1:無償の世話
『ウィズ、お前は人間を招いたようだね』
『……はい。とてもお腹を空かせて、もう動けない程疲れきっていたようでしたので……』
『……捨て犬じゃないんだから。わかっているの? この領内に、人間を勝手に招くってことは』
『わかってます』
少女の、断ずる声が強く響く。その後に、辺りを気にするように声を小さく、押し殺すように頷いた。
『ただでさえ、お前は……』
『わかってます。いつも、私なんかの心配、ありがとうございます』
『真面目で優しい子なのに、そういう妙に意固地な所。変わらないね』
『先生の方こそ、小さな頃から全然変わってませんよ。いつもお綺麗で……私のせいで、ご迷惑ばかり』
『気にしなくていいのよ。大事な教え子は誰であろうと変わりないの。同情じゃないのよ、だから――早い内に、人間は帰らせた方がいい。しかも悪魔を連れてるなんて』
その言葉に含むところは、あまりにもありすぎる。むしろその裏の意こそが彼女が伝えたい本当の言葉なのだろう。
それを受けて、ウィズは暫く口を閉ざす。彼女のその行動を、先生と呼ばれたウィズよりも小柄な女性は、長い耳を力なく落として嘆息した。
彼女は気安く嘘がつけない。
そして、否定をすれば言い返されて、言い負かすことができない。
だから否定も肯定もしないで、相手が勝手に沈黙を肯定だと受け取って誤認してくれるのを待っている。最初はそれで手を焼かされたが、常套手段すぎて見ぬかれているのに、彼女は否定に沈黙以外を知らなかった。
『複雑ねえ』
割り込むのは、凛とする彼女ら二人ではない呟き。
ライアは反応のない俺へと、それでもその光景を見せていた。
俺は言葉を発さない。見ていて、理解していても――自分で考え、口を出すほどの意識を、保っていないから。
――だけど。
夢のように見ている彼女の視界のなかで、理解できない唯一つのこと。
なぜライアは、このいざこざに首を突っ込もうと一度でも考えた俺を抑えたはずなのに、それを助長させてしまうようなこの場面を見せるのか、と。
『納得する前に、理解と認識が必要だからねえ』
言いたいことは、心のなかに浮かんでいた。さすがに読めていないだろうが――透かし見たような答えが、俺に納得を促した。
◇◇◇
食が肉体に力を漲らせ。
その力が精神に安定をもたらした。
「……ふう。たまにゃ、こういうのもいいもんだな」
早朝の軽い運動。ウィズの家から離れてひと目の付かない所をひとっ走りしてきた俺は、ついでにここ最近使っていない精霊術を呼び出して虚空に打ち出す。
その度にバキボキと骨が折れて身が引き裂けるが、随時回復術を掛ければ問題はない。だから――全身が程よい疲弊を帯びてから、俺は居候先に着くことが出来た。
扉を開けて、中に入る。
椅子に腰掛け、頬杖を付いていたライアが俺をちらりと一瞥する。決してお世辞にも広いとは言えない、一人で暮らすには丁度いい室内を見て、ウィズが居ないことを認める。
彼女の対面に腰を下ろし、汗ばんだ額を拭う。袖をまくって、ようやく一息ついた。
「随分と健康的ねえ。疲れないの?」
「むしろ疲れてたほうが丁度いいんだよ。疲れも、痛みとして代償になるしな」
「ともかく、まだここに居るつもり? これだけ食べて飲めば、すぐ近くの村には行けるでしょう?」
「ああ、問題ない」
だが、と一つ開いてしまった間を、彼女は察した。
「一宿一飯の恩義ねえ。相手が望まないことをしつこく迫るって、随分迷惑だと思うけど?」
「響きが卑猥だな、言い換えてくれ」
「要らないご親切がご迷惑だと言っているのよ」
「まあわからなくもないが――あんたは、どうしてご機嫌斜めなんだ?」
