5:契約破棄
異常を認知したのは、船に乗って四度目の夜を数えた時だった。
温暖だった海上の空気は、ウソのように冷えきっている。氷塊の中を突き進んでいるのかと錯覚するほどの寒気が全身を凍らせ、俺は小舟の真ん中あたりに火精霊による燃えない炎を滾らせて暖をとっていた。
しかし夜となれば寒さもひとしお。がたがたと身体を震わせ、歯を打ち鳴らしながら、勇気を出して炎の中に飛び込んでみようかと考えていた最中。
右肩から指先まで、痺れるような感覚が突き抜ける。筋肉が凝固し、痙攣、激しい痛みに思わずその場に倒れこんだ。
「くっ……んだよ、これっ」
何かを思い出したように、突如として襲い掛かる右腕の痛み。寸分の隙間すら残さず鋭利な刃を肩から指先まで突き刺されたかのような激痛。鼓動し、血管が血液を運ぶ度に、頭が割れんばかりの衝撃を覚える。
「はっ……はぁっ、いてぇ……っ」
ドクドクと激しい血流が凄まじい熱を全身に巡らせる。早鐘のように打ち鳴らす鼓動は拍動の度に痛みを俺の身体にぶち込んでいたが、しかし対照的に、頭が冷めてきた。
思考が冴える。
痛みの由縁をなんとはなしに理解する。
俺は極寒の寒空の下で、だらだらと冷や汗を流しながら右腕の袖をまくる。感覚は明瞭、指先は織り込まれ、右手は固く拳を握る。
そこに意思はあるのかはわからない。拘縮か、あるいは痛みを堪えるためにしているのか自覚できない。
肘までまくって、そこにあるべきダサイ紋様を確認する。契約者の証であり、現状に導かれた原因であるそれを。
「……っ!?」
紋様はしかし、否、やはりと言うべきか――すっかり、綺麗サッパリに消え去っていた。
嘘だろう、と思う。まくった袖を戻して、上着を脱いで捨てる。下着姿になって肩まで舐めるように見てみても、そこには紋様の跡すらない。
最悪の選択だった。
「ライア……恨む、ぞっ!」
ライアの能力を共有できなくなるからではない。
彼女が――俺を無関係にしようとしたことに、腹がたった。この契約さえなければ俺は単なる最強の精霊術師でしか無いのだ。正義感の強くない一般人が、わざわざ危険に首を突っ込む必要もない。俺が彼女と関わらず、なおこの計画を知っていたならば、しかし何もしていなかったろうから。
さらには、彼女はおそらく確信しているのだろう。
俺ではリフには勝てない。
あるいは、それ以前を突破できない。
くそが、と呟いて、馬鹿野郎と吐き捨てる。眼球が溶けそうなほど顔は熱くなって、ゆっくりと痺れが抜け始める右手は、力強く小舟の縁を握っていた。
筋肉が胎動するように、ゆるやかな痙攣を見せる。指先の感覚を認識する。筋肉の稼働を理解する。
右腕は久しく俺に主導権を戻し、ついで俺の胸元を衣服ごと強く握りしめた。
なんでこんな事をするんだ。無条件に無邪気なまでに俺を信じてくれればいいのに。俺が仮に死ぬとわかっていても、それでも俺は勝つのだろうと、上っ面だけでもいい、そう祈ってくれれば良い。
冗談じゃない。どうしてこんなことをするんだ。
俺の実力が信じられない?
俺の身を心配した?
