1:契約者と云うもの
「はぁ……ううっ、寒い」
ドラゴンの討伐は、平均的に見て一人頭五十万。それが十を超える徒党を組んで、ようやく挑む政府公認の依頼であることが殆どだ。
ばっさばっさと、聞き覚えのある羽ばたきが大気を切り裂く音がする。それに伴って、尋常でない暴風が吹き荒れた。思わず吹き飛びそうになる身体を地面に縫い付けるように腰を落としても、身体を地面へと倒れこませようとしても、姿勢に変化は見られない。
「なっ、何考えてんのよ!」
村の遥か手前、上空で滞空する巨大な爬虫類のシルエット。
遠目に見える村は――見えない。恐らく在っただろう位置に何度も目を向けても、痕跡すら無かった。
雪に埋もれたか。
あるいは村ごと凍らせたか。
吹雪のせいで距離感が曖昧になって、そもそも見えていないだけか。
純白にして、全身を覆う鱗は鋼鉄であるかのように光沢を見せる。広がりはためく翼には霜柱のような氷柱がびっしりと覆われていて、たてがみも同様。
揺らめく尾は、一振りの剣のように鋭くあり、それでいて柔軟だった。
「手遅れだったわけだ」
西日もなく、吹雪いた雪原は分厚い雲に覆われて暗い。
立っているだけで全身に雪が積もりそうなそこで、額から左目、頬にかけて赤い一閃を刻んだ竜と対峙した。
――村が危機かもしれない。
杞憂でもなかったし、その上救えもしなかった。
判断が遅すぎたのだ。別に誰のせいでもないけれど、強いていうならば彼女のせいだろうか。
「よりにもよって氷結竜とはなあ」
「し、しかも契約者よ? 見てわかんない? あの左目!」
赤い一閃。
右腕をめくって見れば、俺には黒い一閃。
――滞空してこちらを伺っているということは、何かを探っているのかもしれない。恐らくは、傍らの彼女が悪魔ではないのか、と。
「契約者って人じゃないのか?」
「ど、同類でも出来るんだから、モンスターでもドラゴンでも、なんでもござれよ! それに、その契約者によって――」
暴風。
耐え切れずに尻もちをついた彼女は、フードが剥がれてその顔をあらわにする。
――氷結竜は人里に降りない。基本的には、あの名も無き禿山を占領するように根城にして、雪を喰らい怠惰を貪る。決して温暖、というわけではないけれど、少なくとも獰猛でも凶暴でもなかった。
だから、山の主であると同時に調和の権化とも呼ばれている。千年に一度だけ、その身の氷を分けて子孫を残すという話があるだけあって、その存在は酷く希少だ。一説には、氷結竜がいるからこそこの雪原が年がら年中保たれているとまで言われているけど、真偽は不明である。
そして、一度動き出す氷結竜は強い。
ただ一度の息吹で全てを凍らせ、それを喰らうのだ。
「ひ、人が敵う相手じゃないわよ」
だけど悪魔なら? なんてこの状況で問う度胸なんて無くて。
俺は寒さに震える身体を抱きながら、垂れそうな鼻水を啜った。
ばさり、と一度大きく翼が跳ねる。直後に、地面に積もった雪が余すことなく吹き飛んで、大気に雪が混じったように視認性がゼロになった。
どすん、と重量感たっぷりの着地音。
ようやく立ち上がった彼女は、俺の腕を引っ張っていた。
「ん? どこいくんだ?」
「ど、どこ行くって……逃げるのよ! ここに居たら――」
「逃げるってどこへ? 街に行ったらただ被害が広がるだけだ。もしかしたら巻けるかもしれないけど、可能性としては低い」
「なら……」
どうする?
