3:進むために
何も見えない。
音も無い。
落ちているのか、浮上しているのか、俺はどこにいるのか――その感覚すら、にわかにつかめない。
完全なる闇は、しかしまだ余地を残している。ほんの僅かに降り注ぐ光子に集中することで、それらが触れる物、者の輪郭を認識できる。
もはや視力ではなく、気配で察知するようなものだが、何もないよりはマシだ。
今が昼で良かったと思う。
これが本当に新月の夜だったならば……。
「しゃらくせえ!」
要らねえことを考える余裕があるなら、せめて状況を俺の有利に運ぶしか無い。
右腕に紅蓮を重ねるイメージ。思考とほぼ同時に発現したうねる火焔は右腕にまとわれたまま、しかし一息で簡単に弾けてしまう。吹き飛ばされた火焔は未だ落ち続ける深い溝の壁に張り付き、灯るように爛々と辺りを照らし始めた。
壁の位置を認識し、空気を圧縮して俺を弾く。勢いに乗せられて壁に触れ、そこを掴んで削りながら落下速度をゆるやかなものに変えながら、
「っと」
この、生涯ニ○年間踏み続けた大地を認識したのは、伸びきった膝が折れて腿に力が篭り、即座に動けるように両足が足場を掴んだからであり、
「……っ」
息が詰まるのは、その空間に満たされる魔力に当てられたから、なのだろう。
まるで水をいっぱいに張った桶に浸っているようだ、と思う。そこから水面に向けて指ほどの太さの筒を突き出し、呼吸孔にすればちょうどこの息苦しい感覚が再現できるだろう。
身体が重い。
漲ると思っていた力は、むしろ抑えられている。だというのに、俺につきっきりで力を発現する精霊のその気配だけが如実に強くなる。奇妙な感覚だった。
「随分と慎重になったな」
リフは、既にその頭部に流線型の継ぎ目すら見えない兜を装備していた。素材も、製造方法もそこには無い。己の体内から出した外骨格は、それを表出させるか否かで変わる戦況がある。
たとえばイクスの場合。
奴は強靭な肉体を持っていた。だがそれは、内骨格を保持したままの場合だが、しかし同じく外骨格を装備していない状態ならば誰よりも強かった。しかし一変して、武器として外に出した瞬間に肉体は何よりも脆弱になる。
対してブロウの場合。
能力に偏りすぎる戦闘能力は、その外骨格の有無などもはや問題外と言いたげなものだ。
このリフの場合では、何よりも外骨格を伴う能力が厄介になる。
奴の能力は恐らく”反発”。極めて反射率の高い装甲は、光を回折させることで己の背後へ突き抜かせることで、光は彼自身を反射せず、結果透明になる。
「あんたを殺すためになら、誰の犬にだってなる覚悟だったからな」
そうして、直面してみて、いよいよ真実味を帯びる。帯びなければならない。そして考えて、なるほどと横隔膜が痙攣した。
巨大な扉だ。
分厚く、まるで谷壁を削って作り上げた彫刻のような巨大さはその上部の縁を闇に消すほどの高さにあったが、しかし神経質なまでに隙間なく打ち込まれている図太い鉄が、それを封じ込めていた。
だというのに、ここにはこれほどまでの魔力が満ちている。
頭がおかしくなりそうだ。
やはり、順応していない人間には、瘴気でしか無い。
こいつをいかに利用するか、どこまで正気を保てるかが問題だろうが……。
「探しものは、これかな?」
僅かに屈んで、何かを拾い上げる。
岩か何かを掴んだのだろうと思えば、それは人の頭だった。
艶やかな黒髪が長く垂れる、その隙から見える顔は涙やヨダレで汚れながらも、うつろな瞳で視界を保っているようだった。
全身は土で汚れているが、穢されているような気配はない。そりゃそうだ、連中に生殖能力など無いし、そもそもライアの能力こそ分からないが、彼女のそいつが目的なのだ。下手に壊れないように、ある程度は丁重に扱うものとばかり思っていたが――。
「クソが……っ!」
噛み締めた途端、ばきん、と奥歯が砕ける。
ジャリジャリと砂粒となるエナメル質を飲み下しながら、舌先で転がす破片を吐き捨てた。
「良い怒りだ。上質だな」
まるで子供が人形遊びに飽いたように、つまりライアを人形のように放り捨てる。受け身も取れず、何の反応もなく、彼女は横に投げられ、幾度か弾んで転がりながら動きを止めた。
