第九話 英雄の資質
俺の肉体が重力に引かれる。
ヌルい風が一陣吹き抜ける。
眩しいくらいの陽光が降り注ぐ。日差しによる熱を、俺は全身に感じた。
両足がしっかりと地面を踏み込んだ時、胸の最奥で刃が捻られ、心臓をズタズタに破壊しながら引きぬかれた。
『この小生が、これほどまで……!』
それと同時にアッシィが飛び退く。左手だけの非力な拘束は、彼を束縛しきれない。
口元を覆う布が、喋る度に動く。が、声はしかし、俺の脳内に直接響くだけだった。
目の下に切子状に先端を切られた剣の刻印。
ともあれ、心臓は留め金となっていた刃から開放されて、ゆるやかに鼓動を再開する。胸いっぱいに息を吸い込んで、この激痛を代償に全力で治癒を続行した。
濁った血が全身を巡る。
だけれど、やはり右腕のしびれたような感覚ばかりは取れなかった。
「っはぁ……あんま、舐めてっからだよ」
ようやく人心地がつく。
このままゆっくり休みたいところなんだけれど――ええっと。
俺はようやく、そこで気がついた。
ここ――どこだ?
改めてあたりを見渡しても、そこは平原。
墓標の影はなく。
アッシィの背後、その遠くに、ちょっとした小屋が建つのが見える。
目的地から、少し離れた位置に落ちてきてしまったようで。
なるほど、むしろ僥倖だと思った。
胸の痛みを食らった代償は治癒に使ったが、未だそれでも余りある。治癒は一定、人による技術じゃないからどの部位を削られたとしても、労力は変わらない。
だから強いイメージと共に、
『――ッ』
隆起する大地が、ほんの一息にしてアッシィを貫く。
彼を中心に円を描く。その縁から突出する鋭利な大地の牙が、瞬時にして多方位から彼の肉体を射止めたのだ。
腕を身体に縛られ、切っ先は腕を抜けて腹、その向こう側の肩口から抜ける。それが左右、ほぼ同じように穿っている。
腹を貫通する。
胸を貫く。
アッシィは目を見開いたまま、現状の理解をしようとして。
「悪いな、俺ぁ一人の方が強いんだ」
俺の中に、強烈なほどの存在感を感じる。屈強な男の力が、直接身体に影響を与えているのを理解する。
地精霊による大地変動が、共鳴のように激しく地鳴りを起こし始めて。
だけれど、そこに発動までの猶予なんてものを置くわけもなく。
『甘いな――』
アッシィの肉体が、直後に不可視になる。
されど、そこに続くように俺が立つ歩幅分だけを除いて、地表が総毛立つ。
地響きとともに、鋭い切っ先を持つ鋭利な隆起が、怒涛となってアッシィへと襲いかかった。
まずは第一陣。その全てがアッシィに食らいつき。
その外周からは、突き刺さった隆起を押しこむように大地が流動する。
溜まったゴミを寄せ集めるように、隆起はやがてアッシィを中心に巨大な岩石を創りだすまでに至った。
それはほぼ一瞬の出来事。
首を回してあたりを眺めれば、周囲はまるでハリネズミの背にたったのかと錯覚するくらいに、びっしりと鋭く天を衝く隆起が埋め尽くしていた。
『――甘い、ヒィ・クライト』
だというのに。
声は、何事もないかのように俺の頭の中に響き続けていた。
一つの推測が頭を過ぎる。
彼は己の能力を明確に発していない。
ならば、知覚できないというのは能力の一部でしか無く。
それはブロウと同じく概念的なもので、知覚できない時点で何ものにも干渉されなくなるのではないか――。
そう、想わずには居られなくて。
『一つ褒められるとすれば、小生をあの場から引き離したことだろう。もっとも、そこに貴君の計算など無かったのだろうが』
堪えた気配すらない。
これほどの攻撃、人なら即死で、悪魔でも致命傷であるはずなのに。
『貴君の中にあったのはひたすらに自己犠牲への渇望。仲間のために己を捨てたのではなく、自己満足の為に貴君は自分を傷つけずには居られなかった。まるで一昔の英雄か何かだな。民のためになるならば王を除くために己を犠牲にするような、ひどく滑稽で雑だとしか言いようがない存在』
「……時間稼ぎのつもりか?」
口をついて出る。
