4:訓練期間
「大変そうですねぇ」
ウィズが用意したバスケットから、サンドイッチを取って口へ運ぶ。
隣にやってきたローゲンが手を出そうとして、ぴしゃりと手を叩かれてたしなめられた。
「いいじゃないか、山ほどあるし」
「ダメですよ。クライトさんの分です」
「しっかりした娘だな。ヒィが拒絶する理由がわからないが――ともかく、ドラは嫁さんの飯があるだろ」
ローゲンの隣に並んだラフトが、煮込んで味付けされた肉塊を噛みちぎりながら告げる。
言われてから、彼はちょっと照れたように口をすぼめた。
「いや、食ってきたからな」
「まったく。妬けるよ」
「ほんとです。私もいつか、素敵な人が見つかるといいですね」
「……皮肉、なのかな」
苦笑気味のラフトの呟き。
記憶のない彼女がそうするわけもないのだけれど、つられるように頬を綻ばせて。
「っぶねえ!」
黒髪の少年の影が、半歩先から消失する。
辛うじて視界の端で捉えた姿から行動を予測して、思い切り前の空間に飛び込んだ。
直後に、俺が居た空間が袈裟に切り裂かれ――前転、そうして身体を起こして振り返りざまに立ち上がる。
「甘い、全然甘ったるいですね。ボクに勝てないようじゃ、とてぶっ」
大地を蹴り飛ばす。つま先に乗った土が宙を飛び、少年の顔面に降りかかった。
それが視界を塞ぎ、口の中に入り込む。彼は思わず上肢を折ってつばと共に土を吐き出して、
「悪ぃな、総合面じゃ俺が上なんだよ!」
下を向く顔。
そこに飛びかかるように膝を振り上げて――触れる寸でで、ぴたりと止まる。
にわかにその瞬間、空気が凍えるような感覚に襲われて。
背筋がぞくり、と嫌な予感を捉えていたのだけれど。
「――まあ、いいだろう」
死角から声が響く。
ニーアは手を叩きながらゆっくりと俺の前に姿を表した。
俺は少年から距離を取りながら、短く息を吐いて呼吸を整える。
「生き残るためだけを考えた戦術は、練り上げられている。おそらく、実戦での経験を参考にしたのだろうがな」
ニーアが、そう言ってからわざとらしく口元を歪めた。
「安心した。その程度では私の足元にすら及ばぬことにな」
「あんたが格下だったら訓練なんて請うわけ無いんだから。そんな事でちょっと自慢げにならないでくれ」
「いや、そういう話じゃないんだがな。私はそもそも精霊術に対しての知識があまりない。そこで君が私に術を教えるとして、やはり中途半端に知識があるよりは教えやすいだろう?」
面倒くさい偏見や誤った認識があれば、それを矯正することだけでもかなりの時間を要す。
さらに彼との人間関係が未熟なら、まず俺の教えを話半分に聞いて、そのおかげで結果的に大した成果を得られないだろう。
精霊術はまず概念から理解する必要がある。
それと同じく、何かを教えるということに対して、知識がある者より無知のほうがまだマシということだろう。
「つまり、俺がすごい未熟ってことか?」
「ああ。何より君の強みは”死なないこと”かもしれないが、その事が君の、君自身の命の観念を軽くしている」
腕を組み、片足に重心を傾けるような所作をして、言葉を続ける。
「だから死にやすく、その死が窮地を招く。負けないのはいいかもしれないが、君は死なないための戦い方を目指したほうが、より”厄介”になるだろう」
「厄介? 聞こえが悪いんだが?」
「他に表現が思いつかないんだがな。話だけ聞くに、悪魔を一撃で屠る君だ。その実力と、私の技術が合わされば、精霊術師として致命的なまでに欠けている接近戦を上手く使えるだろう」
「……お、俺はほら、相手に弱く見せることで侮らせて隙を突くタイプだから」
火力だけをほめられる。
確かに、相手を一撃で葬るほどの火力ならラフトやローゲンをも倒すことは可能だ。どれだけ死んでも、最悪一回だけぶち当てれば良い。それゆえに誰よりも、俺の勝率は高いはずだ。
だから、納得してしまう。
それが少し悔しいから、視線を泳がせながら告げてみるのだけれど。
「ほう? それで実際、君は強いのか……っと、聞くのは野暮だったかな」
「さ、さすが年の功。俺ごときの若輩者を軽くいなして挑発するのも息を吐くようにできるわけだな」
