第十話 戦う理由
それは甘美な響きだったわけじゃない。
俺はだけれど、その一言に揺れていた。
「どうした、傷が癒えるまで待って欲しいのか?」
「解せねえだけさ」
男が俺へと手をかざす。それだけで、俺の周囲を埋め尽くしていた瓦礫が左右に弾けた。
まるで強い反発でも受けたかのように突如として吹き飛び――特務機関の二人は、ただ狼狽して壁際へと背を向けるように退避した。
鉄格子を守っていた警備兵の一人は、その瓦礫の下敷きになっていたようで、それらが吹き飛びあらわになった床に伏しているのが分かる。といっても、彼は二度と起き上がることはないだろう。
身体は、鎧ごと板金のように平らになっていた。血肉が溢れ、そこには大量の血液が溜まって彼の肉体だった肉塊を浸していた。
「なぜ俺を誘う。今までの刺客に、殺されていたかも知れねえのによ」
「死ななかったからだ。殺すな、とは釘を刺しておいたが、傷つけるなとまでは言っていない。貴様は私のお眼鏡にかかったということだ」
僥倖――まったくもって僥倖だ。
俺は思う。なんて幸運なんだ、と。
だけれど、しかしそれは、あまりにもタイミングが悪すぎる良き報告だった。
あと五日ほど遅ければ俺は交渉ができた。上手く駆け引きすることができたはずで、少なくとも今よりはもっと強くなっている予定だった。
――このイーシス領内に侵入できたのだから、俺が次に目指すのは王立図書館。彼に誘われるままに付いていって良い状況ではない。
俺が初めて時間回帰について知った場所であり、俺が知るかぎりで唯一魔術書が保管されている施設だ。
しかしそこは、図書館といっても誰もが利用できる場所なわけじゃない。ほとんど、王宮の人間の書斎のような場所だ。
多くの本にホコリがかぶっていたから、倉庫というのが正しいのかもしれないのだけれど。
「そいつは、ありがたいことだ。俺としても痛いのや辛いのはヤなんでな」
見極めなければならない。
連中は俺に何を望んでいるのか、俺をどのように扱う気なのか。
彼らの目的は? ライアの、魔女を殺せるというだけしかわからない未知の力を妄信的に信頼する連中は、何をしようと目論んでいるのか。
そもそも、魔女は師匠一人ではないはずだ。彼ら悪魔は、彼らの集落以外にも根を伸ばしているはずなのだから。
「すんなりだな。貴様の仲間の恨みも、ブロウがした、ノーシスノウスの恨みもあるだろう」
「ついで言やあ、この国にも恨みはあるがな。少し麻痺しちまってるかもしれない」
「まあいい。貴様との戦闘を覚悟していたから、随分と拍子抜けだった、というくらいで。私とて、面倒なのは嫌いでな」
「そいつは良かった――と、言いたい所なんだがな」
ちら、と脇を見る。視線は動かさず、視界端だけを意識する。
「くっ……何が、起こってやがる……っ?」
「他の連中を招集したほうが良いのかもしれないけれど……いや、時間が無さそうだ」
女が俺を、リフを交互に見て静かに告げた。言葉は、耳を澄ませば聞こえてしまうものだから、リフにも聞こえているのだろう。
もっとも、ここで奇策は要らない。というより、策を弄せない。
ただ戦力が欲しかった。
俺だけが目立ち俺だけが標的にされる、そんな男から隙を作りたかった。
「奴は脱獄囚だが――あの全身甲冑は明らかに害為す者。戦力は三対一……わかるな?」
女が言った。男に目配せすれば、疑問を呈する声が響く。
「三? ヒィ・クライトもか。今、明らかに誘いに乗った感じで、この国に恨みがあると言ったが……」
「私が見る限りで、奴は割かし頭が悪い」
「顔見りゃわかるが」
いや、わかるなよ。わからないでください、マジで。
最近は面目もクソもないほどに落ちぶれているんだから。初対面でそんなことを――。
「でも、鉄を溶かすほどの力を持ってる。だが私たちは手傷を負うこと無く、奴を追えていた」
