1:手応え
あの行商人が言っていた通り、二日ばかり歩いた先には湿地帯が広がっていた。
俺の体力と空腹感がなんとか耐えられるぎりぎりの時間だった。
「ほう」
北から南へとまっすぐ突き抜ける河川がある。周囲は草木が鬱蒼と茂っており、多くの動物の気配と鳴き声とが入り交じって聞こえてきた。
空気が湿っぽい。
気候が温暖ゆえに、いくらか暑苦しかった。
だから上着を脱いで肩にかける。下のシャツは汗じみで黒ずみ、既にすっぱい悪臭を放っていたけれど、こんな場所では気にするようなものではなかった。
荷物になる魔術書は、行商人と出会う前に焼却処分している。どうせなら、あの時に彼に売っぱらっても良かったかもしれないが、しかし国が保管している書籍なのだから、そうしても迷惑だったろう。
にしても、と思う。
河川の縁に屈み、行商人に返し忘れた水袋に水を汲む。やはり貯めておいたほうが、水精霊から力を借りて喉を潤すよりよっぽど手軽で、血も流さないから痛くなくて良い。
「はぁ。のどか……じゃあねえけどさ。こんなのも、いいかもなあ」
遠くの川上に、群れをなして水を飲む鹿。
その川下で、両腕を図太して尚幾重にもなる装甲のような甲殻を及ぼす猿のような魔物が、縁に腕をついて顔を付き出し、舐めるように水を飲んでいた。
野生動物と魔物が争う気配はない。完全ではないにしても、共存しているように見えた。
温暖な地域、そして豊かな自然ゆえだろう。
東大大陸。ここが地元であることが、少し誇りになる。
それが背中を押した。
だからせめて余裕がある今、ゆっくりと、昔の事へと思いを馳せた。
思えば、村を出てからこれが初めてかもしれない。そう、感慨にふけりながら。
◇◇◇
「おれにセイレイジュツをおしえてくれ!」
そう言ったのは十五年前のあの時だった。
茶髪の男は呆れたように、まだ腿までくらいの背丈しかない俺を見下ろした。
「お前は……クライトさんとこの坊主か。しかし精霊術とは、またどうして?」
彼にとって俺との出会いはこれが初めてだったかもしれない。
だけれど、俺は物心ついた時から彼を見ていた。村で誇れるほど精霊術の卓越した技術を持ち、幼いながらにも戦闘面で秀でて、また様々な困りごとも解決してしまう男だった。
さらに極めつけは、精霊術の修行を積んできたということ。師が誰であるかは村の誰も知らないが、少なくとも一年間その元で訓練してきたという事実は、彼の強みとなっていた。
こっそり傭兵業の手伝いをしていたことも、だから誰もが眼をつむっていた。
「女の子がいじめられてたんだ。おれはたすけようとしたんだけど……ぼっこぼこにされた」
「素直だな。強がってもいいんだぜ?」
「ウソはだめだ。おこられる」
「誰に?」
「おかあさん」
「っ、ははは、そりゃダメだなッ」
吹き出すように男が嗤うのを見て、俺はつられるように笑顔になった。
「なるほどな、まあわかった。でもさ、どうして精霊術なんだ? 身体鍛えるとか、喧嘩強くなりたいとか、色々あるだろ」
諭すように、というわけではない。男は純粋に疑問に思っていた。
「つよそうだから」
それで、と継ぐ。男は相槌を一拍置いて、促した。
「かくじつだ。あいつらをぼっこぼこにしなおせる」
「間違っちゃねえな」
「だろ?」
ふふん、と鼻を鳴らす俺。男はげんこつで頭頂を小突いた。
「ってえ!」
「だがなあ、ちょっとアワれなお前に教えんぞ。精霊術ってなあ、精霊ってやつの力を借りるわけだ。自分の力じゃないんだぞ?」
「知ってる」
「その強くてエラい奴の力使ってガキンチョ叩きのめして、嬉しいかよ?」
「おれよりつよいだろ」
「なんつー正論。ちょいとドタマ抜かれたぜ」
男は少し驚いたような顔をしてから、苦笑する。
素直過ぎる言葉。己のプライドなど関係なく、結果的に敵をぶち壊せれば満足できる崩壊気味な思考は、だけれど取るに足らない俺という存在を、男に刻んだようだった。
