5:修練期間
「だから、こうですよっ」
ウィズが上肢を折る。重力に逆らえぬ双丘が、故に服ごと胸がたわんで揺れる――のだけれど。
「こうして」
右方向に身体を向ける、その刹那に。
「こう!」
極めて俺に近い位置に飛び込んで、すぐ横に着地する。
彼女はそのままくるりと回るように容易く、俺の背後に回りこんでみせた。
かき乱された大気が、元に戻ろうと風を起こす。
彼女の機動はまぎれもなく、速度を基本にした移動だった。
「わかりました?」
「まあ、理解は出来た……んだが」
すっかり藍色に飲まれた空には、眩い月が浮かんでいる。その月光はこの平原を明るく照らしていて、俺は夕食を終えてから、引き続きニーアの訓練を再起しながら続行していた。
訓練相手はウィズ。
ただ見学していただけの彼女は、その恵まれた身体能力と学習能力で、俺よりも遥かに早い速度であの訓練内容を熟知し、身に着けていた。
もう守る必要などなくなりつつあるウィズに、俺の必要性が薄れているのを感じる。
だけれど、この関係が終わるのか、あるいは良い方向に転換するのかは、俺にはまだわからない。
「難しいな」
身体が追いつかない。
まず相手を完全に騙すために、本当に右方向へと体重を移動しかけなければならないから、フェイントで終わらない。
だから少しだけ動きが止まってからでしか左へと動けない。
厳しい。
辛い。
そりゃ、こんな弱音の一つや二つも出てくる。
右腕が動かない分、ストレスも溜まるし。
それで、そんな事をうじうじと考えていれば考えているで、自分がちょっと嫌になって。
嫌になる自分が、女々しくてどうにもムシャクシャする。
「はぁ」
今更何かを覚えようとするのは無茶なんじゃないのか。
そもそも、確かに俺には精霊術の才能はある。だけれど、この身体ばかりは厳しいかもしれない。
もう一日経っても右腕の感覚は殆ど無いままだし。
どの道、術が通用しない時点で勝ち目など――。
「クライトさん。少しは休みません? 気持ちはわかりますが、ぶっ続けでやっても疲れるだけで、思考は鈍るし、良いことなんて何もありませんよ」
「わかってる。だけど――」
「わかってるフリはもういいです。クライトさんは、以前からそうだったんですか? 心配させないようにしてるのか、どうでもいいと思ってるから簡単にあしらってるのかわからないですけど」
妙に噛み付いてくる。
ウィズはちょっと不機嫌そうな顔で、俺を睨んでいた。
だから少し動揺する。
面と向かって彼女にこう言われたのは、初めてだったから。
「逆効果です。クライトさんだってわかるでしょう? そんなんじゃ、お付き合いするみなさんを気苦労させるだけです」
意訳すれば、つまり「私が疲れるからさっさと休め」と言ったところだろうか。
まあ、付き合わされている彼女からすればそうなのかもしれない。
俺のように強くなる理由など無いし、
「私も疲れます。ていうか、もう既に眠いです」
その目的もない。
「ああ、悪かった。なら帰ろうか」
「……ええ、それでいいんですけど――釈然としません。あなたは、私が言うまで訓練を続けてたんですか?」
「かもしれないな。最近どうにも調子が悪いから、少し意地になってた」
腕が動かない。
悪魔に勝てない。
四大精霊が二人も居ない。
ジェーンが死んだ。
ライアが連れ去られた。
これまでの報酬未払いの問題なんてどうでも良くなるほどの問題が、連続して起こって。
俺は俺の力を信頼できず、だからこうしてなりふり構わず教えを請うてみたのだけれど、あまり効果がないようで。
確かにたかが一日で実感できるほどの強さを得られるわけがない。
だけれど、今の俺は現金なもので、どれほどヤワで脆くても、即物的なものに縋らずには居られなくて。
「……あの船の上で、ご一緒だった方のことですか? あまり、触れたくはない問題でしたけど」
恐る恐る、彼女が声をかける。
先ほどの、怒気をはらむような口調はない。
「ああ」
あそこが契機だったのかもしれない。
「俺はダメだって、良く分からされたよ」
弱音を零してから、思わずはっとする。
「ダメって……私だって、知ってますよ。あの時の悪魔は、一番強いってラフトさんが言ってましたし。クライトさんが一人で、多くの乗客を助けたことだって知ってます。そんな悪魔がいるのに、十分じゃないですか」
俺は彼女の気をひいてはいけない。
だから大きく息を吐いてから、
「ああ。確かに十分だったかもしれない。ただ、君の仲間を守れなくて、申し訳なかっただけだ」
「……それは、しょうがないです。ライアさんだって死んだって決まったわけじゃない。ジェーンさんは……」
彼女だけ死んでしまった。
