3:待機時間
術は、きっちり一分だけ巻き戻す。効果範囲は陣の内側。
だけれど、腕さえ癒合すればこっちのものだ。崩れた指先までも、ノームによる治癒で形を取り戻し、時間はかかったけれど完治した。
問題は、形を取り戻したというだけで。
指先は、震えるばかりでまともに力すら入らない。
「久しぶりに宿に戻ったと思ったら、突然大怪我して運ばれるんですから。驚きましたよ」
いつもの宿。
いつもの席で乱れる呼吸を抑え込みながら、ウィズが淹れてくれた紅茶の香りに意識を傾ける。
カップに指をかけて持ち上げようとした時、感覚の薄い指先から把手が滑るのを知覚できず、それが傾き床へと落ちていくのを理解した時には、
「あっ」
がしゃん、と音を立ててカップは割れて、大きな破片へと変容する。
紅茶はフリーリングに飛び散って、
「あ~ぁ。もう、おっちょこちょいですね。休んでないんじゃないですか?」
気軽に、彼女は雑巾を取りに洗面台へとその身を翻した。
――彼女の世話は殆どローゲンやラフトに任せている。
今後彼女に妙な気を起こさせない為でもあるし、もし仮に悪魔の目的の中からウィズの存在が消えているのならば、あわよくば彼女を郷に一時避難させるためでもある。
俺と彼女の関連性を曖昧にさせて、連中の記憶から彼女の存在を消す必要があった。
「悪いな、エフォウ」
「気にしないでください。クライトさんは、病み上がりなんですから」
テーブルに右腕を載せて、俺は深くため息をつく。
彼女は屈んでカップの破片を集めてテーブルの上に重ねてから、しっかりと紅茶を拭い取る。
「こんな筈じゃ、無かったんだけどな……」
見舞いに来てくれたローゲンとラフトが帰った昼下がり。
必要な情報は得た……のだけれど。
何かを得たような快活な気分には、なれなかった。
あの時に施行した術は、確かに焦げて崩れた俺の腕を癒合させた。
それは治癒系統の術ではない。
かつて師匠が教えてくれた無属性の衝撃を放つ『魔法』により近い、精霊を用いない術。
いわゆる時間遡行。
先人の『魔術書』に記されていた陣の効果は、陣の内側に存在する者の時間を任意に巻き戻す……はずなのだけれど。
およそ一分間。俺が戻した時間はそれだけで、また不具合か未熟ゆえか、あるいはその術の代償か。
俺の右腕は、ただ右肩からぶら下がる物体に成り下がっていた。
コンコン、とノック音。
「どう――」
ぞ、と告げる前に。
扉は、無遠慮に開け放たれた。
「失礼します!」
部屋の中に飛び込んでくる影は、黒髪の少年。胸元を大きくはだけさせた薄手のシャツに、厚地の織布のズボン。蒼い色をした、丈夫そうなその腰には剣帯と共に、足先まで届く剣が携えられている。
「……ちっ」
やかましいのが来た。
守ってやったのだけれど――思い上がりの強いガキは、正直好きじゃない。
もう少し謙虚ならまだ分からなかった。勇壮なのも、まだ理解が出来る。
だけれど、
「ヒィ・クライトさんですね! 聞きしに及んでいます。あの、極北で悪魔を葬ったと言う!」
反省の色がないのは、もう頭痛すら覚える。
そんな少年の首根っこを掴むように腕を伸ばしたのは、気配もなく彼の背後に忍び寄ったローブ姿の男。
頭は白髪に染まっているが、彫りが深く面長の男臭い風貌をしている。
――先日、ブロウに気取られぬ内に致命傷をぶち込んだ男。
こいつは本当に、少年とは桁違いに強者なのだろう。
「しっ、師匠! 何をするんですか!?」
「まずは頭を下げろ馬鹿者が!」
怒号と共に、少年の頭を叩き伏せる。
彼は勢い良く顔面から床に突っ込んで、建物がにわかに揺れた気がした。
そうして男は、共に膝をついて拳を床に打ち、そのまま額を床に擦り付けた。
「申し訳ない、ヒィ・クライト。馬鹿弟子が調子づいて君の邪魔をした」