「でもよ、オレぁ人に教えられるほど強かねーんだよな」
「メンキョカイデンまえか」
「まーなあ」
「つーか」
俺が問う。
なんだろうか、と男は眉をしかめた。
「あんた、なまえなに?」
「ぶっ――知らねーでそんな上からっ?!」
「おれはヒィトリット。リットってよんでくれ」
「マイペースだな……、まあいいや。俺はセイジ・クラフトだ。よろしくな、ヒィ」
セイジはそう言って、俺の頭に手をおいて、
「リットだって!」
「ヒィのほうが言いやすいだろ」
「じゃ、じゃあリィは!?」
「なんのこだわりだよ」
「よびなれたほうがいいだろ?」
「お前の場合は呼ばれ慣れてて、オレは呼び慣れてないわけなんだが」
まあいいや、と男は頷く。
彼はおそらく、俺の本質的にある暴力性をにわかに見たはずだ。精霊術を学びたい動機は、女の子を助けるというものより、彼女と俺を傷つけたワルガキを叩きのめす一点に集中していたのだから。
しかし、その点がかえってセイジの興味をひいた。
純粋悪にも転びそうな俺を、矯正できる良い機会だと思ったのだろう。このまま放置すれば肉体主体で叩きのめすタチの悪い武闘派に育つ可能性があったからだ。
もっとも、精霊術に必要なのは努力ではなく適正という才能。生まれながらにして持つのではなく、成長してしまう前に精霊術としての概念を理解することで身につけられるソレだ。
あるいは――彼は見誤っていたのかもしれない。
俺の暴虐性は、少女の護る為に発現し、彼女を護るために成長できる正義感を伴った意思なのだと。彼女の保護という箱に押し込められたことで、その力に指向性を持たせることができるのだと。
それはいわば禁忌の箱。
セイジ・クラフトはその箱に精霊術を叩き込んだ。
結果的に、それが成長と共に全てのものと混ざり合い、熱を持ち、反応を起こす。
「ヒィ。だったら、暇だし適当に教えていくが……どうする? オレは別に、今からでもいいけど」
「ほんとか!」
「ああ。了解ってことか? んじゃ行くかー」
村の往来から外へと足を向ける。
距離はそう開いていない。せいぜい、十分くらい歩くかどうかのものだ。
――初心に返る。
それで思い出した出会いの記憶は、もっとも重要となる場面に到来した。
「なあヒィ。精霊術ってのは、どんなものかわかるか?」
俺がそれを聞きかじったのは村の中で彼の噂を聞いたから。常にセットで触れ回っているからたやすいことだ。
しかし、精霊術について――その質問には答えられない。
この時の俺が知っているのは、ともかく強い力だということだけだ。
だから首を振るのをみて、「だよなあ」と嘆息混じりに言った。
「こいつは受け売りだが」
「うけうり?」
「他人の言葉ってこと」
「ふーん」
ごほん、と咳払い。改めて言葉を繋ぐ。
「精霊術ってのは、人生を代償にして紡ぐ奇蹟だって。つまり――生まれてから死ぬまでを差し出して力を使うってわけ。わかる?」
「わからん」
「だよなあ。俺もだ」
今ならよく分かる。
人生を代償に――俺はあの時、四大精霊を使役する。契約などせず、激痛と、呼吸と、血とを代償にして彼らの力を得た。
精霊術を身につけなければ、俺は十五年前に死んでいた。
だからそうなのだ。精霊術を身につけ俺は生き延びたが、しかしそれが正しいかなんてわからない。
「師匠が言ってたよ。精霊術を使えるやつなんて、アタマがおかしいんだって。知名度に反して精霊術師として、まともに術を行使できるやつが圧倒的に少ないから」
術を扱うためには精霊を認識しなければならない。
その精霊が術を発現させるのだと、強くイメージしなければならない。
そこには修道者も頭が下がるほどの信心深さが必要だし、勇猛なくらいの強い意思が必然的に重要になってくる。
「でもさ、俺は思うんだ」
子供ながらに感心したセイジの願望。
