5:偽善性
大それたことをしようと思ったわけじゃない。
人並みに生きてみようと、始めはそう思っていた。
四大精霊が背後についている実感はなかったけれど、師匠のお陰で自分がある程度は強いことを理解はしていた。だけれど、それを利用して偉ぶろうとはしなかった。
誰かの為になりたいと考えていた。
ただそれだけだったのに。
かつて俺が訪れた村は、東の大陸の端の方にあった。故郷の村よりはるかに小さい、そこは殆ど集落に近かった。
彼らは自給自足での生活を送っていた。不自由な事は多くあるけれど、それでも平穏で、充足感に満ちて日々を過ごしていた。
だけれど気になったのは、村の端の方で朽ちている廃屋の数々で。
訪れたその夜に、理由を知った。
凶暴化したモンスターが村を襲っていた。だけれど彼らは、派遣事務所に依頼する金も用意できず、またモンスターを倒せる人間も居なかったから、ただそれに耐えるしかなかったらしい。日々、肉を食われて逝く仲間も助けられず、布団を頭まで被って怯えるしか出来なかった。
だから俺は助けようと思った。モンスターは強くはなくて、ただの一撃、炎で葬ることが出来たのだけれど。
次の夜、倍になって連中は来た。
その次の夜、親の敵のように群をなしてやってきた。
俺にモンスターの知識はなかったから、知らなかったのだけれど――そのモンスターは直接巣を叩かなければ、同胞を殺した者の元へと延々とやってくるらしかった。
傭兵に仕事を頼んでいれば、知識があるものが然るべき対処をした筈だった。
俺が勝手に助けたのも悪かった。無知というものが、どれほど罪なのかも味わった。
だけれど、金が無いばかりに滅びていく多くの命は我慢ならなくて。
やがて一週間もすれば村は滅びてしまって。
一ヶ月も耐えてきた村が、ただ俺が手を加えてしまったがために地図から名前を消す事になってしまったわけで。
俺は確かに強かったと思うけれど、圧倒的な物量の前には無力にも程があって。
なぜ今生きているのか――それは決して偽れず、「逃げたから」と言うしかなくて。
それはおよそ、誰もが遭遇する可能性のある苦渋の事態であって。
だから俺は、その日から強く決めたことがあった。
困っている人を助けたい。
漠然としていた。やや曖昧でもあった。
だけれど、偽善と呼ばれる信念は、もう俺の中でそう刻まれていたのだ。
◇◇◇
今となっては、それもブレてこの有り様だ。
あの時何を考えて、今でもどうしたかったのかは良く思い出せるけれど、今の俺がそれを成し遂げられるとは思わないし、心の底からそれを貫けるとも思えない。
「情けない話ですよ」
いっそのこと、最初から逃げまわっていればよかった。
中途半端に格好いいことをしてしまったせいで、今の自分がより惨めに見える。
俺は特別な人間なんかじゃない――あまりに持ち上げられすぎて、忘れていた。地面に叩きつけられて、ようやく実感するなんてのは随分おめでたい話だけれど。
俺はやっぱり、所詮そこいらに転がっている誰かと同じで。
平凡でいたいと思いながらも、平凡な己に絶望して。
人並みの激情を、だけれど”らしくない”と精霊に怒られて。
だからこそ、俺は俺がわからなかった。
自棄になる。
また、自棄になってしまう自分に嫌気が差す。
醜態を受け入れる自分の器さえ欺瞞できない自分が、大嫌いだった。
うつむいて、地面が見えないから彼女の下腹部を見つめて。フレイの顔を見るのが怖くて、顔をあげることが出来なかった。
「クライト様は」
頭に手を載せられる。
「自分が何でも出来ると思っているのでしょう。自分しかできない事が多すぎると、お考えになられているのでしょう?」
まだ顔が上がらない。
何も見ぬかれていない。表面を撫でられただけ。
「一人で抱え過ぎで、一人で頑張りすぎなのですよ。少し休む時間が必要なのではないですか?」
休息。
むしろ、俺はいつ休む必要が有るほど動いていた?
