2:準備期間
『ねえクライト、思ったのですが』
勢い良く元気よく飛びかかってくる犬。瞳が深紅に染まり鉄のような硬い毛並みのそれは、大口を開けて牙をむき出しにする。触れれば、噛み付かれた部位ごと千切られるだろう。
だから、触れる前に顎下を蹴り上げる。それ自体難しいのだけれど、一直線に迫ってくるそれに対応することは決して不可能じゃない。
キャン、と悲鳴を上げることすら無い。『アイウォン』は俺のつま先に蹴りあげられた瞬間に、総身を内部からぶくぶくと沸騰させて――爆ぜた。
『よくお仕事、受けられましたね。巷では、未だにクライトの事を極悪人だと言う噂が蔓延ってますよ?』
血肉が周囲に撒き散らされる。
酷いすえた臭いが充満するのを感じながら、俺は頭の中で十二のカウントを十三に書き換えた。
と同時に、深く息を吐く。
周囲にアイウォンの姿はなく、つまり俺の仕事はようやく終えたことになる。
ノーシス領北、かつてルゥズと交戦したノーシスノウスを巣にしようとしていたアイォンの討伐は、終了したのだ。
アイォンは最西に生息しているが、こうして群れをなしてうろつく間に、元の集団に戻れなくなる事も少なくない。
北から南下してノーシスへ向かう、あるいは大都市から港や向かう者たちが多く通る進路である。迅速な対処は、少なからずとも必要だった。
「ま、背に腹は代えられないってことでしょうね」
これで八万ジル。
受付の男が言っていたが、これでも安い方なのだという。特に獰猛で危険な部類だから、十五万前後でも不思議ではないらしい。
ヴォルフェン討伐でさえ、そもそも五万ジルだったのだけれど。
『それくらい、クライトの名前も売れてきたのですね。そもそも、今までが無名すぎたんですよ。竜を一蹴する強さですよ? それって、特務機関の一員くらいで――特務機関っていうと、英雄みたいなものですし』
「正直、名声には興味ないんですがね」
先立つものが欲しい。
まずは侮られぬよう、戦闘時の役職を一見して偽れる装備が必要だ。
術師の存在は他と同様にピンキリだけれど、ある一定の境目が存在する。傭兵なんてもので金を稼ぐ術師は、その殆どがかじった程度の寄せ集めだ。
俺のように属性問わず扱えたり、俺のように一撃でアイォンレベルのモンスターを屠れる術師はなかなか居ない。そして俺こそが、その一応の境目を超えた術師だったりする。
今思えばセイジ・クラフトの実力もたかがしれているような気もするが――たかがコルク球である程度の術を使用できたのだから、代償を換えれば、瞬間的な最大火力は現在の俺を超える可能性だって考えられる。
つまり、総合的に考えれば。
俺は未だ、十五年前の天才にすら劣っているわけで。
「ま、地道にやりますよ」
『ええ。でも金銭面以外は本当に地道に出来るのが、クライトのいいところですよねっ』
「はは」
乾いた笑い。
持ち上げるわけでも、担いでいるわけでもない。
ただちょっと勇気を出して本音を告げただけ。
それが、言葉と力の入れ具合のせいで白々しく聞こえてしまうだけで。
「ん……」
そうして如実に、肌がぴりぴりと空気が張り詰めるのを感じる。
額に突き刺さる視線か、殺気か、何者かの気配が俺に覚悟を促した。
休む暇もない――いや、休み明けを狙ってきてくれたのか、と思う。
「それじゃ、そろそろ戻ります。通信、切りますよ」
『了解です』
◇◇◇
気だるそうに、その男は首に手を押し当てるように歩いてきていた。
麻のシャツに、ひざ下のズボン。さらにサンダル姿はあまりにもラフだったが――燃えるような赤い髪と瞳が、ただそれだけで服装への関心を喪失させた。
「よォ」
歩いてきたブロウだが、どうせ近くまで飛んできたのだろう。
いや、こいつの場合は尋常でない跳躍力。その気になれば、水面でさえ跳ねてしまいそうなのだけれど。
