1:本性
ピキリ、と音を立てて肉体が凍りつく。綺麗な傷口の断面が凍えて、鮮血から熱すらも奪い尽くして、俺の肉体は癒えずに凍える。
身体は斜め二つに分かたれる寸前。
既に呼吸は停止し、心臓も辛うじて無傷なのだけれど、しかし大きな血管を裂いて大量の血を失ったが為に元気はない。早くも停止する数秒前、といったところで。
それでも、俺はまだ少しだけ生きていた。
死んでいない。恐怖はあるが、今は邪魔でしかなく、それを余すこと無く感じている余裕はない。
ただ、やはりダメなのだ、という実感だけがある。
ただの人間では、悪魔には勝てない。
しかし、違う。悪魔には、人間でしか勝てない。
この矛盾の細かいところを、俺は明確に、理解している。正確には、今回で確かに分かったのだ。
だから薄れ始めた意識の中、いや、既にこれは夢の中かも知れなかったのだけれど――ここでは死ねない、ここだけは、死ねない。
踏みとどまって、祈る。これ以上ないくらいに思う。初志貫徹――俺の命がココで尽きてもいい、やつらを斃すためだけの命だけ残してくれれば良い――俺の命を代償にしてもいい。肉体全てを捧げても良い。
俺の肉体が健全であった頃まで、時間を戻してくれ――。
気持ちがブレて定まらぬ俺の想いは、しかし凍えた己の中に一つたぎる炎を灯す。
◇◆◇◆
「なに、ヒィトリット・クライトが上陸していた?」
その男は素知らぬフリで、にわかに驚いたような声色で言葉を返してみせたが、しかしそのセリフに熱はない。抑揚もなく、だからイクスはわざとらしい嘆息と共に、一応の報告を告げた。
「ああ。始末はした。奴が人間ならば生きては居まい」
「ならば、生きていたら人間ではない、と?」
「正真正銘の人間だと私は思うよ。ヒィトリット・クライトと云う、唯一無二の人間だ」
仲間を得て、失い、復讐のための戦いが、仲間を取り戻すためのものに移り変わり、失望と絶望の中で再び孤独と孤高の復讐の炎を灯す。
情緒が安定しないのは仕方がないにしても、それにしても哀れであるとイクスは思う。
可哀想な男なのだ。
報われて然るべき人生は、しかし無意識に己で切り捨てている。そこにつけ込むように、悪意ある者が利用して……。
だが、と口を衝いたリフは、その恐ろしく冷え込んだ風が吹きすさぶバルコニーを背にして、ガラスドアの前に立つイクスへと振り返る。室内へと繋がるその戸はしっかりと締め切られていて、風が吹く度にガラスを叩き、ガタガタと揺らす。
防寒に身につけた外套が激しくはためく。いくら悪魔とて、寒い時くらいはある。
特に――これほどよく晴れた、極北の深夜帯は。
「この空の下で、この地で、未だ生きているとなれば、そいつは既に人ではない」
にや、と口角を上げるだけの笑いでそう言った。
まったくだ、と肩をすくめるように、イクスは投げやりに同意する。どうでもいいことだ。ブロウが居ればまだ話は続くかもしれないが、彼は心底興味がなかった。
終わった男の話以上に、どうでもいいことなどない。
ヒィトリット・クライトは確かに哀れで、期待こそしてきたが、最終的には期待はずれだった。それで終わりなのだ。わざわざ、あそこがどうだった、ここが悪かった、もし生きていたら、なんて引きずるほど心を惹かせて血肉を湧かせる男ではない。
そもそも、戦いなど興味が無い。
この点だけは、フリィと、オリジと共通している。他はてんで、馴れ合おうとすら思えぬほど食い違っているのに。
そんな時に。
背後のガラスドアが激しく音を立てた。甲高い、引き裂けるような悲鳴――粉々に砕けたそれらが、イクスの背に降り注ぐ。
何だ、と思っている内に。
目の前に回り込んだ赤い影が、己の胸ぐらを掴みあげたのがわかった。