ただ無心に戦っていただけ。傷は容易く癒え、不要な傷を負い続ける日々。
「いえ」
悪魔という明確な敵が現れて――守る対象があって。
やることが増えて。仲間が増えて。
あそこからだったか。俺の目的が、ブレてきたのは。
そうか。優先順位がわからなくなって、だけれど無理に信念を貫こうと思って。
「休む処が、必要なのでしょう。クライト様に比べれば、私は弱い……だけれど、もしよろしければ」
「……え?」
頭に載せられた手が、後頭部に回って手前に押す。圧されたまま、俺はフレイの胸へと引き寄せられる。
殆ど初対面で。
ただの同情による行動が。
「何を」
拒めなかった。
それは久しく久しい、無償の肯定で。
否、これは俺を逃がす道の提示ではなく、俺を受け止めてくれる緩衝材。ライアのそれとは質が違う、どちらかと言えば師匠に似た愛情。
「不埒だと思うでしょう。初対面に近い女が、ただ事情を聞いただけで抱き締めるなんて、下品だと思うでしょう?」
保身、ではなく。
「だけれど、クライト様は今にも崩れてしまいそうだった。偽りすらも、ヒビだらけで……」
「こんなの、並の男なら勘違いしますよ」
そんな経験なんて無かったのに、妙に猜疑するからこそ素直に受け取られない。
胸当ての硬い感触が、やがて俺の熱で熱くなる。
「どうして、俺に――」
言葉を止めたのは、無粋な問いに気づいたからではない。
背後で、何かを齧るような、幹を砕く音がしたからであり。
「モンスターだ」
俺を解放して距離を取る。
俺は振り向いて、森の中の影を認めた。
地を這う一匹。
黒く照る足の早い巨大な昆虫。楕円形のシルエットは、それ以上の特徴はない。だけれど、だからこそその姿は何よりも特徴的だった。
顎は幹を噛み砕き。
炎で焼き殺されるけれど、物理的な攻撃では妙に耐える。
「噂をすれば、ってやつか」
「え? ……まさか」
「ああ、あの時のモンスターだ。コロォチ……巣を叩かなければ、食い殺される」
だけれど、今は敵も気づいていない。
戦う必要なんてなくて。
「逃げましょう」
「うん」
近くの木に貼りつけた革袋に手を伸ばして、口を掴む。するとその中身ではなく、幹から垂れていた樹液が手を濡らし、滑らせ、袋がこぼれ落ちる。
びしゃ、と音を立てて床に転がる革袋は、もうそれだけで再び採取しなければならなかったけれど。
そのむせるような濃厚な木くずのような香りが、音が、振動が、コロォチに反応を促した。
「まずい」
俺が術を行使する。手のひらに、炎を宿す――より早く、俺の脇からコロォチへと飛来する一筋の光条があって。
その剣は、稲妻を纏ってコロォチの甲殻を突き破り、大地に縫いつけて電撃を発生させる。バチバチとその殻が焼けて、その表面から青白い稲妻が迸った。
コロォチはそれだけで死ぬ。精霊術に対する耐性は、極めてゼロに近い。
俺は落ちた革袋を拾い上げる。落ちた際に紐が引っ張られて口が閉じたらしく、中身はまだ半分くらいを保っていた。
これでも、量は十分だろう。
「クライト様、どう致しますか?」
先を歩いて、剣を引き抜く。刀身に文字が刻まれ淡く輝くそれは、陣や詠唱と同じく、術を行使できる仕様が施されているらしかった。
なるほど、技術の進歩は凄まじい。
「連中は樹液を啜ります。そして丁度、俺はその蜜にまみれている……このまま放置しても、連中が俺たちを探しに外に出てくる可能性もある」
人間の胴ほどの大きさのある昆虫だ。
それが数百という群れで出てくるのだから、末恐ろしいものがある。
そして、殲滅してしまえば生態系を変えてしまう可能性もある。もっとも、害虫だから良いのかもしれないけれど。
「しかし、肉食系なのでしょう」
「死肉を貪ると良く言いますけどね。あいつら、生き血を啜りますよ」
「生き地獄……」
少しだけ不安そうに、そしてうんざりしたように表情を歪める。
これまで見た大人の毅然とした様子から一転した、新たな顔に少しだけ、彼女に近さを感じた。
抱擁するだけではない。与えるだけではない。
慕ってくれるウィズとも、受け入れるだけのライアとも違う。
