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5:転変

 誰も、その甘美な誘いに乗らずには居られない。

 誰かに迷惑をかけている自覚があるなら尚更で、現実から逃げたかったら相乗効果。

 だからこの腐臭は、すえた臭いは、己のせいだと思うことにした。

 彼女の選んだ死という選択は、決して間違ってはいないと、思うことにした。

 ただ、遅かっただけ。遅かったのは、俺もだった。

 それでも、悔いずには居られない。

 俺と出会ったせいだと。

 俺が、守りきれなかったからだと。

 傍らで口を抑え、ただ嗚咽する少女を視界の隅に収めながら。

 天井からたった一本の縄となるシーツで吊り下げられている女の姿から、俺は目を離せなかった。

「こん、なのって」

 大きめの寝台が壁に立てかけられている。ガラスドアが割れていたから、室内なのに、すっかり雪が積もっていた。風が全方位から来ないだけまだマシ、といったくらいで。

 床に、無造作に落ちていた紙切れの一枚を、俺は気がついたら拾い上げていた。


 何日か前に自由にされた右腕をさする。

 俺のせいだ。俺が守りきれなかったから。俺がもっと早くこなかったから。俺のせいだ。俺の、俺の、俺の、俺の俺の俺の俺の俺の――。

「ライ、ア……ぁあ、ああっ!!」

 首を吊ったライアの肢体は黒ずんでいて、漆黒となる液体がその足先から伝って床に貯まる。酷い腐臭に、糞便の臭いが混ざっていた。

 そして、淫靡で美麗だった彼女の肉体は、決して綺麗なものではなかった。

 全身が、跡形も無いくらい浮腫んでいる。首には深くシーツが食い込んでいて痛々しい。

 紙に書かれている何かを読もうとしても、俺はもう、文字すら読み取れない。そこに集中できない。手はどうしようもなく震えるし、頭は頑として働かない。

 ああ、そうか。

 俺はようやく、わかった。

 もしダメだったら、間に合わなかったら、俺の力が足りなかったら――そんな事ばかり考えて、逃げていた。復讐などと、のたまっていた。

 今までは確かに、誰かの仇を討つことで喜びを感じていたのかもしれない。

 だけれど、今回ばかりは明確に、彼女を、ライアを助けたかった。助けて、この腕で抱きしめたかった。その綺麗な手で顔を撫でて欲しかった。微笑んで欲しかった。ありがとうと、声が聞きたかった。俺の存在を認めて欲しかった。

 嘘偽りなく、真実として彼女に欲して欲しかった。

 俺は、ライアを助けたかった。

 失敗に終わる不安感から逃げていただけだった。

 覚悟が、なかった。

 誰かを好きになる。

 その為に己を賭ける、覚悟が皆無だった。

 だから。

「もう、だめだ」

 迸る熱い何かが頬を伝う。視界が歪む。胸の奥底からあふれていた感情が、どこかに零れてしまう。ぽっかりと空いた穴から、虚無へと吸い込まれていく。

 彼女は俺の荷物にならぬように。

 リフに利用されないように。

 ただ孤独に、誰に頼ることもなく、己で死を選んだ。

 悪魔は、自分を超える敵に殺されなくちゃ、死なないんじゃないのかよ。

 嘘だろ、ライア。なあライア。こんなに呼んでんだから、返事くらいしてくれたっていいじゃないか。

 どうしてだよ。

 手を伸ばして、たたき落として、それっきりって、こんなのあるかよ。

「ライア……」

 ライア。ライア、ライア、ライア、ライア――。

 もう、頭の中で考えているのか、口で言っているのかわからない。

「なんで、なんだよ……ライア」

 嘘つき。

 ずっと一緒じゃ、無いのかよ。

 どうして最期まで、ウソを突き通すんだよ。

 その気になれば魔女だって殺せるんじゃないのかよ。

 どうして死なんて、選……。

「嘘、つき」

 嘘つき、だ。ライアは、嘘つきだ。

 何かが引っかかる。

 悪魔の性質が、皆強者によって殺されない限り死を選べないわけではないだろう。

 だが、その気になれば魔女を倒せるという彼女の実力はウソではないはずだ。それだけは、真実なのだ。そうでなければ彼女は今まで、誰にも追われていないはず。

 そして残念なことに、俺が初めての契約者ではない。過去に契約を果たしていなければ、そもそも彼女は逃げる必要なんかなかったのだ。

 ならば、死を選ぶ必要がない。

 ならば、この死体は本物なのか?