現状で、ソレに対する答えは一つしか出せない。
「少し頑張ってみようか。なあ?」
「最期に聞いてくれる?」
疾走は風の精霊――四大精霊の一人から借りる加速の術。俺は相棒たる少女を脇に抱えて、息吹から逃れて竜の横に回り込んだ。
その速度は疾風が如く。ただの吐息よりも、さすがに速い。
ただ……よりにもよって代償の激痛が腹痛だった。ちょっとマジで勘弁して欲しい
「縁起でもない、マジでやめて」
「あの竜、契約で強くなってるかも――」
氷結竜が体をひねる。そっぽを向く竜は、その尾を薙ぎ払うようにして俺に襲いかかる。
鋭い刃に似た長い尾。だがそれは、結局虚空を切り裂くだけで。
「吸着」
僅かな跳躍。
足裏を通過する尾の上に、俺は降り立ち、尾と行動を共にする。
だから凄まじ勢いで振り回されて、全ての音が掻き消され、恐ろしく下がった体感温度が肌の感覚を喪失させた。共に、腹部に突き刺すような痛み。腹筋が、内部で引き裂かれたような激痛が奔る。
「ひゃあ――っ?!」
最も、抱えていたつもりが抱きついてきている自称悪魔の温もりと悲鳴ばかりは、どうしても感じてしまうのだが。
「まったく、強いだのなんだの言ったって、結局死角はあるんだから」
それに超巨体だ。その背中には、十人が乗ってもまだ余裕がある広さがある。
この竜の脅威は息吹と尾による斬撃。だけど動きは鈍く、その身が殆ど凍てついているから――。
「本当に強いって奴はさあ!」
左腕を天高く掲げる。
歩みを進めて、たてがみの脇を行き。結局何事も無く、息吹を周囲に履き続けて尾をバタバタと上に下にと暴れ回す竜の、首元へと至った。
手のひらに灯る強烈な熱。だが今の段階では、暖炉のそれにすら足らない。
精霊術の契機は言葉。
特に――四大精霊は、声をかけてやらなければ動きもしない。
そして、そこそこクライマックスらしき超絶な術の気配を見せたところで、空を覆う分厚い雲が小さな穴を穿つのを見た。
――釣れたか。
悪魔が契約によって得るのは、実質的に己の能力の開放と使い魔のようなものだ。だが、その契約が反故になって困るのは悪魔だ。無力とまではいかないが、本来の力が出ないことは致命的になる。
だから、この氷の化身に対する極めて効果的な火焔を防がなければならない。
さながら豪速球。
遥か彼方で雲に小さな穴を開けた影は、既に肉眼で捉えられるほどの距離にまで迫っていて、
「よっと……防風!」
跳躍。吸着を解除して、氷結竜の首元から降りる。直後に――俺の真横に、突っ込む敵影があった。
空中に放り出された肉体が、俺へと向いて吹き荒れる突風によって容易く吹き飛ばされる。だがそれに着いて離れず頭から飛び込む影は、俺に決して触れられない。俺と敵との間に発生する強烈な風圧が、そこに絶対的な壁を作るのだ。
そして支点は、敵へと突き出される俺の左腕。
同時に、精霊術の代償としてビキビキと音を立てて指先からへし折れていく。ただ一度だけ威力を発揮して終える術と異なり、持続する精霊術は持続して俺に激痛を与えていた。
「くっ、確かに、強いなあ!」
地面に背中から叩きつけられる余裕も無く、尻もちを着くお茶目さが許されるわけもなく。
竜からかなり離れた地点に着地した俺は、それでも圧されていた。踏ん張りは利かず、雪の上だから非常に滑る。だから踵を立てて雪原を抉れば、俺の軌跡を作るように溝が出来上がるばかりだった。
さらに言えば、氷結竜なんか目じゃないくらいに緊張する。手を伸ばせば、もう少しなんとかすれば相手の腕が届くんじゃないか――なんて緊張が、この寒風の中で俺の全身から脂汗を吹き出させていた。
弾丸が如き一閃は未だ終えない。”そういう術”なんじゃないかと、不安になった時。
「あっ――」
前腕の骨が折れ、左腕の肘から先が、妙な位置で折れ曲がった。他人のですら見たくない惨劇。俺のだからこそ、集中が緩んだ。
『防風』が劣化し、その気配を悟る敵が腕を伸ばす。
禍々しく長い爪が、容易く風圧の壁を引き裂いた。
「終わりだ、人間ッ!」
風が止む。
反応のない少女を適当な背後へと放り投げて――漆黒を纏う魔手が、俺の左腕を掴んで引き寄せた。
「最期だ。貴様は、何者だ」
勝利を確信する男の問い。俺の動きは完全に停止し、男の右手の指先は、その鋭い爪を喉に突きつけて脅しかける。
「最期って言葉好きだな、あんたらは。もっと未来に希望が持てないのか?」
相手は圧倒的に強いのはよく分かった。
なにせ、力を抜いても『防風』って術はあの氷結竜の息吹も容易く防げる万能の盾なわけだし。
それを素手でぶち抜いてしまうのは、やはり人間離れしているのは自明の理で。
最大の術ってわけではないけれど、この状況でそれをぶちかませる余裕も時間もタイミングも何もかもが詰めに詰められて皆無なわけで。
にわかに死を悟る俺は、だけど最後に挑発を以て、
「な、貴様――」
既に激昂している男のさらなる激昂を促して、真っ赤に染まる視界から俺について唯一見逃してくれる隙を突いた。
――相手すら想定していない俺の行動。
つまりは反撃。
自由になった右手の裏拳で、喉を刺さんとする腕を外側に弾く。さらにその腕に沿って伸ばした右手を開いて、唖然とする顎下に掌打を叩き込んだ。
そしてそのまま突き放せばいいものを、俺はさらに鋭敏なまでに指先で下顎を掴みあげて、唇に指を掛けた。手のひらから漏れる猛烈な爆熱は瞬時にして悪魔の顔面を包み込み――。
手の中の感触だけでわかるほど、男は口角を釣り上げて、笑った。
「なっ」
言葉も無い。
刹那にして熱が霧散する。いや、霧散するなんてちゃちなレベルの現象ではない。俺の手の中の熱が完全に奪われて、ゼロに至って、マイナスになって。
俺の指先が痛みを感じるよりも速く。
指先から肩までが、凍てつき、霜柱を立てた。
「くッ、ははは、無知だったな小僧。その程度の熱では、氷結竜の吐息すら防げんぞ」
「きょ、共有すんのか、契約者の力を?!」
聞いてないぞ、説明不足! こんなの契約違反だよ?