「……なるほど」
「あの甲冑は問答無用で壁を破壊した。ヒィ・クライトの生存が不思議なくらいだが、少なくとも奴はジェフを殺している。――我々はッ! 仲間を殺されて黙って居られるほど気高く冷徹で醜悪な王宮どもとは違うッ!」
女が吠え、男が抜剣した。
距離は走っても十数歩の距離。もっとも、それでもリフの能力効果範囲に侵入しているのだろうが。
「ヒィ・クライト! 我々は貴様に手を貸すのではない、ただ敵が共通しただけだ!」
「……と、言っているが?」
彼女の言葉に、誘いを明確に切り捨てていない俺へとリフが問う。
俺はあからさまに困ったように肩をすくめて、嘆息した。
「こりゃ参ったな。せっかく、あんたらのはた迷惑な目論見から開放されると思ったのによ」
「いや、安心しろ」
なんにしろ、もっとスマートにできないものか――とは思うのだけれど。
真っ直ぐの正義感ゆえに、彼らへの好感は、少なくとも抱けたわけで。
「ついて来い!」
女が叫んだ。
その指図の直後、彼女が床を駈け出したのを見た時、その肢体は既にその場から消え失せていて。
通路をまっすぐに吹き飛ぶ影は、影を細切れに空間に残して、最奥たる壁に勢い良く叩きつけられた。
凄まじい炸裂音が反響する。建物が、鈍く振動した。
「邪魔などさせんよ。貴様の選択が、なんであってもな」
「てめえ……っ!」
拳を握る。その程度には――否、全身に力が滾るくらいには治癒した。つまり傷が完治した。
だから許せないと思った。
独断や蛮勇ではあったが、彼女は紛れもなく正義のために動いたのだから。
己の中で己を衝き動かす感情に従ったのだから。
たとえ非力故の結果がこれだったとして、しかし、
「羽虫などはいくらでも振り払ってやろう。”貴様のため”にな」
侮蔑など、許されていいわけがない。
「だったらまず、あんた以外の八人を皆殺しにしてこいよ。なあ大将! あんたが”俺のため”を思ってくれるならよぉ」
賢く戦う?
選択する?
なるほど、長生きするには不可欠だ。
蛮勇も無能も、時には必要。戦場では捨て置けぬ重要な要素にもなる。
正確無比な戦略も、圧倒的な力量差を持つ敵を打破する戦術も、今の俺が生み出さなければならないものなのだけれど。
「無謀だな」
リフが吐く。
俺に唯一残された手段をくくる、ただ一つの台詞だった。
「護る戦い? くそったれだ、ンなもんの為に俺は何度死にゃいい!?」
頭が滾る。脳髄が沸騰する。
本日最大の熱量が迸る。激昂が、全身の細胞を沸き立たせた。
「俺はあんたと出会ってから、クソほど悩んだ。この細切れ肉もねえ頭をちぎれるほど捻ったし、”知恵熱”が出るほど頭を使った。何も思いつかなかったがな」
だから単純に強くなりたいと思った。
誰にもすがろうと思った。
それが例え、己に合わぬ戦闘術を生み出した男であっても。
俺の運命を、その身勝手なままに操作しようと出現した時の人であっても。
「だがな、今分かった。俺はもうっ、誰かを護る戦いなんかしない……いや、意識しない! もともとできていなかったんだ。俺は、誰のためでもない」
ただ。
ひとえに。
純粋に。
「あんたをぶち殺すために戦うんだ」
一泡吹かせてやる。
いくら死んでもいい。誰が死んでもいい。
こいつだけは許していけない。俺が、俺が生きているうちに、こいつを始末しなければならない。
こうして粋がって叫んでいても、頭の中で退避を命ずる警鐘が響いている。未だに俺は本能で、こいつには敵わないと理解している。ヘンな所で、強情なまでに冷静過ぎる判断。俺だってわかってる。
声をあげたのは、宣告したのは、今ココでビビって震っちまってるのを隠す一つの手段なのだから。
「ならばもはや、貴様には何も言うまい」
男が構える。
姿は消えない。ただ、彼は何かを握った。