 胸の奥底に出現した虚無に、閃光が去来する。

 握りつぶした紙を広げて、改めて見た。

 

『クライトへ。

 この遺書を読んでいるということは、わざわざここまで助けに来てくれたということでしょう。

 そして同時に、死体を発見してしまって、とても驚いていると思います。

 まず始めに、ごめんなさい。先立つ不幸を、お許し下さい。

 クライトが、ちょっと遅かったから。みんなも、頭の回転が遅いからできてしまったことです。恨むなら思考凍結してるフリィかお間抜けなルゥズにしてください。

 話は変わるけど、もうそろそろ新月が来るそうです。新月になると夜は、一層暗くなりますね。何も反射しないから、何を目印に歩けばいいかわからなくなります。

 夜はあっという間に終わってしまうから、夜にならない内に、目的地には到着したいですね。

 おっきな風車があれば、たぶんわかりやすいと思います。

 じゃあね、クライト。

 先に行って、待ってます』


 綴られていたのは、あまりにも暗号化がおざなりなヒントだった。

 そして俺は、ようやく確信できる。

 彼女は死んでいない。

 しかし、ここには居ない。

「……サラマンダー。燃やしてくれ」

 遺書を死体の足元に置いて、手を突き出す。途端にぼうっ、と音を上げて紙が燃え出し、引火するように首吊死体の表面に火が走り、じっくりと焔となって蝕んでいく。

 薄暗い部屋の中の眩い焔を眺めながら、俺はうずくまるウィズに手を差し伸べる。

 そうした瞬間に、けたたましい音を立ててベッドが倒れ始めた。どん、と激しい音とともにホコリが湧き立ち、その向こうから気配、怒声。

「ライア! ヒィトリット……が――早くも、来ましたのね」


     ◇◇◇


 蒼い衣を身につけたフリィに連れられるのは、白銀の長髪を持つルゥズ。以前見た時のような、四肢に無骨な武装を施し、胴は無防備なまでにさらけ出される格好で。

 演技なら大したものだが、しかし一度手を差し伸ばしてくれたフリィが、わざわざそうする必要性を見いだせない。どうせ俺との接触は、こちらに知られているはずなのだから。

 ならば、彼女は本当に俺が来たのを知らせに?

 この数日間は、彼女は居なかったはずなのに。更には、バルコニーのガラスが割れていて、部屋の中が雪まみれなのに?

 身体を相手に対して斜めに、拳を握り、その表面に火傷を負う。代償を先に渡し、いつでも術を鼻てるように準備をして。

「待ってくださいまし。わたくしたちは、ライアに用があって来ただけ。戦いに来たわけではないですし……あなたは、この状況を理解しているようですわね。説明、頂けます?」

 彼女が狼狽える必要はない。

 恐らく、四大精霊を以てしても彼女は危険だと思う。

 未だに彼女の能力が氷結であるか不鮮明だし、さらにはこれほど冷えきった土地だ。能力の伝達速度も、尋常では無いだろう。

 つまり、彼女がその気ではない以上、敵に回すのは危険すぎるのだ。

 出来れば、まだ生きてい――違う。そんな弱気でどうする。

 俺は、必ず生きて向かわなくちゃいけないんだ。

 その覚悟を、決めなくちゃ、いけないんだ。

「ああ……ついでに他の連中を抑えてくれれば、嬉しいんだけど――」

 多分、まだイルゥジェンとアッシィが死んだだけだ。まさか彼らがアッシィに負けるとは思わないが、イクスの姿が視えないから少し不安で、だけれど、犬死するとも思えない。

 だから残るのは、あと七人、いや六人か。

 彼女ら二人に、イクス、ブロウにオリジ、それにエント。

 リフは恐らくライアと一緒で。

 既にリフは、大扉ゲートの位置を大まかにでも理解しているはず。いや、既に知っている可能性の方が高い。

 目印はおっきな風車。

 俺が知っている――聞いている情報の中にあるとすれば、なんの因果か、この間の行商人が様子がおかしいと言っていた巨大な風車小屋のある村。

 確か、

「――ウィンディルって言う、村に向かった可能性がある。他に風車が目立つ観光地とか無ければ、だけどな」

 命の恩人からの依頼だ。無償でもいい、これが終わりさえすれば行こうと思っていた場所だ。忘れるはずがない。

 今まですっかり忘れていたのは置いといて。

 憶測までを告げ終えて、フリィはゆっくりと息を吐く。頭の後ろで手を組んだルゥズは、楽しそうに白く染まる吐息を眺めながら、初めて口を開いた。

「西の大陸は? 風車地帯、えっと……なんとかってトコ」

「西? 西はアレだろ、風車地帯だろ。ありゃたかだか家一軒ってところで、わざわざデカイ風車って言うほどじゃねえよ」

 バカも休み休み言え、どうせ口を開くなら少しくらい頭を使って欲しいところだな。そこまで言って、大きな嘆息。

「つかえねえ」

「なっ……そこまで言うっ?! 言いますっ?! しんっじらんない! 本当なら、殺しあうところですわよ! お死になさい愚……ぐ、愚男ぐだん!」

「黙れ愚女」

 ぐだんって何だ。

 ともかくとして――。

「ウィンディルって、知ってます。族長から、一度は行ってみたい場所の一つで聞いたことがあります。ウィンディル……でっかい風車小屋は、世界で一番空気が濃くて、穏やかであり、激しくもある空気の流れのある、空気が集まる場所。もともと妖精だったエルフの、生まれた土地っていう逸話もあるくらいです」

