4:心の在処
ひとまずイーシスから西へと一日歩いた所で、俺は息をついて立ち止まった。
そこは平原。道から外れた場所を突き抜けたから、随分と視界が開けている割には誰も居らず、魔物の姿すら見えなかった。
足首まで伸びる雑草。丘陵はなく、ただ地平線の近いところまで緑が続く。
俺はゆっくりと腰を落として、膝の上に魔術書を乗せた。
時間遡行を試してみたいと思うけれど――悪魔が居た時点で一分が限界だったのだ。生命力を使い果たしたとしても、十日以上時間を巻き戻すことなんて出来るわけがない。
下手に戻っても一日とかなら、もしかすると先日の腹痛が蘇る危険性もあるし。
しかし、もし成功すれば食後に時間遡行して、今後食事をせずに前進できるという革命的な事実を発見した。食料も飲料も無く、また次の街までおよそ三○日以上の距離である。最悪どうにかなるだろうが、危機的状況から覚醒できればな、と都合よく思っていた。
「しかし、人の適応力ってすげえな」
右腕が使えなくなって既に十数日。
もはや右腕など使わない生活に、慣れきっていた。戦闘面ではわからないが、しかし素人相手なら十分に対処できる。
これは俺の才能の賜物か。あるいは、人の適応力ゆえか。
前者だと信じたいのだけれど、あまり無条件に己を信頼するのも怖い。少し侮る程度が、ちょうど良かった。
右腕に意識しても、やはり指先が痙攣する程度。力は篭るが、まるで関節が全てかたまってしまっているかのように動かない。
理由はなんだろうか。時間遡行が中途半端――だから、本当に関節が硬化したのだろうか。
「っに、してもよぉ」
わけわからん。
魔術書の内容が俺の中に染みこんでくる、なんてワケじゃないけれど。
理解はできる。概念も、原理も、すっかり覚えることはできた。
学問としての魔術は、俺の中で構築された。
理解できたのは、精霊術師としての下積みのおかげだ。精霊術の理念と概念を認識しているためである。
しかし、わからないものはわからない。
「こりゃ、完全に精霊術の上位互換じゃねーか」
魔術でできることと、精霊術でのそれとはほとんど変わらない。
異なるのは代償の有無と、効果範囲とその圧倒的な効果の差だ。
残り数ページの脚注を流し見るようにしてさっさと済ませて、俺はその場に寝転がった。
イーシスからの追手はない。馬を走らせれば半日もしない内にとっ捕まっていたはずだ。それが無いとなると、ヒュラーが上手く立ちまわってくれたのか、あるいは殺人狂の後始末に追われているのか。
なんにしても、この時点で追っ手が居ないということは、当分来ないだろう。
「ふわ、ねっみ」
歩き疲れたし、あの二日間も殆ど寝てないし。
さすがに魔物とか人が近づけば起きるだろう、なんて気軽に考えながら。
まだ日が高い昼日中、俺はゆっくりとまぶたを閉じた。
◇◇◇
「おいライア!」
扉は無作法に、さながら強盗の如くけたたましい音を立てて開かれた。
咆哮はしかしその雑音を飲み込む大声量で、部屋の主である女の名を呼んでいた。
横たえていた身体をのっそりと起こす。うんざりした顔で、彼女は扉の方へと顔を向けた。
時刻はまだ深夜――だけれど、その男には時間帯など関係無かった。
「聞いたか、あの光沢野郎、鉄仮面ブチ壊されて帰ってきたぜ!」
「ん……鉄仮面? 別に、アレの強度は生身のイクスより低いじゃないのよ」
って。と、彼女ははっとする。
”ブチ壊されて”帰ってきた。彼はそういった。むかついたからぶん殴って、ぶっ壊してやったぜブハハ! ということじゃない。
何者かに破壊された――彼女は連想する。
リフに面と向かって暴言を撒き散らす男は、彼女が知るかぎりでは二人しか居ない。
この執念深い赤髪の悪魔と、自称天才の、茶髪の男だ。