少しだけ、胸が高鳴った。
凛然とするその姿に、ちょっとだけ惹かれているような気がした。
「さ、行きましょうか。連中が仲間を呼んでくる前に」
◇◇◇
「しかし如何ともし難い――いえ、暑いですね。蒸します」
「ここらは温暖な気候ですからね。四大大陸の中でも、一番安定してますよ」
「北の大陸なのに、少し肌寒いくらいがいいです。その方が、可愛い洋服もたくさん出ますからね」
「へえ、フレイさんもそんな女の子女の子した趣味があるんですねえ」
鬱蒼と茂る森の中は酷く薄暗く、道という道もない。だから不安定で緩い土や、突き出た岩などを避けながら、なるべく歩きやすい場所を選んで進んだ。
樹液の強い香りに誘われて襲い掛かってくるモンスターは、コロォチに限らない。他の角の生えた昆虫型や、地から湧き出る芋虫のようなモンスターも居る。しかしどれも、俺の術よりも早いフレイの剣閃の前に散っていった。
ずんずんと先に進む。進むけれど、コロォチの巣がどこにあるかわからない――ものの、
「はっ!」
翻る白刃。脇から飛び出してくる四匹のコロォチを目ざとく発見した彼女は、地を這うように上肢を崩して前方に剣を薙ぐ。すると綺麗に横一閃で両断されたコロォチが転がり、散開した三体がフレイを囲むように展開する。
今度は俺の出番だ。彼女が作ってくれた時間に発火した両手から噴出させる一筋の火焔が、その半ばで三つに別れて三匹のコロォチの背に直撃する。
それは業火にすら至れぬ炎。この間の決別から、炎術の火力は驚くほどに下がっていたけれど。
それでもコロォチは悶え、やがて力尽きた。
指先がジリジリと焼け焦げる。思わず腹を抱えるようにして隠し、痛みを堪えた。
「こっちみたいですね」
「ええ」
冷や汗が全身を伝う。
術の発動が、いつもより段違いに遅い。イメージが、追いつかない。
下腹部に鋭い痛みが走る。嫌な予感だった。
経験はあるけれど――実力がそれに伴うとは限らない。せめて、この人の前でだけは強くありたいのに。
コロォチが走ってきた方向へと急ぐ。
暫く進むと、今度は十近い影が地を縫うように迫っていた。
これではフレイの牽制が間に合わない。俺が術を発動する前に食われてしまう――だけれど、彼女は俺を一瞥してから、再び剣を抜いてしまっていて。
一閃、稲妻迸る剣閃がコロォチの頭を切り裂くと同時に炸裂して、小さな爆発を起こす。僅かに上る白煙。強い焼け焦げた臭い。
さらに一閃、振りぬいたまま、まだ脇に居る一匹を切り裂く。
直後に、片方ばかりに執心しているフレイの左腕に飛来する影が無数にあって。
フレイはそのままバランスを崩す。そもそものニ撃目が彼女にとっての無茶だったのだ。
俺のために無理をしていた……そんな事も、今ようやく気づいたわけで。
とことん、自分がどうしようもなく情けなくなって。
嫌悪する時間すら無い今、
「圧殺領域」
闇よりも尚暗い闇が大地に広がる。その刹那に、その暗黒の領域から噴き出る黒い手が、誰に触れるよりも早くコロォチの総身を掴みとり、砕き、飲み込んでいく。それが同時に、瞬時にして全てのコロォチを飲み込んだ。
代償で右腕がへし折れた。
集中力が途切れ、だけれどなんとか敵を殲滅し終えた所で闇が失せる。
「はぁっ……大丈夫、ですか? フレイさん」
「はい、私は――クライト様、どう致しました?」
腕を抱えて跪く俺に、彼女が駆け寄ってくる。
――怪我の回復が鈍っている。
ノームがどうこうという話ではなく、恐らくは、俺のイメージの問題。
これまで当然のように感じていた治癒が、今では意識しなければ不安になってしまう。
敢えて傷を負う。
まるで俺が不正をしているようで。
「そういえば、クライト様は陣も詠唱も無いですよね。代償の品は、何をお使いになっているのですか?」
そうして彼女は察してしまう。狡い女だ、どうしてわかってしまうのだろうか。
「ご自分の身体、ですよね。先程から右腕ばかり庇っていましたよね」
「ああ……だけど、こればっかりはあんたに口を出される謂れはありませんから」
「わかってますよ。むしろ気づけた分、フォローがしやすくなるというものです」