あまりにもよく滑る舌だから、そうとしか思えなかった。
『時間稼ぎ? 違うな。そもそも時間など、稼ぐ必要すらない』
「――そのとおりで御座います」
心臓が停止るかと思った。
声は、姿は、突如として目の前に現れた。
黒い影、その顔面に巨大な眼球を一つ埋め込み、頭頂から角を生やす奇っ怪な姿……イルゥジェンは、俺の眼前で錐状に隆起する大地の切っ先に立っていて、
「そしてビンゴ。これで私めの役目も終了ということでよろしいですな? イクス殿」
その傍らには、一人の男が立っていた。
イクスと呼ばれた、
「ああ。お前はもう戻って良い」
黄金の短髪をツンツンに逆立たせる男は、その総身を黒衣のような衣装に包んでいた。
さながら、修道士のそれ。
左頬に十字を傾けた形に刻印を刻むのは、何者かと契約している証であり。
「御意に」
告げるが早いか、それはいったいどんな奇術か。
イルゥジェンは直後にその姿をかき消して――残されたイクスは、感情の喪失した眼で俺を見下ろしていた。
氷水が全身を巡っているかのように体中が凍え怖気を覚えているというのに。
今まさに止まりかけた心臓は、もう破裂しそうなくらいに元気よく鼓動し、俺に警鐘をかき鳴らしていた。
全身総毛立つ。
体中が泡立つ。
ビリビリと、肌に刺激が走り。
俺は現時点で、既に逃げの一手を思考していた。
一目見ただけでそう判断せざるをえないほどに、イクスと呼ばれた男は危険で、あまりにも強すぎた。
「こんにちは、とでも言っておこうか。まったく、突然転移なぞするものだから私とて些か焦らされた。実際、危惧がこうした形で現れているのだから、急いでよかったと言うべきか」
軽い声色。
すっと、耳の中に溶け込んでくるようなその声とは裏腹に、視線は俺を射抜き、口元はどこか嗜虐的に歪んでいた。
とても修道士や神父の類ではなく。
彼が脇に手を伸ばした途端に、黒い影が手元から虚空へと長く展開した。
「やれやれ、虚勢ばかり張るものじゃない。だろう、アッシィ?」
握られるのは長剣。
最も、それは遥かに身の丈を超えた巨躯であり、その切っ先を喪失させた切子状。楕円の先端を持つ剣は、刺突の機能を切り捨てたが為。
つばが短く、取り扱いが易くなるという配慮は、その巨大さ故に霞んで見えて。
その大剣が何を目的として創られたか、想像できてしまう分怖い。
『済まない。この小生、やや慢心していた』
「しかし、共闘など相容れぬ相性だ。なぜ私がお前と契約を結んでしまったのか、甚だ理解できない」
『此方の台詞だ』
「だが、だからこそなのだろう。私たちは、故に余り物だった」
目の前の談笑。
アッシィは変わらず軽口のように言葉を発していて。
イクスが俺をちらりと見る。思わず後退りしようとして、隆起した大地が背を叩いた。
「そんな私達でも、だ。彼を侮ってはいけない。少なくともスミスは彼の手によって葬られたし、ブロウの風穴を開けたのは彼だ」
その後、ルゥズに苦戦し、エントにしてやられてリフには歯も立たなかった。
ここに転移出来なければ、もしノーシスに居続けたままだったなら、今頃俺は死んでいただろう。少なくとも、抵抗する手段はもう無かったはずだ。
イクスは俺を見下ろしながら、ゆっくりと剣を振り上げる。
その切っ先の上で器用にバランスをとったまま。
彼は、素振りとも言えぬ気軽さで後ろへと剣を振り下ろした。
その、刹那だった。
イクスの背後で爆裂音が轟いた――そう認識した瞬間に、大地が激しく鳴動した。
衝撃が砂塵を巻き上げる。故にその軌道状が、その斬撃の通り道を見せるように視認性をゼロにするほど濃密な塵芥が、岩石が吹き飛んだ。
一直線に進んだ斬撃が、そのままそそり立つ見上げるほどの巨岩を瞬間的に切り裂いて、
『感謝する』
全身を血塗れにするアッシィは、その衝撃によって岩から開放された際に、すかさず刃でそれを受け止め、斜め後ろへといなす。
彼は僅かに弾かれたように横に跳んでから、またイクスと同じように隆起の上に屈みこむように着地した。
