5:五年前
十五回目の春が来た。俺が十五歳になってから少しした、いつもの村の跡地で。
師匠は、人が変わってしまっていた。
そのきっかけは、ちょっとした決意表明。四年前に俺が本気で傭兵になると告げてから、彼女はもはや面影すら残してくれなかった。
「っ!」
眼前を埋め尽くす閃光。それは一点を穿つ閃撃でありながら、その末恐ろしいまでの火力で目の前に巨大な壁となって立ちはだかった。
疾走――息を呑んで、停止。そのまま高く跳び上がってやり過ごせば、それを予期した少女の矮躯が空中で俺の胸元へと飛び込んできて、
「遅いのよ」
腕を掴み、振り払う。年端もいかない少女とは思わぬ馬鹿力に身体は容易く空の中で円の軌道を描いて、勢い良く地面へと叩き落された。
だけれど、着地する瞬間に大地へと向けた右腕から風を噴出させ、クッションを形成。急激な減速と共に衝撃を受け流して、そこから少し弾けるようにして着地した。
――少女は金髪はゆるいパーマがかかって毛先を渦巻かせる。どことなく気品を漂わせる女の子は、白のシャツに黒いコルセット、それにシースルーの外衣を合わせる。短めのスカートは、彼女が動く度にその中身をあらわにさせた。
大人っぽい黒のショーツは、外衣と同じくして大事なところの生地だけを厚くした。つまりは他はスケスケなわけで。
「遅いわね、遅いのよ。まだまだ、全然。本気でそれで、外に行くつもり?」
「だから師匠……言ってるでしょう、俺はスロースターターなんスよ!」
かつて悲劇を体験した俺より少しだけ年上らしき外見の少女は、かの師匠。
精霊術ではない、その上位に類する超自然的な力を行使する彼女は、その数え年以外の全てを回帰させて肉体を少女に戻したのだ。
わけがわからないと思った。魔女っていうのは、なんでもありなのかよ――そう納得が行かなくもあったのだけれど、事実、なんでもありなのだから仕方がない。
なにせ、彼女の術の全ては精霊術より威力が格段に高い上に、精製速度が尋常でないほどに早い。恐らく、師匠が本気で俺を殺す気になれば、俺は反応する前に全身を蜂の巣にされるだろう。
「ガキンチョがナマ言ってるんじゃないわ」
「っるさいんですよ、このロリっ娘が!」
いつまでも馬鹿にされるわけにはいかない。何よりも、そのままの意味での子供にガキなんて言われて、黙っていられるほど俺のプライドは安くない。いや、そんな挑発を買うのだから安いのかもしれないけれど。
撹乱を目的とするジグザグの機動。斜めに跳び、その対面より少し先の地点へ飛び込み、それを幾度も繰り棒立ちする師匠へと肉薄。
「だから」
近づいたはずなのに、視界からは師匠の姿が消えていて。
横合いから飛び込んだ言葉は、同時に俺の頬を強かに殴り抜けていた。
やはり少女とは思えない剛力。俺はその場で勢い良く回転しながら、大地に叩きつけられる。
「術師が接近するなって言ってるでしょうよ!」
全身に迸る激痛。どこかの骨が折れてしまったのではないかと思いながら、擦り傷一つない体で立ち上がる。女々しく呻けば、恐らく激高した師匠が蹴りをくれてくるかもしれない――ちょっとだけ、試してみようかなんて思う余裕もなくて。
「だって師匠、なるべく術者だって相手に見抜かれないようにしろって」
「今は精霊術師としての戦い方を指導してるのよ。わかってる?」
「はい、でも」
「――ごめん、聞き方を間違えたわ。納得しているの?」
「ええ……ただ、釈然としないだけで」
「どうして?」
「どちらか一方だけを鍛えるなんてやり方……」
