第三話 忌憚なる過去
「どこへ行く? つっても、いきなり大陸から離れるのも寂しいよな」
というのはウィズを気遣ったもので。
俺たちの足取りは、このまま順調に十日程進めば敢え無く『ノーシス城』領内へと侵入することになる。各大陸に一つずつ置かれる政府は、別に入って憚れるようなものではないのだけれど。
一応俺も非正規雇用なりの身分証があるわけだし、ライアやウィズもなんとか許容してくれるよう言いくるめることも出来る。
だけど、気が進むわけもないわけで。
「お城はダメなんですか? クライトさん、行ったことあるんです?」
「いや、無いけどさ」
紫水晶の瞳が純粋に俺を見つめる。緑色の、小洒落た刺繍を施した衣服は、その傲慢に膨れる胸のせいで形が変わり、長く伸びるしなやかな足は、意外にも短いスカートから魅せつけられる。だけれど、腰までの外衣に袖を通すお陰でそれらはあまり目立つ事は無い。
もっとも、際だたせるのがそのあまりにも整った容姿なのだが、そこは仕方がないだろう。
「他の大陸で、少し面倒な事に遭ってさ」
隣では、温暖な気候の中で暑くないのか、相も変わらず毛皮の白い外套を頭まで被って、肌色、角、翼を隠してライアが並ぶ。
「治安が良すぎるってのも、良いことじゃないんだ」
「へえ、なんでです?」
「部外者が疑われやすい」
「も、もしかして、捕まっちゃったんですか?」
「ああ。容疑は窃盗だったがな、一週間は牢屋にぶち込まれて……まったく、参ったよあん時は」
視界いっぱいに広がる原野。今までの旅路とは異なるのは、俺たちが歩くのは舗装された道路だという事である。
さすがに、草むらを歩くよりはやっぱり楽だった。周囲の地理に詳しい者が居るというのはやはり助かる。負担も無いし、モンスターの生息をおおかた把握しているから、出くわすこともない。
いや――。
「あれ?」
「ん……クライト」
二人が気づく。
歩みが止まる。
やや遠方で、こちらを向いて立ち尽くす人影。それは脳天から鋭く聳える角を持ち、その両肩から腕にかけて、鉤爪のような何かが生え揃っていた。
「ピッチ早いな」
「ええっ、そんな一言で片付けないでよ。まだ一日も経ってないのよ? 明らかにあたしたちの動向掴まれてるじゃない」
「あ、あの方が、例の悪魔さんですか?」
「まあ、そんな所だろうな」
決して楽しいとは言い難い旅路だし、俺が何でもかんでも連れてる仲間を護れるわけでもない。
だから、仕事でない限り戦闘は避けたいと思っていたが……。
「二人はここで待機。いいな?」
「ええ」
「く、クライトさんは?」
驚いて、少し意表を突かれたようにウィズが訊いてくる。本気で俺の身を心配してくれているようで、少しだけ、嬉しくなる。
もっと嬉しくなれるのは、彼女がある程度自分の身を自分で護れるようになれることだが、まあそこは追々、というところか。
「行ってくる。ヤバくなったら援護頼む……それとライア、他に近づいてくるのが居たら、頼むぞ」
「わかってる。あたしは別に食客じゃないのよ?」
「だと良いんだけどなあ?」
「もう、バカにしないでよ」
「はは、んじゃまあ、そっちも気をつけろよ」
と言いつつ別れたのが数分前。
空気も澄んでいて、空は抜けるような蒼さが雲ひとつなく広がっている。
視界は良好、体調も万全――なんだけれど。
「……っ」
暫く進んで、足が重くなる。体の動きが鈍くなる。
視界が歪む。怖気が走る。全身から脂汗が吹き出て来る。
そうして、俺が悪魔を視認してから、相手との距離は僅か一歩ほども縮まった実感が無かった。
距離が広がったという感覚ではなく、俺がただその場で足踏みをしているだけのような、奇妙な違和感。
「何、が――」
言葉に詰まる。
心臓が、ほんの刹那だけ停止した。
目の前に立ちはだかる黒い影が、俺の視界を埋め尽くしていて。
顔の高さに屈んだ悪魔が、そのおぞましいまでの大きな瞳を剥き出しにして、俺を見ていた。瞳の中に映る俺を認められるほど、息がかかるほどの距離と、大きさを以て俺を捉えていた。
「契約者で相違ないですな?」
「くっ」
大地を蹴り、後退を選択。
だが身体は、まず大地を蹴り飛ばす段階から動かない。
指先すら微動だにしない。俺の双眸は、悪魔を睨みつけたまま。
気がつけば呼吸も止まっていた。汗すらも、流れ落ちればそれが最後だった。
ただ動かせるのは思考だけ。言い換えれば、俺には考えること以外の全てが封じられていた。
失敗――した。
「話は聞いている。何よりも貴方様が一番厄介だと。そして私は、そんな貴方様に真っ向勝負などするつもりなど毛頭ありません」
雑音が雑じるような声音。猫が喉を鳴らすようなまま、その声の本来の姿すら晒さぬまま、言葉は紡がれる。
「ただ、自壊して頂きたい」
何を――なんて、疑問すら呈せぬまま。
「己の深層を再び見て、避けていた過去を、抱えきれずに捨てた全てを再び背負い、心を崩して頂きたい」
つまりは心的外傷を真っ向から受け止める事。
なるほど、決して平凡とは言い難かった俺にとっては十分すぎる作戦だ。
「逝きなさい、暗澹の最奥へ――」
言葉とともに、その瞳が妖しく輝き。
俺の意識は否応も無しに、途切れ、どこかに落ちていく感覚だけがありありと刻まれていた。