それは、暴風が唸るような爆音が響きだした瞬間、でもあった。
俺が壁から背を引き剥がして前に出る。その所作を見て、リフは僅かに小首をかしげて、
「……ふっ、面白い」
重心をやや落として、前のめりに構える肢体。右腕は後ろに引かれ、片手に握る剣で襲い掛かってくるぞというポーズはあからさまだった。
視界はしの男に避難を促そうと視線を向けるが、しかし彼は既にその場におらず。壁に埋め込まれた女もろとも、姿を消していた。
僥倖、と嗤う時。
リフは、滑稽としか言えぬ指摘と共に嘲笑した。
「右腕が治りきっていないぞ、ヒィトリットッ! そのザマで――」
「……ぷっ、はは――マジか、あんた?」
だから俺は、吹き出してから少しして、その言葉を実感した。
男の言い種は、まるで瓦礫による傷が未だ治癒していないぞ、というようなものだ。この腕は、ノーシスを離れる前にできた障害で、既に少なくとも七日以上前の事なのに。
「何が可笑しい。貴様は……」
こいつは、何も知らないなんて。
「さすがだぁ、大将。人望もクソもねえ、本当に率いてんのか? 残り八人全員よ」
「我ら同胞を、侮辱するつもりか?」
「おいおい、マジに沸いてんじゃねえだろうな。俺は、あんたしかバカにしたつもりはないんだが? もう何日も前の事すらまともに報告されてねえ大将さんよ、俺ぁあんたのことしか話してないつもりだったが、どうやら食い違っちまってたんだろうな?」
「……きさまッ!」
「怒ってんのか? 思った通り、小さいオツムと器は耐え切れねえようで」
良かった、と思う。
こいつがバカで。
ただの、能力自慢の糞野郎で。
冷徹で冷静で、プライドをこすってみただけで怒り心頭してしまうようなマヌケで。
「来てみろド低能がっ、人間様との格の差を見せつけっ――」
言葉が失せた。
同時に、リフの姿が喪失した。
その直後に、俺の腹部に灼熱の激痛が迸っていて――視界一杯に広がる眩い光沢が、網膜を灼く。
腹に何かが突き刺さっていた。その切っ先は、背後の壁すらも貫いていた。
鋭い程に研ぎ澄まされた反発の力だった。つかもうと思ってもつかめず、指先が触れた瞬間に、電撃が走ったかのように左腕は勢い良くはじけ飛んだ。
激烈な痛み。動かないことはないが、指先の感覚は鈍い。
「久しぶりだ、ヒィトリット。私は本当に、久しく怒りを覚えた。これほどまで、はらわたが煮えくり返るという感覚は、もしかすると初めてかもしれない」
「……て」
訂正。
怒れば怒るほどに、冷静になるタイプ。
研ぎ澄まされるタイプ。
ゆえに。
俺はこんな状況で、最悪の選択をしたことになる。
どうやら本当に、俺は運が悪いらしい。
「てめえは、だったら……感謝の、一つくらい、してほしい、くらいだ」
喉から逆流する鮮血が口腔に広がった。飲み込むのすらためらわれて、それを勢い良く男の鉄仮面にぶちまける。
赤く濡れた顔面を掴むように、俺は左手を男へと伸ばした。
冷えた感触。特別何かが違うわけでもない、ただの鋼鉄の手触り。
「感謝しているさ。感謝ついでに、私の希望も受け入れてもらいたいと思ってな」
「希、望……だぁ?」
熱湯のような血に喉が焼けた。
かすれた声に、しかしリフは構わず続ける。
「ライアの契約を、私に移行させる。そのために、貴様には死んでもらいたい」
「……なら、なぜ一度、誘ったんだ……?」
集中。
集中。
集中。
俺の左手の中心に、鋭い針が突き刺さる緊張が走る。
全身の痛みが、左手に集中する。骨が砕けるような痛みは、だけれど物理的なダメージを及ぼさない。
全ての力が、持て余すほどにそこに集中しているのだ。
「私は禁忌を犯した。その代償を償うためには――」
全身の筋肉が収縮した刹那。
俺の左手から放出された衝穿撃が、無防備なリフの肉体を容易く呆気無く、吹き飛ばしてみせた。
