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1:逡巡時間

「こんにちは、フレイさん。お世話になります」

 俺を見た彼女は、驚きを湛えて両手で口元を覆い隠す。

 そこは彼女の自宅、玄関前だった。派遣事務所に行ってみて彼女が居なかったから、わざわざ来たのだ。

 ローゲンが「心配していたぞ」と言っていたので、来てみたのだけれど。

「クライト様!」

 殆ど下着姿で。

 上に羽織る薄手の外衣を翻したまま。

 彼女は恥も外聞もなく、俺の胸の中に飛び込んできた。

 艶やかな絹糸のような黒髪から、香るのは石鹸のそれ。

 柔らかな肢体は、全てにおいて俺にとって毒でしか無く。

 その彼女の抱擁が、また俺を惑わせた。

「よく、ご無事で……っ!」

「ええ、ありがとうございます。心配させてしまったみたいで、すいません」

「いえっ、あっ――」

 俺の申し訳なさそうな謝罪を、気にしないでと首を振ってから彼女はようやくその痴態に気がつく。

 慌てて身を引き、ずるっと足が滑って背中からすっ転ぶ。

 伸ばしたてを、俺はすぐさま握って姿勢を保ってやるのだけれど――滑った足が、うまい具合に俺の足元を払ってしまって。

「のわっ」

 フレイもろとも、俺はその場に倒れこんだ。

 頭部への衝撃を和らげようと腕を引き寄せ彼女を抱き寄せ、背中に腕を回した時、俺はもう俺自身を受け止めるための腕がなくなっていることに気づいて。

 風でクッションを作る――そんな思考は、すぐさまシルフが去ったことを回想して打ち切られた。

 だから俺は、そのままフレイにまたがるまま、上肢を抱きしめて床に叩きつけられていて。

 右腕が強い衝撃に痺れ、僅かな隙間すらも無い俺の身体はフレイに被さってしまう。

「いって……」

 傷は治る。最悪死にゃしない。

 だけれど痛みはそのままで、だから腕は鋭い激痛を湛えて、俺は動けず。

「くっ、クライト様ぁ……お、重い、です」

「すんません、ちょっと動けないス――っと、動かないで貰えます? 足とか」

 芳醇な香り。柔らかさ。吐息が耳にかかり、息遣いや声が柔らかく頭の中を刺激する。

 動く足は、ちょうど膝が股ぐらを擦っていて。

 こんな状況でも、元気な所は元気なのかとうんざりしたくなるのだけれど。

 怒張し始める前に、俺は横に倒れて彼女から離れた。

「はぁ、すいませんでした」

「いえ……私こそ、はしたないところを」

 と言って、彼女は胸元がはだけるシャツと薄手の外衣で隠し、外衣を伸ばしてショーツを隠す。

 もし来訪者が俺でなければ、彼女は襲われていたのではないかと、心配せずには居られない――のだけれど。

 扉を閉めようとして、覗き穴を見つける。

 ああ、なるほど。

 あざといな、と思った。

「お、お茶をお出ししますよ」

「いえ、結構です。すぐに帰りますし」

「そんな事言わずに……クライト様とは確かに短い付き合いです。でも、今までずっと休んでないですよね? 張り詰めていると、いつか本当に破裂してしまいますよ」

 そんな事はない。

 俺はずっと休んできた。少なくともこの五日間は、尾てい骨が砕けるくらいには座りっぱなしだったし。

「くま、酷いです。お風呂も入ってないですよね。汗臭かったです。着替えても無いですね。クライト様の匂いを強く感じました。身体も殆ど力入ってないですし、顔だって……ずっと無表情です。少し、怖いですよ」

