3:再会
フリィとの交戦を果たした夜、俺は動物の気配すら失せた湿地帯の先にいた。
昼を休まず歩けば、湿地帯は意外にも狭かったらしい。あるいは横断がゆえに短かったのかもしれない。河にそって歩けばもっと長かったろうし、確実に海に出られた。
だけれど、俺は最短を行かなければならなかった。
丘陵地帯――起伏の激しい草原をいい加減歩いた所で、立ち止まる。
俺は一人で戦っているわけじゃない。
フリィが言ったのは、精霊から力を借りていることを揶揄しているわけではなかった。
首から下げる銀細工の装飾を左手で握る。それは、もう本来通信できる距離から大きく離れているがゆえに不能になってしまった道具だが。
強く念じる。
生命力を注ぎ込む――術を使うイメージではなく、己の肉体を介す事でそういった現象を発生させるのだと言う集中。
もっとも、やはり術として行使する場合に際してそこまで大げさに変わったことはない。
ただ魔力を扱うことを、自然に出来さえすれば良いのだ。今回はフリィが居ないから、仕方なく生命力を注ぐわけだが。
ジリリリリリ――。
聞こえてくる音。己の頭の中に響くわけではない。どこかで、俺の呼び出しが響いていたのだ。
『は、はい』
そして呼び出しが一度途切れる間もなく、声が応えた。
『く、クライト……ですよね?』
フレイ・シープが言った。
俺は頷きながら、口を動かす。
「ええ。ご心配をかけたようで……」
そこで一度言葉を止める。
既にノーシスを離れて三○日近くが経過している。イーシスからの連絡が行っていれば俺の生存は知らされているだろうが、あのイーシスのことだ。ひた隠しにしているに違いない。
だから、とても心配をかけたと思う。ここまで来たのも、身勝手の他ないのだ。
だから、罵声がくると思った。怒号で鼓膜が破れてしまう心配もした。
したのだけれど。
『本当に、クライトなのですね?』
「え、ええ」
念を押すように彼女が問う。
思っていたのよりずっと違う反応に、俺は少し不安になった。
やっぱり思い上がりだったのか――なんて、暫く訪れた沈黙の中で嘆息すると、鼻をすする音が耳に届いた。
『い、いま、どこにいらっしゃるんですか?』
鼻が詰まったような声。
泣きべそをかきながら、フレイは言っているのだろうと思った。
「あー、イーシスに。港に向かって歩いてますよ」
言いながら、俺は腰を落とした。
足を伸ばすと踵から骨へと叩くような鈍い痛みがじんじん走る。休まず歩いたから、もう足が棒のようだった。
『東大陸ですか? でも、それだと通信術は圏外であるですけど』
「ま、俺も色々と成長したということで――あまり時間がないんで、伝えてもらえますか?」
もっとも、時間がないのは”彼ら”の方。
おそらく俺の提案に乗ってくれるだろうから、彼らも同じく残された時間は十日くらいしかない。
『伝えておきます。ローゲンさん達に、ですよね?』
「ええ。十日後……ってか、九日後に、俺は連中の根城に突撃します。その気があったら、来てくださいと。場所は極北のどこかにある集落で多分――海沿い、森の向こうが崖になっている所です」
そう考えると、大陸のさらに極北というのは考えられない。
森が広がるということは、そこは地。凍りついても、氷塊でもないということは――南方。
「極北の南ですね」
『きょ、極北ということは……北大陸からでも二十日以上かかりますよ? そちらからじゃ、なおさら……』
「これから限りない無茶を通そうとしてんです。これくらいこなせないようじゃ、俺は連中に勝てやしませんよ」
そしてもう出発しなければ、本格的に間に合わなくなる。
休むとしても、今夜が最後。九日間ぶっ続けて進む必要がある。
『また、会えますよね?』
「ええ。……そうだ、頼みたいことがあったんですよ。いいですか?」
『はい? なんですか?』
「明るめの色の外衣が一枚欲しいと思ってたんですよ。金に糸目をつけませんから、上等なのをお願いできますか?」