「年の功つっても、まだ五十前だぞ。とかく――始めるぞ、準備はいいか?」
首をひねり、骨を鳴らす。
手を組んで空へと大きく伸びてから、白髪頭を撫でるように掻きあげ、不敵に笑った。
「訓練一、私から目を離すな」
◇◇◇
ニーアの笑みが失せる。
同時に、俺の視界から彼の姿が忽然と消えてしまった。
それは移動速度の高さが成し遂げる消失などではない。
いや、確かにニーアの移動はこれまで戦ってきた連中と比べれば格段に速いのだけれど――これは。
「右だ」
言われて、右を向く。
直後に、右の脇腹に鋭い衝撃が走る。体重を込めた掌底が、俺の肉体を容赦なくうがったのだ。
「っ……!?」
「今思いついたことだが――」
思わず脇腹を押さえて、細く息を吐きながらニーアへと向き直る。
男は、まだ消えていなかった。
「今回の訓練はポイント制を設けようと思う」
「――なっ……し、師匠、それは!」
「静かにしろオルビィ。むしろヒィ・クライトのような者にこそ、これが使えるのだがな」
弟子が割って入る。だがニーアは、いつもの調子で容易くあしらってみせる。
彼はオルビィに目を向ける事無く、静かに続けた。その、末恐ろしい思いつきを。
「私が百回動く。残りは九九回だがな、ともかく合計で百度だけ。君が避けられなければ、一度ぶち込む。ぶち込まれた回数を一ポイントとして計算する。その百回目が終えた後の総計を、次回に上乗せする」
「……つまり?」
「次回は百回プラス前回のポイント分。君が全てを避けられるまでこれを続ける。君はこの手合わせ以下の一方的な攻撃の中で、私の動きを観察し認識し理解しなければならない」
これが、と。
一息に話して胸いっぱいに息を吸い込んだニーアが、またにやりと笑って言った。
「創設から今まで、脱落者はみなこの訓練を契機にしている」
「オルビィは?」
「あまりにも金にならないからな。易しいレッスンに変えた……が、いかんせん飲み込みが悪い。もう二年になるが、あのザマだ」
「ああ……」
少し反応がしにくい。
そもそもオルビィはなんのために弟子入りしたのかが、今のところ分からない。
おそらくその若さと余りある正義感が衝き動かしたのかもしれないが。
ちらり、と遠くでウィズたちと共に俺を見ているオルビィの様子を伺えば、彼は彼で複雑そうな顔でこちらを見ていた。
「もっとも、君が嫌だと言うなら強要することはしない。今回の訓練は、君への贖罪のつもりだからな」
「選択肢はあるかも知れないが、俺が進める道は一つしかない……頼んだ、ニーア・パイア。俺を鍛えてくれ」
軽く、会釈程度に頭を下げる。
ニーアは、満足気に頷いて笑みをつくった。
……のだけれど。
「っ!」
背部から肉体をぶち抜く掌底。
すかさず振り返ってみるも、ニーアの姿は跡形もなく消え去っていた。
――もう体中が痛い。
拷問を受けたかのように、全身がガタガタだった。
だから恥も外聞もなくその場をくるりと回って見渡す、が。一周も回らない内にニーアは俺の死角から顔面へと拳を放っていた。
気配を察知する。即座に回避しようと後ろへ身体を反らすと、拳は辛うじて頬を掠めて眼前を過ぎた。
「これはっ!?」
カウントに入るのか否か。
俺の目の前に姿を現すローブの男は、
「まあ、こんなものだろう」
頷いた。
よし――マイナス一だ。
「だが、それでは訓練にならんな」
ニーアが勢い良く屈む。足払いを察知して跳び上がれば、彼の動きは中腰のまま停止して。
「予測と気配じゃない」
突き出された右腕。
指を第二関節まで折り曲げた手のひら。その底を突出させて穿てば、俺の下腹部には尋常でない圧力が一瞬にして撃ち込まれて。
身体が吹き飛びそうになるのだけれど、ニーアが俺の服を掴んで引っ張りこんでいるからそれもままならなくて。
宙に浮かんだまま、俺は為す術もなく地面へと背中から叩きつけられた。
「私を見逃すな、と言ったのだがな。君は君の眼で私を見つけなければならない」
「……ああ」
言わんとしていることは良く分かる。
もしここが戦場なら俺はもう……、あれ?