「両方を同時に鍛えるなんてのは才能のある人間のやり方よ。あんたは五年かけてようやく人並みに精霊術が扱えるようになったばかりなんだから」
人並みとは言っても、世界の精霊術師がどの程度術を行使するのかわからないから、俺にとって基準は師匠の馬鹿げた次元違いの術しかないのだけれど。
「確かに俺は天才なんかじゃない。だけれど、これが本当に効率の良いやり方だと言えますか」
「あんたねえ、師を相手にどの口がそれを言うわけ?」
「言いますよ。師匠が育ててるのは俺なんですから」
「そう……じゃあ、少しだけムリをしてみる?」
「なら俺は、師匠を本気で無理をさせてみます」
◇◇◇
消耗覚悟で最初から全力を飛ばす。
俺を中心として横方向に並ぶ燐光が、出現した先から稲妻を前方へと撃ち放つ。大気を引き裂く轟音と共に、音だけで激しくぶちかまされた衝撃が俺を吹き飛ばさんとして、
「迅雷――疾風!」
雷撃の後ろで虚空を包容する。その腕の軌跡が大気をかき乱し、電撃が通過した何もない空間に旋風が渦を巻き、それが徐々に規模を大きく拡大していって。
「竜巻? チャチねえ」
彼女が居た場所へと巨大な竜巻が暴風を巻き起こしつつ迫った時。
だけれど、師匠の声は後ろから聞こえた。
わかってる。彼女が背後に回らざるを得ないようにしたんだ。飽くまで師匠が、俺のことを”図にのったガキ”としか認識していないこの状況でしか出来ない事だから。
俺の三撃目の発動は難しい。そこまでの器量がないし、これほどまでのド派手な技の数々だから、一呼吸置かなければ可能なものではない――そう思っている。信じては居ないし、それを確信しているのは師匠だけだけれど。
だからこそ絶妙な間隙が生まれ、無防備な背中を見せて、ほんの少しだけ、俺は姿勢を正して。
「穿撃!」
それ以上の反応を見せない俺が、これまでで初めて見せる機会があった最大限の無茶。脳みそが焼き切れるほどの集中が全身に熱を滾らせて、
「――っ!」
師匠の呼吸が乱れる。
だけれど、それを圧倒する速度で大地が隆起した。俺を覗く周囲を余すことなく埋め尽くす錐状の隆起が虚空を穿ち、大地の激震を及ぼして。
「っ、は、なるほど」
振り返れば視界を埋め尽くす針山。その上、少しでも体重の掛け方を間違えれば足が貫かれそうな師匠は、切っ先を二つ足場にして、大股を開いて直立していた。腕は組まれて、一陣の風がスカートを薙ぐ。
俺が針山を撲り飛ばせば、脆く一直線に亀裂が迸り、瓦解する。音を立てて崩壊する錐の森は、だけれどそこに師匠を巻き込めなくて。
だけれど、彼女の逃げ場は頭上しかなくて。
見上げれば、俺を見下ろす少女が居て。
にっ、と笑って湛える、今にも噴き出しそうな炎を見て。
少しだけ、彼女は表情を忘れた。
「焔陣ッ!」
俺の周囲をぐるりと回って猛る火焔が、円形のまま頭上へと爆発。そのまま天高く伸びるに連れて、中心へと収束するそれは僅か一呼吸の間も置かずに師匠を貫いていた。
右手の先が灼ける。代償は、だけれどその痛みを感知した瞬間に完治させた。いつもそうだ。この程度ならば――回復の方が上回る。
指を鳴らして、発動途中の術を遮る。突如、その場に高熱だけを残して炎は霧散して。
宙空で炎を直撃して、落下の軌道をずらされてバランスを崩した師匠は、俺からあまり離れない位置に、這いつくばるように着地した。
――初めて師匠に一撃をかますことが出来た。
彼女の油断と、俺が隠していた少しだけ残る余裕が相まって起こした結果だ。再び一撃をくれてやれと言われても、多分二度とできる事はない。
少女は身体の砂を軽く払いながら立ち上がる。俯いたままの顔からは表情が読み取れず、だから緊張した。
