2:姫司書と王立図書館
通路の奥にある巨大な両開きの扉は、鎖によってがっちりと施錠――されていなかった。
口を閉じて荘厳な風体ではあるものの、鎖はだらんと床に垂れて、それを繋ぎ止める錠前は扉の把手に引っ掛けられている。鍵は無く、ここに来るまでで警備兵の気配もなかった。
懐かしい、と思うほど縁も馴染みもある場所ではない。
しかし、五年前を想起すれば、ここではなんとも無防備な阿呆と遭遇するわけなのだけれど。
今回は特に予感がしてならない。
酷く庶民的な――の存在を。
扉に手を掛ける。じゃら、と床を引きずる鎖の音と、蝶番の軋む音が重なって静かに大きく響く。
王立図書館――というよりは王宮の書斎であるそこからは、深夜帯とは思えぬほど煌々とした輝きがあった。
それは広大な空間の天井から吊り下がる大型の照明具による発光だ。おそらくこの城の中で最大級の大きさを誇るのではないかと思われる照明具は、大小様々な円盤を等間隔でつなげて、周囲にきらめくガラス片を吊り下げている。形は逆三角形で、それぞれ円盤の間に発生する光球があたりを満遍なく照らす。
「あ」
誰かの声が漏れた。
俺は、そんな声を認識する前に、その姿を認めてしまっていた。
己の立場を真正面から認知しておらず、ただの形式と肩書きとしてしか理解していない女。
「お久しぶりです」
柔らかい声色で、彼女はゆっくりと椅子から立ち上がった。
腰下まで流れる鮮やかな銀髪が翻ると同時に、それがよく映える黒いドレスが翻った。ところどころに赤い刺繍を施し、袖先、裾には白いフリルが可愛らしく付いている。
「ええ……五年ぶりで、イレギュラーな来訪だってのに良くここに居ますね。ってか、誰にも気付かれないようにここに来たのに」
扉を抜けて数段だけある段差を降りる。段差の両脇には壁に沿ってソファが置かれていて、開いたスペースに円卓が一つ鎮座する。
正面には長机と椅子が、こちらに背を向ける形で羅列する。その机の上には、乱雑に飲料の瓶や軽食の容器などが散乱していた。
その奥からずらりと本棚が並び。
吹き抜けの二階部分が、その本棚が並ぶ最奥を闇にした。
「”お姫様”は、随分と鼻が利くようで」
冗談っぽく言えば、彼女の瞳が欄と輝いた……ような気がした。
姫と言えば世俗に疎く人との交流が薄いご令嬢か、あるいは酷く世俗離れした豪華絢爛の権化を想像するが――彼女ほど俗っぽい姫も、中々居ないだろう。
昼日中は城下町の洋菓子店に働きに出て、日が落ちれば友人らと酒なり飯なり落ち合って歓談する。休日は城でゴロゴロする日もあれば、自分で働いた金で買い物をしたりもする。
「以前は偶然でしたけどっ?!」
今回は意図的に、という証明でもある言葉。
彼女は構わず整った口元を歪めるくらいに微笑んで、というかもうなぜだか満面の笑みになって、その紅玉のような瞳で俺を見つめた。
そこで俺はようやく気づく。彼女はその手に、なにやら紙を持っていた。封筒と、折りたたまれた手紙らしきそれだ。
「図書館唯一の利用者である私が、ついつい居眠りをしていて肝を凍らせてくださったあの時はどうもありがとうございましたっ! ホントにもう、殺されるかと思いましたよ」
彼女とは、以前の脱獄の際に出会っていた。偶然にすぎないが、しかし僅かな会話で俺を無害だと認識してくれたようだ。魔術書の存在を教えてくれたのも、それから二日ほどかくまって、逃がしてくれたのも彼女。
完全に共犯者で、それが姫様ともなると大問題なのだが――彼女はそこら辺を、しっかり理解してくれていないようだった。
「まあ立場的には何も変わってないんですけどね」
ともかく、今は何も変えられない。あの防術仕様の外套についてはもはや誤解や濡れ衣ではなく、王自身が白であるものを黒と断じているのだから、抗いようがないし。
今の俺には、まずその時間も余裕もない。
「ともあれっ、今夜私がここに戻ってきたら、こんなものがあったんです。抜き身の手紙が一枚と、『ヒィ・クライト』宛の封筒がひとつ」
ヒュラー・イーシスは、なんだか嬉しそうに言った。
「俺に……?」
彼女だけではなく、他のものにまで動向を知られたというのか。
手紙ならば、悪魔が出るか、蛇が出るか――。