「気づいたかァ? 奴だ! ヒィ・クライトがやったのよ! しかも殺すつもりで向かったリフをだぜ?」
「……そう」
「ンだよノリがワリイな。低血圧か?」
「そういうワケじゃないけれど」
まだ寝癖にならない長い髪を掻き上げる。
彼女はそうして、右腕に触れた。彼の腕に刻んだ紋様を、その紫色の肌の上、指先でなぞる。
能力は発現している。ソレは、使えば彼女に一切の敗北を許可しない絶大な力だった。
しかし彼女は、それを封印していた。決して使わぬと条件付けすることで、己の潜在能力を、己ですら自由に使えなくした。
解く術はただ一つ。
そして、それはヒィ・クライトの右腕が不能になっていることと関係している。
彼女は懺悔しない。後悔もせず、ただ少年を哀れだと思った。
リフは自分の能力を決して捨てられないと考えている。だから彼は彼女を殺せず、これまで他の悪魔に命じていたのも、その力で決して死なぬと確信していたからだ。
彼女自身の保身のために右腕が動かぬというのに、それでも残った三肢で最強を呈する男に噛み付くとは。
「……バカ」
「チッ、邪魔したな」
寝台の上で膝を抱える彼女に掛ける言葉を見いだせぬブロウは、短く舌打ちをしながら、登場とは対照的な静けさでその場を辞す。
廊下から差し込む輝きは、ゆっくりと扉が閉じるにつれて失せていった。
瞳から溢れる涙をながすまいと思いながらも、しかし彼女は抱えた膝の上、そこを布団ごと濡らしてしまう。
彼は本当に自分を助けに来てくれるだろう。
己は、自分のことしか考えていないのに。
「ホントに、バカ」
自分もだ。
ずっと、ここに来てから期待している。
彼が助けに来てくれる、その日が来るのを。
「もう……見てるんだったら、言葉くらい寄越しなさいよ」
静寂の中に、虚しく溢れるひとりごと。
それに答えは返ってこない。当然だ、彼女が見せているわけではない。見られている、という感覚はあるだけ。
つまり、彼の魔術的な力が強まっていることを意味していた。無意識に、無自覚に、この睡眠中の無防備さから意識を繋げているのだ。
だから寝起き、全てを明確には認識できていない。特に覗き見ているはずの彼女の心情に、しかしもっとも触れられぬ位置にいた。
しかし彼女はそこまでを知らないし、彼はそもそもこの事についての認識が皆無に近い。
「……ねえ、クライト」
されど彼女は呼びかける。
繋がる意識は、しかし長くなれば長くなっただけ彼の記憶に残らぬことを知らずに。
身体を滑らせて、彼女は寝台から降りた。身体に纏うのは薄手の布のような衣服が一枚。部屋の中なのに、極寒の寒さを誇るこの場所ではあまりにも寒すぎたけれど、しかし極度な環境変化程度では死にはしない。
種族として、単純に強固なのだ。悪魔というのは。
彼女は天井近くまで聳える巨大なガラス戸の前に来た。内鍵だけのそれは、脱走でもしてくれと言わんばかりに容易く開いた。
戸を内側に引くと、強めの風が全身を撫でるように吹き抜ける。すぐに吹き飛んでしまいそうなものは無いけれど、彼女がさっきまで横になっていた布団は、その白さも相まって早くも冷えきってしまいそうだった。
一歩外に出る。広いバルコニーには、雨風に打たれて寂れたテーブルがあった。椅子が二脚、対面している。
その脇を抜けるように柵まで進んだ。寄りかかってから、彼女はあらためて視界いっぱいに広がる壮大な光景を一つずつ確認する。
「私、嘘つきなのよ。助けて、なんてあの時言えなかったけど、でもその時は確かに、助けないでって思ってた」
眼下に広がるのは鬱蒼とする森林。宵闇の空に張り付く銀の月がそれらを照らすが、深い緑がその暗い印象を増長させる。