「……この一週間で一週間のあたししか知らないあなたには分からないことよ」
「立場同じだろ?」
「さあね」
言って、ぷいっと横を向く。やはり彼女の不機嫌さを悟るための情報は渡されず、訳もわからずに非難されているような気分になった。
――気にしない。
そう、決めることにする。それが勝手な思い違いなら、俺が恥辱に塗れるだけだし。
彼女への追っ手はまだ消えたわけではない。奇跡的なまでに、未だ追って来れないだけだ。
「それに、俺をさっさと旅立たせたいなら、昨夜見せたあの光景はなんなんだよ」
「まだ寝ぼけてるわけ? 言ったじゃない、納得には認識と理解が必要――何も知らぬから介入の余地があると思っているあなたに、その隙なんて微塵もないのよって教えたんだから」
「別にそっちの問題じゃなくてもいい。やられっぱなしってのは、誰であろうとも嫌なんでな」
「――重いのよ、あなたは」
妙に突き刺さる言葉。いつもには無い噛み付き。彼女がそうするのは、本当に周囲には俺たち以外に誰も居ないからだろう。
流そうと思っていた彼女の心が、やはり思い上がりだったことに気がついて。
そして、予想していた事よりも遥かに深く彼女に踏み込まれていたことなんてわかるわけもなく。
ライアの瞳が俺を射抜き。
開く口は、だが即座に閉ざされた。
扉が空いたのはそれから少しして。
朱に染まる頬を隠すように片手で抑えながら、彼女はそのまま台所に立った。
「これからお昼の用意しますけど、何かご要望はありますか?」
寒さによりかじかんだ赤さではない。
紅潮して差した朱ではない。
明らかに殴打などによる、物理的な力の加わった紅斑であり――手を離した隙に見える頬には、早くも紫斑が広がり始めている。
「そうだな、ライアは何か希望はあるか?」
彼女が一度でも隠したそれを、俺は気づかないふりをする。
深くまで関わって良い問題ではない。わかっている。彼女が人間ならまだしも、エルフ族――正確には、人とエルフの間に生まれたハーフエルフと呼ばれる特異な存在だから。
「そうね。我儘を言うつもりもないから、特に要望という要望は無いわね。強いて言うならお肉がいいわ」
未だ他種族に深くまで心を許さないエルフ族は、だから周囲に排他的で、だから他種族と交わった同胞を切り捨てる。
長身、紫水晶の瞳、栗色の長髪……エルフの遺伝子には無いその容姿を、彼女が隠す真実を素知らぬフリで見つめるには、あまりにも俺は知りすぎていた。
そして、だからこそ。
「そいつが要望だっつーんだよ」
本当に、ライアの言うとおり、俺の介入の余地などない種族間の問題であるのを痛感していたし。
その隙間などありはしない余地を、ウィズの中にある唯一の共通点を契機に、切り開く準備をした。
――手を上げる。
彼女に対して犯してしまった、同胞によるただ一度の過ちを許せずに。
◇◇◇
ウィズが再び森の中に消える。
両腕を後ろに組み、家の中にあった針金を失敬して拘束した俺は、その後をついていった。
極めて無害で、武器も無いから無防備。上のシャツ一枚、ズボンは穴だらけでボロボロ。ライアはどうか知らないが、整容すらしていないから臭いだってかなりのものだ。
見る限りでは浮浪者だろう。
鬱蒼とする森の中は、ただ一歩踏み込んだだけで闇が出迎えた。
さらに一歩踏み込めば、漆黒が俺の総身に絡みついた。光が入らず、故に何も反射しない。瞳は、闇を捉えることしかできない。
外から見るだけでは決して理解できない闇は、恐らくエルフ族の結界によるものだろう。いくら樹木が天井を作っていたとしても、これほどまで完全な暗闇はありえない。