「すいません、そんなつもりは無かったんですが――」

 笑おうとして。

 頬の肉が、ぴくりとも弾まない。

 眉根も寄らない。口は半開きのまま、ただ呼吸し言葉を紡ぐ役割しかしなかった。

「休みましょうよ。城下町は、せっかくどこの宿でもお風呂に入れるくらいには、先進してるんですから」

「有り難いです――でも、今回は無理です。本当に、休んでいきたいのは山々なんですが」

 嘘っぱちだ。

 俺の経歴のせいで大きな仕事が受けられないから、彼女になんとか言ってもらうつもりで来たのだ。

 だけれど、彼女がそう言うから、もう切り出せなくなった。

 本当に俺は、彼女の心配なんてしてなくて――自分のことしか、考えられなかった。

 今にでもすぐに働いて資金を稼ぐために。

 考える余地なんて無いくらい、自分を追い込むために。

「ちょっとこっちも忙しくて。俺だけ休んでることなんて、出来ないんです。大丈夫、今夜寝ればゆっくり休めますから」

 これは本当。

 寝られれば、俺は休める。

 もっとも、五日前から睡魔が老衰か何かで死んでしまったらしく、全然睡眠へと誘ってくれないのだけれど。

 俺は寝る努力をしている。だからこれ以上、責められるいわれはない。

「フレイさん」

 流れを変える。

 これ以上、気を持たせてはいけないから。

 ウィズも記憶を失った――だから、ちょうどいいのかもしれない。

 むしろ今までが、恵まれすぎたのだ。

 ただ一人旅だった俺が、突然美女ばかりに囲まれていた、あの二ヶ月間が。

「服飾の仕事、頑張ってください。もう、動き出してるんですよね?」

 派遣事務所に行って、そんな話を聞いた。

 真っ先に交際しているのかと探りを入れられてきたが、それをきっぱりと否定してそんな話を聞いた。

 彼女には男っ気がないらしい。仕事に一生懸命な分、独りなのが普通になってきてその感覚がないと言っていた。

「はい、師匠も見つかりました。ここから近い所で、自分で店を開いたばかりの方なんですけど」

 それも聞いた。

 なんでも、腕のいい女店主なのだという。ちょっと男勝りなのだけれど、手先が器用で副業として料理も振舞っているのだとかなんとか。

「良かったです。フレイさんも、自分の道を歩きだせたようで」

「それはっ……その、クライト様の、お陰ですよ。あなたが、あまりにも一生懸命だから。私も、感化されずにはいられませんでした」

「俺なんて、まだまだですよ。一生懸命なだけです……周りが見えないで、馬鹿みたいに走り抜けてるだけで」

 思わず自虐に走る。走らずにはいられない。

 口に出さなければ、その負債が俺の腹の底で溜まり続ける。やがて硬化し、吐き出せずに腹をかっさばかねばならなくなる。

 自分がイヤになる。

 俺が強いのかもわからなくなる。俺の力は、やはり四大精霊の加護でしかないのだろうか。

「強えよな、俺……?」

 少なくとも、四大精霊の力を使わずにブロウを撃退しかけていた。いや、実際の所は死にかけていたのだけれど――少なくとも、一時的には対抗できた。

 魔法を使えば、恐らくはラフトと同じ展開にはもっていけただろう。

 問題は、相手がブロウだということで。

 奴は、一度で息の根を止めなければ恐らくは斃せない。

 そうだ、だから俺はもっと強くならなければならない――師匠が呼んでくれるなら、俺は迷わず向かうだけだ。

「いや……」

 しかし、もう伸びしろがないなら、俺にはなすすべがない。

 セイジは俺に才能があると言ってくれた。

 師匠は素質があるといっていた。

 だが、もうそれらが完全に満たされた状態だったなら? 俺の潜在能力を含めて、今の俺が精一杯で最強だったなら?

「クライト、様?」

 倒せるか?

 ブロウだけじゃない。

 あの憎たらしい糞餓鬼エントも、なんでも弾いてしまうリフも。

 忘失のルゥズも。最速にして最古のオリジも。”冷却”のフリィも。

 あとはイルゥジェン……奴は殺せるとして。

 スミスは既に死んでいて。

 十人の集まりだというなら。

 残りは二人。

 ライアの言葉によれば、そのどちらかが山を一撃で屠る化物。

 どれをとっても斃せない。

 おそらく、一対一でも厳しい戦いだ。

「大丈夫、ですか?」

 俺に何が残されている?

 俺はなぜ、ここまでして戦わなければならない。

 ライアは捕まってしまった。もう、為す術もない。連中の根城すらわからないのに。

 そもそも、助けにいくとしても、そんな化物の巣に突っ込む? 俺だけで?

