1:平穏
「大変そうですね。でも、それはクライト様も悪いのでは?」
「構ってやらないから、なんて言わないでくださいよ。ガキじゃあるまいし、拗ねるなんて」
再び森での樹液の採取後、今回はコロォチが出なかったから早く帰る事が出来た。依頼主は城下町の老人で、製薬を趣味にしていて知り合いなどに好意で分けたり、怪我の際に治療を行ったりしているらしい。
なんでも昔は医療に関わっていたのだとかなんとか。術を行使しない医療技術を身に着けているらしく、その製薬には手慣れた様子があった。
「理屈じゃないのですよ。女性は、もっと丁重に扱わないと」
「ですがねえ……」
ちょっと篭る酒の臭い。
そこは大きく開けた空間に、長机を無数に並べた気安い酒場である。
両開きの扉から真っ直ぐ歩けばカウンター。その両側に等間隔で木製の長机が横に二つづつ並んで、細い通路を作る。そこを、忙しそうにウェイトレスが行き来していた。
城下町で最も賑わう、地元の人間というよりは旅人や傭兵など、馴染みのない顔ぶれが頻繁に立ち寄る場所だった。
入りやすいから、ということでフレイはここを紹介してくれたのだ。
俺と彼女間に聳える葡萄酒の瓶。互いのコップには、まだ半分近くのそれが残っている。
「でも俺、フレイさんの事は丁寧に扱ってますよ」
「それを本人に言う時点で、もう丁寧じゃないと考えましょうよ」
「ははは」
「いや、はははじゃなくて」
ぐいっと一気に葡萄酒を呷る。飲み心地の良い甘さが口の中に広がって、思考にモヤがかかる。
顔が熱くなるのがよく分かった。だけれど、妙にすっきりしたような気分になる。
極北では耐寒の為に強めの酒を呑んではいたが――実は、まともに酒を飲むのもこれが初めてだったりする。
だって酒って高いし。完全な嗜好品だし。だったら水を大量に買っておいたほうが良いと思わないか。
「もう顔真っ赤ですね。お酒、弱いのですか?」
「いや、どうなんですかね。あまり飲むようなもんでも――余裕も――なかったし、わかんないス」
「ああ、もう。ウィズちゃんを呼んだほうが良かったのでは?」
「なんだ、てっきりフレイさんは俺と二人で会いたいのかと思ってました」
「えっ、あ……いや、それは」
冗談っぽく言ってみれば、彼女は驚いたように目を見開いてから、困ったように視線を泳がせる。
そうして戸惑って言い訳の言葉を考えながら葡萄酒をチビチビと舐めながら、小さくため息。
俺は彼女を視界に収めながら、自分のコップを酒で満たす。
「クライト様、最近はお仕事が順調みたいですね」
俺が酔っているから放置したのか、あるいは単に話を逸らしているのか。
どうでもいい、と切り捨てるのは悪意や不快感からではなく。今はそこに食いつくような無粋さは要らないから、触れずにおいた。
「っていうか、殆どウィズの仕事ですからね。ただ随伴してるだけで」
「知ってて言いました。だって講習以降、クライト様の仕事の履歴真っ白ですものね」
ふふ、と悪戯に笑って、一口分残った酒を飲み干す。
目を細めて、中身が半分ほどになっている瓶へと視線を写した彼女は、手を伸ばさずに、次いで俺を見た。
注げ、ということらしい。
苦笑して、瓶を取る。彼女は微笑んだままコップを出し、その縁に瓶の口をつけて傾けた。
とっとっと、と音を立てて瓶の中身がコップへと移る。相対的に、手の中に感じる重さが減っていった。
血のような朱い液体は、芳醇な香りと共に、果実的な甘さを持つ。酒の要素はほんのりとした風味しかないが、それがちょうど良く感じた。つまり、美味しいのだ。
「ありがとうございます。クライト様に注いでもらえると、なおさら美味しいです」
「そりゃ良かったですよ。来た甲斐がある」
「ふう」
コップに一度口をつけてから、そうやって短く息を吐く。
きっちりとした洋服は、事務所の制服であるらしい。黒一色の上下で、下はぴったりとしたスカート。そこから覗く足も、生地の薄い長い靴下。踵の高い靴は、見るだけで足が疲れそうだ。