不気味な鳥の嘶き。怪鳥と言ってもいい不気味な、甲高く引きつるような声が、遠くの方から聞こえてくる。
空気が冷たい。
本当にこの方向で合っているのかわからない――が、歩いていても木の一本にすらぶつからないのだから、合っているのだろう。
前で腐葉土を踏みしめる音だけを頼りに、だけど俺は彼女より遥か後ろで、遥かに遅く重い足取りで、音も立てずに進んでいた。
多分、彼女を含めてエルフ族は俺の侵入に気づいているだろう。
それなら僥倖。
今起こっているだろういさかいの元凶ならば、もうウィズが無用に傷つき平穏を乱すことは、これ以上はないのだから。
『難儀なやつ』
ウィズ宅に残ったライアの声は、だけど通って愚痴を零す。
例の共有の力の応用は、そんなテレパシーじみた事も可能にしていた。
精霊術でも似たようなことはできるが、しかしこんな結界の中、恐らく術すら制限されるだろうここでは通るはずもない。
「はは、誠実だろ?」
偽善的でもある。
このまま素知らぬ顔で家を出れば、傷つくのは彼女だけで済む。
下手なお節介を続けて介入を始めれば、彼女はもっと傷つくだろう。ただ不安を抱いているだけかもしれない罪なきエルフ族の皆さんには、トラウマを植え付ける結果になるかもしれない。
ただ俺が許せない事実に立ち会っただけで。
『……馬鹿、そうやって、誰にでも手を差し伸べようとして。あなたが手を突っ込もうとしてる彼女は、茨にがんじがらめにされてるのよ?』
「勝手に絡みついてきた茨が何言ってんだよ。自分だけ愛でて欲しいのか? だったら華の一つでも――」
言葉は、突如として闇を引き裂いた輝きの中に飲まれていき。
視界は開け、捉えるものを多くした。
――そこはエルフ族の領内にして不可侵の集落。
俺はようやく理解した。
侵入したのではなく――招かれたのだ、という事に。
「ご足労感謝する」
一番手前に立ちはだかる少女然とした矮躯の女が、腰に手を当ててそう告げる。右手には篭手、左胸に胸当て。左手が提げるのは弦の張った弓で、背負うのは矢筒。蓋のないそこからは、無数の矢が突き出ていた。
彼女を中心にして、数歩後ろには扇状に展開する無数の弓兵。その前に立ちはだかるように、剣士が数名。精悍な男たちは、表情一つ揺るがすこと無く俺を睨みつけていた。
「我々は人間と云う種の侵入を赦しては居ない。故に貴様がここにいることは絶大な罪であり、貴様にはそれを償う義務がある」
集団の背後で悲鳴。後に、肉を盛大に叩きつける音。どさり、と何かが倒れ、呻く声。
「突っ込んだのが茨だと? 笑わせるな、ライア――」
「この里の法に従って、貴様には此処で死んでもらう」
法に従って。
死んでもらう。
一週間前と同じ展開で。
だけれど、俺は逆に暴かれて潰される側の存在で。
「――飛び込んだんだよ、竹槍の落とし穴にな」
びゅん、と大気を切り裂く音が響くよりも早く。
意識を集中させ、術を導く暇など許すわけもなく。
やじりは俺の喉元に深く食らいつき、貫通した。
繰り返される射撃。一斉に撃ち放たれる矢。それらが、僅か一秒の内に数十と俺の肉体を穿ち、切り裂き、砕き、抜ける。
だけど、これでもうウィズが傷つかぬのならば、一宿一飯の恩義にできるかな、と思って。
むしろ釣りが来るほどの行いだと自嘲しながらも。
これほどの強硬手段に移る連中が、ウィズを差別的に扱う彼らが、たかが名も知らぬ人間一人を殺しただけで赦すなどと思えるはずもなく。
安堵と共に息を吐けず、口腔に広がる濃厚な鉄の味を飲み込みながら、俺はその場に立ちはだかって。
「――っ?!」
エルフの民の、一様の驚愕。息を呑み、声にさえならぬ恐怖に近い驚き。
ひとまず一矢報いたか、と、俺は嗤った。