?」
「疲れた?」
「もうすぐにでも寝たいくらいには」
もう靴も脱いで寝る準備万端なのだ。風呂さえアレば、もう寝ていてもおかしくはない。
「寂しい?」
何が、とは聞かない。
そして多分、彼女にしては浅ましいくらい欲しい答えがみえていたが、それに配慮してやるつもりもなかった。
だけれど、珍しく師匠が甘えている。甘えさせるようなセリフとは裏腹な視線に、少し緊張した。
「ムチの次はアメですか? だったら焼き魚だけじゃなくて、たまには肉が食いたいです」
「北大陸ならまだしも、極北でそれは無茶じゃないかしら」
「街の人達はどうしてるんです?」
「街? ああ……あれ、ハリボテよ。人の気配みたいなのがあるでしょ、まあもともと人が住んでたからそんな気配があるみたい」
「……元々、街があったのを最良してるってことですか?」
「そのとーり」
ポンポン、と頭を叩いて寝台に横になる。
あ、と声を上げれば、端に寄り、その限りなくギリギリな一人分のスペースを叩いて示した。
「私も眠いのよ。残念ながら寝台は一つしか無いってことで」
「……ま、今更どうこう思うわけじゃないですし。前にもこんなこと、ありましたよね」
眠いから、ふしだらな本能は発揮されないだろう。そう思って、彼女の横に寝た。寒いから布団をかけて、目を瞑る。
ふう、と吐息が耳をくすぐって、
「うえ」
チョップが師匠の喉を打撃した。
「眠いんです」
「もう、めったに無いのに」
なんて言いながら、隣で大きく動く気配。先程までこちらをむいていたから、きっと外側へと転がったのだろう。
だから、音のない静寂を全身で感じて、それが身体の中に浸透する。
頭は完全に眠る体勢へと沈没し始めていて、
「でも、本当に嬉しかったのよ。あんたが、私まで救ってくれるって。さすがに、予想外だった。ヒィトリット……もしかしたら、私は、ずっとそういうのを、望んでいたのかも――なんて、都合が良すぎるわよね」
否定がまっさきに浮かぶ。
だけれど、身体は動かない。
休息に飢えた肉体は、頑として動かなかった。
「あんたが望むなら、ってくらいには思ってたけど……あり、本当に寝ちゃったの?」
ごそ、とまた動く。
気配は、熱は、俺に触れるほど近くにあった。
「ったくもー。無防備な寝顔。ちょっとは男らしくなってるみたいだけど……まだまだ小坊主よ、ヒィくん」
ぺち、額に触れるのは手刀。やり返した、とばかリに笑いを押し殺して、また横に寝転がる。
俺はそれからようやく、眠りについた。
五日目からは、基礎的な四大元素を操る訓練に加えて、例のお勉強会が続行した。
火から土までそれぞれ二百の術を打つ。壁一面は煤で黒ずみ、放つ瀑布のような水流を弾いて流す。そこを深く切り刻む風の刃は鋭いが、床からの隆起がそれを埋める。
朝日が見えるより早く始めても、終わるのは日が暮れて暫くたった頃。しかも威力は、未だ壁を破壊できない程度のものだ。これでも十分脅威となっていたのだから、世界広し。
夜が来て、
「まずは魔女、魔法使いが復元した代表的な魔法から覚えていきましょう」
どこから買ってきたのか、メガネをクイッと上げて指し棒となる枯れ木の枝で壁を叩く。壁には石灰で、無数の文章と図形が複雑に書き込まれていた。
「は、はい」
それが、夜が明けるまで続く。
これがニ日続き、ニ日後には俺の適正を師匠が見抜く。
その結果で、カリキュラムが組まれることになる。敢えて不得手の部分を補ってから始める理由はない。できることを伸ばして極めてから、足りない部分を付け足していく。どんな訓練でも、修行でも、これが定石だったが。
ニ日後にもなれば、
「僅かな元素でも……ん、増幅? 膨張、させて。密室で、真空を打ち破る、感覚……つまり」
これだ、と思う。
詰め込まれた情報を一つ一つ覚えなおすように噛み砕きながら、魔法を試みる。
真っ先に覚える必要があるもの。
それはエネルギーの効率化。
これさえアレば、俺はそこまで容易く疲れない。
だからそのイメージを膨張させて――ぷしゅう、と何かが抜ける音と共に、限界の到来を察知した。
「げ、元素、元素は、火、火、ひひ、ひい……」
「ちょ、ヒィトリットぉ!」
悲痛な叫び声が、俺が聞く最後の師匠の言葉だった。