「パンは食い物で、酒は飲み物で……それくらい精霊術が当たり前になったら、オレたちは戦いの中じゃなくても、活躍できるんだよな」
世界にとっても当たり前になれば。
異常な信心ゆえの精霊術などと蔑まれない世界になれば。
それはかつて存在していた力と同じく、浸透し、様々な用法があるのではないか。
セイジ・クラフトの、どこか遠くを見る顔を見上げながら、俺は彼の言葉をまともに理解できないなりに、すごいやつだと純粋に尊敬していた。
◇◇◇
「セイジ、か」
あの時彼はまだ十五だった。
俺は既に二十……だけれど、未だに超えられる気がしない。
精神的にも、精霊術の技工でも。
魔術について何かきっかけでも掴めると思ったが――。
「……ぁ、れ」
それは、殆ど漏らすように声が出た。
何かが引っかかる。リンクする。繋がる。
――世界の中で当たり前になる力。
魔術、精霊術の違い。浸透率。様々な用法。
俺の頭の中で刻まれた魔術書の文と、記憶とが、妙な関連性を見出していて。
遠くで悲鳴が響く。猿の甲高い、威嚇らしき絶叫――その直後に、吹き抜ける一陣の風。
おそろしく冷えた風だった。極北を連想する寒気。河川のすぐ近くに座っているから空気が冷えたのかと思ったが、どうやら違うらしい。
ちら、と脇に見た川の水は、動きを止めていた。硬質の輝きを、俺は見た。
水が凍りついていたのだ。振り返れば、氷結した川と溶けている水との境界がわからぬほど長く伸びていて。
前を見れば、
「っ!」
先程までにはなかった人影が、その凍結した河川の上に立っていた。
艶やかな黒髪を腰の近くまで落とす女。総身は蒼白のドレスのような衣服に包まれており、白銀の脚甲、腕甲、手甲が剥き出しの肌を露出させない。唯一見える素肌は首元、顔だったが――ドレスの色の反射か、そこには透き通るような恐ろしく白い肌。
病魔に冒されているのかと言うような病的な色素の薄さと、ゆえに魅せる儚げな美貌とが同居する。
「こんにちは、はじめまして」
彼女はそう言って、川の上で深く頭を下げた。
「な、悪魔――あんたは」
確か。
残り九人いる中の一人。それでいて、唯一対峙していない悪魔となれば、
「フリィと申しますわ。以後お見知りおきを」
「は、以後がありゃあ良いけどなっていうジョークってわけか」
「あら、そのようなつもりは一切無いのですが」
「くそ」
一気に思考がまぜこぜになった。
こいつの能力は、確か氷結だか凍結。ラフトから聞いているから知っている。
だが――瞬時に川を、ここまでの範囲凍らせることができるなんて。
跳躍するように距離を取る。脱ぎ捨てた外衣を投げ捨て、俺は少し腰を落とした体勢で、敵の攻撃からすぐさま行動をとれるよう神経を研ぎ澄ませる。
後少しで、何かを掴めるはずだったのだが。
「待ってくださいまし。わたくしは、あなたと戦いに来たわけではございませんのよ」
「戦いじゃなく、殺しに来たってか」
ムカつくから先手を潰しておく。
こういう、敵を油断させて一気に突くような手合いは苦手だ。今までの俺がそうだから、戦い方が被ってしょうがない。
「ただ、伝えることが一つ。その使いっ走りに」
「伝えることだあ? 今更、何を――」
悪意の塊を言葉に込めて。
しかし彼女は、その薄い眉をぴくりと動かすこともせずに、冷淡に言葉を遮ってみせた。
「リフはこれから十日後に行動を開始します」
「……行動? 俺を、殺すために?」
ふるふる、と首を小さく振って彼女は否定する。
俺を飲み込むほど深い漆黒の瞳が、少しだけ泳いで。
「彼の目的のために。あなたの殺害は、その一過程にすぎません」
「目的? ライアの力を利用して、魔女を殺し尽くすとか?」
ライアは魔女を殺して逃げ出した。正確には魔女は殺せていないし、他の悪魔は殺す勢いで彼女を追ってきた。だが彼らの目的は、飽くまでもライアの捕獲だった。