怒らせてしまったか、少しだけ、調子に乗りすぎてしまったのか。
歩み寄る矮躯。その気になれば容易く壊れそうなくせして、誰よりも強い力を持つ少女。
彼女は、俺にぶつかる間際の距離まで迫ってから、
「……え」
強く、抱擁してくれた。
熱が、力が、簡単に振り払って失えるそれらが、俺を拘束する。締め付ける。そこから一歩も、動けなくした。
どんな術よりも強く俺を縫い付ける。
腹に、じんわりと熱い何かが染みてきた。
「合格よ。まさか、こんなに早いとは思わなかったけど」
「ご、合格……って?」
「私を本気にさせるまで、傭兵になんかさせるつもりなんて無かった。あんたも、私が駄々をこねれば、何があってもここから離れないでしょう?」
「だから、そんな子どもの姿に?」
「関係ないわ。これは、あんたが独り立ちしてから姿を誤魔化すついでのものだし」
「なんだ、てっきり俺の趣味範囲を広げようと思ったのかと」
ついでの変装なのに、どれもこれもちょっとだけドキリとさせるのだからタチが悪いのだけれど。
腹から顔を離して、本当に目を赤くする彼女は俺を見上げた。垂れた鼻が、煌めきながら糸を引いた。可愛い。さすがロリっ娘。師匠はほんとに、余裕ぶって大人ぶってるくせに、本当にこういう所だけ抜けている。可愛いなあ。
「私に攻撃を当てられれば、認めて手放すつもりだった。だけど……いやね、歳かしら。涙腺が緩んで仕方がないのよ」
だけれど、十年も共に過ごしたのだ。しかも、殆ど俺が物心ついてからずっと。
俺だって、師匠から離れるのに少しだけ抵抗がある。言ったら怒られるかもしれないけれど、一緒に旅立ちたいと思っていた時だってあった。
「あんたの事が心配なこともある。親心だって無いわけじゃない。いつでも危なっかしくって、いつでも揺れてて。真面目な顔をしてる時なんて、戦闘中か悩んでる時しかないじゃないのよ」
「いやあ、生まれつきですよ」
「締りのない顔ね。伴侶なんて出来ないわよ」
「要りませんよ」
「どうして?」
「俺がそういう意味で他の人を好きになれるか、わかりませんし。想像できません」
「想像できないって……それじゃ、精霊術師としてどうかと思うわよ」
いいんですよ、と言いながら、両腕を広げて彼女の抱擁を解く。
少しだけ顔が歪む。目尻が下がる。
そうして、最後の最後だけいいだろうと思って、調子に乗った。
「な……」
「困ったことがあったらいつでも行きます。俺、師匠の弟子ですから」
「……馬鹿、師匠じゃなかったら弟子なんて言わないわよ」
俺から、少女を抱きしめる。背中を抱き寄せて、頭を抱いて。ゆっくりと、その触り心地の良い頭を撫でてみる。年齢は明らかに俺より上なのに、彼女は抵抗はもちろん、文句すら漏らさない。
「介護が必要になったら言ってください。傭兵辞めて行きますから」
「あんた、私の事いくつだと思ってんのよ」
「魔女は年齢不詳ですからねえ。及びもつきません」
「でも、今私が考えてること、分かる?」
「ちょっと、難しですねえ」
彼女の手が背中に回る。それを確認してから、少しだけ抱擁に力を込めた。
――あまりにも幸福な時間。
俺には不相応だと想っていても、いずれ手放す事になるものだとわかっていても。
この時間だけは、一秒でも長く続けばいいと、願っていた。
◇◇◇
「すっかり、何もない」
村の跡地は、焼け焦げた木材も何もかもを片付けてしまった。だから何もない空間に村と外とを示す杭と、その中心にある無数の墓標だけが不気味に目立っていた。
俺たちが十年も過ごした小屋は、一応はそのまま。だけれど、カマドは崩して、テーブルと椅子は屋内にしまいこんだ。窓もなく、玄関の鍵も無いからそのままで。