「最近は妙にムシャクシャしてよォ。――あのスカした光沢野郎が――ムカついて仕方がねェんだ」
ぼそりと挟む言葉。それが誰を示しているのか、良く分かった。
この男とリフの関係が芳しくないのは、あの日にライアが見せてくれた視界から理解できた。
だからといって、こいつにリフが倒せるとは思えない。
見た限りでは、最低でもリフは光までをも跳ね返すことが出来る。そんなものに、燃焼ごときで対抗できるわけがない。
抵抗の能力ならまだわからなかった。
だが、完全に弾くものであるのならば……。
「知ったことかよ」
だけれど、今回は村を滅ぼさないだけ及第点。
といっても、だからといってブロウを許しているつもりはない。
「ノーシスノウスの復興の目処は未だにたっていない。多くの人が死んだらしい、あんたの手によってな」
俺の方向に、首に当てた腕を振り払うように伸ばす。
その輪郭がブレたように見えた瞬間、右腕はまた海岸の時と同じように、肘から先だけを深紅の装甲に包みこんだ。
「あの村は失敗だ。脳なしルゥズが厄介な能力でテメエを術中にハメたから、あの村をひと目見た時の怒りをすっかり忘れさせちまってる。オレは、テメエの視野が狭くなるのを待ってんのによ」
「あんたは、そんな事しか頭にないのか?」
「ま、今回はンな気にすらならねえわけだ。ただ伝えておきてェ事がある」
「あんたが?」
奇妙なほどに冷静。
この男にそういった面があることこそが、最大の脅威なのかもしれない。
「テメエの息の根はオレが止める。そう決めたんだが――体裁装っても分かるくらいに、色々と無えな、テメエは?」
思わずドキリとする。
俺が二人を失った事を、奴が知らないはずがない。
加えて、あの戦いでの選択で精霊一人に愛想をつかされた。
共に戦ってくれないから――他の誰かを逃がす役目というのも、共闘なのではないかと思うのだけれど。
そしてあの二人は共に、戦闘で最大限に活用できた力だ。
それを失っている今は、当然、ブロウにすら対抗できないかもしれない。
もっとも、四大精霊程度の術は扱えないことはない。ただ、その分の代償が大きくなる上に、制御が難しい。
だから、純粋に俺の野望の為に練り上げていた術を使う必要性があるのかもしれないのだけれど――。
「オレがちょいと本気でやるだけで死にかねねェ。だがわからねェんだろうな、テメエを取り巻く他の連中はよォ」
「だからなんだ、あんたがこれから全ての悪魔を叩き潰してくれるつもりか?」
だったら大助かりなのだけれど。
出来るわけがない。その交渉すら。
だってこいつは、なんにせよ俺だけが標的なんだから。
「……地鳴りだ。何か、質量の大きいものが迫ってくる。馬……だな、幾人かを乗せた荷台もある」
ブロウが身を捻って後ろを向く。
その方向はちょうど北。村が滅びてからは馬車が通るルートが変更されているのだけれど……。
もし長く、少なくとも村での惨事以前にノースノウに行っていれば、それを知らぬ可能性もある。あの事からノースノウとの交通は途絶気味になっている。
国の取り決めなどではなく、単純に危険だからと外に出るのを控えているためだ。
人の運送を目的とする業者もあるが――個人が雇っているものならば、その確率は尚高い。
「お? 向こうも、きづいたんじゃねェのかな」
視認できる距離にまで迫った馬車を見る。
馬が一頭。御者が手綱を引き、箱のような荷台はだけれどそう大きくはなくて、多くても四、五人がいいところだろう。
だから、一つの運命的な再会が過ぎる。
巨漢の男が、ノースノウに行っていたらしい。二十日ほど前に、それを聞いていた。
妹の眼が治るという話だった。直ったとしても、リハビリは必要だろう。
せっかく治ったのだ。せっかくの大都市だし、見て回りたいとも思う。