「テメ……コラ、殺すぞぐぉらあああああッ!!」
「落ち着け、ツバが汚い。暑苦しいんだ、お前は」
イクスは平然と赤髪を無造作に掴んで、顔面を引き剥がす。赤子のように容易く離されたブロウは、しかし息巻いたまま彼を睨み、髪を離されてもなお、文字通り怒髪天を衝いている。
「ああッ?! 燃やすぞテメエッ!」
まるで猶予があるように言う。
既に掴まれた胸ぐらは消し炭にされているし、胸元の肌は火傷じゃすまない位に焦げ付いている。バルコニーに散らばったガラスは既に赤くとろけて融解しているし、だけれど無意識に調整しているのか、足場は焼けずに熱すら帯びない。
「いい加減にしろ。奴は人間で、しかも男だ。禁じられた恋に燃える少女じゃあるまいし、何が気に食わない?」
「はあッ?! テメエ、殺すぞ!」
「私を殺してもしかたがないだろう。ヒィトリット・クライトは死んだ。私が殺した」
心臓を外す、という随分と器用な殺し方だが。
もちろん、自覚はしている。
哀れだと思ったことが事実だから、彼なりの情けだった。退く選択を与えたのだ。もちろん生きていなければ選べないものだが、しかし生きているなら、これを機に命を大事にすれば良いと思って。
そう考えたところで、なるほど、と思わず横隔膜が弾むように息が漏れた。
私もまだ、彼の”後について”考えているではないか、と。
まだ終わっていないと、信じているではないか。
短く脆い人の命に――何かを、期待してしまっているではないか。
「だったらテメエもぶち殺してやろうかァッ!!」
暑苦しいブロウと対峙して、思わず額に汗が滲む。
気がつけばリフはどこかに行ってしまって、彼らはただそこに取り残されて。
イクスだけが、気がついた。
そのバルコニーの柵に、不自然すぎるほど存在感のない少女が、立っていることに。
「……まさか、リズ――」
「――おおっと、それ以上はやめて欲しいわねえ」
おどけたように、彼女が笑う。
それに気付いて、ようやくブロウが振り返った。
柵の上に立つのは、少女の姿。その身をすっぽり包み込む淡いベージュの外套を暖かそうに身に着けて、それに沿うように長い金髪がおろされている。
魔女。
彼女は、ライアに殺されたと聞いていた。
ライアは殺せなかったと言っていたが、しかし殺せる手段を持っていたのは間違いなくて。
「テメエ、今更出てきやがって、何が目的だ」
「あらあ? お母さんに向かって酷い口を聞くのねえブロウ。あんた程度の火力じゃ、暖炉に火も灯せないんじゃないかしら?」
「テメエが消えたからッ! テメエが、居なくなったから、くそったれな光沢野郎が動き出したんじャねェかッ!」
「魔女もね、疲れるし、眠くもなるし、老いるのよ。だから必要だった……死にたくなければ退けばいいのよ。あんたたちは、誰かさんと違って自分で選んで歩けるし、退路も豊富。拘束されても自力で逃げられる。相手をするのはリフだけで十分なの」
何を言っているのか、彼らには理解できない。
敢えて省く主語を察せ無い。そもそも彼らは、魔女について深い教養があるわけじゃない。身近にあるぶんだけ、その理解は極めて浅いところにある。
そもそも、己が彼女の手によって産み出されたのかさえも不明瞭。それが事実らしいのはわかるが、証拠はなく、出生の秘密はいつでも付きまとわれる。
しかし、リフを見れば安堵できる。彼は愚かにも己の力で悪魔を産もうとした。成功の代償は重くとも、成功には違いない。
己等は、ゆえに人の手によって創られた。
この生命は、誰かに求められて今在るのだと。
「お前は、何が言いたい」
「一人の優秀な後継者が欲しいの。十五年も掛けて育てたんだから、こんな所で、無様に情緒不安定が隙になって死んでもらうわけにはいかないの」