俺が守れず。
俺を護るために散っていった。
不謹慎、なのかもしれない。
俺は彼女の死を想うときに、いつでも拳に力が入る。
彼女の死を弔うわけじゃない。
想像するのは、いつでもリフの姿だった。
この拳を奴にぶち込んで、原型が失せるほどに幾度も幾度も暴力を振るいたい衝動に駆られる。
遠くから俺の扱える最大火力の精霊術を、この総身を代償にしてでも打ち込んでやりたいと思う。
敵討ちだ、復讐だと――また上辺の決意ですら無い、ただの衝動に意識が飲み込まれる。
だから俺は確信できた。
これからの力は、なにがなんでも”護るため”に使わなければならない。
そうでなければ、エントの、ブロウの思惑通りになってしまうから。
そしてこの選択が、また次の四大精霊に愛想をつかされてしまう結果になったとしても。
「それで、だ。エフォウ」
「……はい?」
静まりつつ在る空気を引き裂くのは、俺が叩く手の音。
声を掛ければ、彼女は少し驚いたように俺を見る。
「今後のこと、考えたか? 一応、目的地があるなら送り届けようとはおもってるんだが」
「ああ、その事ですか……すみません、まだ。やりたい事もわからないですし、目的なんて尚更です」
「だったら、当分はあのノーシス城下町で過ごしてみないか? 生活面だったら、自立を目指しながらローゲンたちに手伝ってもらえば良い。フレイさんだって協力してくれるだろうし、国王からだって、あの船での被害者なんだからなにかしらあるかも知れない。エフォウは、そこそこのスタート地点には立ってると思うんだ」
少なくとも選択肢を間違えなければ、彼女は幸福に人生を送ることが出来るかもしれない。
そうして職に就き、良い人と出会って、あの時の命の恩人なんてものをすっかり忘れて。
俺の言葉に、エフォウは目を伏せて、小さく唸った。
「ローゲンたちに迷惑だと思うなら、働き出すまでのかかった費用を返済していけば良い。エフォウなら立派にやっていけると思う」
「私ね、クライトさん。思う事があるんですよ」
ゆっくりと彼女を引き離す必要はもうない。
いや――。
もし本当に彼女を危機に晒したくないのなら、俺の孤独感なんて度外視して、俺が眼を覚ました時点から消え去ればよかったんじゃないのか。
俺は本当に、彼女から離れたいと思っているのか?
「私には、できる事があるんじゃないのかって」
打算的に、その好意を利用してぽっかりと空いた穴を埋めたいだけなんじゃないのか。
だからまた、懲りずにウィズに好かれたいと思っているんじゃないのか。
今夜の訓練も、ウィズじゃなくてローゲンやラフトを選ぶことだって出来たはずなのに。
「クライトさんが訓練を受けてるのを見て、私だけが、与えられるまま、それが当然と過ごしていて良いのかって」
俺は本当にライアを助けたいのか。
そもそも、だ。俺は連中に対抗する手段など持ち合わせていないのに、その根城を探しだして突撃なんてことが出来るのだろうか。
「一生懸命やってるクライトさんを見て、私も何かの為にやらなきゃって――そう、思っていた気がするんです」
「エフォウならなんでもできるよ」
「クライトさんは、何をしようとしているんですか?」
「俺か? 俺は……ひとまず」
「じゃなくて。最終的に」
突っ込まれて、言及されて。
俺は口をつぐむしかなかった。
これから俺の故郷に戻って、師匠と再会する。彼女と出会うことさえ出来れば、また何かが代わる気がする。
俺を、より強くしてくれるかもしれない。
彼女の教えなら、どれほど過酷だろうと俺は全てを受け入れるつもりなのだけれど。
その後、となれば。
――ライアは、俺が強くなるまで無事だろうか。
あの日から、まだ一度も彼女の視界は覗けていない。
「まだ、わからない」
だから答えから逃げる。
一番楽な選択だから。
責められても、追いやられても、逃げ続ければ俺は傷つかない。
開き直れば、どうして俺がそんな事をしなくちゃならないんだとか言えるのだけれど、それは人としてどうよ? とか思えるから言えないけれど。
「私もです。だから暫くは、ご一緒しても大丈夫ですか?」
「……だけど、そうなると俺とエフォウの二人旅になるぞ」
「ええ……? 何か、問題でも?」
「危ないだろ」
いろいろと。
耳年増のくせに、そういう白々しいトコ嫌い。
そんな俺の心の内を読むように、悪戯っぽく笑って、後ろで手を組みながら踊るようにくるりと回った。
少女っぽい所作。
ちょっと可愛らしく思わせるのが、打算的に見える。
「クライトさんなら大丈夫な気がするんです。一途っぽいから、手を出さなそう」
「馬鹿にされてる気がする」
でも、これは良い方向へと動いているんじゃないのか?