そうして、やはり疲れているのだろう。メガネを外して、そうして思い出したように後ろで一つに括っていた髪を解く。
石鹸の香りが流れて届く。
毅然とした女性から垣間見える無防備にも程があるその内側を見て、その格差に胸が高鳴った。
瞳孔が開く。胸が高鳴るのは、酒のせいだけではあるまい。
「お仕事、立ちっぱなしだから少し疲れてしまいました」
可笑しそうにくすりと笑う。それだけで長い髪が揺れる。
服装は未だ乱れていない。だけれどその緩んだ表情が、またその姿に新鮮味を与えた。
「お疲れ様です。さ、乾杯しますか」
「先ほどしたじゃ無いですか」
「仕切りなおしですよ。はい、乾杯」
強引にコップを誘って、ぶつける。こん、と小気味よい澄んだ音が響くも、瞬く間に辺りの喧騒に飲まれてしまった。
また互いにコップを口に運んで、一息。
「クライト様と居ると、楽しいですね」
「そうですか? あまりおもしろい話も知らないんですが」
「そういう楽しいじゃないですよ。落ち着くとか、嬉しいとか、そういう意味での」
「そんなもんですかね」
「ええ。だから少し、終わるのが怖いかも、しれませんね」
ほう、と唸る。
どうしてですか? と問えば、訊いた時にようやく気づく。彼女の頬は紅潮していたし、そのコップの中身は既に空になっていた。
「一人の家に帰るのは、やっぱり寂しいものですよ」
「そうですね」
よく分かる話だった。あまり共感したくもない話だったけれど、彼女みたいに共感できてよかったと思える人も居るわけで。
「少し、寒いですし」
室温的な話――ではないのだろう。おそらく隙間風だとか、床や布団が冷たいからだとか、そういうのではなく。
精神的な。
触れるのが躊躇われる、だけれど言われたからには捨てるのは彼女に失礼な話。
「お酒、注ぎますよ」
だから今度は、俺が話を逸らす番。
そうするのが無粋な状況だけれど、そうしてしまえば水泡に帰す最後の手段。
瓶を掴んで、強引に注ぐ。まだ、なみなみ注いでも中身は残っていた。
「乾杯しますか」
仕切り直し。
楽しいと感じてくれるなら、楽しいと感じられるままの時間に出来るように。
今はそんな色っぽい話はいらないから。無責任に受け入れられる男ではないから。
「はい。乾杯」
「乾杯」
◇◇◇
小腹が空いたと感じた時刻は、もう空が明るさを帯びてきた時間帯で。
フレイを自宅に送り届けた、その後だった。
「まったく。酒入ると人変わるなあ」
酩酊はしてなかったはずなのに、動けないからと背負わされて。やれ門の近くだ、やれ城の方だったと自宅の場所を惑わされて。
一時間かけて彼女の家まで来れば、その介抱にまた一時間くらいかけて。
いくら明日……いや、もう今日だけど。今日が休みの人は気楽でいい。どうせ俺はまた、ウィズの仕事についていくことになるんだろう。
通りを歩いていれば、日中とは打って変わった閑散としたその様子に、まるで街に自分が一人だけになったような錯覚を覚えて。
「お早う。早いね、クライト」
背後に迫る気配。振り返れば、視界いっぱいを埋め尽くす人影があった。
見上げれば、見慣れた巨漢。いつぞやのアースィック・フリーだった。
「ああおはよう。まあ俺はこれからおやすみなんだけどな」
「確かに酒臭いなあ。もしかして、毎日こんな感じかい?」
「んなわけ無いだろ。今日は誘われてな、酒なんて全うに飲んだの今日が初めてだ」
「意外だね」
落ち着いた風に告げるフリーの背には、相変わらずも突き出た鉄棒。
見上げるほどに大きな巨漢は、それにしてもこんな早朝にどうしたのだろうか。
「あんたは、これからどこに行くんだ?」
「ああ。妹の退院が明日でね。これから行く所」
「街の中にあるんじゃないのか?」
「いや、医療技術についてはノースノウの方が先進してるらしくて。これから、ノースノウまで行くらしい商人の馬車に乗せてもらって行くんだ」
「へえ、何にせよ良いことだよ」
短く息を吐いて、裏拳でフリーの胸を叩く。彼は苦笑して、後頭部を掻いた。
しかし、本当に良かった。あの大金のお陰で妹さんの手術が出来たのもそうだが、成功したらしいのもいいことだ。