連中にはライアが死なぬ確信があった。それは能力に起因する理由である。
だから彼女を捕らえた今、捕らえる必要があった男が動き出すのだ。
しかし、また彼女は首を振った。髪が揺れる。瞳が泳ぐ。
「世界のどこかにある『大扉』をこじ開ける……ライアの力なら、その場所を正確に”視る”し、どうすれば開けられるかを”考える”ことができる――リフはそれを利用する。『大扉』を開き、莫大な魔力を以て自他共に認める最強の力を得るために」
もしそうなったら、自分らでも止められない。
彼女はそう言った。
もっとも、その事に危惧しているのは自分くらいなものだが、とも。
アッシィとイクスはその気になればリフを殺せるが、しかし彼らはリフの強さと、そもそもの存在をどうでも良いと見ている。
イルゥジェンに至っては既に諦観ムード漂っており、ルゥズはなんとかなると楽天的に見ている。
エントはリフにつきっきりで、オリジはどこに居るかもわからず。
唯一真正面から反抗しているブロウは、しかし彼の目的については無視していた。
だからといって、彼らが俺に協力するわけじゃない。
彼らが集まっているのは、ひとえにリフの人望ゆえというわけではないし、しかし利害の一致というわけではない。
ならばなぜか? 知るわけがない。
ともかく連中は敵であり、
「知ったこっちゃねえな。『大扉』が開くなら、俺もそいつを利用できる。なんにせよぶっ殺すだけだ」
「……やはり聞いた通りですわね。ヒィ・クライトという名を、救いがたき阿呆の代名詞にして差し上げます」
「なん……っ」
「あなたは己より少しでも強い敵を見れば、その力が完全無欠と見ているようですね。その評価は、ほとんど羨望に近く、羨望による期待ゆえに、願望となっている」
自分より強いのだから、無敵であってくれと。俺が無意識にそう考えている、とフリィが指摘した。
そうなのかもしれない。
悔しいが、反論の余地がない。
エントは倒せるかもしれない。だがブロウの熱波は防ぎようがないし、アッシィの隠匿能力はどうあっても探せない。イクスの、能力不要の馬鹿力には対抗の術がなく、オリジの速度には決して順応できない。
リフの”反発”だってそうだ。あんなもの、どうやっても突破できない。できるわけがない。
”俺より強いのだから、そうであって当然”だと、考えていた。
「違いますわ。あなたが他の術師より強くても、魔術によって軽く蹂躙されるように。わたくし達も同じく、より強い力には押し負ける……単純なことですわ」
「……だけど、莫大な魔力を得れば、その上がなくなるってことか」
俺の言葉に、フリィはこくりと頷いた。
正真正銘の完全無欠になる。
「でも」
どうしてそんな事を、教えてくれるのか。
彼女は、
「あんたは、俺の味方をしてくれるのか?」
力を貸してくれるのか。
「いえ。飽くまで中立だけれど、強いていうならば、わたくしはライアの味方ですのよ」
「ライアの……」
「彼女は、あなたの死を見たくない」
「まるで、俺がもう諦めたような言い方だな」
少なくとも、後ろ向きではないのだけれど。
「だから」
魔術を極めて、敵を打ち倒す。そのための訓練中で、どちらにせよ港まで時間がかかるだけだったのだけれど。
あと十日……彼女らの根城へ、どうやって行けというのだろうか。
極北の凍結した大地、さらにそこにある筈の郷へと、どうして到達できるだろうか。
「別に口実、というわけではないのですけれど」
「……なに?」
「リフの邪魔をするなら、わたくしが殺します――ということにして。思った以上に、あなたが強いことにして」
口角があがる。
目が細まって、薄くなる。
それは誰もを魅了する微笑みで。
「ちょっと戦ってみましょうか」
結局の所、そういう結論に落ち着いた。
他と異なる点があるとするならば、戦う動機と目的であろう。