四肢を外に投げ出して、彼は己が開けた壁の大穴から外へと弾ける。
腹に刺された反発の力は喪失し、
「はっ、はっ、はっ、はっ……」
頭がおかしくなりそうなほど、極めて短い間隔で俺は呼吸を繰り返していた。
全身の筋肉が硬直したまま動かない。だから、俺はまた壁に押し付けられたまま身動きがとれなかった。
脱力、するはずなのに。
凄まじい疲労があるはずなのに。
身体は、まるで何かを拒絶するかのように筋肉を緊張させるだけ。疲れは無く、意識は、頭は冴えたまま。
「き、さま……貴様、貴様ッ! 魔術を……どこで、貴様ッ!」
ダメージはまるでないように、リフは立ち上がり、吠える。凄まじい声量の絶叫が、ビリビリと大気を震わせた。
「私の魔力を利用して、カウンターだと? 良く考えたものだがこの程度……ッ?!」
大股で歩み寄る。
跳躍や疾走などなく、リフはそのまま、廃屋じみた通路へと侵入して、足元の瓦礫に躓いて。
立てなおそうとした彼は、だけれど膝を折って床に落ちた。
がん、と甲冑が音を立てる。共に、鉄仮面の中心から細やかな放射状に走っていた亀裂が、その衝撃を契機に致命的な崩壊を促した。
顔前を覆う板金が細やかなクズになってパラパラと落ちていく。リフの顔が、あらわになった。
「なっ……てめえ」
意外そうに、驚愕しているように目を見開いた男の顔。壮年の風貌には清潔感があり、その金髪はまるで絹糸のようにキレイだったのだけれど。
左半身は、焼き爛れるように見る影もない。肉の繊維があらわになって、まぶたはなく、眼は見開かれたままのように眼球をギョロリと見せる。
美貌とグロテスクの同居。ある種の芸術性すらありそうな容姿に釘付けになる俺を、瞳が捉えた。
「予想以上、だと言うのか。私を、斃すには到底至らぬ程度の衝撃が」
ふっ、と口角が釣り上がる。
対照的に、口元が歪んだ。
怒りか、悲しみか、苦楽かわからぬそれは、
「見たな。私の姿を」
右手が顔面を掴むように覆う。
彼はただ、不吉な文言を吐いた。
「これは”屈辱”だ。私にとっての、とてつもない屈辱だ。言葉で告げるより遥かに、な」
「……その汚ねえ面が、か?」
「違う、私の愚かな禁忌の代償だ。私の肉体は、もはや外骨格で維持しなければ崩れる程に弱っていた。食らわねば、ここまで回復出来なかった」
「なるほど――そういうことかよ」
最初に誘ったのは、つまり。
「貴様は喰らうに値した。おそらく、貴様で、私の肉体は完全なるものに回復したはずだ」
諦めたのは、つまり。
「だが、食欲より殺意が勝った。腐りかけは美味と聞くが、すえた腐臭を放つものを喰おうとまでは思わん」
「よく吠えやがる。俺が怖くなったのか?」
「阿呆か。無い脳みそを働かせてみせろ。私が貴様に告げる理由は、ただ覚悟させるためだ。私がなぜ貴様を殺すか。この私がッ――貴様程度に一度退く選択を強いられるゆえにッ!」
男は立ち上がり、
「貴様に、私という存在を、刷り込むためだ。死ぬまで私に怯えろ。貴様は必ず、私のこの手で殺す。この世の、思いつく限りの殺し方で」
「だったら俺は、俺が思いつく最大の屈辱的な方法であんたをぶち殺す」
「せいぜい吼えていろ。ただ一つの取り柄ならばな」
リフが僅かに腰を落とした。
そう思った瞬間には、やはり圧倒的な速度で跳躍。
後方ではなく、男はその能力を用いて垂直に飛び上がっていた。
激しい炸裂音。頭上で分厚い天井が砕け――けたたましい掘削音に似た爆音が頭上で連続する。
俺は降り注ぐ瓦礫の豪雨から逃げるように、リフが開けた通路の大穴から外へと避難した。
その頃には、腹に開いた穴はすっかりと癒えていて。
「さて、行くか」
休む暇など無い。あるわけない。誰よりも、俺が許可しない。
だから当初の目的通り、俺は王立図書館を目指すことにした。