あ、やばい、死ぬかも知れん。
「馬鹿が、やはり人間などを契約者にするなど、愚策だっ――」
苦し紛れの前蹴り。勢い良く男を蹴り飛ばして距離を取る。同時に火焔の精霊術の予備動作で右腕を熱して、氷を溶かす。
大地を蹴り飛ばして後退。
なにが愚策だ馬鹿野郎。殺しきれてない敵を前に滔々(とうとう)と語るお前は何なんだ。
だけど、いい具合に侮ってくれている。やっぱ初対面の多種族ってこうじゃなきゃ。全体的に俺よりずっと勝っているんだから、この位が対等で丁度いい。
と言いつつも、結局俺は氷結竜をぶち殺す勇気なんて無いままで。
寝ぼけ眼でようやく起きだした少女をまた小脇に抱えて、左腕のバキバキに折れた骨を精霊術で癒しながら、また背後へ跳んで距離を図った。
名も知れぬ追っ手は呆けた面で俺を眺めながら、だけど動く様子もない。
「……逃げるのならそれでいい。だが置いていけ、貴様の名は?」
「郷に入らば郷に従えってな。そういうのは自分から名乗るもんさ」
また「くはは」と笑い、なにやら零す。「とんでもない拾い物だ」などと聞こえて、背筋が凍った。
いやいや、いやいや……まさか、標的俺になったりしないよな? お願いだからこの名も知れぬ女の子のままであってくれ。
「我が名はスミス。いずれ力を見せる時が来るだろう」
なんて平凡なお名前ですこと。
というか、このまま追撃かければ確実に俺死ぬんだけどね。氷結竜の性質持ってる癖に、弱点引き継がないのって結構攻めにくいし。
「俺は、ヒィ・クライト。できればあの村、元に戻してくれよ。関係無いだろ?」
「一杯食わされたとでも思って置くか。まあいい、どの道用はない場所だ」
「……案外、融通利くんだな」
「何、貴様らを除けば基本的には手段を選ぶ良心的な男だぞ、私は」
得意げに笑って。
俺はそれに、頬肉を引き攣らせることしかできない。
「一つ訊いて良い? なんで今追わないんだ? 絶好のチャンスだろ」
俺の問に、またスミスは笑ってばかりだった。
「絶好のチャンス? 貴様のだろう?」
「……やりづれえな」
なんで見ぬかれてんだろ。
「だがな、クライト。貴様が抱えた女は我々にとって抹殺対象だ。貴様がどうあれ、その女のしでかした事は重大だ」
「重大っつってもなあ」
親殺しって、種族内でそれほど禁忌なのか。
いやまあとんでもない罪には違いないんだろうけれど。
彼女も何か言い分あったみたいなのに、それも聞かずに有無を言わさず殺すほどのこと? いやまあ多種族の事に首を突っ込むのは無粋だけれど――。
契約が成立した時点で、決して部外者だとは言えないわけで。
「そう簡単に手ぇ出せると思うなよ」
そう口にしてしまうのはとても偽善的なのだろうけれど、だけど見捨てて置くのは偽善よりもよっぽどゲスなわけで。
「図に乗れ小僧。その方が、此方としても楽しめる」
ひょい、と後ろへと高く跳ぶ。
着地する先は大人しく頭を垂れる氷結竜の頭であり、聳える角に掴まった直後、巨大な翼が羽ばたき――跳躍、飛翔。
何が彼の気を迷わせたのか、結局刺せる止めを保留にして、氷結竜と共に空高く飛び去り、間もなく落ち始めた夜の帳の向こう側へと消えていった。
脱力して、脇から落ちる少女はどさりと音を立てて、俺は緊張の弛緩と共に腰を砕く。
遠方で、白い闇が薄れ始める。
それを引き裂くように、ぽつりぽつりと現れ始めた人家の灯り。
やはり吹雪の中に隠されていただけか――と。今回はそれがわかっただけでも十分で。
「ちょっと……退却させたの?」
「まあ、向こうの気が変わったみたいで」
それも悪い方向で。
相手が本当に本気で来たとしたら、脅威中の脅威に違いないんだろう。
だけど、悪魔という割には随分と人心を弁えた様子だったのが、俺にとっては意外すぎた事実だった。
俺が差し伸べた手を掴んで、彼女が立ち上がる。
そういえば、と同じ目線の高さに至った彼女に、俺は初対面で告げるべきだった事を口にした。
「知ってると思うけど、俺はヒィ・クライト。あんたは?」
「ああ……あたしはライア。よろしくね」
改めて交わされる握手。
だけど、ようやくライアと名乗った少女の瞳が泳いでいたのが、どうにも気になって。
何やら一気に肌に触れて察し始めたライアというものを――ひとまず、気にしない事にした。