「あんた、今日は手を出さないんだろ?」
「テメエにャあな。オレはすげェムカついてんだ、発散くらいせにャたまらねえぜ」
「とことんクソ野郎だな、あんたは!」
「なんだ? 止めようってのか? いいぜ、相手になってやらァ!」
術のイメージだけではダメージが十分じゃない。
そもそも、サラマンダーの鉄拳レベルの衝撃は、おそらく総身の代償が必要だ。
だから問題は、俺の中での精霊術の成長などではなく。
「がァッ!」
ブロウが大地を殴り飛ばす。
瞬間に、俺の足元の地面が沸き立った。
即座に後退――大地が隆起して目標を穿つように突き出るその先端に立ったまま遠くへと投げ飛ばされたその刹那に、俺が先ほどまで居た大地から天を衝くほどに巨大な火柱が立った。
轟と唸る灼熱。
ブロウを遠目に見るほど離れたのにも関わらず、熱は肌を灼いていた。
「ったく、火力だけの馬鹿が!」
だけれど、戦術を考えても決定打がない。
猫騙しも続ければ効果が薄れるし、激情を誘って致命的な状況に陥る可能性が高くなる。
援軍を呼びたくも、一対一だからその隙すらも許してくれない。
吹き上がる火柱を突き破って駆け抜ける。
爆風が通過した地点に吹き荒れ、せっかく稼いだ距離は瞬く間に消え去った。
拳が迫る。右腕だけの深紅の装甲が、視界いっぱいに広がった。
凄まじい衝撃が俺の顔面を突き抜けた。
後頭部に穴が穿たれたのかと誤認するほどの暴力。顔は拳の形を刻まれたと思うほどの力。
意識が瞬間的にトぶ。
顔はその力に食らいつかれたまま、体ごと地面に叩きつけられた。
凄まじい激痛。どこが痛いのかすら、もう具体的にわからないのだけれど――それでいい。
この死ぬほどの痛みを代償に、ようやく大きな術を出せるのだから。
「きっ、君ィ! くそ――悪魔を前にして、逃げないから!」
よく通る高い声。
それはすぐ近くで聞こえて。
「あぁ? なんだテメ――」
ブロウが俺から腕を引き剥がして立ち上がる。振り返った瞬間に、鮮血の香りが迸った。
重要度の高い部位から治癒する俺の顔は、既に視界を開けている。
倒れる俺が見るのは、少し長めの黒髪を揺らしながら剣を袈裟に落としている少年で。
無防備な胴部を袈裟に切り裂かれたブロウは、訳がわからぬと言ったように己の胸と、血塗れた剣と、少年とを幾度も見比べていた。
「何してんだ……クソガキが、オレに?」
待て、と口にしたかった。
だが身体は、まだ指先すら動かない。
目的の術は、少年が効果範囲に入り込んでしまっているために発動できない。
「聞いている。海で船を大破させたらしいね。この先の村も。だから敢えてココを通らせて貰った……だけど、まさか本当に居たなんて思わなかったけどね」
少年の手さばきは見えていなかったけれど、実力はそう低くはないはずだ。
少なくともブロウに一撃くれてやったことは評価すべきことなのだけれど。
「ガキが、舐めやがって……ッ!」
激情する。
もっとも避けていた反応――だけど、それが俺に向いてさえ居なければもっとも望んでいた反応。
殺すことは出来ない。感情論ではなく、物理的な問題で。
だけれど、一瞬でも隙があれば、この一撃は致命傷のハズで。
ノームが治癒と共に俺の激痛をくらいはじめる。
頭の中が澄み始めた刹那。
ブロウの股下から、鋭く尖るように大地が隆起。
射出されるような勢いで、間髪をいれずに股ぐらへと突き刺さった。
「ふ――」
ブロウが言葉を失う。
その間に、俺は大きく息を吐きながら、ようやく立ち上がることが出来た。
「き、君、まだ立ち上がっちゃ……」
「有り難い話だが、早く逃げろ! あんたでどうにかなるタマじゃない!」
「何を言っているんだ? 君の術で、こいつは――」
ブロウの脇を抜けて少年へと飛びかかる。