やっぱり、その経過を聞けてこそ実感できる。
「ちなみに、妹さんってどこが悪かったんだ?」
「目がちょっとね。見えなくなっちゃって」
「そうか。ならマジで、なおさら良かったよ。もし良かったら、戻ってきた時にでもお祝いにでも行くよ」
「そうしてくれると嬉しいよ。君には色々とお世話になったし……っと、そろそろ」
「ああ。じゃあ、気をつけてな」
別れを告げれば、フリーは片手を掲げてそのまま走り去っていく。
俺はまた、胸の奥底から深く息を吐いて、それを見送って。
ばっさばっさと大気を叩く翼がはためく音がして。
「さて、ウィズが起きる前に戻るか」
「――朝帰りなんて、お盛んじゃない?」
前に進もうとするよりも早く、それは上から落ちてきた。
目の前で着地するやそう告げるのはライアしか居なくて。
俺は深く嘆息した。
「あんただってそうなんじゃないのか?」
「あたしは違うわよ。夜に帰ってきてもウィズがまだ起きてたから、寝かしつけてから探しに来たの。貴方がこんな時間まで出てるなんて、珍しいから」
「そりゃ悪いことをしたな」
「そうよ。”心配”したんだから」
この間の俺の言葉を逆手に取って、にやにやと俺を見た。
人に言う前に自分の行いを見てみろ、と言っているのだ。
「だが、俺はちゃんとウィズに遅くなることを伝えたぞ」
「誰と、どこに行くとかは?」
「言ったよ」
「だからよ。貴方は、本当にわかってるようでわかってないのよね。偉ぶって、まだまだお子ちゃまなんだから」
笑いながら、ぽんぽんと俺の頭を叩いてから、腕に抱きついて歩き出す。
俺は少し引っ張られるようになりながら、それに倣って宿へと進んだ。
腕に触れる熱。感触。なめらかで柔らかく、ただそれだけで本能を刺激するライアは、だけれど無邪気に俺に抱きつくだけで。
「今日は一日、ゆっくりしない? あたしも、用事はないし」
「ああ。たまにはいいかもしれないな」
「なら決まりね。この時間からだとお昼まで寝たとして……」
一番星は日差しに掻き消され。
俺は突き刺すような日差しに思わず顔をしかめて、だけれどこんな穏やかな日常が続くことを無意識に願っていた。
願いは飽くまで願いで。
叶わないのが定石で。
「ううっ――気持ち悪ぃ」
食事をしていれば、咀嚼しているものをそのまま噴き出しそうになるほどえずき、頭の中でガンガンと金槌が鉄を打ち付けるような衝撃が響く。頭痛が血流にのって全身に巡り、身体の節々が軋むように痛い。
酷く喉が乾く。お腹も減るけれど、強い胸焼けが食べ物を拒む。
日差しが俺の身体を照りつける。
穏やかな丘陵で――傍らのウィズは弓を構え。ライアは腕を組み。
眼前には、黒衣を纏った男が居た。
「話は聞いている。お前が、ヒィ・クライトだな」
黄金の髪を持つ男。瞳は黒く、闇に飲まれて異様。
そうして黒衣を脱ぎ捨てれば――首から下は、まるで甲殻のようにぴったりと体を包む装甲があって。
「悪魔は外骨格を自在に出し入れできる。基本容姿は、あたしやアレみたいに人間に近いわ」
「いつも思うが、説明が遅い」
むざむざ誘い出されてしまった。
よりにもよって――ライアに。
今日は弁当を持って、旅をしていた時のように外で食べようということになっていたのに。
「ふざけ、やがって」
握った拳を胸の前に引き上げる。だけれど腕ごと震えるそれは、どうにも格好が付かなかった。
頭痛が集中を遮る。吐き気が思考を掻き乱す。
冷や汗が全身を伝う。
術が行使できない。
男の顔面が、やがて対の紅玉を瞳の位置に押しこむ鉄仮面に包み込まれて。側頭部からウサギの耳のように伸びる角が、外見的特徴を見せていて。
「行くぞ、糞餓鬼」
空間が歪み、下げていた手のひらに棒状のものが展開した――そう認識した瞬間、男の手からは、その身にあまる巨躯たる剣が伸びていて。
幾重にもの分厚い鉄板を重ねたような鉄塊。その土手っ腹にある大剣を包むような帯は、同様に鋼鉄で設えてあるようで。
俺はただ、堪え切れずに昨夜の酒を吐き出した。