『明るめの外衣ですか? 大丈夫です――はいっ、とても上等なのを作っておきます。お支払い、待ってますからねっ?』
疑問を自分で解消したフレイは、俺のお願いが再会の約束だと看破する。
途端に声が明るくなった彼女は、強くそう言って、
『でも、初めてのお客様がクライトで、私はとても嬉しいです』
「……そりゃ、良かったです。それじゃ急かすようで悪いんですが、お願いしますね」
『はい。すぐに伝えてきます』
その言葉に、俺は大きく息を吐きながらネックレスから手を放す。
ぷつり、と通信が途切れる。俺が切らなければ、彼女は無言のままでも自分から切りそうになかったからだ。
そうして、また一つ息を吐き捨てる。
乱れそうになる呼吸を整えながら、俺はゆっくりと立ち上がった。
◇◇◇
それは酒を飲むのに友人を誘うような気軽さだった。
もっとも、十五年来の付き合いだ。いくら世界的な存在であっても、俺の代償を食らい続けた恩くらいはあるはずだった。と言っても、その恩を力としてもらって行使したのだからチャラになっているわけだけれど。
「良く来てくれた……ありがとう」
目の前に立ち並ぶ四つの影。
左から、頭髪を轟々と燃やす屈強な男。全身に鱗のような肌をもち、腰に布切れだけを巻く蛮人
総身に水で模す羽衣のような衣服を身に付ける蒼い肌の美女。その透き通るような肌は事実透けていて、火精霊の高温とその水による湿度と相まって、極度なまでに不快指数を跳ね上げる。
大気がうねり、渦巻く空気が人の形を作る。淡い緑色に発光する影は、ゆっくりと人の姿を得る。セミロングの短髪を緑色に染める女は、肩をむき出しにして胸に布を巻くような居で立ちの女。
最後に待ち構えるは全身を岩から繰り抜いた彫刻のような巨漢。
彼ら四大精霊は、ただのガキである俺の一声で、ここに集合していて。
『して、小僧。おまえはどう選択した?』
巨漢が言った。
単刀直入の本題への移行に、だが彼らは顔色一つ変えない。この程度の問題は、彼らにとって問題足り得ないのだろう。
既に精霊として何千年も生きている彼らだ。元が人間だろうとなんだろうと、人間であった時の何百倍もの時間を過ごしているのだ。
『ヒィトリット。貴様は我らを使役するほどの力は十分に持っている。極北で悪魔を斃したあの力が、その証左だが――ここで選択を違えれば、我は貴様への力の供給を永劫遮断する』
それはあまりにも私的な理由なのではないかと言いたくなるほど傲岸な脅しだったのだけれど。
もっとも俺も、こんな状況で彼らの力なしに戦えると思えるほど強くもないし、ネジの外れた自信家でもない。
『正直、私もそこには同意。代償と力の貸与の関係だけじゃないものねぇ、私たち』
凛、と憮然とした面持ちで言うのはシルフ。両手を頭の後ろで組んで、口笛を吹くように唇を突き出している。
「俺はいくらなんでも、そこまでバカじゃない。あんたらの力がなければ、俺は今居ない……この前は自棄になっちまってたんだ。あんたらのせいで人生が狂っただのなんだのって、バカだよな。あんたらは、むしろ俺を助けてくれた。本当なら姿すら俺程度に見せるわけもないあんたらが、直接手を貸してくれたってのによ」
自嘲気味に言う。だけれど顔は引き締まって前を見据える。
自棄じゃない。諦めたわけじゃない。悔いているわけでも、ない。
ちょっとした戒め。
二度とそんな――誰かのせいになどしないと、自分に誓う。
『でも、そうは言ってもあたしって、戦闘で全然使って貰えないんだけど? 水を作って喉を潤しただけじゃない』
ウンディーネがむくれるように言った。
しかし、今回で一番頼ることになるのは彼女だ。ちょうどいい具合に話に入ってくれて、俺ははにかんだ。
「ああ、ウンディーネには船を運んでもらうよ。あと九日で、極北に到着できる速度で」
『極北? 転移すればいいじゃない』
「まだ自信無いんだよ」
『あ、それじゃ私も手伝うよ』
『そう? 助かるわ』
シルフの申し出に、ウンディーネはしかし興味無さそうに頷く。
実は四大って、あまり仲良くなかったりするのだろうか?