沈黙の中で、ささやかな息遣いが聞こえる。微弱で弱いが、しかし命に別状はない。
リフはそれを聴かせるために黙っていたのだろう。俺が再び意識を光沢甲冑に移すと、彼は右腕を立てるように構え、その側面に左手の指先を添わせた。
指先で叩けば、装甲が膨らむ。僅かに浮き出た一枚の装甲を引き剥がせばあらわになるのが、華奢とも、しかし図太いとも言えぬ腕だ。恐らく無事なのだろう肌色の右腕の前腕には、
「……ガキか、あんたは。初体験を自慢してえガキみてえだな」
ギザギザの、稲妻模様。言わずもがな、ライアの契約の証だ。
「意外だな。もう少し嫉妬に狂うかと思ったが」
「問題は、そこじゃねえ」
彼女の能力だ。
彼がそこまで求め、そしてこの場所を見つけてきたということは――恐らく観測、検出系の能力か。
「気にしているのか?」
装甲をはめ直し、背にする扉に寄りかかるように仰け反って腕を組む。
「少し、口数が減っている」
「あんたはよく喋るようになったな。この期に及んでビビってんのかよ?」
「確かに、少しくらいは怯えるさ。何よりも貴様はこの私に一撃をくれた上に……」
顔を横に向け、あからさまに分かるようライアを一瞥する。
疑問を抱くより早く、
「何をするかわからない」
俺を挑発した。
この男と面と向かう前に、ライアを殺しかねない。この男はそういった。
エントを殺したということは、恐らく契約は少年からライアへと移っているはずだ。だから彼女から何らかの手段で契約を破棄させることさえ出来れば全ての問題が解決する。
こいつの脅威は圧倒的な火力でも、世界を縮める速度でも、何もかもを燃やしてしまう力でもない。
こちらの攻撃が一切通らない反発。ただそれだけなのだ。
「あんたと一緒にするんじゃねえよ。俺は、なあ」
駄目だ……揺らぐ。
目の前に、殺さなければいけない敵がいるというのに。
意識が、ライアへと傾いてしまう――だけれど、迷ったのは、一瞬だった。
気がついた時にもう、視界は闇に染まっていた。
否。視界いっぱいに拳が迫っていた。
顔面に痛烈な拳撃を受け、勢い良く背後の壁に叩きつけられる。谷壁は削られるように破砕し、俺は上肢ごとそこに埋め込まれる。
数瞬だけ意識がトんだ。
だが、それでいい。
ようやく、切り替えられる。
リフの拳が深く内蔵を穿った瞬間、その腕ごと飲み込んだのは溶融する谷の壁だったものだ。
白く燃える溶岩が飛沫を上げる。俺はそこから飛び出して、リフを抜き去り、反対側の壁まで至る。
まずは体勢を整え、
「一撃で殺せねえのか? 悪魔サマが、たかが人間ごときをよお!」
意地を張り、挑発する。
これだけは、譲れないのだ。
「来いよ」
指を折るようにして誘う。
「死にたくなければ、来い!」
俺の両腕に紅蓮の幻影が重なる。
瞬間、リフが背にする一部が融解した壁が、突如として真紅に染まり上がった。さらには亀裂が走り、その気配を見せた時にはもう決壊するように崩落を開始した。
炎を伴って灼ける石炭が怒涛となって降り注ぐ。だが、それは地上にぶち当たることはなく、宙空でたゆたうように停止した。
リフの反発が、それを許さず――男の足元から、鬼火が走った。
思わず横に飛ぶ。
一直線に進んだそいつは、俺の背後の壁にぶち当たり、凄まじい衝撃がその一部の壁を溶かす。灼ける暇もなく、それはどろどろに溶け出していた。
反発――ではない。
もっと末恐ろしい、何か。
嫌な予想が脳裏を掠める。
しかし、ここまで来たのならそこまで大きな変わりはないはずだ。
俺は両拳に乗せるサラマンダーの腕を意識しながら跳び上がる。同時に、まったく同じ動作で跳び上がったリフが突き出した腕に――真紅の炎が、屈強な腕を作って重なっていた。
ありえない。
嘘だ。
そんなのは――。
混乱が心を乱し、集中がかき消された瞬間。
その拳の炎に反発が上乗せされ、放たれた拳撃は俺の腹部を穿ち、貫き、腕で串刺しにする。
迸る灼炎が肉体を焼きつくす。
だが全てが終える前に、腕ごと、俺の肉体はすぐ後ろの谷壁へと突っ込んだ。