「そうなのか……エルフが人として、進化したのって」

「……あっ、はい」

 問われて、少し俺の顔を見つめるように呆然としてから、燃えるように顔を真赤にして頷く。

「それは、空気の中に溶け込んで、人にいっぱい吸われることでまず人としての種族に同化して、そこからゆっくりと人からエルフという種族に変化して行きました。でも、おかしいですよね。妖精なんてお話でしか聞いたこと無いのに、エルフだけ妙に信ぴょう性があるのって」

「だな」

 精霊術は、飽くまで四大精霊の力を借りる。

 妖精は、その使い魔としてお話の中で描かれることが多い。しかし今は存在していなくとも、どこかに居るのだと、そしてかつては確実に存在していたのだと、信じるものは多い。

 それは、彼女らエルフ族という存在があるからだ。他の、様々な種族も同様に妖精からの加護を受けたのではいか――そういった研究も、行われているくらいで。


 だから、確信する。

 ウィンディルは世界の空気が集まる場所。空気が一番濃い――それは微弱ながらも、魔力が含まれているのではないか。

 魔女は己の魔力を駆使して、悪魔を産み出す。

 魔力がある土地で、妖精が自然に発生してもおかしくはない。

 ならば、なぜ魔力が存在しているのか?

 おっきな風車――リフたちがウィンディルに向かったのならば、その地の底にこそ、かつての地殻変動期に封じられた『大扉ゲート』があるのではないか。


「あ」

 声を上げたのは、ウィズ。長い髪を揺らして振り返り、鈍色の空を見る。

 天が燃える、その橙に染まる銀世界に、瞳を輝かしていた。

「綺麗、ですね」

 早くも、日は沈み始めている。

 残り時間は、あと一日――そう腹の奥底に痺れるような緊張が走った瞬間、そのバルコニーに降り立つ影があった。

「ローゲン!」

 その背に真紅の翼を生やし、己の三倍はあろうかという大剣はそのバルコニーの縁から見切れて全貌は窺い知れない。

 全身を焦がして、額から血を流し、息も絶え絶えに今にも跪きそうな満身創痍さで、しかし強い眼力で俺を捉える。

「ラフトは死んだ。ニンジャは殺したが……道中で、焚き火野郎とやってる時に修道士が来て、なんとか逃げてきた。どうだ、ライアは居たか?」

「ラフトが……。いや、別のところに居るらしい。できるだけ、急がないと。新月の夜がヤバいらしいからな」

「そうか……じゃあそこに行くわけか。まったく、骨が折れるぜ全く。にしても、新月だ? んなもん、把握してねえな」

「明日らしい。光がないから、多分リフにとって……」

 ドクン、と己の言葉に胸が高鳴る。

 光がない。

 新月の夜は、月だけがない。

 ならば今夜は? 曇天は一気に真紅に燃え上がっているが、しかし空は未だ分厚い雲に覆われている。もしかしなくても、新月よりも暗いんじゃないのか。

 月のパワーだとか、ルナティックがどうのとか、もしそれが関係ないなら。

「急ぐ。急ぐが……信じるしか、無い」

 ライアが言ったのだ。新月がヤバイと言ったから、新月に限ったことに注目すればいいのだと、信じるしか無い。

 もういい、転移術をするか――。

 焦燥に駆られたままウィズの腕を掴み、ローゲンへと走りだした瞬間。

 凄まじい衝撃が、館を襲う。館が動いたのかと錯覚するほどの激しい揺れに、思わず転びかけて、情けなくもそれをウィズに支えられ――彼女に抱きかかえられ、ローゲンの方向へと飛び込んで。

 俺が居た場所に、天井が落ちてくる。轟音と、巻き上がる煙と、そしてその衝撃に乗って室内からバルコニーへと吹き抜ける恐ろしい冷気は多分フリィのもので。

 地面に叩きつけられ、バルコニーの鉄柵にわけがわからないくらい身体を捻り叩きつけられ、服が引っかかって自分で腕を捻り上げて。

「逃がすかよ、ばァか」

 半ば逆立ちするような格好で見上げてみると。

 狭いバルコニーに、赤髪と、修道士と、そして下半身を体毛で覆う原始の悪魔であるオリジが集結していて。

 図らずとも囲まれた俺たちは、しかしこの状況で、みっともない格好で、なお――怒りしか、感じられなかった。

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