まあ土地が離れてるから交流ないだろうし、そのまま今まで何千年も過ごしていたのだから、こんな微妙な関係でもしかたがないのだろうけれど。
いや、しかしそれにしても――ちょいと、人間的すぎやしないか。
『炎を纏って飛行すればより速いが』
「燃え尽きるほうが早そうだな」
『我がそのようなマヌケをすると?』
サラマンダーの提案を速攻で切り捨てる。
と、彼はギリっと鋭く俺を睨んだ。事実なのに。
「到着するまであんま消耗したくないんだよ。でもま、港に向かうときに試してみるか」
『ふっ、やはり頼るならばわざわざ噛み付くこともなかろう』
「……ポジティブだなあ」
男は腕を組んだまま、むすっとうつむく。しかし、その口元は三日月を描くように口角を釣り上げたままだった。
『して、わしには何を期待する?』
待ちきれずに巨漢が口を挟む。
俺は小さく頷いて、
「いつもどおりで」
それが一番助かるのだと告げると、ノームは無表情で俺を暫く見下ろした後「そうか」と蚊の鳴くような声で呟いた。
「ああ、それで質問なんだけど」
『む?』
「あんたらが攻撃を受けた場合、あんたらは死ぬのか?」
『ぬ……我らが死ぬというのは、基本的にありえぬが』
ノームが何かを言おうとするより早く、サラマンダーが静かに答えた。
『極北で悪魔を我が拳で叩き潰した。あの状態で致命傷を受ければ、我らとてただでは済まん……が、そうそうあの状態になることもあるまい。魔力の扱いを理解した貴様ならば、我らから直接与える精霊術は格段に進化しているはずだ』
「そうかい。わかった、一応気をつけとくよ」
『――そして、だが。ヒィトリット。貴様は』
食い気味にサラマンダーが問う。
焦るように、心配するように、その表情を僅かに歪めて。
それだけで、彼が何を訊いてくるのかわかってしまったのだけれど、俺は彼が言葉にするまで待った。
『何のために戦う? 言ったろう――選択を違えれば、と』
彼が言う選択とは、彼らを戦地へ連れて行くかどうかの話ではなく。
つまり俺と彼と、そしてシルフまでもが決別する理由となった事。
護る戦いが気に食わなかった彼らが、しかし俺は大好きだったはずだった。
確かにそいつは間違いじゃない。誰かを守っている時は、いつでも俺は燃えていた。
しかし状況を見れば、確かにその通りなのだが――見方が違う。
俺は守っているわけじゃなかった。
傷つけたものを、あるいは傷つけられるだろうものの仇を討つためだけに力を振るっていた。
失われたもののために、俺はいつでも尽力していた。
十五年前のあの村でも。
極北でのスミスとの戦いでも。
二十日以上前の、船上でも。
だから、多分この言葉は俺の真実で。
この真実こそが、彼らが求めた言葉なのだろうと、思う。
ゆっくりと口を開く。からからに乾いた口に、空気が滑り込んだ。喉を過ぎ、肺を膨らませる。
酸素が血液に乗り、脳へと至って身体中に循環する。
思考がクリアに、意識が鮮明に。
俺は彼らの期待に応えるために、僅か数秒の沈黙を数分間ほどに感じながら、言葉を紡いだ。
「復讐だ。ブロウは無関係の村を滅ぼした。エントはウィズを巻き込んだ。アッシィはローゲンの配偶者を殺した。リフはジェーンを殺し、ライアを利用している。他はしらねえが、振りかかるならぶっ叩くだけだ」
彼らはガキの戯言を静かに聞き届ける。
悪辣な恨みだ。
しかしそれ以上に、連中は悪だった。
もっとも、俺や悪魔たちに正義だの悪だのの概念は無い。
ただ気に食わないから殺す。
邪魔だから殺す。
両者の認識はただひとつに収束し、だから俺たちは拳を固め、腕を振り上げる。
『了解だ。その感情を忘れるな』
「別に復讐に生きるわけじゃないだがな。ただ、俺が動くときにいつでも動機がそれになるだけで」
『十分だ。貴様の強みは、そこにある。どれほどの聖人君子でも手にかけられる貴様の復讐心にな』
「聞こえが悪い! まあ。んじゃ、行くぞ」
意趣返しかと思うような言葉を浴びせられ、ちょっとバツが悪くなって話題を変える。
すると、素直すぎるくらいに彼らは不意に姿を消して――。
ぼうっ、と大気が音を立てる。直後に、俺の視界が真紅に染まった。
ジリッと右手先に灼ける痛み。
炎の中に飛び込んだような豪熱が俺を襲う……が、しかしそれは意外なまでに苦痛ではなく、下から上へと巻き上がるような火焔の中で、俺はむしろそれを心地よく思っていた。
『行くのだろう』
「あ、ああ――ぁっ!?」
ぎこちない返事の最中、俺は足裏から凄まじ炎が噴出し――その勢いが容易く俺を浮かび上がらせ、さらに高く、空へと飛び上がり。
そして俺は、ついには下半身から余すこと無く爆炎を放出させながら、既に上下や天地の概念を喪失する勢いの中で、ただ前へと突き進んだ。