向こう側には崖。突如として、森林の切れ間から海が広がる。その海には、巨大な氷塊が無数に浮かんでいる。彼女らがいる場所は、”まともな”大陸部分。辛うじて大地がある場所だ。
ゆえに、そのバルコニーにはいつも風が吹いていた。冷たく、凍える、とても人などが住める環境を作らぬ寒気が。
「もっと別れるときに時間があれば良かった。貴方には、貴方を幸せにしてくれる女性が一杯いる……だから、もう捕まっちゃった時点で、ちょっと諦めちゃってたのよ?」
でも。
いや――そもそも、諦めてなど居なかった。
「今はね、もう嘘つかない。貴方にだけ、いつでも真実を言うわ」
でもね。
彼女は、気が付けば微笑んでいた。
まだ空の高い位置に浮かぶ月を、揺れる眩い星々を眺めながら。
「ここに着いたら。私を抱きしめてくれたら、私の思いを、教えてあげる」
柵に手をついて、身を乗り出すように寒風の中にさらけ出す。
胸いっぱいに凍える空気を吸い込んで――。
ぷつり。
そこで、彼の意識が途切れる――再起する、気配がした。
◇◇◇
「ううっ、寒っ――いわけ、ねえのに……おかしいな」
身震いしてから、温暖な空気に気がついた。
俺はゆっくりと身体を起こしてあたりを確認する。妙に草の臭いが濃厚だが、というところで思い出した。
平原で休憩をとったんだった。しかし見上げる空は吸い込まれそうなほどに蒼く、陽はまだ高い位置に張り付いている。
睡眠は僅か十数分程度、だが。
「妙だ」
頭がすっきりしている。
考えなくちゃいけないことがいくらでもあって、しなくちゃいけないことは山盛りで。
そんなことにうんざりして、少し休んだつもりなのだけれど。
ただの休憩が、これほどまで清々しかったのは久しぶりだった。
「北、だったかな」
彼女と初めて会った夜。宿で、彼女が言っていた悪魔の所在地を思い出す。
悪魔は世界全土に及んで存在している。人知れず、世の中に溶け込んでいるのだ。
その中でも、彼女らが居た場所は……。
「最極北、ねえ」
船で行くのはちょっと怖い。
この前の出来事が、トラウマになっているのかもしれない。
だったら、俺にできる事はもう数少ない。
海岸線に向かうとして――魔術を学び、身につけ、転移術を完全なものにして。
「……マジかあ」
どうして転移術は魔術からの派生だったのだろうか。
精霊術なら、あっという間にできたはずなのになあ――。
ともかく、だ。
脱線しがちな思考をまとめるために、俺は強く頬を叩いた。左頬しか叩けないから、ただの自傷のようになってしまったが。
「あるいは」
待って、奴らを利用する。
今の俺に残されている選択肢はこれっぽっち。
そして残った時間は、魔術に集中する。
腐るほどあったはずのやることは、纏めただけでこの二つに収束した。
さて、と俺は立ち上がる。魔術書を拾い上げて、脇に抱えた。
「ん~っと! やるかぁっ!」
充実した昼寝のおかげか。
俺は眩い太陽を見上げながら、そう叫んだ。
叫んだ折に、ライアの顔が脳裏に過ぎる。
そんな事が、ちょっとだけ恥ずかしかった。
別に惚れたわけじゃない。ただ大切な仲間だから、助けに行かなくちゃと思っただけだし。
そもそも今回は、リフをぶち殺しに行くのだ。ついでに助ける。彼女は二の次。些末事。
な、筈なのだけれど。
思い出した途端に、胸が高鳴った。
そうして、視界の隅に、彼女ばかりがチラつく。思考に過ぎる。邪魔臭い。
俺はただ、リフに恨みを晴らしに行くだけなのに。
この心は、一体何に揺れて、何を望んでいるのだろうか。
俺は俺自身の事を曖昧にしか認識できずにいて。
だからこそ、見極めることを諦めて。
やっぱりひとまず、先に進むことにした。
妙に脳裏に焼き付く海岸線を目指して。