「ま、十年前に私が来た時と、何も変わってないけどね」
少女は手に余る長剣を背に背負って、その上から外套を羽織る。肩から下げるバッグの中には、成人した彼女が着ていた衣服が詰め込まれていた。
「それで、師匠はどこへ行くんですか?」
俺は手ぶらのまま。だけれど、数枚の外套だけの荷物があった。
十年前、あの盗賊団が身に着けていた外套の中で唯一残ったそれだ。あまりにも強力な防術効果を誇っていたそれは、たかが一介の盗賊が作ったり、手に入れたり出来る代物ではない。その証拠として、幾度も近辺の町や村を訪れたけれど、この外套についての情報はからっきしだった。
師匠に聞いても、わからないという。それどころか、師匠のところへ襲撃していた時には既にこれを着込んでいたという話だ。
別に、復讐というわけではない。敵討ちなら、十年前のあの日に終わっている。
ただ不自然で気になることを調べたかった。当面の目標というのを作らなければ、駄目になってしまいそうだったし。
「近くの町まで一緒に行って、そこで解散。特に行く宛は無いけど……そうね、たまの一人がちょっとむなしいから、里帰りでもしようかしら」
「俺が居ないと寂しいですか?」
ちょっとだけニヤニヤして、いたずらに訊く。
彼女は真顔のまま俺を見上げて、口角を下げた。瞳に、涙が溜まる。
「あ、ちょっ……じょ、冗談じゃないですか。ああもう、師匠ぉ」
苦笑して、彼女の頭へと手を伸ばす。どうせ悪戯に笑って手を振り払って悪態を付くのだろうけれど。
「あんたが、悪いんだから」
なんて予想は、良くも悪くも覆されて。
「忘れられなくなったら、恨むんだから」
「し、師匠……」
「もう師匠はやめてよ。リズって、呼んで」
ぎゅっと、俺の服の裾を掴んで。
彼女はそのまま堪えきれずに、ぷっと吹き出した。
「くっ……ふふっ、あははっ。何よ、その顔。嬉しそうな、困ったような複雑な顔しちゃって」
予想は、やはり良くも悪くも覆されて。
彼女らしからぬ名演技に、俺の顔が熱くなっていくのがよく分かった。
「師匠!」
「何よ、私が本当にあんたに気を惹かれたと思ったの? 浅はかなのよ、何年生きてると思ってるの」
といいつつも、俺の外衣の裾から手を離すのを忘れてしまった彼女は、やっぱりどこか抜けていて。
「もう、行きますよ。師匠と話してると、時間がいくらあっても町になんかたどり着けませんから」
「あらぁ、怒らなくたっていいじゃないのよ。いつもの事でしょう」
「いつもながらに悪質なんですよ」
なんて言いながら、俺は彼女の歩調に合わせて。
彼女は大股で俺の歩幅に合わせようとして。
――結局、二日かかるはずの町まで、たっぷり三日もかけてしまって。
身分証の無い俺は、まず始めの仕事は自分で選べずに事務所から手配される仕事を完璧にこなすことを条件に正規登録を達成して。
「それじゃ、またね」
手に余る村の財産を俺に無理やり押し付けられた師匠は、そのバッグをパンパンに膨れさせて背を向けた。
そうして、俺の過去と言うべき過去はここで終えて。
その延長上なのだけれど、ようやく俺が俺として始めて一人で動き出す時間が、膨大に広がり始めた。
過去は、忘れられたものじゃない。だけれど、それは俺だけが特別なんてわけじゃなくて。
俺は再びその十五年間をたっぷり体験させられてから、その世界を見守っていた俺の意識が、ゆっくりと暗転していくのを感じていた。
過去が終わる。
そういえば、師匠は今どうしているのだろうかと、それだけが気になった。