直後に――少年は押し倒され。
悪魔の目の前に飛び出した俺の総身に、凄まじい熱が暴風を伴って吹いて、
「あつ……っ!?」
右腕に灼けるような痛みを覚えて見てみれば、俺の右腕は既に肩口から指先までが黒く焦げていた。
視界の端、炭化する地表が真っすぐ伸びる。確認できる距離までは少なくともその燃焼の餌食となっていた。
――”燃焼”。
これこそが、ブロウの真価。
炎などは、この燃焼を可視化させただけに過ぎないのだろう。
つまり、戦闘自体を娯楽にしている男がこんな面白みのない圧倒的な力を放出するということは、
「舐めた事をしやがるぜ、なァ……ヒィちゃんよ! ムカっ腹に来る。水注されちゃ、黙ってらんねェぜ、だろうがよ!」
跳ねるように裏返る咆哮。
既に半身が焦げた俺は、そのまま地面に叩きつけられる。
同時に、肩口から焦げた右腕が粉々に崩れ落ちた。
右半身は、だけれど辛うじて形を残す。しかし感覚は、とっくの昔に喪失していた。
全身の汗腺が塞がる。
凄まじい熱が体内に残る。放出する術を失い、俺はじっくり体の中を焼きつくされ続けていた。
眼球が沸騰するようだった。
頭が煮えたぎる気分だった。
吐き出す息が尽く舌を焼く。
どうしようもない熱さに、俺は言葉すらも発せない。
頭もマトモに働かない。
傷は、治るだろうか。
この状態から、果たして回復するだろうか。
腕は――どうなるのだろうか。
「ひ――ひぃっ?!」
俺の名を呼んだのか。
単に、怯えただけなのか。
少年は勇猛に飛び出てきたのだけれど、俺の姿を見て、そして咆哮するブロウを見て、腰を抜かしたまま小刻みに震えていた。
「だから言ったんだ、彼は大丈夫だって」
そんな少年の背後から、やや怒気をはらむ巨漢が巨大な槌を構えて迫り。
「まったくだ」
しわがれた声が、ブロウの背後から届いた。
それは老人と呼ぶにはまだ若く、だが壮年というには歳を取りすぎた男の姿。
ローブを着こむ男は、手の内に隠せる程の刃物を煌めかせながら、なんの躊躇もなく背後からブロウの首筋を貫いていたのだけれど。
ぼっ、と音を立てて炎がブロウを包む。すぐさま男は退避し、
「邪魔くせえ。ったく――何もかもが台無しだ! クソどもは、オレの邪魔しかすることがねェのかよ!?」
胸の、首筋の傷が煙を上げて塞がり、傷跡すらも残さず治癒する。
赤髪をこれでもかと言うほどにかきむしりながら、ブロウは俺を見下ろして言った。
「当分来ねえよ。だが覚えておけ、オレが、お前を殺す――だから、テメエも死ぬ気で、オレと戦うまで生き残れ。リフの糞野郎にも、エントみてえなガキにも! 陰気なアッシィにも、イカレてるイクスにも、負けんじゃねえぞ!」
アッシィ。
イクス。
残りの二名の名前が、図らずとも判明した。
あとでラフトに訊いたら教えてくれるだろうか。
じゃあな、と叫べば、空高く跳び上がる。そして上空で鳥のような何かと交われば、それに拾われてどこかへと飛び去っていくのが……見えない。気がついた時には、もう地平線すらも超えていた。
また、オリジなのだろう。
だけれど、俺はもう耐え切れなかった。
「大丈夫かい、クライト――」
また負けた。
そんな気持ちだけが、俺の中にはあって。
もう、恥も外聞もない。
失った腕を、潔く俺は捨てられなくて。
身体を捻って、肩口と崩れた腕に届く程度の陣を描く。誰に教わったわけでもない、俺が独自に編み出した……正確には、古書でしか知らない先人が諦めた術。
複雑な魔法文字もきっちりと、震える指先で記し終えた時。陣は作動して、俺の指先の軌跡を描くように輝き始めた。
誰かが息を呑む。
そんな気配とともに、
「くぁ……」
”右腕に襲いかかる”骨を打たれたかのような芯に響く痛みを覚えた俺は、その瞬間に意識を手放した。