笑顔で、責もせずに告げる。下手をすれば俺が術を行使できずに彼女を危険な目にあわせていたかもしれないのに。
「でも、危なくなったらちゃんと言ってくださいね? 私もこんな所で死にたくないですから」
どうして。なぜ赦してくれるんだ。
「……どうして」
「はい?」
訊いてしまう。さっきも、問いが途中で終わってしまったのだ。
「怒らないんですか。下手をすれば、今が一番危険なのかもしれないのに」
「怒って欲しいのですか?」
腕の中で、骨と骨が噛みあう。指先まで流れていた激痛が途絶える。感覚が蘇る。
乱れた呼吸を整えて、それからまっすぐに彼女を見据えた。
微笑み、メガネを整える所作。どことなく流麗に見えてしまうのは、贔屓目に違いない。
「必要なら叱りますよ。今そうしないのは、ちゃんとクライト様が反省できているから」
「……フレイさんて、結婚してます?」
「あら、もうそんな歳に見えますか?」
「いえ……ただ」
母さんのようだ、と思った。
それは失礼かもしれない。だけれど彼女は、こんな短期間なのにもかかわらず壁をなくしてくれた。ただ居るだけで、安心さえ出来るようで。
「私に女性的な魅力はないですか? ちょっとくらいは、自信があるのですけれど」
悪戯っぽく片目をつむって、下唇に指を置く。色っぽい仕草だった。
だけれど直ぐに微笑んで、「さて」と手を打つ。
「さっさと終わらせましょう。日が暮れちゃいますよ」
「はい」
「ほら、足取りが重いですよ」
完治を認めたのか、俺の腕をとって先に進む。俺は連れられるまま、前へと進んで。
足を止めた。
フレイも疑問を抱かない。
蠢く昆虫たちが擦れ合う音を聞いて、
「っ!?」
さしものフレイも、その群体を見て悲鳴を押し殺す。
――前方は闇に染まっていた。
そう思っていたのだけれど、闇は単なるコロォチの集合体で。
臭いが、気配が、俺たちの存在を彼らに露わにさせていて。
間髪おかずに、闇が散開した。
一つ一つのシルエットが明確に認識できないほどの群れが、木々を、地を這ってカサカサと迫り。
フレイの手を握り、俺に寄せて。
「圧殺空間ッ!」
俺の胸の前に出現した黒点は、一瞬の内に拡大する。
黒点は気がついた時には俺たちを飲み込んでいて、既に木々の隙間から覗く空の色すらも見えない――そんな暗黒空間の中に没入した全ては、それらが存在する座標に縫い付けられる。消滅は、闇に食われるのは次の刹那。
木々も、土も、コロォチも、何もかもを食い潰す。球状に展開する圧殺空間は、無秩序に全ての破壊を目論んだ。
酷く呆気無く。
酷く圧倒的に。
内臓が灼け尽き。網膜が焦げ。全身の骨に亀裂が入る。
その破壊力故に、こんな状況でなければ使用を避けていた術だ。四大精霊のように意識も意思ももたないけれど、この術を司る精霊は代償が大きすぎる。
だから、感覚的には数時間。実際には僅かニ、三秒の術が終えて闇が霧散した時。
半球状に沈んだ大地の中心で、俺は跪いて黒く焦げた血を吐き出していて。
綺麗サッパリ、何もかもがなくなってしまった空間を、フレイは驚いたように見ていた。
◇◇◇
「お疲れ様でした」
「そちらこそ」
依頼主の元へ樹液を届けた後、俺たちは派遣事務所の応接室に来ていて。
報酬の二万をそれぞれ分け合った後、功績をたたえて握手を交わした。
「これでまた、俺がいつも通り仕事を請け負えるわけですね」
「ですけれど、またこれまでのようにキャンセルばかりが続くとなると、考えものですね」
「ぜ、善処します」
痛いところを突かれてしまう。
彼女は本気で言っているのだろうけれど、少し冗談っぽく笑ってみせた。脅しではない、という事なのだろう。
「ああ、ところで」
そういえば、まだ聞いていなかったことがある。
割と大事なことで、俺の心を揺れ動かした事態。
彼女はなんだろうか、とカップを手にとって首を傾げた。
「どうして俺に、あれほど優しくしてくれたんです? さすがに誰にでもああってわけじゃないでしょう」
もしそうだったらなんだか厭だし、彼女自身の日常生活に支障しか出ないはずだ。