反吐が出る。俺は死なないし、負けるはずなど無い。ありえない。
「シルフ……」
地の底から湧き上がるような低い声で精霊を呼ぶ。力ではなく、風精霊が必要だった。
『どうした?』
「こっから極北まで、飛べばどれくらいかかる?」
『ここから、ねえ。ま、もうそろそろ水平線に島影が見えるだろうから、ニ、三時間ってところかな。時間なら変わらないし、船のほうが楽だと思うけど』
「そか、ありがと」
声だけが聞こえ、俺の疑問を解消する。
少し早く到着するならまだしも、変わらないなら意味が無い。
逸る気持ち抑えこんで、俺はゆっくりと腰を落とす。
熱っぽい眼で虚空を睨みつけながら、俺は人知れず息を潜めて到着を待つ。
空はまだ暗く、三日月の月は今にも消えてしまいそうだった。
そこに英雄のような気概がなかったといえば嘘になる。
恨みある敵の根城にカチコミに行くのも、客観的に見て少し格好良いとも思っていたし、どこぞのお姫様じゃないが、囚われの女を助けに行くのは自分でも驚くほどに素敵なことだと思っていた。ロマンティックじゃないか、なかなかあるものじゃない。
そう思った。
思っていた。
その、はずだった。
――吐く息は視認性を悪くするほど白く凍りつき、されど肉体は寒さゆえに震えない。
俺が見据えるのは暗い海に浮上する純白の大地。
否、目の前にそそり立つのは断崖の絶壁。そこから左右に伸びてかろうじて見える端っこが、イメージした通りの氷塊だ。
「はっ」
停泊した小舟の上に立ち、俺は思わず笑みを漏らす。肺を押しつぶして息を吹き出したように、肩が軽く弾んだ。
裏切り、だとか――。
そんな事を思っていたのが、数時間前の俺が、恥ずかしくなる。
何よりも高い壁は、今眼の前にある。この絶壁が、リフよりも高く俺を拒んでいて、
「つまんねえこと、しやがんな」
崖っぷちから出現する無数の人影。
東から顔を覗かせ始める日差しを全身に受けて、かえって眩しすぎてその影すらも曖昧になってくる。だが連中は間違いなく、弓なりになる何かと、その細く鋭い棒状のなにかを併せ持っていた。
「そんなに、さあ」
自由になった右手で拳を作る。
見上げるよりも、顔を下げたまま上目遣いで連中を睨む俺は、すでに怒り心頭を通り越して燃え尽きていた。
「あんたら、死にてえのかよ」
バカどもが、と吐き捨てる。
そんな崖っぷちに立って、さぞかし足元の岸壁を眺めることができるだろう。ならばそいつとご対面するために、少し手助けしてやるのもやぶさかではない。
すなわち、
「穿つ雷槍、ぶち抜け激震――」
イメージは迸る雷撃。
一点に収束する爆発的な稲妻が槍というよりは寧ろ放たれた矢を形作る想像。
全身から弾けた蒼白い輝きが、そうして俺の眼前に輝かしい球体を構築した。
「放て、雷神」
四大精霊と魔術を併せる己の最大の術。
生命力の稼働と共に右手の指先が焦げ、肌に薄い布が掛けられたような感触。静電気が全身にまとわりつく。火傷はここでは、治らない。
右腕をゆっくりと後ろに引く。その手のひらに引き寄せられるように、電撃を発する球体がそこに収まった。
雷撃の感触を確かめる。
間髪おかずに、そいつを弾き飛ばすように右腕を振り上げた。
瞬間、まばゆい閃光が周囲を一瞬だけ鮮烈な輝きで満たす。しかしその一瞬は、ほんの一度だけでも網膜を焼いて、輝きの残像を刻み付ける。暗い空のような水面が、鮮やかに蒼光に照らされる。
吹き飛んだ雷槍は一閃、尾を長く引いて岸壁の土手っ腹に食らいついた。
大気ごと震える轟音が大反響する。
悲鳴もそこそこ。
彼らは構えた弓を一度足りとも引くこと無く、激しい揺れと衝撃に襲われて海へと真っ逆さまに落ちていく。
ぼちゃん、と初めに落ちた誰かを皮切りに、崖下に立つ水柱の数が増えていく。
ざまあみろと吐き捨てながら、しかしこの崖を登るのは一苦労だと思って腰を落とす。
『飛ばないのかい』
問うシルフに、首を振る。
「ここまで用意周到なら、森の中にもこれ以上の数が居るだろ。俺しか居ねえのに、当て馬なんざ御免こうむる」
だから少しでも見晴らしがいいところまで行かなければならない。
にしても――いや、まさか。これほどまでの人間、もとい悪魔を動かせる男だとは思わなかった。
いや、そもそもここまでの頭数が居るとは思わなかった。
総力戦とでもしけこうもってのか?
いいだろう、乗ってやる。
俺は水精霊に船を方向転換させながら、対物量戦に備えての戦術を組み立てはじめた。