「ふふ、そんな事無いですよ。信頼です」
「この短期間で?」
「今日のクライトさんを見れたから。たぶん、クライトさんには命を賭けてでも何かをしてあげたい人がいるんですよね? 私ね、不純かもしれないんですけど、誰かのために頑張れる人って、すごい尊敬しちゃうんです」
今までが、本当に停滞して動かなかったから。
それが、今までずっと憧れだった。
「だから、もしクライトさんが一度でも私のために命がけで頑張ってくれてたら、どうなってたかわからないんですよ?」
ああ――だからか、と納得する。
彼女が俺に惹かれた理由。
ウィズが郷で差別されていた時、特攻して、彼女を身勝手に開放した。
全身に矢を穿たれて、それでも俺は俺の意思を貫いて抗議した。
それがきっかけだったのだろう。
「弱くても、強くても、関係ないんです。誰かのために頑張れる……その気持って、結構重要ですよ? 惰性で救われるより、想われて救われたほうがいいですよね」
「結果じゃないって?」
「結果も大事ですよ。だから、クライトさんは強くなろうって思ってるんですよね」
「そりゃ、つまり強くなけりゃなんだかんだで無駄ってことじゃないのか」
「無駄にしないために努力してるんですよね? それって、結構カッコイイことだと思うんですけど」
なんか、
「俺の話になってない?」
「私、他の誰かの話をしましたっけ」
「してないけど……なあウィ……エフォウ。俺のこと、ローゲンとかが何か言ってたろ」
「ええ。実はライアさんと知り合いで、彼女を救けるために不眠不休で苦悩してるって」
また勝手なことを。
どうせ、彼女が俺についてくることを前提に話してしまったのだろう。
その方が、結果的に早いとかなんとか思って。
あの馬鹿――ああもう、どうにでもなれってんだ!
「私も、少しは戦えます」
最強の力ってのが、少し程度で済めばいいのだが。
「一人旅より、少しはマシだと思います」
少し程度で、済めばいいのだが。
「ていうか、誘ってくださいよ。女の子からこんなアプローチって、なんだかすごい惨めな感じがしますけど?」
確かに。
必死過ぎて、告白されているのかと錯覚していた。
だから俺は胸いっぱいに息を吸い込んで、ちょっと気恥ずかしい気持ちを押さえ込んだ。
口を開く。
ウィズは、ちょっと期待するような眼で俺を見た。
「俺に付いてくるってのは、すげえ過酷になると思う。基本的に悪魔との戦闘が殆どだし、その合間には資金稼ぎに傭兵業を続行しなきゃならない。そんな事に、俺はエフォウを巻き込みたくないと思ってた」
「……はい」
「俺はエフォウの事をあまり知らない。君も同じで、不安だと思う。あんな事があった後だ、それでも誰と居るだけで、まだ和らぐのかもしれないけど」
「クライトさん?」
「……なに?」
「次の言葉を繰り返してください。えと、”俺についてこい”。どうぞ」
「俺についてこい」
「了解です!」
こんなのでいいのか――と思うけれど。
俺は大きく息を吐いて、何か、妙に吹っ切れたような感覚を実感していた。
一つの問題が解決した。
つまり、俺はもう前に進むしかなくなったわけだ。
そんな、わけなんだけれど。
目の前の空間、ウィズの背後がまばゆく輝く。
瞬間に、その光の中から一つの影が、現れて。
悪魔なのかと、全身に緊張感を漲らせたその時、悲痛な呼び声が、俺の動きを止めていた。
「ヒィ! すぐに来てくれ、ドラが――悪魔が、街の中に出た!」
解かれた長い金髪を激しく乱しながら。
ラフトは絶叫じみた声で、俺に救援を望んでいた。