「十五年? テメエはまだ、その頃は……いや、居なかった、な?」
喧嘩腰に噛み付こうとして、ブロウが思わず眉をしかめる。伺うようにイクスに視線だけ向ければ、彼はそれに気付いて小さく頷いた。
確か、と。
「十年ほど空けていた時期がある。確か、お前が言うとおり十五年前……何の因果がある? 今と、何関係がある?」
「可哀想なコを育ててたのよ。ま、偶然愛弟子の弟分みたいなものだったから、縁を感じてたしねぇ。英才教育のお陰で、”その歳にしてはそこそこやる”けれど、才能はなかったわね」
「……おい、おいおい、テメエ、何ィ、言ってやがんだァ……?」
なぜだか、ブロウがたじろぐ。どっと、全身から汗が吹き出すのを彼は感じていた。
まさか、と思う。
ああ、そんな事が、と彼は生涯で数えるほどしかないだろう同情心を覚えていた。
イクスは察するより早く、理解していた。認識していた。
イルゥジェン経由で見せられていた一人の少年の過去に、十年という期間と、境遇が重なっていたからだ。
だからなるほど、と思った。
なるべくしてなったのだ、と。
悪魔みたいな女だと、イクスはつくづく思う。
己等が悪魔と呼ばれるのが甘すぎるくらいに、悪どい女だ。純然たる悪だ。生涯で、関わりたくない女である。
「期待外れ……じゃあ、無いのよね。十年前よりも、今のほうがわくわくするっておかしいわよね。ずば抜けた才能がないなりに、どう拳を振り下ろせば相手に当たるか考える事に重点を置いてる。面白いわよ、結構ね」
「悪趣味だ」
「結構よ」
「クソアマが」
「なんとでも言いなさいな。言っておくけど、私は何も手を出してない。手を出す予定もない。自力でできなければ、後継者足り得ない」
それで、と彼女は言った。
「これ。来たら、渡しておいて」
その身から引き剥いだ外套を投げ渡す。一番近い位置に居たブロウはただ受け取り、意味もわからず彼女へと再び視線を戻して、
「……クソが」
姿を消した魔女に、吐かずには居られなかった。
「なんだ、そいつは」
「オレが知るわきゃねえだろうが。どうせこいつも、ヒィを動揺させるようなもんだろうが」
ただの丈夫な外套だと示すように、ブロウは軽く引っ張って確認する。肌触りはなめらかで、体温が残っていてほのかに温かい。
慕っていた己が師を、彼は未だ頼ろうとしていた。この場に居る彼らは知らぬが、ヒィ・クライトの心には未だ魔女の存在が根強い。
だから、と思う。
彼らは、この手を汚さなければならないのだ、と。
魔女にとっては使いっ走りにしかならない己等の手でこれを男に届け、全てを知らせ、狂気の渦に蹴落とさなければならぬのだと――。
はら、と額から流れる一筋の汗を感じて、我に返る。
まったく同じタイミングで、彼らは顔を見合わせた。
どちらが渡すか。
肝が冷えると同時に、イクスは腕を伸ばし、ブロウはそいつを強く胸に抱く。
「ヒィトリット・クライトが生きているならば、それは私の責任だ。けじめをつけるついでに全ての事実を打ち明けよう」
「ざッけんじゃねェぞクソが」
テメエじゃ奴を殺しかねねえ。そう言いかけて、言おうとする前に口をつむぐ。己が評価している人間を、わざわざ貶めて、譲る理由を作ってどうするのだと思う。
ぼっ、と思わず外套を握る手に炎が灯る。
右腕に滾る熱を覚えて、はっと我に返る。すぐに炎を打ち消し、辛うじて感触のある外套へと視線を落として――言葉を、失う。
「……これは」
言ったのは、イクスだった。
外套は外傷もなく、焦げた様子もなく、ましてや先の焔で何かしらの影響を受けた様子もない。
「例の奴、なンじゃねえのか。精霊術を防ぐって奴」