『身体中が久しく痛いな。小生とて、死なぬわけではない』
「だが死なないだろう? 暫く戦闘が無かったからといって、軟弱になってもらっては私が困るのだが」
『わかっているさ。貴君に心配されずとも、小生は至って健全に向上を図り続ける』
ふん、と鼻を鳴らしてイクスが頷く。
断罪の剣は、ようやく俺の首を刎ねる為だけに翻る。平坦な切っ先が、かま首をもたげた。
『――ッ?!』
意識がそこに集中する。
既に射抜かれているかのように、俺の首筋に針で刺されたかのような鋭い緊張に痛みを覚える。
そんな折だった。
アッシィが跳ぶ。それを認識した時には、もう彼の姿はイクスの真横にあって。
だけれど、そんな事自体は、もうどうでもよくて。
『危険な香りがする。撤退を提案する』
「……どこからだ」
『遥か後方の小屋から。姿や人影はないが、明らかにこちらを意識する者の気配だ。ただものではない』
「お前が言う程だから相当だし、疑う余地もないが――それは、私が退去を選択するほどか?」
『是。この気配は末恐ろしい……なぜ気づかなかったのか、小生は小生を信じられぬほど。おそらく、これは魔女に匹敵するやもしれない』
「魔女に?」
少し驚いたような、声量を上げて高くなる声色で繰り返す。
アッシィは、もはや何も語らず頷いた。
「少しちょっかいでも掛けてみようか。この距離なら、さすがに何も起こらないだろう?」
しかしイクスは、どこか嬉しそうに口元を歪めたまま、くるりとその場で回転する。振り向いた彼は、片手でアッシィの肩を掴みながら、遠方に見える小屋を見据える。
『推奨しない』
「ま、そういう見方もあるだろう。私がついているさ」
イクスの背を見ながら、俺はここからどう逃げ出すかを考え。
身動きせずに俺を睨んでいるアッシィに気がついて、思わずため息を漏らした。
『小生が止めている。貴君が首を突っ込んで無事なものではない』
「お前の鼻は信じているさ。私はただ、試すだけだ。私自身の力で、どれほどお前が危惧する存在に対抗出来るかをな」
『ヒィ・クライトはどうするつもりだ。もはや逃げる算段しか頭に無いようだが』
「今回は顔合わせ、ということでいい。もともと、今回では殺害を止められているからな」
言ってもわからない、というのが聞いている側の印象だったけれど。
眉間に皺を寄せて、もう俺ではなくイクスを睨んでいるアッシィを見るに、心底同意見なのかもしれない。
悪魔はてっきり、ブロウ以外はリフを信頼し信仰して付き従っているのかと思ったけれど、随分とまあ現金で本能的な連中ばかりなのだと思う。
彼らで九、十人目。
もう、これ以上新しい個性的な奴らは出てこないのだけれど。
「このイクス――行かせて貰うッ!」
肩口まで腕を上げ、袈裟に剣を落とす。
その際に生じる爆発的な暴風が、瞬時にして周囲の大気をなぎ払い――真空の刃が、間髪入れずにイクスの視界内の鋭利な隆起のことごとくを横真二つに切断してみせ。
僅かに崩れたバランス、ブレた軸、定まらぬ重心、その全てに配慮しない力を込めた刺突の動作が、イクスから一直線に衝撃波を放出させた。
隆起が起こっているが故に、大地は普段より高い位置にある、はずなのに。
衝撃がそれらを削り、抉る。
高い位置からの攻撃は、だというのに地面は破壊の限りを尽くされたように、そこに巨大な砲弾が通過したかのように地面は綺麗に削り取られたような痕を刻まれていた。
俺はその余波で背後の岩石に肉体を押し込まれるだけで何も出来ず。ただ、イクスが息を呑む声だけを聞いて。
「……ッ、アッシィ!」
『だから言ったのだ――さらばだ、ヒィ・クライト。また会える時を心待ちにしている』
呼ばれるままにアッシィはイクスを脇に抱えて跳び上がる。
俺が目で追おうとした時には、もうその姿は知覚できず。
嵐の過ぎた後、喧騒後ゆえにより顕著になる静けさの中で、際立って騒がしい鼓動に耳を傾けながら。
俺は短く呼吸を繰り返して、その場から暫く動くことが出来なかった。