「差出人はないですが、こちらの文面が……ええっと」
折りたたまれた手紙を広げて、改めるように彼女は読み上げた。
「よく分からないのですが――『時間がないから多分来るだろう場所に手紙という形で言葉を残させてもらった。そしてこれがおそらく、最後の言葉になると思う。心して――だけど、参考までに留めて欲しい。俺が知る全てを、お前はお前の中で消化しなけりゃならない。ただ再現するだけでは、あまりにもおざなりだから』……と」
「良く読みましたね。渡してくれればよかったのに」
はっ、とした顔で愕然とするヒュラー。ちょっと不服そうに唇を突き出しながら、憮然とした様子で手紙を渡す。
「先に言ってくださいません?」
「姫様のお言葉を遮るのは申し分なくて」
「申し訳ない、の間違いでは」
「ンなの、どっちでもいいスよ」
「ちょっとでもヤケになると、やっぱり中途半端な敬語が出るんですね」
「……五年前のこと、良く覚えてますね」
「でも十六歳ですよ? 衝撃的でしたし」
でもその頃には、やっぱり洋菓子店で働いていたわけだし。
王位継承なんて、興味も無さそうだったし。その分、俺のことを根掘り葉掘り訊かれたのだけれど。
「えーと、こっちの手紙は……」
「ほらぁ、すぐ話し逸らすしっ! ヒィさん、あんまり変わってない」
「変われりゃよかったんですけどねー」
変わる余地がなかった。
彼女と出会った後は、さっさと北大陸に逃げてしまったし、そこでは色々な人に出会って、色々なことがあったし。
それから地続きで、今まで連続している。途切れた部分はないし、忘れられるようなことも、いつまでも覚えておきたいようなことも、特にはなかった。
濃厚だったのがここ数カ月。おそらくこいつに限っては、忘れたくても忘れられなくなりそうだった。
だから、今はそれを誤魔化すように視線を落とす。
封筒から抜いた一枚の手紙には、ヒュラーが告げた文面と同じくらい簡潔な文が綴られていた。
下手くそな字で、誤字脱字がよく目立つ教養のないのがあらわになったその筆跡は、
「……なるほど、だから横縞なのか」
俺と相違ないほど、よく似ていた。
ヨコシマな野郎だと思う。だから少しの所作も、言葉遣いもイラついだのだ。
わかりにくい説明も、すんなりと理解できたわけだ。あの感情が、尊敬にまでは至らなかったわけだ。
予感が確信に変わった。
だからといって、何かがどうなるわけじゃない。
ただ真実を得ただけで、俺の胸に、何かを刻むわけじゃない――。
「なんて?」
内容は、オススメの魔術書について。ヒュラーに聞けばすぐに見つけてくれると書いてあったのを告げると、俺はそのまま手紙を渡した。
ヒュラーは己の名前が出ていることに疑問を覚えながらも、しかし俺と関連している人物なら無害だろと結論づけて、階段を上って吹き抜けの二階へと行ってしまった。
「手伝い、要りますか?」
「三冊くらいなので、大丈夫でーすっ」
声はすでに遠くから聞こえている。
本棚の海に今から飛び込んでも迷子になるだけだろうと、俺は彼女が座っていた席の正面に腰を落とした。
机の上は汚い。だから瓶は瓶で、乱雑になる軽食の容器が入ってただろう紙袋の中にゴミを突っ込んで、簡単に片付けてやった。食べ滓は見なかったふりをして机の下へ。ベタベタした場所は、しかたがないので横にずれることで解決させたことにする。
そうこうしているうちに、フュラーは革張りの分厚い魔術書を胸に抱えてやってきた。かつ、かつ、とブーツ底を鳴らして、どん、と机の前に置く。
「この国は、けっこう魔術や魔法についての書籍が豊富ですからね。ま、増刷ですけど……。読んでみたけど、私にはさっぱり」
言いながら肩をすくめる。
手首にはめているフワフワな装飾を外すと、後ろ髪を掻きあげて頭の高い位置で固定。その装飾で髪を纏めた。
俺は手始めに、一番上に乗る分厚い書籍を手に取る。机において、表紙を開いた。
『概念としての魔術とその運用』。歩き方的な本は、精霊術とは違ってこれほどまでに一般に浸透しているのがよく分かる。
「お手伝いすることあります?」
「無いです」
ページをめくる。言葉がやたらめったらに小難しいが、噛み砕けば理解は易い。
「この五年間、どうしてたんですか?」
「ま、色々と」
ぱらり。