いや、千切っては投げ、千切っては投げのタイプだったらわからないけれど。
「弟に似ているんですよ、クライト様は。見た目じゃなくて、その生真面目すぎて融通が利かない所とか」
「へえ。お幾つなんですか?」
「十八でした」
でした。過去形。恐らく十八以降の歳を刻んだ事はない。
つまり、もう亡くなられたという事であって。
その面影を俺に見たわけで。
同情や好意なんてもってのほか、彼女はただ俺をその弟の代わりにしていただけで。
良かった、と思う。彼女のほほ笑みは自然なもので、思い出に浸って反芻する過去を、決して悲観的に見ていないのだから。
「フレイさんに愛情込めて育ててもらって、弟さんも幸せだったでしょうね」
「そう言ってもらえると有り難いです。クライト様は、ご兄弟は?」
「居ないんですよ、これがまた。ただ良くしてくれた年上の友達と、幼馴染は居ましたが」
今は居ない。みんな死んでしまった。
「そう、でしたか。でしたら……もし、クライト様がよろしければ、なのですけれど」
「はい?」
少し、困ったように眉尻を下げて。
テーブルの上で合わせられる指先は、くねくねと忙しく動いて。
かすかだが、頬に朱色が差しているような気がしないでもない。
「この街に居る間だけでも良いので、仕事以外の時間も度々会って貰えませんか?」
「……いや、さすがに弟に似ていると言っても、俺そこまで弟さんの代わりになれる自信は――」
「違うのですよ、違うんです。全然違いますから。私がクライト様と一緒に居たいと、そう思った。これは単純な想いです」
「おや」
これはもしかして。
告白されているのか。
いやいや、そんな事があるわけないし。そもそも根無し草の俺が、こんな立派な城下町で仕事を持っている彼女の申し出を気易く受けられるわけもないし。
「ま、そのままの意味でお茶をするだけならいいですよ。俺も暫くは、資金を貯めなければいけませんし」
「よろしいのですか?」
「よろしいのですよ、っと。さて、今日はもう帰りますよ」
椅子を引いて、立ち上がる。そうしてから、カップの中の冷めた紅茶を一気に飲み下した。
見下ろすフレイの顔は紅潮しきっていて、さらにはそんなのぼせた顔で俺を見るものだから、どうにもドキリとしてしまう。
「この報酬でたまには連れに良い物でも食わせないと、暴動でも起こされそうで」
まだ城下町の名物も何も食べていない。観光名所もどこも目を通していない。
彼女らの不機嫌を治すためには、少しくらい頑張らないといけない。今までなら、それだけでもうんざりしていたのだろうけれど。
顔は、他人から見れば多分、随分とすっきりしているだろうと自覚できるほど、清々しくて。
今日は一日大変だったけれど、フレイのお陰で精神的な休息がとれたような気がした。
「クライト様も大変ですね」
彼女は微笑みを顔に貼り付けたまま。
俺は笑い返して、手を掲げた。
「ええ。たまにはあいつらにも働いて欲しいもんですよ」
そういえば、彼女らの身分証明書として派遣事務所に雇用登録するのもすっかり忘れていた。
後日、彼女らが許可すれば連れてこようか。
まあ、そこらは追々考えるとして。
「それじゃ。フレイさんと出会えて、良かったと思います」
「――あっ」
ちょっと不意打ち気味の、ちょっと甘い言葉。キザっぽいかもしれないけれど、それでもその言葉は事実で。
彼女の、彼女にしては間抜けな感嘆が零れた時、俺はもう扉を開けていた。
頑張れる気がする。
帳が落ちつつある藍色の空を見上げながら、そう思った。
悪魔を倒す。
困っている人を救ける。
金も稼ぐ。
その中で、ライアが隠している秘密も暴かなければならない。
いつか里に戻った時、またウィズのあの差別問題と直面しなければならない。
これからも出会う人たちも多くいるだろう。
だけれど、今ならばなんでもできるような気がする――それほどに、心は澄み渡っていて。
サラマンダーが言っていたことが、今なら分かるような気がして。
「よし、行くか」
まず宿に戻ったら、土下座から始めようと思った。