「だとしたら、ついに来るところまで来たというわけか。魔女がこれを持っていた、という事は……」
ああ、と思わず漏れた声はどちらともなく。
どちらからともなくついたため息のように、弾き砕けたガラスドアから吹き抜けた風が、力尽くでブロウの手中から外套を奪い、宙空へと舞わせる。
左頬に疼く契約の紋様を感じて、それが潜んでいたアッシィなのを知るのはイクスだけだった。
追いかけようともせず、どうせならこのままどこかに消えてなくなれ――赤髪はただそう願い、忌々しげに口もとを歪めて、踵を返した。
◇◇◇
眩い星々が空を埋め尽くしている。まるで海面が日差しで乱反射するように、宵闇の中に輝くそれらは眩しかった。
それとは対照的なまでに、月の存在感が薄い。細い、触れれば折れてしまいそうな三日月は、日を経るごとに欠け続けている。
「一分、以内……変わんねぇぜ、まったくよ。どうせなら、人間離れしたくらいに、覚醒って感じで、かっこよくさ」
肉体の時間遡行。
致命傷は気絶寸前に、その作用によって回復する。中指はついに短くなってしまったままだが、両手が凍えているからどちらにせよ痛みはない。
――見る一面は銀世界。白銀の色に輝く最果ての地は、しかしその最果てを俺には見せない。
既に肝は凝り固まって凍結している。どんなことにも縮まらないし、震えない。
対して全身を巡る血は熱く滾って俺を駆る。筋肉が胎動し、隆起し、貧弱な肉体を支える。
「ダメ、だよな。俺、素養ないし。教養、ねぇんだよ」
独りごちるのは自虐。吐く息は白銀に溶け、しかし消えてなくなるより先に俺がそれを弾くように前へと進んだ。
「誰のせいだぁ……? 誰のせいでもねえんだがよ、俺は……別に、背負いたくもなかったんだ。落ちたものを、衝動的に拾っちまうんだよな」
それは己の過去が不幸だったから、それ以上不幸を見たくないから――そんな偽善的なものだったら、まだ良かったのだろう。
守ってやりたいから、思いを継ぎたいから。あるいは彼らの恨みを引き継ぎ晴らすことで、己を満足させられるから。もうそれで十分だ。誰かに訊かれても、絶対そう答えることにする。
だが今だけは、素直に言おう。
己の中で育てる復讐の温床を、より快適なものへと成長させよう。
俺はこれから怨鬼になる。ヒィ・怨鬼・クライトと呼んでもいい。その為、俺はつぶやくのだ。
「誰かに恨まれるような奴ぁ死にゃいいんだよ。生きてちゃいけねえんだよ、だけどよ、誰も殺さねえだろ。殺せねえだろ。だから俺が殺すんだよ。ぶっ殺すんだ、叩き潰して踏み躙って千切って砕いて――ふぅ満足って奴だ。善悪の区別だ? 糞食らえ、んな縛りがあっから、善悪付かねえクズを制止できねえんだ」
誰もが善い事は善いことで、悪いことは絶対にしません。なんて誓って実行できてりゃいいんだ。
できてねえから、わからせなけりゃならねえ。わかんねえようなカスどもは駆逐しなけりゃならねえ。
金なんざいらん。それができればいい。
今になって、ようやく理解できた。
俺が身を削ってまで、無給で傭兵業を続けていたことに。
まだあの時は理性と常識と、善悪のちょっとした歪みの理解と、それへの融通が良く利いていた。だからあたかも、極めて善意ある人間だったろう。人格者であったかもしれない。
人はちょっとした事で吹っ切れる――壊れるとも言い換えられる――ものだと、今回のことでよくわかった。
それは良い方向にも、悪い方向にも転ぶことができるし、しかしそれを本人は自覚できない。ぶっ壊れちまってるからで、
「雁首揃えて待ってやがれクソ悪魔。てめえらをぶっ殺すのは、この俺だ」
怨嗟を吐きつつ、俺の足は前へと進む。
疲労を知らぬこの肉体は、もはやなんの障害があったとしても、止まることを忘れたままだ。