なるほど、言い回しがクソみたいに鬱陶しいが、魔術の種類から原理まで、簡単に説明されている。
「きーてますよっ! 悪魔を倒したとか」
「へえ」
ぱらり。
「でもこれって、なぜだか情報規制されたりしてます。ヒィさんから、あの外套につながるからでしょうかね?」
「ですね」
ぱらり。
「あの――」
「ほう」
ぱらり。
「っていうのはですね――」
「うん」
ぱらり。
「つまり――」
「そうですか」
「……聞いてます?」
「なるほど」
「聞いてないじゃないですかっ、やだぁ!」
なんてやかましい声がようやく鼓膜を突き抜けた時、俺はようやく、ヒュラーが何かを言っていたらしいことに気がついた。
顔を上げる。
彼女を見ると、真紅の宝石みたいな瞳を潤わせて、むっと口をつぐんでいた。
「……どうしました、姫様。はしたないですよ大声なんか」
「相槌を忘れないところだけしか評価できないっ! もう、久しぶりの再会ですよ? お姫様と罪人(冤罪)の関係なのにですよ? ロマンチックでドラマティックでファンタスティックじゃないですかぁっ?!」
「……姫様はアレですね。五年間で悪化したんじゃないですか?」
その夢見がちな思考が。
正直ついていけないところが多い。
この図書館の六割が、物語である理由がそれなのか――彼女の頭の中がそうである理由が図書館なのか。
「姫様って云うのに、敬意も感謝もないしっ」
「感謝だけはしてますよ」
「だけっ!? むしろ前者が大事ですよ!」
騒がしいなあ……。
警備兵が見回りに来たら、なおさら哀れそうな目でみられるだけなのに。
「あぁ、はいはい。姫様エライです。ちゃんと自立してますしね、友達多いし、個人としての人望もけっこう厚いですよねー。反比例してるのに気づかないですごく頑張ってます。人気のベクトル真逆ですし」
誉めてやれば、こんなおざなりなものでも彼女は笑顔になってくれる。
嬉しそうに頬をほころばせて、
「あれ? 後半誉めてないですよね?」
いつもは、というか前回は気づかなかった点を聞き咎める程度には、まだ理性が保っているようで。
それでも「ふふふ」とちょっと不気味に、場所が場所で言葉が言葉なら高貴に、上品に微笑むお姫様象で虚空を見つめていた。
のぼせ上がらない程度には大人で、しっかりとその点を理解できている彼女は、俺にとって良き友人として、未だに関係を続けてくれるようで。
俺は思わず釣り上がりそうになる口角を力づくで下げながら、再び書籍へと視線を落とした。
◇◇◇
魔術とは、一言で言えば魔力を利用して操作する超常現象である。
魔力は大気に充満している万能エネルギーであり、こいつは大渓谷の最奥にある『大扉』と呼ばれる場所から漏れだし、この世界の大気と交じり合うことで本来毒である瘴気を魔力として扱えるらしい。
今では、そんなものはない。かつてあったらしい大地震と地殻変動、大陸の変形によって跡形もなく『大扉』は消え去っていた。
――そして魔術は、この書籍の原本が発行された時点で確認されている威力は、魔法でもないのに常軌を逸していた。
十数万の化物を、一撃で葬り去る。
その程度には、常識はずれな火力だった。
そんな術を行使する者たちが数多く居たという。
その殆どは騎士を務め、今で言う特務機関のような働きをしていたという。
理解が追いつかない、そこらへんの小説でも読んでいるような感覚。まるで現実感のない話し。
今以上に他種族との交流があったらしいし、人間以外でも英雄と呼ばれる存在は多く居たらしい。
世界はそれほどに、今と比べて様々なものに漲っていた。満たされていた。充足していた。
俺にできるだろうか、と思う。
いつのまにか机に伏して、もう姫だとか関係ないくらいだらしなくヨダレを垂らして眠りこけているヒュラーを見てから、短く息を吐いた。
やるしかないんだ。
俺の無茶な行動は、全部優先事項にしなけりゃ動けない。俺はそんなどうしようもない男だけれど――やらなきゃならない。そう決めた以上は、この図書館を出た時には見違えるくらいにはならないといけない。
今が何時かわからないけれど、今日はとにかくその一日目なのだと――『概念としての魔術とその運用』のまだニ○ページ目を開いて、そう決めた。