 無茶だ。それこそ自殺に等しい。

 俺にはどうしようもない。

 ただ勝手に命を狙われているだけ。今までどおりの生活に、悪魔からの襲撃が加わるだけ。

 復讐に生きる――そう決めたのに。

 ブレるのが早い。

 そりゃそうだ。ブレるもなにも、あんなのは表面的な決意に過ぎない。

 俺に出来るわけがない。

 ”もともと誰かを護る戦い方をしてきた”のだから。

 ――いや。

 そう、思っているだけなんじゃないのか、俺は。

 本当に、力を望んだきっかけって――。

「クライト様っ!?」

 目の前で俺の名を呼ぶ絶叫。

 驚いて、焦点が定まる。

 フレイが今にも泣きだしてしまいそうな顔で、俺の両腕を掴みながら覗きこんできていた。

「大丈夫ですか? 唇から血が、出てますよ」

「え?」

 言われてから、俺の歯が力いっぱい唇を噛み締めているのを認める。いや、それはもう噛み締めるなんて力じゃなくて、唇はそのままの意味で、噛み千切られていた。

 ぺろり、と下唇を舐める。傷が染みて、口の中いっぱいに鉄の味が広がった。

「すみません、少し、ぼうっとしてました」

「今のあなたには、何を言っても酷になってしまうかもしれません。私は、あなたが船で何を体験したのかを、詳しくは知りませんから」

「勘違いしないでください。フレイさん……あんたは、居てくれるだけでいい。それだけで、俺は救われる」

 巻き込まれずに生き続けてくれるだけで。

 ただ、友人としてそこに居るだけで。

 だから、俺は去らなければならない。

 俺と関わることはつまり、俺の願いと相反することになるから。

「幸せになってください」

「……ならっ」

 瞳が潤う。まぶたから溢れそうな涙は、だけれど拭い去られて……また、溢れそうになる。

 口元が歪む。

 鼻をすすって、彼女は俯いた。

 また彼女は我慢した。

 俺を思って、己の思いを押し殺した。

 正しく、賢い判断だと思う。

 だけれど、それではあまりにも彼女が報われないのではないか。

 俺のせいなのだけれど。

 俺は何も、出来ないのだから、彼女がその判断しかできないのだけれど。

「ありがとうございます。俺、フレイさんと出会えてよかったと思ってますから」

 また俺は、

「私こそ、ですっ」

 本心すら見せずに、

「また暫く、ここを離れます。本当に、もしかしたら一年、二年……それ以上かもしれません」

 彼女の純真から逃げ出していた。

 ただ一つの誤算があるとすれば、

「でも、また気軽に連絡します。どうでもいいことでも、話してしまいますよ? あなたが、突き放してくれないから」

「期待しないでくれるなら。その可能性がゼロだとわかってくれるなら。そんな些細なことなら、いつでも、俺は……」

 彼女が、思ったよりも強くて。

「はい! お友達でもいいんです。クライト様が、居てくれるなら、それで」

 既に見透かしていた事、なのかもしれない。

「……それじゃ、もう失礼しますよ」

 だから自然に、苦笑する。

 一本取られたとばかりに、誤魔化して逃げ出そうとした自分がとても滑稽に思えて。

「あっ」

 彼女は俺の笑顔を見て、そう声を上げてから、微笑み返した。

「はい。ご武運を」

「ありがとうございます。フレイさんも、頑張ってください」

 会釈をしてから、玄関先での長い立ち話を終える。

 彼女の家を出て、深く息を吸い込んで――。


 少し、頭の中が落ち着いた気がする。

 簡単なことを、難しく考えていたのかもしれない。

 そして、決して出せるはずのない結果を、どうしてもだそうとしていたのかもしれない。

 分からない未来の筋書きを、綴ろうとして、勝手に挫折していたのだ。

「本当に、ありがとうございます」

 彼女に、扉越しで深く頭を下げる。

 本当に、出会えてよかった。フレイが居なければ、俺はまだうじうじと考えて苦しんでいたかもしれない。

 そして――。

 ジリリリリリ。

 胸のペンダントが、フレイからの発信を告げていて。

『もしもし、クライト様? 様って、言い難いですよね。もう私のお客様では無いのですし。今度から、クライトって呼んでも大丈夫ですか――』

 本当にどうでもいい事に連絡を寄越した彼女に、俺はまた、堪え切れずに苦笑した。

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