立ち上がる。
ニーアが俺を見据える。
動きは、もう無い。
「九九ポイント」
ニーアの無表情に対して、俺の膝はガクガクと笑っていた。
「良く一ポイント防げた……と言いたいところだが、まあ君が今のように制限無しに避けていれば半分程度には抑えられていただろう。つまり実質、本質的に何も学べていないということだな」
「否定はできないが……」
学習する暇などない。
ただ見失って、死角から攻撃されるだけ――その繰り返しで、何を見つければ良いのかすらわからない。
「一つヒントをくれてやるとすれば……そうさな」
軽く頭を掻いてから、ニーアが一歩下がる。
瞳は俺を捉えず、どこか不自然に遠くを眺めていた。
そうして、直立姿勢から左足を軽く前に出す。顔は、前を向いたまま。
「この姿勢なら、君はどう動く?」
「左側に回る……とか」
「歩行中だとして、右足が出るまで一秒もない。君は当然、普通に歩いていて足を出す度に視線が揺らいだりすることはないだろう?」
「なら、どうやって」
真正面にいて、普通に歩いている男の死角に回る。少なくとも、背後に近い場所へと一瞬で移動するなど……。
「精霊術で?」
「できたら苦労しないだろうな。私はその場合、こう動く」
ニーアは静かに息を吸い込んでから、口をつぐんで、呼吸を止めて。
突如として、俺に触れるニーアの気配が失せた。
目の前に居る男の存在感が不安定になる。
「基本的に君は前に出過ぎていて、殺気ムンムンで目立ちすぎる。息を殺し、無心になればそれもまだマシになるんだがな。こういうった風に」
「マシってレベルかよ」
「そしてフェイント」
構わずそう告げて、勢い良く俺の右側へと飛び出そうと前に出した左足へと身体を傾ける。
俺も慌てて、決して視線から外さぬように進行方向に警戒するが、
「次に跳ぶ」
前を向いていたよりも、集中する視界が半分程度に絞られる。
だから右方向に意識を向いていた時、ノーアが勢い良く左へと飛び込めば、一瞬だけ彼の姿を見失っていて。
急いで左を見る。
瞬間には、もう首筋に付き出した指先が触れていた。
さっと、首に一閃を引く。掻っ切った、ということなのだろう。
「君の身体能力なら、私と同じ所くらいまでは来れるだろう。知覚レベルまで、至らせない速さだな」
「……普通なら、どれくらいの期間で?」
「そうさな、ざっと五年か。もちろん段階別に教育するつもりだが――」
「無理だ。俺はそこまで待つつもりはない」
「言うと思った。そもそも君は私の技術を全て身につけられるとは思えないんだがな。出来るとすれば、やはり秀でたあの二人か……あのエルフ族の娘は、かなりいいところまで来れるだろう」
「マジでか?」
「かなり」
……もしそうなら――いや、おそらくは本当にそうなのだろう。
忘れがちだが、彼女は悪魔との契約に成功している。
彼女の望んだ最強の力というのは未だに分からないが、人間の練り上げた技術を容易く吸収するくらいはできそうだ。
というか、できる事ならライアと契約しなおして俺も最強の力が欲しい。
たとえば、魔法使えるようになったり。代償無しで術行使したり。それらの概念とは異なる、もっと便利な術を使えるようになったり。
「ともかく、そういった具合だ。これを基本として、私は動いている」
「わかった。これを見切れるようになればいいんだな? タネがわかりゃ、十分だ」
「死角に入られるということは実際、私の技量だけではない。相手が容易ければそれほどに、な」
「ああわかったぜ。ならさっさとやろう、今すぐだ! 忘れない内に、叩きこんでおかなきゃあな!」
挑発されて怒ったわけではない。
少しだけやる気が湧いたし、話している内に体力も回復したのだ。
だからせめて、日暮れまではやっておきたい。
おそらく、この訓練はできて三日程度。ブロウにここに居る事が見つかったとなれば、迅速な移動が望まれるのだ。ただでさえ、ここにいることは危険過ぎる。
「了解だ。なら行くぞ、一九九回の行動だ。全てが加算されれば次回は三九八。次は七九六回」
「必要ねえ計算だ。来い!」
勢いづいて構える。
瞬間――俺は真正面からニーアに殴り飛ばされていて。
「よく見るのもいいが、まずは避けろ!」
「りょ、了解ぃっ!」
幸先は、酷く悪かった。