「顔を上げてください。俺はあんたを知らないし、だからあんたに頭を下げられても困惑しか出来ない」
嫌味の一つでも言いたくなる。
折角、ブロウの意表をつけると思ったのに邪魔をされたんだ。
全方位の針山で全身をうがった後は、唯一扱える魔法の陣で衝撃をぶち込んでいたはずなのに。
今回は少なくとも、それだけで終わる予定だったのに。
「すまない」
男はすっかり気絶してしまった弟子を捨ておいたまま、ゆっくりと顔を上げて立ち上がる。
「名乗り遅れたが――私はニーア・パイア。しがない傭兵で、教導の仕事を主に行なっている」
「教導? 戦い方を教えるってわけか?」
「ああ。今ではこの阿呆しか着いてきていないが、実績はあるつもりだ。君なら、わかってくれるだろう?」
ニーアの言葉に、俺は頷かざるを得なかった。
彼の気配なき肉薄は確かに脅威的なものであり。
そして、弟子たるあの少年でさえ、ブロウに寸前まで存在を気付かれなかった。
剣術こそまぐれだったり、拙かったりするかもしれないが……基本的な行動原理は、おそらく鍛錬に鍛錬を重ねて身につけたものなのだろう。
「かつて西の大陸で特務機関の諜報部に属していた。これがちょっとした自慢でな」
「なんで今は傭兵なんかを?」
「私は、私の力を使って護る生き方がらしくないと思えてきたのでな。己の力で己を護れる力を授けたい……そう思ったのが初めだったが、思ってから行動は速かった」
考えて、ならばどうやって飯を食っていくか考えて。
結論が出て次の日には、国王に直談判して逃げてきたという。
なかなかに我の強い男だった。
そして、己の強さに絶対的な自信を置いている――そこに、なんだか妙な魅力を感じていて。
「詫びと言ってはなんだが、もしそのつもりがあったら君が滞在する間、私が指導してもいい。もちろん無料で、だ。信頼と実績は君自身で確かめて欲しいが、君ならば飲み込みは早いと思う」
本来なら、まず三○日間は二五万ジルなのだけれど。
男は、なるほど法外な値段故に食い扶持に困らなかったのだと思える価格をさり気なくアピールしながら、俺を見据える。
もはや、愛弟子の不始末を拭おうという雰囲気などではなかった。
どちらかと言えば、勧誘に良く似た空気で。
「俺は精霊術師だ。体術なんか、悪魔相手にはキビシすぎる」
「そんな難しいことじゃない。それはちょっとした立ち回りだ。相手の動きを見て、読んで、動く――正しく矯正するだけで、随分違うと思うのだがな」
「へえ、例えば?」
「そうさな」
ニーアが俺の眼を睨む。
瞬間に――読んでやろうと思った動きが、予測に反して真逆の方向へと翻り。
慌てて追うが、一度見逃しただけでニーアの身体は既に肉眼で捉えられず。
気がついた時には、もう首筋に冷たい刃が触れていた。
「目を見るだけで、ここまで動ける。君の場合は、相手の動きを予測しすぎていて、私が動くよりも先に視線が軌跡を見せていた。もっとも、そうでなくてもフェイントをかけるだけで視界から逃れることは用意だがな」
そして、状況によって場に溶け込めるようなローブ。
足元が見えないから、どちらへ進むかも分からない。腕がどの位置に構えられているかすらわからないから、警戒のしようがない。
「ニーア・パイア教導団――と言っても、一人だが――利用してみるつもりは無いかな?」
術ばかりにかまけて、全てが独学と経験で補ってきた体術。
目の当たりにしたニーアのその足さばきだけで、俺は純粋に、興味を湧きあがらせていた。
「ああ……それじゃあ、頼む」
「承知した。それではいつからにする? 君さえ良ければ明日からでも――」
がたり、と俺は椅子を引いて立ち上がり。
静かに寝台に腰掛けてカップに口をつけていたウィズは、驚いたようにびくりと肩を跳ねたので、そこで初めて彼女がそこに居たのだと認識できた。
「手始めに、今からでも大丈夫かな」




